真夏に降る雪・真夏の雪はあなたを狂わせる

グタネコ

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第三章 騒乱

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「隆夫、電話」
 母親が隆夫の部屋のドアをノックしながら言った。
「はい」
「出られる? 具合でも悪いの?」
「だいじょうぶ」
 隆夫は階段を降りていった。
 居間では父親が食事をしていた。時間は夕方の三時を回っていた。父親は朝のパジャマ姿のままだった。
「はい、友野です……」
 隆夫は受話器をとった。
 含み笑いが聞こえてきた。
「もしもし」
 笑い声が大きくなった。
「友野。出てこいよ。良いもの見せてやるからよ」
 電話の声は堀尾だった。
「お前、中道とできてんだろ」
 堀尾の後ろで「やめてよ」という奈保子の声と、堀尾の仲間の笑い声が聞こえてきた。
「早くこねえと、どうなってもしらねえぞ」
 体が熱くなった。怒りが一気にわいてきた。
「どこだ? どこに行けばいい」
「良い度胸、してんじゃねえか」
 堀尾は、くちゃくちゃと食いながらしゃべっていた。
「二人で来たっていいぞ。神谷と友だちなんだろ。三人でも四人でも来てみろよ。この前は油断してただけだからな、お前らみたいなガリ勉のクズは、ぶちのめしてやるよ」
 堀尾は川沿いのブリキ工場の場所を言った。操業を止めた工場だった。屋根はサビ、鉄骨の梁や柱も一部崩れる危険があることから、立入禁止になっていた。
「友野、逃げんなよ」
 堀尾は、最後にこう言って電話を切った。
 隆夫は、透に連絡しようかと一瞬考えたが止めた。透は奈保子に感心はない。透を巻き込むことはない。それに、透は、どこかへ逃げて、もう家にいないかもしれない。
  隆夫はリュックに入るだけの食べ物を詰めた。堀尾との喧嘩よりも食料が無くなる方がはるかに怖かった。
「ちょっと出かけてくるから」
 隆夫は母親に言った。母親は肉を頬張りながらうなずいた。
 隆夫はリュックを背負い、自転車に乗って一人で工場へ向かった。
 奈保子をおとりにして、自分を捕まえるつもりなのは分かっていた。あの日、堀尾の鼻を折っている。堀尾に捕まれば、相当の目にあうだろう。もしかしたら、命の危険さえあるかもしれない。
 隆夫は家を出るときに、カッターナイフをズボンのポケットに入れてきた。特別なナイフではない。平凡なカッターナイフだった。
 駅前で、ハンバーガーとホットドックを三個ずつ買い、二つ食べ、残りはリュックに入れた。
 とりあえず、胃は満たされ、精神は落ち着いている。
「どうする」
 隆夫は考えた。堀尾の仲間はたぶんあの二人だろう。吉岡と川田。三人だけなら何とかなりそうな気がした。
 ブリキの加工工場の様子を思い出す。以前、叔父の家に行った帰りに、のぞいたことがある。
 冬が近い秋の日だった。ススキが風に揺れていた。油の浮いた水たまり、人気のない建物。建物の脇には、錆びたブリキ板が放置されていた。
 工場の入り口のドアには、形だけチェーンがまかれていたが、サビがひどく、手で押すと、人が通れるくらいの隙間が開いた。
 隆夫は、隙間から中をのぞいた。油まみれの床。鉄骨の梁や柱が死んだ恐竜の骨のように見えた。
 中に入ろうと足を出した時、
「おい、何してる」と背中で声がした。
「ここは、危ないぞ」
「すいません」
 がっしりとした男が建物の外から隆夫を見ていた。隆夫の三倍はありそうな胸板と腕の太さだった
「立入禁止だからな」
「すいません」
 隆夫は、あわてて建物から離れた。 
 堀尾が指定してきたのは、あの建物だった。建物の中に奈保子と堀尾たち三人がいる。奈保子は柱にでも縛られ、堀尾たちは奈保子のまわりで、何か食いながら立っているのだろう。
 空腹におびえるのは自分だけではない。堀尾もその仲間も一緒だ。父も母も透も、誰もかれも、食わずにはいられない。
 奈保子には……奈保子には何も与えない……。
 急に寒気がした。
 時間は?。電話をかけてきてから……もう三十分が過ぎている。
 奈保子が捕まってから、一体、何分たったのだろう。自分は一時間で何でも、人さえも食いたくなった。奈保子は……どうなっている。
 胃に食物がなくなって、どのくらいの時間、理性を保っていられるのか。理性がなくなると、どれほどの野獣になってしまうのか。
 奈保子の理性が切れ、縄をほどこうと身をよじる。服が乱れる。
 胃が満たされた誰かの性欲が奈保子の縄をほどき、誰かが奈保子に抱きついて……。
 獣のような人間と、獣になった人間はどちらが危険か。考えれば結論は明らかだ。
 隆夫は自転車をこいだ。
「ばかやろう」
「てめえ」
 町を走り抜けてていくと、至る所で、大声を張り上げながら喧嘩をしていた。
 低いうなり声や、「ギャー」という悲鳴。獣の殺し合う声や肉を食らう音が、アパートの窓から聞こえてきた。
 工場が見えた。
 隆夫は工場の裏に回り、少し手前で自転車を降りた。
 自転車を置き、徒歩で近づいていく。工場の裏は腰の丈ほどの雑草で覆われていた。
 どうする。隆夫は考えた。相手が冷静な計画を立てているとは思えない。堀尾は、ただ隆夫を捕まえて殴りたいだけだ。
 まず一人倒そう。できれば堀尾を倒そう。
リーダーを倒してしまえば、チームは戦う理由をなくす。
 相手は建物の真ん中で隆夫を待っているだろう。奈保子を刃物で脅しているかもしれない。あの時は相手が油断していた。今日は、そうはいかないだろう。
 勝てるか? 三対一だ。自分で勝てるのか。勝って奈保子を救い出せるのか。
 隆夫は音を立てないように用心しながら、建物に近づいていった。
 裏口についた。ドアは鍵が壊れ、隙間から中を見ることができた。
 隆夫は中をのぞいた。建物の中央に大きな黒いかたまりが見えた。
 明るい日差しに慣れた目では、薄暗い建物の中の状況を判別するのに時間がかかった。
 目が慣れてくる。黒いかたまり。どうやら人がもつれ合っているらしい。
 時間を少し戻す。隆夫が建物に近づく五分前。柱に縛り付けられた奈保子の周りには、堀尾と川田、吉岡の三人が立っていた。
「おせえな」
 堀尾がいらだっていた。
「あいつ、本当に来るのかよ」
 川田が言った。
「ばかやろう。ふざけんな」
 堀尾が建物に残っていたゴミ箱を蹴った。 ガンっと音が響き、ゴミ箱は工場の隅に飛んでいった。
「このまま、ずっと、待ってんのかよ」
 吉岡が言った。
 奈保子が身をよじり、縄をほどこうとしていた。
「ウオッ、ウオッ」と奈保子は低いうなり声をあげていたのだが、口に入れられたタオルのせいで堀尾たちには聞こえていなかった。
 川田が奈保子を見た。タンクトップから下着がのぞいていた。
「おい」
 川田と吉岡が目を合わせた。吉岡がうなずき、川田が縄をほどいた。
 一瞬だった。縄をほどき、口からタオルが外れた瞬間。奈保子は川田の首筋にかみついた。
 川田は声もあげれなかった。頸動脈が噛み切られ、血が噴き出した。
 周りは、何が起こったのかわからなかった。
「おい」
 吉岡は川田の背中を叩いた。川田ががまんしきれなくて、奈保子に抱きついた、そうとしか思えなかった。
「川田」
 様子がおかしい。堀尾と吉岡が覗き込んだ。四人が一塊りになった。
 隆夫がのぞいたのは、丁度この時だった。
 奈保子はもう一度川田の首にかみつき、頭を左右に振って、頸動脈を完全に噛み切った。
 血はさらに噴き出し、平田は、がくっとひざを折り、床に崩れ落ちた。
「おい」
 吉岡が奈保子の肩をつかんだ。
 奈保子が振り向いた。
「ひー」
 声にならない音が、吉岡の喉の奥から出た。
 奈保子の顔は血に染まっていた。首、肩、胸。白いタンクトップにかかった飛沫が意図しないデザインになっている。
「フー」
 奈保子が歯をむき出した。肉食獣の威嚇。この獲物は私の物だ。
 平田が奈保子の足下でけいれんしていた。
「あっ、あっ」
 吉岡が逃げ出した。奈保子が堀尾を見た。目は野獣の目だ。獲物を見る目。堀尾を獲物としか見ていない。
 奈保子の手が堀尾の肩をつかんだ。
「あっ、わわ」
 堀尾は奈保子の手をはらいのけた。
「おー」といつもの奈保子からは想像もつかない野太い声が工場に響いた。
 堀尾は必死で逃げだした。足がもつれ、材木につまずく。四つんばいになりながら、明かりの方向に逃げていった。
 奈保子はなおも威嚇するように、二、三歩、堀尾を追いかけた。そして、堀尾が建物から外へ出てしまうと、目を川田に移した。
 自分が倒した獲物だ。邪魔者もいなくなった。ゆっくり……食おう。
 奈保子が川田に近づいていく。川田の小太りの肉体が血だまりの中でけいれんしていた。
「だめだ」
 隆夫はドアを開け、大声を出した。
「止めろ」
 隆夫は叫びながら、奈保子に向かって、走っていった。
「わああああ」
 ともかく声を出した。注意を自分に向けよう。さもないと、奈保子は川田を食ってしまう。
 背中でリュックが揺れた。隆夫はリュックに手を入れ、ホットドッグをつかんだ。
 奈保子が野獣の目で隆夫を見た。自分の獲物をねらう邪魔者だ。食い殺してやる。
 奈保子が隆夫に向かってきた。顔を首を胸を、そして、口の回りを血に染めて、隆夫に向かってくる。
「ガー」
 威嚇の声が聞こえてくる。隆夫を捕まえようと、両手を前につきだしている。
「うわああ」 
 隆夫は左手で奈保子の右肩を押さえた。そして、持っていたホットドックを奈保子の口に押し込んだ。
「ガー」
 ホットドックがあっと言う間に消えた。隆夫はリュックから手当たりしだい、食い物を取り出し奈保子の口に入れた。
 奈保子の力が弱くなったような気がした。
 奈保子が餌を咀嚼する。
 隆夫は餌を、満足するだけの餌を、奈保子に与えた。
 ようやく、奈保子の瞳に正気が戻ってきた。
「中道!」
 隆夫は奈保子の両肩をつかんで言った。
「中道!」
「友野君……」
 奈保子はぼんやりと隆夫の顔を見た。目が上下左右にゆっくり動いた。
「私……」
 奈保子は自分の手の平と手の甲を繰り返し見た。濡れている。赤黒い。この匂いは……。
 腕も、胸も、顔も。口の中に血が……。
「私……何をしたの」
 隆夫は首を振った。
「私……」
 奈保子が床に目を落とした。目の端に川田が移った。
 隆夫は奈保子を抱きしめた。
「私、何をしたの」
 隆夫は奈保子の頭を胸に押し当てた。
「いいんだ」
「ねえ、私……」
「いいんだよ、大丈夫だから」
 隆夫は奈保子の体を抱え、建物の外に連れ出した。
 隆夫は奈保子の口の周りを自分のTシャツでぬぐった。
 外に出ると、自分が血を浴びたことが、いやでも分かった。
 奈保子は、自分の顔や腕や口の回りをさわった。血まみれだった。
 自分は……いったい……。
 奈保子は両手で顔を抱えて泣きだした。
「私、私……」
「雪のせいなんだよ。中道のせいじゃないんだ」
 隆夫は、泣きじゃくる奈保子を抱き寄せて言った。
「君のせいじゃない。あの雪のせいなんだ。君のせいじゃないんだ」
 隆夫は涙を流しながら、何度も何度も言い続けていた。

 隆夫と奈保子は、廃工場を出て、堤防の上で座っていた。隆夫は透から聞いたウイルスの話を奈保子にした。奈保子はただ、焦点の定まらない目を川に向けているだけだった。
 目の前に夕日が見えていた。奈保子の服は血で汚れていた。着替えは持っていない。血だと分からなくなるまでもう少し待ったほうがよさそうだった。
 夕日が沈んで行き、夕焼けが空を赤紫に染めた。
「もう、行こうか」
 隆夫は奈保子に声をかけた。奈保子は力無くうなずいた。隆夫は奈保子の腕を取り、立ち上がらせた。
 堤防を下り、隆夫が建物に向かって歩き出すと、奈保子は頭を振った。建物の中には、川田がいる。多分、確かめる気にはならないが、もう死んでいるだろう。
「あそこに自転車があるから……」と隆夫は建物の先を指さした。
 奈保子はもう一度、首を振った。
「じゃあ、君はそっちから行って。僕は自転車を取っていくから」
 隆夫が自転車を取ってきた。奈保子は、結局一歩も歩かずに、同じ場所で隆夫を待っていた。
 隆夫は自転車の後ろに奈保子を乗せた。奈保子は、隆夫の背中に顔をつけ、隆夫にしがみついていた。背中が濡れた。奈保子が泣いていた。

 隆夫は、何も考えられなかった。ただ無意識に、自転車のペダルを踏み続けているだけだった。少し冷静ならば、人通りの多い道を避けたのだろうが、気が付いたときにはすでに駅前の人混みの中に入っていた。
 駅前のロータリーには人があふれ、殺気だっていた。食いたい。しかし、金が底をついていた。餌が買えない。
 浦積市では流通が滞りだしていた。消費量が多すぎて搬入が間に合わず、コンビニでもスーパーでも空の棚が目だっていた。
 ファースト・フード店に行列ができているのは、同じだったが、今は、さらに金のない人間が獲物を捕ろうと、店の前で待ちかまえていた。
 食料を抱え口にほおばっている者。それを取ろうと狙う者。飛びかかり、殴りあい、噛みつき、叫ぶ、咆吼、唸り、威嚇、そこかしこで餌を取り合う喧嘩が起こっていた。
 ここから逃げた方が良い、と隆夫は思った。 人々の目が異常だった。獲物を見る目だ。うろうろしていると襲われる。
 逃げよう。
 ペダルを踏もうと力を入れた瞬間。隆夫は、突然自転車から転げ落ちた。空中で一回転し、背中から地面に落ちた。
 何が起きたのか分からなかった。起きあがろうとして、また倒れた。
 世界が歪んでいる。目眩?。ひどい目眩なのか? 空腹から飢餓に、そして……体がさらにおかしくなった……。
 しかし、倒れているのは隆夫だけではなかった。隆夫の隣で奈保子も立てずに転がっていた。 
 周りの人々も立ち上がれずに地面に倒れていた。立っている人間は誰もいない。
 地面が波打っていた。大きな地割れができ、車が前輪を地面に開いた穴に落として空回りしていた。
 駅前のビルからガラスが降ってきた。
 地震だった。経験したことのない地震だった。
 突然。暗くなった。停電。一瞬静かになった。そして、次の瞬間、「ウオー」と獣の咆吼を思わせる声があがった。
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