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【30】愛の女神像に誓う(アリシア視点)
しおりを挟むヴェルーデ王国の護り神、愛の女神像を懐に抱く、王家の森に向かっている。レニはとても機嫌が良く、穏やかな足取りでアルフレッド殿下や護衛の方々の馬に付いて行く。
王家の森にはずいぶん前に、お父様に連れて行ってもらったことがあった。愛の女神様の前で平穏を願う祈りを奉げた。
その時は馬車の窓から外を見ていたような気がするけれど、道中の景色など何も記憶にない。
手入れが丁寧にされているのに自然に見えるような、そんな美しい森の道や木々を見ながら、何事もそうなのだと思う。
物事を見ているようでも、意識をはっきり向けて見ることをしなければ、それは視界を横切っていくだけのものになる。
アルフレッド殿下の婚約者となってから、私は殿下のことを見ているようで見ていなかった。
愛の女神像の隣に置いて遜色のない美しい王子像のよう。
私はそんなふうに、アルフレッド殿下の外側の美しさばかりに捉われすぎて、その人となりを見ていたとは言えなかった。
シャーリドの饗応役を共に担うことになってから、アルフレッド殿下というひとりの男性がどういうお方なのか、それを少しずつ知っていった。
立場を驕ることなく、自分の資質の何かを声高に誇ることもなく、国のことを考えヴェルーデを発展させていくことを考えていらっしゃる。
私を大切にしてくださり、ご自身が間違ったとお思いになった時には謝罪の言葉を躊躇わない。
湯気が立ち上る焼き立てのパンを無邪気に喜び、嬉しくて零したご自身の涙に驚かれる。
私はそうした等身大のアルフレッド殿下をお慕いしている。
婚約破棄だと言われた時は、殿下がとても尊大で身勝手な人に思えた。
逆にその頃の私は、殿下からは不愛想な婚約者に見えていたかもしれない。
お妃教育のために学園の中途退学を、こちらから望むように陛下によって運ばれたことを、少しというか……かなり恨みがましく思っていた。
婚約者がありながら他の女性と不埒なことをしたことには、酷く傷ついた。裏切られたことそのものと、女性を軽く扱ったということもとても不快に感じた。
──それでも。
何も間違わずに生きていける人はいない。
王妃殿下がおっしゃっていたように、この先で私は間違わずに生きていけるのだろうか。
もしも間違えたとして、その時に他者を赦せなかった自分が自分を赦せるのか。
そのことをずっと考えていた。
私は間違いに気づき、それを反省し、反省を生かせる人間でありたい。
アルフレッド殿下もまたそうだと信じることができたから、赦して共に生きることができると思えた。
少し前を行く殿下たちの馬が速度を落としている。
馬上で考え事なんて、危ないわ。
私も重心を少し後ろに置き、手綱を張ってレニの歩度を詰める。レニは軽快な走りのまま、速度を落としていく。
殿下の真横に付くような形になったとき、
「アリシア、もうすぐだ」
アルフレッド殿下が自身の馬の首を少し立てるようにして速度を落とし、声を掛けてくださった。
風に髪が揺れ、額を露わにした笑顔があまりにも美しい。
馬上では考え事をするより、殿下が近くにいらっしゃることのほうが危険な気がした。
馬を降りて従者に託し、湖に続く道を歩いていく。
「この先に王室の所有する小さなコテージがある。湖で泳ぎを教わる時、休むのに使っている。今日はそれを使えるようにしてあるから、アリシアの荷物なども部屋に置くといい。まずは愛の女神像に祈りを奉げ、その後に落ち着いてから食事にしようと思う」
「そうですね、泳ぐ前に食事だと緊張して何も食べられませんもの」
今着ている乗馬用の服で泳ぎ、食事の前にワンピースに着替え、乗馬服の色違いを持ってきたのでそれに着替えてまたレニに乗って帰る予定だ。
小さなコテージと殿下はおっしゃったけれど、物見の塔もある美しい建物だ。壁はベージュ色で周囲の木々に溶け込んでいる。
王家に仕えている女性が私を二階の部屋に案内してくれた。
「こちらがアリシア様に本日お使いいただくお部屋でございます。奥に水回り、湯殿もそちらにあり、お戻りになりましたらいつでもお入りになれます。わたくしは下がりますが、何かございましたらいつでもお呼びくださいませ」」
「ありがとうございます」
湖で泳ぐのだから、その後の湯浴みは大事だわ。
いたずら心で覗いた湯殿は、貝のように光る美しい湯の舟があった。壁の上部が外の明かりを取り込めるようになっているガラスブロックで、そこから陽の光が美しく差し込んでいる。
コテージの湯殿にしては、少し豪華過ぎないかしら。
まさか王妃殿下がお使いになるお部屋ではないわよね?
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「何でもないわ。メリッサ、私の荷物をクローゼットに掛けてね。それが終わったら、髪を小さくまとめてもらえるかしら」
「かしこまりました」
髪はひとつに結んできたけれど、結んだ先はそのままにしていた。
ここで小さく編み込んで、水に入るためにリボンを外してもらうのだ。
準備が整ったのを見ていたかのようなタイミングで、部屋に迎えの者がやってきた。
一階のホールに降りるとアルフレッド殿下がいらした。
殿下は泳ぐために、襟もなく身体にぴたりと沿った服に着替えていた。なんとなく恥ずかしくてその目を見られない。
大きい声では言えないが、あれから殿下とのくちづけの場面を、思い出すつもりもないのに思い出してしまって困っている。
今もまたうっかり……。
「さあアリシア、愛の女神像まで行こう。それで……手を繋いでもいいだろうか?」
手を、繋ぐ……。
手を。
「……はい」
頭の中が真っ白になってしまって短い返事以外、何も言えなかった。
そんな私の脳内の白さにもちろん気づくはずもない殿下は、するりと私の手にその指を絡ませてきた。
握手をするような感じではなく、指と指をしっかりと絡ませる繋ぎ方。さらりとした大きな手が温かくて、体温が二度くらい上がったように頬が熱い。
心臓が胸を突き破って出てくる気がして、反対の手で胸のあたりの服を掴む。
殿下の反対の手には、オレンジ色の丸い浮き具があった。
この雰囲気の中で浮き具だけに浮いているのがとてもおかしくて、うっかり笑いそうになるわ。でも、そんな浮き具のおかげで落ち着きを取り戻した。
「では行こうか」
美しく微笑むアルフレッド殿下に、私はもう頭頂部から湯気が立っているのではというほど熱くなり、今すぐ湖に飛び込みたくなった。
***
森の木々が風に葉を揺らしている。その音と鳥たちのさえずりだけが聞こえていた。
湖は静かに水を湛え、その中ほどに小さな島がある。
そこに愛の女神像が見えた。
島は本当に小さく、女神像の背後にこんもりとした木が三本あるだけ。その島に続く道の幅は、大人が二人並んで歩くのがやっというほど細い。膝くらいの高さの心許ない柵が両側にあるが、よろけたりすれば湖に転落するかもしれない。
ここに立って愛の女神像を見ると、来たことがあるはずなのにあまりこの景色に記憶がなかった。
「アリシア、ヴェルネーレ様のところへ行こう。ここからは二人だけだ」
「はい、アルフレッド殿下」
繋いだ手にぎゅっと力がこもる。
先ほどまでの恥ずかしさは薄れ、この先を共に歩いていくための手を取り合っていると感じていた。
足元に気をつけながら、細い島への道をゆっくりと歩いていく。
湖面を渡る冷たい風に吹かれ、アルフレッド殿下の金色の髪が揺れている。
そしてその髪の間から、意志の灯った青い瞳が見えた。
この凛とした美しい横顔を、どこかで見つめたことがあったわ。
……あれは、ヴェルーデ南端の街コルツの夕陽を見ていた時だった……。
夕陽に殿下の金色の髪が透けて、息を呑むほど美しかった。
今もあの時も、アルフレッド殿下のその強い意志を感じる瞳が美しいのだわ。
まっすぐ未来を見据えている、その青い瞳が。
湖の中の小島に着いた。
白いなめらかな石で造られた愛の女神様に対峙する。
女神様に祈るとき、花などを供えることはしない。
膝をつき、ただ一心に祈りを奉げる。
アルフレッド殿下と目を合わせ、両膝をついた。
目を閉じて指を組む。女神様の背後にある、木の葉が揺れる音だけが僅かに聞こえる。
ヴェルネーレ様、貴女の御前にてお祈りいたします。
私アリシアは、愛するアルフレッド殿下と共に生きていきます。
殿下を支え、私もまた殿下に支えられ、真摯に、誠実に、生きていきます。
己が弱さに打ち克つ力をください。
己が弱さを認められる強さをください。
どうかお見守りください。
そして私たちの罪をお赦しください。
尊きヴェルネーレ様に御心を捧げます。
祈りの言葉は心の内のもので、声には出さない。
『愛するアルフレッド殿下』と心の中で呟いたことで、それまでどこか不確かだった想いが、はっきりと形になった気がした。
その容姿はまさに完璧な王子様。
でも、殿下ご自身曰く『愚か』で弱いところもおありになる。
夢見がちでもあるけれど、まっすぐでひたむきで国のことを大切に考えている。
そして何より、今は私のことを真摯に想ってくださっている。
私はそんなアルフレッド殿下のことを愛し始めている。
まだ愛するという本当の意味を解っていないかもしれないけれど、その名を胸の内で呟くたびに苦しくて温かいこの気持ちは、きっとそうだ。
そっと目を開けると、まだアルフレッド殿下は目を閉じて祈りを奉げていた。
しばらくして、殿下がゆっくりと立ち上がったので、私も同じように立ち上がる。
「アリシア、俺の罪をヴェルネーレ様に告白し、赦しを乞うた。俺の罪のせいでアリシアにもこの湖を泳いでもらうことになってしまい、本当に申し訳なく思っている」
「アルフレッド殿下と共に生きていくと決めたのです。負うべきものは二人で負う、そうでなければ意味がありませんもの」
「……ありがとう、アリシア」
殿下がゆっくりと湖の縁に歩いていき、靴を脱いだ。これは私たちが湖に入ったら従者が回収してくれるそうだ。私も靴を脱いで殿下の靴の隣に揃えた。
アルフレッド殿下がしゃがんで湖に手を浸す。
両手で掬った水をご自分の足に、腕に、肩に、何度も掛けている。
その様子を見守っていると、
「アリシアにも掛ける。水の冷たさを先に知っておくのは大事なんだ」
「はい」
足に掛けられた水の冷たさに最初はびくっとしたが、肩のあたりに掛けられる頃にはその冷たさが心地よいと感じるほどになった。
私も両手で掬って自分に掛け、殿下にも掛けた。
あら? なんだか楽しいわ。
何度も掬っては殿下の背中に掛けると、殿下もまた私に掛けてきた。
「まるで水遊びをしている子どもみたいだ」
「……申し訳ありません」
アルフレッド殿下は笑っているけれど、私はこの国の第一王子に湖の水を掛けてしまったのね、いろいろと大丈夫かしら。
「充分に水の冷たさが分かったところで、そろそろ湖に入ろう。俺が先に入るから、そうしたらアリシアは浮き具を腕に通してゆっくりと足から入って」
アルフレッド殿下が足から静かに水に入った。
ゆらゆらと手足を動かしながら、
「おいで、アリシア」
そう優しく言った。
意を決して腰を掛けるようにして足を水に入れ、肩まで通した浮き具を離さないようにしながら、ぽちゃんと水の中に身体を滑らせる。
すぐに殿下に抱き取られた。
「アリシア、大丈夫だ」
アルフレッド殿下は、私の腰に手を回して支え、片手で水を掻きながらゆっくり進んでいく。私も殿下の足の邪魔にならないように、小さくゆらゆらと足を前後させる。
さっきまで見ていた景色なのに、湖の中から見るとまた違った景色に見える。
冷たい水の中、殿下が触れているところだけが温かい。
足が付かないことがとても怖いが、アルフレッド殿下の腕の中にいれば安心できる。
何も怖いことはないと。
足を懸命に動かしているのに、あまり進んでいるように思えなかった。
「進んでいないように見えて、ちゃんと進んでいるから安心していい」
まるで私の心の内を読んだように殿下が言う。
「アリシア、俺はこの湖に俺の愚かさを沈めたい。罪は心の奥に抱えていく。次などないように自分の罪に目を背けないでいたい。もう二度と、アリシアに悲しい思いをさせないと誓う」
「愚かさを、この湖に沈める……」
「そうだ、そしてこれから毎年ヴェルネーレ様の前で誓い、沈めた愚かさが静かに水底にあるか確かめたい」
「では、十二年に一度はこうして共に泳ぐのですね、私も泳ぎを習いますわ」
「罪は心の奥にあるままだから、十二年に一度は泳がねばならないか。アリシアは酷い男に嫁ぐことになってしまうな」
「この国の公爵家に生まれたのですから当然です。でも……それが好きなお方なのですから、私は幸せ者ですわ」
「……そう言ってもらえる俺が一番の幸せ者だ」
「いえ、私ですわ」
「いやいや、どう考えても俺だろう、そこは譲らない」
「私がっ……あ……」
風が立てた小さな波が口の中に入ってしまい、ごほっごほっと咳き込んだ。
そのせいか、さらに水を飲んで頭まで沈んでしまう。
目を開けたまま潜っていき、湖の中が見えた。
ゆらゆらと、水がきらめいて、光が差す緑色の草のようなものが揺れて、きれい……。
「……リシア、アリシア!」
ぐいと腕を掴まれて、水中に顏が出る。
「大丈夫かっ!」
「……はっ、はっ……大丈夫、です……」
湖に頭まで沈み、一瞬驚いたけれどそれ以上に水の中で目を開けられたことに驚いた。
「湖の中を見ました、水の世界が……とても、綺麗でした」
水に潜ってしまった私より、殿下のほうが苦しそうに息を吐いた。
「……殿下? 大丈夫ですか?」
「ああ、俺は何とも……浮き具をしっかり腕に通していて」
それから殿下は先ほどよりも速く泳ぎ始めた。話しかけられることもなく、私も頑張って足を動かす。
そうしてようやく岸に近づいた頃、アルフレッド殿下の泳ぎが止まった。
そして私の腕から浮き具を抜くと、岸に向かって投げた。
え? どうしたというの?
「……アリシア、愛している。君のいない人生なんて考えられない。
キスをしてもいいだろうか?」
そう言うと殿下は私の返事を待った。
「……はい、アルフレッド様」
殿下は私を抱えたまま水の中に潜った。
目を開けて殿下を見ると、驚く私に殿下が微笑んでいる。
そして金色の髪を揺らめかせたアルフレッド殿下は、片手で私の頭を抱き寄せて口づけをした。
──愛している
初めて言われた愛の言葉。
この言葉が照らしだす道を、これから殿下と歩いていく。
どんな顔をしていいか分からなくなるところだったけれど、水中だから何も考えなくていい。
息が苦しくなる手前で、アルフレッド殿下と共にバッと勢いよく水面に出た。
「大丈夫?」
「……私を水に沈めた人のセリフでしょうか? 殿下が急に潜ったりするから、岸の皆さまたちが心配して飛び込みそうな勢いですけれど」
「ごめん、でも水中でアリシアにキスしたかった」
「そんなこと……皆さまには言わないでくださいね。うっかり沈みかけたことにしてください」
アルフレッド殿下は私を胸に抱き取ったまま、今度こそ岸に向かい最後のひと泳ぎをする。
私は岸に手を掛けて、殿下がご自分の腿に私の足を置いてくださり、なんとか岸に上がった。最後に人の手で引っ張り上げられてはダメらしい。
急に身体が重く感じられた。
髪からも服からも水滴が落ちて、地面に跡をつけている。
震えるほどではないけれど、身体が冷えて寒い。
後から岸に上がってきたアルフレッド殿下に肩をぽんぽんと労うように叩かれる。
「アリシア、無事に泳ぎきることができた。ありがとう……」
アルフレッド殿下の言葉が、じんわりと身体に沁みていく。
ああ、私たちは十二年で一番苛酷な、初めての二人の作業を終えることができたのだ。
殿下のお顔が涙でぼやけて肩が震える。
両手で顔を覆い、アルフレッド殿下に見られないようにした。
シャーリドで足枷を付けられて檻の中に蛇を放たれた時も、解放された時も、涙を落とさずにいられたのに。
愛の女神様に無事に祈りを奉げることができた、その幸せにとうとう涙を堪え切れなくなった。
「アリシア? どうした、大丈夫か……」
私を覗き込もうとする殿下の声が困っている。
涙でぐしゃぐしゃの顔を見られたくないのに。
困っている美しい殿下は見たいけれど、見られてしまうのは嫌だ。
「見ないでください」
殿下は私を自分の胸に押し当てるようにして抱きしめる。
「これなら見えない」
抱きしめた手で、殿下は何度も私の頭を優しく撫でてくれている。
私の涙が止まるまで、優しい手はそこに在り続けた。
***
「お嬢様、いい加減に出てきてください。湯に入りにここまで来たのではありませんよ。この後ランチをご用意してくださっているとのことですから」
メリッサが髪や身体を洗ってくれた後、のーんびり、ゆーったり湯に浸かっていたら、メリッサに急かされた。
「もう出るわ」
なんとなく、この後のことを考えると億劫に感じてしまっていた。
アルフレッド殿下の前に行くことが、少し恥ずかしい。
どうして湖から出た後に、突然あのように泣いてしまったのか、自分でもよく分からなかった。
ぼんやり考え事をしているうちに、メリッサはどんどん私を仕上げていく。
シャーリドに持って行った青色のデイドレスだ。
あれ? 今日はゆったりしたワンピースを持ってきたと思っていたけれど。
「ねえ、メリッサ。ワンピースではないの?」
「ええ。こちらのデイドレスでよろしいかと。とてもお似合いですわ」
髪をいくつもブロックに分けて、わざと緩く見せながらきっちりと編み込まれた。
そこに青い小花のピンを、メリッサはいくつも挿していく。
身体を捻って鏡で後ろ側を見ると、とても素敵にまとめられていた。
「まあ、ずいぶんいい感じにまとめてくれたのね」
「きっちり編んでいるのに緩く見えるまとめ方は、シャーリドで流行っているそうなのです。王宮のメイドさんから教えてもらいました」
「新しいことをシャーリドで学んできたなんて素敵ね、メリッサ」
「さあ、お支度が整いました。殿下とのお食事、いってらっしゃいませ」
メリッサに送り出されて部屋の外に出る。
約束の時間より少し早いけれど、コテージの広いデッキではランチの用意で王宮の従者たちが忙しそうに準備をしている。その奥のデッキの柵のところにアルフレッド殿下がいらした。
湖面に張り出したデッキからの景色を眺めているように見える。
私が画家ならこの殿下を描くのに。
ぼんやりしていても絵になるなんて、王宮付きの絵師をここには連れてきていないのかしら。大きすぎないサイズで描いていただいたのを、私の部屋に飾りたいわ。
「アリシア! そのドレス、とても似合っている」
「ありがとうございます、殿下も素敵です。心なしか、いつもよりきっちりなさっているような?」
「そうかな。食事までもう少し準備があるようだから、コテージの中を案内しよう」
僅かな違和感を殿下の素敵な笑顔が吹き飛ばして、その後についていく。
殿下が扉を開けると、そのサロンには数多くの絵が掛けられていた。
小さな子どもたちが水辺で遊んでいる姿が描かれた絵、侍女らしき女性が差し出した大きなパラソルの下、赤子を抱いている女性の絵、どれも夏の水辺の風景が描かれていた。
私は一枚の絵の前で足を止めた。
小さな天使のような男の子が、両手に蟹を持ちあげて笑っている絵。
この男の子は……。
「アルフレッド殿下?」
「よく分かったね。これは俺の子どもの頃らしいんだ。何も覚えていないけど」
「いいえ、これは天使ですわ……。天使が使徒である対のキャンサーを従え……地上に舞い降りて……」
「アリシア? よく分からないが、もしかしてアリシアは子どもの頃の俺が天使だと言ってくれている? それで合っているかな」
「可愛いなんていう次元の話では……もしかして、今の……声に出て……?」
「はっきり、とね」
「……ええっと、とても美しいサロンですわね、まあ、あちらの絵も素敵ですわ!」
アルフレッド殿下は、明らかに私を見て笑っている。
頭の中のつぶやきは、今まできちんと隠してきたのに私としたことが……。
湖を泳いだことによる熱の出始めなのかしら、きっとそうだわ。
「夏になるとここに来て、泳ぎを教え込まれた。最終日には王妃殿下がいらして、弟たちと王妃殿下とコテージで食事をするのが楽しみだった。釣った魚をすぐに焼いて食べられるのも、ここでしかできないことで本当に楽しかったんだ。
でも陛下がいらっしゃることはなかった。
たとえ王宮からほど近いこのコテージだとしても、『家族全員』で安全な王宮を離れてここで過ごすことは叶わなかった。
俺は陛下が即位してから生まれているから、家族で出かけるなんてことはただの一度もなかった。まあ、それが王族というものだと言えばそれまでなのだが。
王妃殿下はいつもお気に入りの絵師を同行して、俺たち兄弟を描かせた。
それがここに飾られている絵なんだ。
陛下は時折お一人でここを訪れ、その時はこの部屋で過ごしていると王妃殿下から伺った。多忙な執務に追われ子供たちを構う暇もなく、陛下にとって俺たちはいつの間にか大きくなった感じなのだろう。
今日の俺たちのようにお二人で泳いだこともあって、ここは陛下の思いの詰まった場所なんだ。俺はそんなことも知らないで……デートだと浮かれていた」
「アルフレッド様……いつか皆さまでいらっしゃることもあると思いますわ。たくさんの警護の方々を連れていらしてもいいではありませんか。王家のご家族が皆さまお揃いで遊びにいらしても誰も咎めませんわ」
陛下の二つ名である『固い王』とは、他国の王のように側室や愛妾を持たないからだけではない。陛下御自身や王族の皆さまに対し、いつも厳しくいらっしゃるのだ。
王宮ではさほどの理由もなく開催されるパーティ三昧なイメージを持たれることもあるが、ヴェルーデに於いてはそのような感じではない。
アルフレッド殿下と私の婚約が決まった時も、お披露目のために豪奢な夜会を開催するということはなく、ちょうどその少し後に定例で開かれた夜会で発表された。
王妃殿下も宝飾品を買い漁るようなこともなく、代々王家に受け継がれた物を大切にしていらっしゃるという。
新たに購入なさったらどんな小さなものも王家の宝飾品の目録に載り、それは王立図書館で見ることができる。
そうしたところも『固い王』と謂われる所以だった。
「そんな訳で、今日は王宮にリカルドが残り、宰相もノックスビル公爵とハワード公爵も王宮にて執務ということで、こちらに陛下と王妃殿下が揃っていらっしゃった」
「え?」
そんな訳とはどんな訳かしら!
「陛下と王妃殿下……いや、俺の両親と一番下の弟が、アリシアと一緒にここで食事をしたいとの希望で、アリシアには事後承諾となってしまって申し訳ないのだが」
「せっかくのご家族水入らずのところに私などが居てもよいのでしたら、私は喜んでご一緒したく思いますわ」
とは言ったものの、陛下と王妃殿下とお食事……。
ワンピースではなくデイドレスを着ていてよかったわ。
あら、ということは、もしかしなくてもお父様からメリッサにこのことは話が通っているわね?
頭の中のノートに何か書きつける暇もなく、テラスに食事の準備が整ったと連絡が届いた。
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