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Chap.3 My Little Mermaid
Chap.3 Sec.10
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ぼやんとした頭が、首筋に触れた冷たい指先を心地よく捉えた。
細くしなやかな指に、記憶から名前がこぼれ、
「——ティア?」
開いたウサギの目に映ったのは、彼ではなかった。
「あ……ごめんね、びっくりさせた?」
「…………?」
柔らかな瞳がのぞいていた。
ここはどこ、彼女は誰……記憶喪失まがいの混乱を覚えたが、寝ていた上体を起こして周りを確認し——ラグーンシティ。ベッドだけの狭い部屋に記憶が繋がった。
「熱っぽいかなって思ったんだけど、大丈夫そう。脈も落ち着いてるし……お酒、抜けてきたかな?」
優しい声で話す彼女は、「私、カシ。よろしくね」薄いブラウンの髪を片側でゆるく三つ編みにして前に流している。ティアもたまにこんな髪型をするな……と、アルコールに弱った脳が記憶を重ねていた。
「……ウサギちゃん、だよね? 伝わってる?」
「——はい。はじめまして」
「お酒、飲んだの……覚えてる?」
「……はい、じぶんで……まちがえて」
「そのあと、ジェシーが追加で飲ませたって聞いたよ? ……ごめんね?」
「いえ……のまされたのではなく、じぶんで。のんだら、〈なかま〉だといわれたから……」
「だめだめ! ジェシーたちはアルホリだから、仲間になったら危ないよ」
「……あるほり?」
「アルコール中毒。すっごく呑むの。強いコしかあのペースについてっちゃダメ」
「……きをつけます」
「うん、気をつけよう」
まじめな顔でうなずくウサギに、カシも同じ顔で返す。
薄暗い部屋でベッドから身を起こしたウサギは、ふと時間を気にして手首を見たが……ブレス端末の反応はない。
「あの……いまは、なんじ?」
「えっと……日にち跨いで、2時」
「……セトは……」
「セトくんなら、大丈夫。さっきまで私が見てたんだけど……ぜんぜん平気そう。すごいね?」
「……はい。セトは、すごい」
「うん、ほんとにすごかった。……ヴァシリエフのひとたちって、やっぱりみんなすごいんだね」
カシの微笑む顔は、意外にも優しく。すこし懐かしむような色があった。
しかし、浮かんだ笑顔はうっすらと哀しみを帯び、瞳はどこか彼方を見つめるように揺らいだ。
「——ロキ……くんは、元気にしてる?」
「はい」
「……ヴァシリエフハウスにいるんだね?」
「はい。……カシさんは、ロキをしってる?」
「……うん、すこしだけ。ウサギちゃんは、ロキと仲いいの?」
「……たぶん」
「えっ、たぶん?」
あいまいな答えに、カシが笑みをこぼして首を傾けた。
ウサギのほうは悩む顔つきで、
「いまは、わたしに、おこっている……と、おもう」
「ロキって怒るの? なにか怒らせるようなことしたの?」
「……〈りゆう〉は、ぜんぜんわからない」
「あ……もしかして、セトくんの悪ぐち言った?」
「……?」
「ロキくんに、セトくんの悪ぐち言うと怒——てゆか、無視されちゃうんだって。ロキくんのファンクラブみたいなのがあって……そのコたちが言ってた。“セトと私、どっちが大事なの?”みたいなこと言うと、即シカト対象。それまで優しくても……完全無視、らしいよ」
「……それは、はじめてききました」
「私もね、そのときは知らなかった。だいぶ経ってから聞いたよ。だから……いちど無視されたら、もう無理かも」
「…………でも、ロキは……よく〈むし〉してくる……ような?」
「……え?」
「〈むし〉……というより、〈すねる〉……?」
「…………拗ねる?」
「セトの〈わるぐち〉より……〈ほめことば〉のほうが、〈ふきげん〉になる……と、おもいます?」
「………………」
カシの表情が、ぼんやりと止まる。
静かな声で、「ウサギちゃんは……違うのかな?」独り言のように唱えてから、真剣な顔でウサギの手を取った。
「——やっぱり、ウサギちゃんだけでもヴァシリエフハウスに戻ったほうがいいよ」
「……?」
「セトくんは、ヴァシリエフを出たんだよね?」
「……はい」
「でも、ウサギちゃんは一応ヴァシリエフの所属だよね? 私も考えてたんだけど、ヴァシリエフを敵に回すの絶対よくないと思うから、ウサギちゃんは戻って仲を取り持ってくれたほうがいいと思うの」
「……わたしが、なか……?」
「協力関係——仲良くしましょう、って」
「なかよくしましょう……」
「うん。私がこっそりウサギちゃんだけ逃がしてあげるから……乗ってきた車で、ヴァシリエフハウスに戻って。それで……代わりに、セトくんのことは黙っててほしいの」
「……?」
「伝わってないかな?」
「……わたしを、かえしてくれる?」
「うん、そう!」
「……セト、は?」
「セトくんがここに来たことは、黙ってて?」
「? ……セトは、〈そうじ〉がおわったら……もどってくる?」
「え、ヴァシリエフはもう出てるから、戻らないんでしょ?」
「……はい」
「だから、セトくんは帰らなくても誰も捜しに来ないよね?」
「…………?」
名案を話すようなカシの、明るい言葉。
その本質を、ウサギは理解していない。
「——ね、そうしよう? そうしたらラグーンのみんなも納得いく結果にできるし……ジゼルも誰にも責められないから」
「……わたしは、かえしてくれるけど……セトは、ここに?」
「……うん、そう」
「それは……〈ぎゃく〉は、だめ?」
「え……?」
思考していたウサギの目が、言葉を探しながら、ゆっくりとカシに焦点を戻した。
「わたしじゃなくて……セトを、〈はうす〉にもどしたい」
「……なんで? ウサギちゃん、ロキくんに会いたいでしょ?」
「……ロキは、わたしより……セトに、あいたい、はず。ロキは、セトがだいじ。〈かぞく〉で、〈きょうだい〉で、〈らいばる〉で……〈ともだち〉。きっと、いちばんのともだち。だから……カシさんは、ロキにやさしいなら……わたしじゃなくて、セトをかえしてあげて……ほしい」
そこで、ぺこりと頭を下げた。
「おねがいします」
——それは、最善の道を提案したつもりだった。自分よりも、セトを。それが一番しっくりくる、正しいかたちだと思ったから。
ウサギの頼みに、他意はなかった。
……でも、
「……そんなの、知ってるよ」
ぽつりと聞こえた声に、ウサギは顔を上げようとしたが——首筋に触れた冷たい指先が、それをとどめた。
チクリとも、感じさせない。
この世界における注射の針は、とても細い。刺された本人が、気づくことすらできないほど。
「……?」
離れた手に、顔を上げたウサギの目を、カシは無表情に眺めていた。
「ごめんね。でも……貴女が望んだよね? 代わりに私を——って」
くらりと、視界が傾く。
バランスが取れなくなったウサギの身体を、カシが柔らかく受け止めた。
——あ、でも……セトくんもそっちに行っちゃうから……代わりにならないね?
残された聴覚に、その声は優しく耳鳴りを残した。
細くしなやかな指に、記憶から名前がこぼれ、
「——ティア?」
開いたウサギの目に映ったのは、彼ではなかった。
「あ……ごめんね、びっくりさせた?」
「…………?」
柔らかな瞳がのぞいていた。
ここはどこ、彼女は誰……記憶喪失まがいの混乱を覚えたが、寝ていた上体を起こして周りを確認し——ラグーンシティ。ベッドだけの狭い部屋に記憶が繋がった。
「熱っぽいかなって思ったんだけど、大丈夫そう。脈も落ち着いてるし……お酒、抜けてきたかな?」
優しい声で話す彼女は、「私、カシ。よろしくね」薄いブラウンの髪を片側でゆるく三つ編みにして前に流している。ティアもたまにこんな髪型をするな……と、アルコールに弱った脳が記憶を重ねていた。
「……ウサギちゃん、だよね? 伝わってる?」
「——はい。はじめまして」
「お酒、飲んだの……覚えてる?」
「……はい、じぶんで……まちがえて」
「そのあと、ジェシーが追加で飲ませたって聞いたよ? ……ごめんね?」
「いえ……のまされたのではなく、じぶんで。のんだら、〈なかま〉だといわれたから……」
「だめだめ! ジェシーたちはアルホリだから、仲間になったら危ないよ」
「……あるほり?」
「アルコール中毒。すっごく呑むの。強いコしかあのペースについてっちゃダメ」
「……きをつけます」
「うん、気をつけよう」
まじめな顔でうなずくウサギに、カシも同じ顔で返す。
薄暗い部屋でベッドから身を起こしたウサギは、ふと時間を気にして手首を見たが……ブレス端末の反応はない。
「あの……いまは、なんじ?」
「えっと……日にち跨いで、2時」
「……セトは……」
「セトくんなら、大丈夫。さっきまで私が見てたんだけど……ぜんぜん平気そう。すごいね?」
「……はい。セトは、すごい」
「うん、ほんとにすごかった。……ヴァシリエフのひとたちって、やっぱりみんなすごいんだね」
カシの微笑む顔は、意外にも優しく。すこし懐かしむような色があった。
しかし、浮かんだ笑顔はうっすらと哀しみを帯び、瞳はどこか彼方を見つめるように揺らいだ。
「——ロキ……くんは、元気にしてる?」
「はい」
「……ヴァシリエフハウスにいるんだね?」
「はい。……カシさんは、ロキをしってる?」
「……うん、すこしだけ。ウサギちゃんは、ロキと仲いいの?」
「……たぶん」
「えっ、たぶん?」
あいまいな答えに、カシが笑みをこぼして首を傾けた。
ウサギのほうは悩む顔つきで、
「いまは、わたしに、おこっている……と、おもう」
「ロキって怒るの? なにか怒らせるようなことしたの?」
「……〈りゆう〉は、ぜんぜんわからない」
「あ……もしかして、セトくんの悪ぐち言った?」
「……?」
「ロキくんに、セトくんの悪ぐち言うと怒——てゆか、無視されちゃうんだって。ロキくんのファンクラブみたいなのがあって……そのコたちが言ってた。“セトと私、どっちが大事なの?”みたいなこと言うと、即シカト対象。それまで優しくても……完全無視、らしいよ」
「……それは、はじめてききました」
「私もね、そのときは知らなかった。だいぶ経ってから聞いたよ。だから……いちど無視されたら、もう無理かも」
「…………でも、ロキは……よく〈むし〉してくる……ような?」
「……え?」
「〈むし〉……というより、〈すねる〉……?」
「…………拗ねる?」
「セトの〈わるぐち〉より……〈ほめことば〉のほうが、〈ふきげん〉になる……と、おもいます?」
「………………」
カシの表情が、ぼんやりと止まる。
静かな声で、「ウサギちゃんは……違うのかな?」独り言のように唱えてから、真剣な顔でウサギの手を取った。
「——やっぱり、ウサギちゃんだけでもヴァシリエフハウスに戻ったほうがいいよ」
「……?」
「セトくんは、ヴァシリエフを出たんだよね?」
「……はい」
「でも、ウサギちゃんは一応ヴァシリエフの所属だよね? 私も考えてたんだけど、ヴァシリエフを敵に回すの絶対よくないと思うから、ウサギちゃんは戻って仲を取り持ってくれたほうがいいと思うの」
「……わたしが、なか……?」
「協力関係——仲良くしましょう、って」
「なかよくしましょう……」
「うん。私がこっそりウサギちゃんだけ逃がしてあげるから……乗ってきた車で、ヴァシリエフハウスに戻って。それで……代わりに、セトくんのことは黙っててほしいの」
「……?」
「伝わってないかな?」
「……わたしを、かえしてくれる?」
「うん、そう!」
「……セト、は?」
「セトくんがここに来たことは、黙ってて?」
「? ……セトは、〈そうじ〉がおわったら……もどってくる?」
「え、ヴァシリエフはもう出てるから、戻らないんでしょ?」
「……はい」
「だから、セトくんは帰らなくても誰も捜しに来ないよね?」
「…………?」
名案を話すようなカシの、明るい言葉。
その本質を、ウサギは理解していない。
「——ね、そうしよう? そうしたらラグーンのみんなも納得いく結果にできるし……ジゼルも誰にも責められないから」
「……わたしは、かえしてくれるけど……セトは、ここに?」
「……うん、そう」
「それは……〈ぎゃく〉は、だめ?」
「え……?」
思考していたウサギの目が、言葉を探しながら、ゆっくりとカシに焦点を戻した。
「わたしじゃなくて……セトを、〈はうす〉にもどしたい」
「……なんで? ウサギちゃん、ロキくんに会いたいでしょ?」
「……ロキは、わたしより……セトに、あいたい、はず。ロキは、セトがだいじ。〈かぞく〉で、〈きょうだい〉で、〈らいばる〉で……〈ともだち〉。きっと、いちばんのともだち。だから……カシさんは、ロキにやさしいなら……わたしじゃなくて、セトをかえしてあげて……ほしい」
そこで、ぺこりと頭を下げた。
「おねがいします」
——それは、最善の道を提案したつもりだった。自分よりも、セトを。それが一番しっくりくる、正しいかたちだと思ったから。
ウサギの頼みに、他意はなかった。
……でも、
「……そんなの、知ってるよ」
ぽつりと聞こえた声に、ウサギは顔を上げようとしたが——首筋に触れた冷たい指先が、それをとどめた。
チクリとも、感じさせない。
この世界における注射の針は、とても細い。刺された本人が、気づくことすらできないほど。
「……?」
離れた手に、顔を上げたウサギの目を、カシは無表情に眺めていた。
「ごめんね。でも……貴女が望んだよね? 代わりに私を——って」
くらりと、視界が傾く。
バランスが取れなくなったウサギの身体を、カシが柔らかく受け止めた。
——あ、でも……セトくんもそっちに行っちゃうから……代わりにならないね?
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