9 / 29
【9】戸惑い *アーサー視点
しおりを挟むこのところ落ち着かない気持ちでいる。
奥方様がばっさりと髪を切った。ばっさりなんていう生易しいものではない。
腰のあたりまでのたっぷりした美しいハチミツ色の髪だったのに、少年のように顎のラインで切り揃えてしまったのだ。
たしかに日頃は作業がしやすいようにといつも後ろで一つにまとめていて、少し切ろうかしらと言っていらした。
だからと言ってまさかあんなに短くするとは……。
お姿を見た瞬間、言葉を失ってしまった。
貴族の女性は髪をとても大切にしている。夜会やパーティの時は、どれだけ美しくまとめてそこに高価な飾りをつけるかに力をいれるものだ。
そんな『女性の命』ともいえる髪をばっさりと切った奥方様の心の内を思うと、穏やかではいられなかった。
ヘレナは短く髪を切った奥方様を見た時に、グズグズと泣き出してしまった。
本邸付きの我々三人の中でしか言えないことだが、私たちは日を追うごとに奥方様に惹かれている。
こんな境遇で嫁いできたのに、奥方様は愚痴のひとつ涙のひとつもこぼさない。
何の飾り気もない『本邸』とは名ばかりの寒々しい建物に、たった三人の使用人と共に閉じ込められている。
別邸には三十人近い使用人がいることを奥方様は知らない。
廊下や吹き抜けの階段まで炭火鉢が点々と置かれ、別邸全体が暖かく保たれていることを知らない。
旦那様によって奥方様は、別邸に近づくことも禁じられているからだ。
それなのに奥方様はたった三人の使用人に、家族や友人のような思いやりを向けてくださる。
ご自身の私室の掃除を始め身の回りのほとんどのことを、奥方様は自分でなさる。
贅沢で高価な物など何一つ求めず、領主夫人であるのに薪の節約のためにこの寒冷地で湯浴みも週に二度しかなさらない。
その湯浴みの時も、すぐにヘレナに後の湯に入るように言うらしく、その時の残り湯も湯で洗うと汚れものが良く落ちると言って自ら洗濯に使う。
別邸で、深窓の姫君のごとく大事にされているブリジット様とはあまりにも扱いが違う。
結婚初夜から旦那様は奥方様の部屋を訪れたことは一度もない。
花の一本も奥方様に贈ったことはなく、奥方様が私費でインク瓶を三つ買っただけで、わざわざ私費で買ったと言うのは小賢しいと吐き捨てるように言ったのだ。
旦那様は、ご自分のままならないことへの鬱憤を、ちょうどいいところにいる奥方様にぶつけているのだ。
旦那様ご自身もおそらくそのことを分かっていらっしゃる。
奥方様が何も悪くないことも、でもそれを認めてしまえばご自身の苛立ちをご自身で解決する必要に迫られてしまうことも。
不敬を承知で言えば、旦那様は奥方様を突き放しているように見えて、その奥方様に甘えているのだ。
奥方様は領主の妻として、積極的に街で領民たちと交流をしている。
困ったことがあると聞けばそれを助ける。
街では多忙な旦那様の代わりに来たと、領民の暮らしを見ようともしない旦那様をかばうように言っている。
その実、旦那様は多忙などではない。
領主として書類に目を通したりはしているが、この土地をもっと繁栄させようだとか交易を盛んにするための布石を打つとか、領民の陳情を聞くといったそういう仕事には手を出さない。
領主の仕事は、別邸に居る五人の執事と自分を加えた六人で行い、役場の者たちと国境を守るオールブライト騎士団と連携している。
旦那様は豪華な別邸で、物語のお姫様のように暮らすブリジット様と共に、特に何をするでもなく一日二食と豪華なティータイムをゆったりと過ごしている。
庭を散策してみたり読み物を取り寄せてお二方で読んでみたり、街に出かけてブリジット様に贈り物をしたりもする。
クライブ様は時に王都にお一人で出向くこともある。
そうした旦那様のことを奥方様は何も知らず、多忙な旦那様を少しでも助けなければと思っている。
そして何より我々三人の胸を苦しくさせるのは、奥方様がそのような旦那様をお慕いしていることが分かるからだった。
豪奢な別邸で妻ではない女性を大切にしてのんびり暮らし、自分には使用人にも劣る暮らしを強いている旦那様のことを何も知らずに慕っている奥方様。
髪を切ってしまった奥方様を見てヘレナが泣き出したのは、そうした奥方様を寂しく思ったからだろう。
そんなヘレナを奥方様はおろおろしながら慰めていた。
その優しさが切なくヘレナの涙は止まらなくなってしまった。
世の中には願っても努力を重ねても叶わないことがあることは、誰もが知っている。
でも奥方様が、高貴な侯爵家に生まれ努力する資質もそれに応えられる能力もあるにも関わらず、ほのかな想いさえ踏みにじられていることが自分のこと以上に悔しいのだ。
我々は働くことで給金を得ているが、奥方様にはそれすら無い。
それでも笑顔を絶やさない奥方様が寂しくて悲しい。
「旦那様、アーサーが参りました」
「入れ」
「失礼いたします」
毎日の奥方様監視の報告に来る足取りも重いが、仕事はきちんとしなければならない。
別邸の旦那様の執務室は暖かくて、本邸の寒さに慣れてしまうと暑いと感じるほどだ。
「アレはどうしていた?」
「はい。街に出て寄合所にて女性たちの陳情を聞いていらっしゃいました。
その後、養護施設に赴き、現在そこで養育されている子どもたちの正確な人数や健康状態などを調べるように申し入れ、文字を学ぶなど学習面においてのサポートについて役場の方々との話し合いに臨まれました。
その後は、奥方様がカリンの種からお作りになった化粧水の量産と流通についての話し合いを、商工会にて行いました」
「カリンの種の化粧水とは?」
「はい。ここオールブライトではカリンの実がよく獲れるようですが、これまでは果実酒やジャムなどにして個人が消費するだけだったそうです。
奥方様が果物屋の主人に教えてもらった方法で化粧水を作ったら、思いのほか良質だったとのことで、それをオールブライトの特産品として王都で販売できないかと模索中とのことです」
「そのカリンの種の化粧水で、私費を増やそうというわけか」
「それは違います。特産品として高値で取引されることになればこの領地の税収が安定して増えるだろうということと、カリンの生産者を増やすことと加工をする工場を作ることで新たな雇用を生み出すことも目的としているようです」
「……そうか、分かった」
いや、何も分かっていらっしゃらない。
奥方様が自身のことなど何も考えておらず、ひとえに領民の暮らしをお考えのことについては。
「そうだアーサー、二週間後に別邸にて大事な客を招いてちょっとしたパーティを開催することになった。本邸の使用人も当日はこちらに来てもらうことになるかもしれない。
アレには特に何も言わずともよい。
それから、カリンの種の化粧水だったか。そうしたオールブライトの税収を上げることなど一連のことについて、アーサーからアレを褒めておいてくれ。髪飾りなど希望の物を買ってもよい」
「……畏れながら申し上げます、奥方様へのお褒めの言葉は旦那様が直接おっしゃったほうがよろしいかと思いますが」
今更髪飾りなどを贈ったところで、髪を短くしてしまった奥方様が喜ぶとも思えない。
でも旦那様から直接声が掛かればあの方は笑顔になるだろう。
「まあ、機会があれば私からも伝えよう。とりあえずのところは頼んだ」
「……かしこまりました」
別邸を出て本邸に戻ると、奥方様に呼び止められた。
「お願いがあるのだけど」
「なんでしょうか」
「このひざ掛けを旦那様にお渡ししてほしいの。商人がこれから売りたい手編みの品物を、サンプルの意味合いで領主宛てに献上品として持ち込んできたのよ。とても質のいい毛糸を使っているようだから旦那様に使っていただくのがいいと思うわ。ではよろしくね」
奥方様から手渡されたのは大判のひざ掛けだ。
献上品だと言ったが、どう考えても奥方様が編んだものだろう。
でも、奥方様の手編みだと旦那様に言えば要らないと拒否されることは分かっている。
これだけ大きな物を編むのに幾日かかったのか……。
別邸から戻ったばかりなので、これは明日持っていくことにする。
旦那様が使ってくだされば、奥方様にそう報告しよう、きっと奥方様はお喜びになるに違いない。
308
あなたにおすすめの小説
「義妹に譲れ」と言われたので、公爵家で幸せになります
恋せよ恋
恋愛
「しっかり者の姉なら、婚約者を妹に譲ってあげなさい」
「そうだよ、バネッサ。君なら、わかるだろう」
十五歳の冬。父と婚約者パトリックから放たれた無慈悲な言葉。
再婚相手の連れ子・ナタリアの図々しさに耐えてきたバネッサは、
その瞬間に決意した。
「ええ、喜んで差し上げますわ」
将来性のない男も、私を軽んじる家族も、もういらない。
跡継ぎの重責から解放されたバネッサは、その類まれなる知性を見込まれ、
王国の重鎮・ヴィンセント公爵家へ嫁ぐことに。
「私は、私を一番に愛してくれる場所で幸せになります!」
聡明すぎる令嬢による、自立と逆転のハッピーエンド。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
結婚十年目の夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。彼は「送り間違えた」というけれど、それはそれで問題なのでは?
ぽんた
恋愛
レミ・マカリスター侯爵夫人は、夫と政略結婚をして十年目。侯爵夫人として、義父母の介護や領地経営その他もろもろを完ぺきにこなしている。そんなある日、王都に住む夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。義弟を通じ、夫を追求するも夫は「送り間違えた。ほんとうは金を送れというメモを送りたかった」という。レミは、心から思った。「それはそれで問題なのでは?」、と。そして、彼女の夫にたいするざまぁがはじまる。
※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。
ローザリンデの第二の人生
梨丸
恋愛
伯爵令嬢、ローザリンデの夫はいつも彼女より仕事を優先させ、彼女を無碍にしている。
彼には今はもういない想い人がいた。
私と結婚したことにいい思いをしていないことは知っていた。
けれど、私の命が懸かっていた時でさえも、彼の精神は変わらなかった。
あなたが愛してくれないのなら、私は勝手に幸せになります。
吹っ切れたローザリンデは自分自身の幸せのために動くことにした。
※投稿してから、誤字脱字などの修正やわかりにくい部分の補足をすることがあります。(話の筋は変わらないのでご安心ください。)
1/10 HOTランキング1位、恋愛3位ありがとうございます。
もう、あなたには何も感じません
たくわん
恋愛
没落貴族令嬢クラリッサは、幼馴染の侯爵子息ロベルトから婚約破棄を告げられた。理由は「家が落ちぶれた」から。社交界で嘲笑され、屈辱に打ちひしがれる彼女だったが――。
病弱な幼馴染を守る彼との婚約を解消、十年の恋を捨てて結婚します
佐藤 美奈
恋愛
セフィーナ・グラディウスという貴族の娘が、婚約者であるアルディン・オルステリア伯爵令息との関係に苦悩し、彼の優しさが他の女性に向けられることに心を痛める。
セフィーナは、アルディンが幼馴染のリーシャ・ランスロット男爵令嬢に特別な優しさを注ぐ姿を見て、自らの立場に苦しみながらも、理想的な婚約者を演じ続ける日々を送っていた。
婚約して十年間、心の中で自分を演じ続けてきたが、それももう耐えられなくなっていた。
氷の王妃は跪かない ―褥(しとね)を拒んだ私への、それは復讐ですか?―
柴田はつみ
恋愛
亡国との同盟の証として、大国ターナルの若き王――ギルベルトに嫁いだエルフレイデ。
しかし、結婚初夜に彼女を待っていたのは、氷の刃のように冷たい拒絶だった。
「お前を抱くことはない。この国に、お前の居場所はないと思え」
屈辱に震えながらも、エルフレイデは亡き母の教え――
「己の誇り(たましい)を決して売ってはならない」――を胸に刻み、静かに、しかし凛として言い返す。
「承知いたしました。ならば私も誓いましょう。生涯、あなたと褥を共にすることはございません」
愛なき結婚、冷遇される王妃。
それでも彼女は、逃げも嘆きもせず、王妃としての務めを完璧に果たすことで、己の価値を証明しようとする。
――孤独な戦いが、今、始まろうとしていた。
その結婚は、白紙にしましょう
香月まと
恋愛
リュミエール王国が姫、ミレナシア。
彼女はずっとずっと、王国騎士団の若き団長、カインのことを想っていた。
念願叶って結婚の話が決定した、その夕方のこと。
浮かれる姫を前にして、カインの口から出た言葉は「白い結婚にとさせて頂きたい」
身分とか立場とか何とか話しているが、姫は急速にその声が遠くなっていくのを感じる。
けれど、他でもない憧れの人からの嘆願だ。姫はにっこりと笑った。
「分かりました。その提案を、受け入れ──」
全然受け入れられませんけど!?
形だけの結婚を了承しつつも、心で号泣してる姫。
武骨で不器用な王国騎士団長。
二人を中心に巻き起こった、割と短い期間のお話。
これ以上私の心をかき乱さないで下さい
Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユーリは、幼馴染のアレックスの事が、子供の頃から大好きだった。アレックスに振り向いてもらえるよう、日々努力を重ねているが、中々うまく行かない。
そんな中、アレックスが伯爵令嬢のセレナと、楽しそうにお茶をしている姿を目撃したユーリ。既に5度も婚約の申し込みを断られているユーリは、もう一度真剣にアレックスに気持ちを伝え、断られたら諦めよう。
そう決意し、アレックスに気持ちを伝えるが、いつも通りはぐらかされてしまった。それでも諦めきれないユーリは、アレックスに詰め寄るが
“君を令嬢として受け入れられない、この気持ちは一生変わらない”
そうはっきりと言われてしまう。アレックスの本心を聞き、酷く傷ついたユーリは、半期休みを利用し、兄夫婦が暮らす領地に向かう事にしたのだが。
そこでユーリを待っていたのは…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる