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25.振り払った幸せ
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家に戻ると、玄関の鏡に映ったのは、ひどく泣き腫らした自分の顔だった。疲労と、抑えきれない感情の波に揉まれた目は、赤く充血し、まぶたは重く腫れ上がっていた。七海は、そのまま洗面所へ向かい、冷たい水で何度も顔を洗い流した。少しでも冷静さを取り戻したかった。
シャワーを浴びながら、熱いお湯が全身を洗い流していくのを感じた。体は少し楽になったはずなのに、頭の中を占拠するのは、恭吾の部屋で過ごした、ほんの短い時間だった。彼のさりげない優しさ、温もり、そして七海を愛おしく、そしてどこか切なそうな眼差しで見つめるあの瞳が鮮明に蘇ってくる。
(……恭吾くん……。)
シャワーを終え、ドライヤーで髪を乾かしながら、七海は何度も心の中で彼の名前を呼んだ。あの時、もし、あのまま彼の腕の中に留まっていたら、どうなっていただろうか。そんなことを考えると、胸の奥が締め付けられるような、甘く切ない感情が湧き上がってきた。
実家に子どもたちを迎えに行くと、海斗と陽菜が玄関まで走って出迎えてくれた。二人の満面の笑顔を見た瞬間、七海は今にも涙が溢れそうになった。
(ふらついてしまったけれど、私の判断は間違っていなかった。私は母親だ。これからは、この子たちとの幸せだけを考えて生きていくんだ……。)
心からそう思った。あの時、恭吾の優しさに溺れて、一時の感情に流されるようなことをしていたらきっと後悔していただろう。子どもたちの未来を考えれば、あの選択は正しかったのだと自分に強く言い聞かせた。
しかし、現実は七海の決意ほど強くはなかった。日々の生活の中で、いつもその気持ちでいられるわけではなかったのだ。下の子の陽菜は、まだ保育園に通う小さな子供だ。着替えも、食事も、まだまだ大人の補助が必要な日が多い。”子どものため”と、毎日懸命に育児と家事に励んでも、思い通りにいかないことばかりだった。せっかく作った食事を一口も食べてくれずにぐずったり、着替えを嫌がって大泣きされたりすることも、日常茶飯事だった。
そんな時、ふと思うのだった。
(もし、あの時、自分以外に守るべきものがなかったとしたら……。私は、きっと迷うことなく、あの優しい手に、温かい胸に、飛び込んでいただろう。それが、のちにどんな後悔という結果を招いたとしても、私一人だったら、迷いなく飛び込んでいた……。もし、あの時、恭吾くんの手を握り返していたら……心の奥底で叫んでいる声、抑えきれない感情の赴くままに、身も心も委ねて、世間のいう”不倫関係”になっていたと思う。)
「僕じゃダメですか?」
あの時、恭吾が投げかけた切実な問いかけに、七海は明確な返事をすることはできなかった。しかし、恭吾のアパートで迎えた朝の出来事を、何度も思い出していた。まだ薄暗い部屋で目覚め、窓の隙間から差し込む柔らかな陽の光を感じながら、恭吾が目を覚ますのを静かに待っていたあの穏やかな時間。それは、子どもたちとの慌ただしい生活の中で、いつの間にか失いかけていた、貴重な時間だった。悲しい時には笑わせると言ってくれ、優しく抱きしめてくれる恭吾。あんな穏やかな日々がずっと続けばいいのに……そして、恭吾となら築けるかもしれない。心の奥底でそう感じてしまったのだ。
七海は、あの温かい腕を、優しく差し伸べられた手を、温もりを感じた指を、強く握り返したかった。離したくなかった。しかし、そうしなかったのは、「私は母親だから……」という強い思いが土壇場で七海の心を繋ぎ止めたからだった。
そんな、もしかしたら得られたかもしれない幸せを自ら振り払って手にしたのが、今の朝から晩までのイヤイヤのオンパレードで、心の余裕をなくし子どもたちに怒ってばかりの毎日だった。
「これはイヤ!イヤイヤ!ママ大っ嫌い!!!イヤー!!!」
今日も陽菜の癇癪が始まった。小さな体全体を使って拒否する娘に七海の心は疲弊していく。
(私が、本当に守りたかったのは、こんな風に、いつも怒ってばかりの日常ではなかったはずだ……。)
「毎日毎日イヤイヤ言われてばかりで、ママだってイヤだよぉぉぉぉ!!!」
七海は、ついに我慢の限界を超え、初めて子どもたちの前で声を上げて泣いてしまった。突然、泣き出した母親を見て海斗と陽菜は目を丸くして驚いている。そして、何が起こったのか理解できないまま下を向いて、しょんぼりとした表情を浮かべている。
「ごめんね、ごめんね……。イヤだったんだね。どうしたかったのかな?」
子どものイヤイヤに、心が折れてしまったけれど、本当の理由は、恭吾のことを思い出して心が不安定になっているからだ。これでは、ただの八つ当たりになってしまう。そう思い、七海は深く一呼吸をしてから、いつもの自分に戻るように努めた。子どもたちの小さな背中をそっと撫でながら優しく問いかけた。
シャワーを浴びながら、熱いお湯が全身を洗い流していくのを感じた。体は少し楽になったはずなのに、頭の中を占拠するのは、恭吾の部屋で過ごした、ほんの短い時間だった。彼のさりげない優しさ、温もり、そして七海を愛おしく、そしてどこか切なそうな眼差しで見つめるあの瞳が鮮明に蘇ってくる。
(……恭吾くん……。)
シャワーを終え、ドライヤーで髪を乾かしながら、七海は何度も心の中で彼の名前を呼んだ。あの時、もし、あのまま彼の腕の中に留まっていたら、どうなっていただろうか。そんなことを考えると、胸の奥が締め付けられるような、甘く切ない感情が湧き上がってきた。
実家に子どもたちを迎えに行くと、海斗と陽菜が玄関まで走って出迎えてくれた。二人の満面の笑顔を見た瞬間、七海は今にも涙が溢れそうになった。
(ふらついてしまったけれど、私の判断は間違っていなかった。私は母親だ。これからは、この子たちとの幸せだけを考えて生きていくんだ……。)
心からそう思った。あの時、恭吾の優しさに溺れて、一時の感情に流されるようなことをしていたらきっと後悔していただろう。子どもたちの未来を考えれば、あの選択は正しかったのだと自分に強く言い聞かせた。
しかし、現実は七海の決意ほど強くはなかった。日々の生活の中で、いつもその気持ちでいられるわけではなかったのだ。下の子の陽菜は、まだ保育園に通う小さな子供だ。着替えも、食事も、まだまだ大人の補助が必要な日が多い。”子どものため”と、毎日懸命に育児と家事に励んでも、思い通りにいかないことばかりだった。せっかく作った食事を一口も食べてくれずにぐずったり、着替えを嫌がって大泣きされたりすることも、日常茶飯事だった。
そんな時、ふと思うのだった。
(もし、あの時、自分以外に守るべきものがなかったとしたら……。私は、きっと迷うことなく、あの優しい手に、温かい胸に、飛び込んでいただろう。それが、のちにどんな後悔という結果を招いたとしても、私一人だったら、迷いなく飛び込んでいた……。もし、あの時、恭吾くんの手を握り返していたら……心の奥底で叫んでいる声、抑えきれない感情の赴くままに、身も心も委ねて、世間のいう”不倫関係”になっていたと思う。)
「僕じゃダメですか?」
あの時、恭吾が投げかけた切実な問いかけに、七海は明確な返事をすることはできなかった。しかし、恭吾のアパートで迎えた朝の出来事を、何度も思い出していた。まだ薄暗い部屋で目覚め、窓の隙間から差し込む柔らかな陽の光を感じながら、恭吾が目を覚ますのを静かに待っていたあの穏やかな時間。それは、子どもたちとの慌ただしい生活の中で、いつの間にか失いかけていた、貴重な時間だった。悲しい時には笑わせると言ってくれ、優しく抱きしめてくれる恭吾。あんな穏やかな日々がずっと続けばいいのに……そして、恭吾となら築けるかもしれない。心の奥底でそう感じてしまったのだ。
七海は、あの温かい腕を、優しく差し伸べられた手を、温もりを感じた指を、強く握り返したかった。離したくなかった。しかし、そうしなかったのは、「私は母親だから……」という強い思いが土壇場で七海の心を繋ぎ止めたからだった。
そんな、もしかしたら得られたかもしれない幸せを自ら振り払って手にしたのが、今の朝から晩までのイヤイヤのオンパレードで、心の余裕をなくし子どもたちに怒ってばかりの毎日だった。
「これはイヤ!イヤイヤ!ママ大っ嫌い!!!イヤー!!!」
今日も陽菜の癇癪が始まった。小さな体全体を使って拒否する娘に七海の心は疲弊していく。
(私が、本当に守りたかったのは、こんな風に、いつも怒ってばかりの日常ではなかったはずだ……。)
「毎日毎日イヤイヤ言われてばかりで、ママだってイヤだよぉぉぉぉ!!!」
七海は、ついに我慢の限界を超え、初めて子どもたちの前で声を上げて泣いてしまった。突然、泣き出した母親を見て海斗と陽菜は目を丸くして驚いている。そして、何が起こったのか理解できないまま下を向いて、しょんぼりとした表情を浮かべている。
「ごめんね、ごめんね……。イヤだったんだね。どうしたかったのかな?」
子どものイヤイヤに、心が折れてしまったけれど、本当の理由は、恭吾のことを思い出して心が不安定になっているからだ。これでは、ただの八つ当たりになってしまう。そう思い、七海は深く一呼吸をしてから、いつもの自分に戻るように努めた。子どもたちの小さな背中をそっと撫でながら優しく問いかけた。
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