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雪は止んでいる。
降り積もっていた雪は融雪装置によって刻々と解かされ、白き城館は森深い黒の世界にその存在を知らしめていた。
城館——ハウスの1階南に位置するエントランスホールから、外へのドアを抜けるのは、くすんだ金髪の青年。
夜空の下に踏み出された彼の足は、先客を見つけて停止した。
蒼黒の闇に映える白い長髪。高くひとつに纏められたポニーテールが、くるりと回った。
「あれ? セト君?」
見慣れないティアの姿に、セトは片眉を上げて幻かと疑う。
ティアはトレーニングウェアを着ていた。冷えた外気にスマートマテリアルのウェアが形状変化していく過程で、体温をキープする密度の高いそれに、セトは上から下まで一瞥して本物であると確認する。
「お前、何やってんだ?」
「セト君こそ、こんな時間にどうしたの?」
「俺はトレーニングだ」
「えっ、セト君って夜も走ってるの?」
「森の見回りついでにな」
「野生だね~……」
「馬鹿にしてるだろ」
「や、褒めてる褒めてる」
話しながらストレッチをするように身体を動かしていたティアへ、細い目をぶつける。
ティアは両肩を上げて受け流しながら、セトの最初の質問に答えた。
「僕もトレーニングだよ。今から走るとこ。2週間前くらいからかな……? なるべく毎日走るよう心掛けてるよ」
「……嘘だろ?」
「わ、すごく失礼な反応だね? ……ま、きっと君からしたらウォーキング程度だよ」
「…………急にどうした」
「いろいろあって、心境の変化かな? セト君と同じ」
くすっと音の鳴る唇に、セトは不可解な目を向ける。
ティアは笑顔のまま、ハウスとは反対の方向を示し、
「森の方って僕でも走れる?」
「ああ。舗装された小径なら行けるんじゃねぇか?」
「前にさ、ゲームのなかで湖に行ったよね? ずっと本物を見てみたいなぁと思ってて……よかったら案内してくれない?」
「今か?」
「うん、今」
「……まあ、いいけど」
「ありがとう」
「………………」
色素のないティアの肌は、闇夜に白々と浮いている。笑顔にはどこか齟齬を覚える。指摘することなく、セトは止めていた足を踏み出した。
ティアもトレーニングと言っていたので、ランニングのつもりで。速度は配慮する。ティアの走れる速さを知らないが、こちらの通常ペースについて来るのは無理だろう。
「ちょっ……セト君、速い! もっとゆっくり!」
「これ以上遅くしたらトレーニングになんねぇだろ」
「君にとってのウォーキングって言ったよねっ?」
「謙遜してたんじゃねぇのか……」
歩くのとなんら変わらない速度まで落とした。
隣に並ぶティアはランニングの雰囲気で軽快感を出している。しかし、遅い。
セトは踵をしっかりつけて普通に歩き始めた。
「この速度だと湖まで一生かかるぞ」
「セト君と一生走るなんて人生終わってるな……」
「こっちのセリフだ」
「僕がアリスちゃんなら、君は一生付き合えてハッピーだろうにね?」
「そうだな」
「………………」
「………………」
「……え?」
「あ?」
ティアの驚きに、セトの不審な声が返される。
ティアは少し先のセトの横顔を見ていたが、セトは振り向いていない。
「……や、発言の取り消しは? しないの?」
「なんで取り消すんだよ」
「えっ……でもほら、前だったら……(そういう意味じゃねぇ、お前よりマシって意味だ。くらいの言い訳は言ってたよね?)」
ティアが言葉をつなぐ前に、セトが顔を向けた。
ティアのウェアはぼんやりと発光している。それを見て眩しげに目を細めつつ、
「——お前、なんか悩みでもあんのか?」
突然の問いに、走ることで思考力の下がっていたティアが素直に目を丸くした。
「え、なんで?」
「お前が俺にうざ絡みしてくるときは、大抵ストレス発散だろ」
「やだな、誤解だよ」
「否定しても無駄だ。長く一緒にいるんだ。それくらいもう分かってんだよ」
「………………」
ティアは否定しなかった。
代わりに、走る足をゆるりと歩きに変え、苦笑の息を吐いた。
「——いやだな。長くいると、こっちの手の内まで読まれちゃうんだ」
肩をすくめるティアの口から、白い息が流れる。熱のこもった吐息は、冷たい冬の空気に溶けていく。
「……何を悩んでんだよ」
さらに速度を落とせば、ティアはやっと心を開く気になったらしい。伏せた瞳で口を開いた。
「……人魚姫ってさ、人間に愛されることで、永遠の魂を授かるんだ」
(——は?)
いきなりどうした。
突っこみたい気持ちを堪えて、その先を待った。
森閑とした夜の小径に、ティアの細い声は、ともすれば呑まれそうで。下手な口は挟めなかった。
また何か変な喩え話だろうな。とは思っていたが。
「……だから、人魚姫は人間に愛されたかったんだよね。——で、アリスちゃんは、サクラさんから家族の証を貰って、ハウスの住人になったわけだけれども」
「お、おぉ……そこからウサギの話になんのか」
急な展開に戸惑い、うっかり口を挟んでいた。
ティアは横目をセトに送り、たしょう非難の色を浮かべて、
「セト君さ、なんで帰ってきちゃったの?」
「……あ? なんだよ、結局帰ってくんなっつぅ話か?」
「そうじゃないよ。せっかくアリスちゃんと二人きりだったのに何してるの、って話」
「仕方ねぇだろ。ウサギが帰りたがったんだから」
「止めてよ。ハウスに戻ったらまたサクラさんの支配下なのに」
「アトランティスだってモルガンの支配下だ」
「それでもあっちは普通のひとでしょ?」
「普通ってなんだよ。大して変わんねぇよ」
「………………」
ため息なのか、単に運動で息が荒いのか。判別できないティアの吐息の音は、足音に被って消えていく。
目線を前方の空に向けたセトは、ティアの不満の矛先を考えた。
「——まあ、お前の言いたいことも分かるけどな」
「え? セト君に僕の何が分かるの?」
心外いっぱいの声には半眼を送る。調子に乗んな。
セトの牽制に反して、ティアは笑った。その声は森の静寂に透きとおるように響いた。
ジャッカルあたりは森奥で反応しているかも知れない。やかましい夜だな、と。
「お前や俺が何言ったって、最終的にウサギを護ったのはサクラさんだからな。文句ねぇだろ」
「まぁね。……そういえば、アトランティスに報復はしないの?」
「報復ってなんだよ、物騒だな……」
「アリスちゃんにあんなことさせといて、お咎めなし?」
「あぁ……それな、この前ラグーンのリーダーと話して——仕掛けたの、モルガンじゃねぇんじゃねぇか? っつぅ話になって」
「うん? そうなの? あ、もしかしてユーグってひと?」
「——いや、それも違う。それならウサギを使って俺らを闘わせる必要なんてなかった。ロキが言うには……アトランティスのセキュリティは脆弱すぎて外からでも介入できただろうから——もしかしたら、まったく関係ないやつらが仕掛けた可能性もあるんじゃねぇか、ってよ」
「えぇっ……それ怖い話じゃない?」
「——ああ。ウサギを攫ったやつが特定できてねぇから、そっちのほうが蓋然性高い。ハウスを狙ってんのか、ウサギを狙ってんのか分かんねぇけど……まじな話、気ぃつけたほうがいい」
「そんな深刻なのに、この前みんなでラグーンシティ行っちゃったの?」
「この前はサクラさんがいただろ」
「……このサクラさん信者め」
「なんか言ったか?」
「なにも?」
少し睨むと、ティアの足は逃げるように走りに戻った。
「……サクラさんは最強だからな」
追いかけて、セトもランニングのかたちに足を速める。口調は投げやりに、言い訳のような諦めのような。
ティアが半笑いで声をあげた。
「分かってないな~? サクラさんが最強なのは……そうあろうとしてるのは、君たちがいるからでしょ?」
「どういう意味だよ?」
「サクラさんは、自分の存在意義を〈兄〉にしたんでしょ? 理由は知らないけどね? ……設定を守るみたいに、お兄ちゃんごっこをしてるんだよ。最強の兄——や、違うな。最高の兄かも。過保護だけど、成長の邪魔はしない。なるべく手を出さない。——でも、すべては掌の上。それすらも気づかせない、完璧なお兄ちゃん」
「……なんの話だ?」
セトの疑念には答えず、ティアは笑っていた唇をわずかに収めて、思いを吐き出すように唱えた。
「ね、セト君。サクラさんは……こわいよ? 君が思ってるよりも、ずっとずっと恐いひとだよ」
「………………」
「僕は——アリスちゃんが、心配なんだよ」
こぼれ落ちた名は、ティアの軽薄な口にしては、そっと慎重な響きをしていた。
壊れ物を扱うような、口に出すのも憚れる存在に触れるような、繊細な音で。
「ずっと——人魚姫の話を思い出すんだ。王子様に大切にされて、愛されるかと錯覚したのに……最後の最後で、裏切られる。ほんとうの愛は貰えない——そんな人魚姫が重なって、心配になるんだ」
なんの話だよ。とは、もう言えなかった。
ふざけていたはずのティアは、いつのまにか切実な声で思いを吐露している。
「アリスちゃんが……愛されなくて身を投げ出した、人魚みたいになりそうで……あの子なら、物語と同じように……こころよく命を投げ出しそうで……怖いんだよ……」
冷たい夜風に紛れる声は、かすかに震えている。
セトの耳は、その恐れの心を捉えて——けれども、なんでもないことのように、
「——心配ねぇよ。ウサギには最悪、俺がいる」
「……うん?」
場違いな声をもらしたティアの方は見ずに、前方だけ見据えて、
「俺は、たぶん一生分の幸運をあの数日で使った気ぃすんだよな」
「……え? なんの話?」
「自分勝手な時間をウサギに使わせた。身に余るもんを貰った。——だから、これ以上は望まねぇ」
「うん? だから、なんの話? ……あとさ、きみ、走るのちょっと速くなってるから、もうすこしスピード落として……聞いてるかなっ?」
セトに大きく遅れをとるティアを振り返って、早く来るよう催促する。
「遅ぇぞ。何やってんだ?」
「いやいや、君が急に速いんだよ!」
「すぐ湖に着くから、もう少し頑張れよ」
「えっ、ほんと?」
乗せられて走ったティアは、最終的に息も絶えだえの状態に追い込まれて、ようやっと目的の地へとたどり着いた。
「っ……どこが、〈もう少し〉……」
「一生と比べたら〈もう少し〉だったろ?」
「ひどい……しぬ……ここで死んだら、セト君を呪う……」
「勝手に呪っとけ」
肩を落とし、両膝に手をついて呪詛を吐くティアを背後に、セトは湖を眺めた。
水面は凍っていない。気温は今後上がっていくだろうから、今シーズンはもう氷が張ることはない。
(……来年また氷が張ったら、スケートでも誘ってみるか)
「——あ。いまセト君、アリスちゃんのこと考えてるでしょ?」
「おぉ、お前やっぱすげぇな?」
「え……冗談で言ったんだけど」
「は?」
「………………」
「………………」
「あの、さ。セト君……アリスちゃんと、なんかあったよね? でも、僕ぜんぜん推測できないんだよ。アリスちゃんは普通な感じだし……何があったの?」
「なんもねぇよ」
「嘘だ……僕がこんなにアリスちゃんを心配してるのに……君はなんでそんな悠長なのかな……? サクラさんに首輪までつけられちゃって……」
「チョーカーを首輪つったら、俺らみんな繋がれてるじゃねぇか。サクラさんも。——つぅか、これをずっと着けようっつったのはミヅキだろ? みんな外見あんま似てねぇから……兄弟の証に。どこの誰が見ても、全員繋がってんだなって分かるように……」
「あぁ、そうだったね。ミヅキくん、そんなこと言ってたね」
ティアと同時に、空を見上げていた。
ミヅキ——美しい月を表す名前だと、二人とも知っている。
「——ウサギが、自分でサクラさんの庇護を選んだ。サクラさんも護る気でいる。……外は危ねぇし、他に道もねぇよ。お前だって似たようなもんだから、ウサギの気持ちは分かるだろ?」
「……ま、そうなんだけどさ……いろいろ思うところがあるんだよ、僕には」
「ふぅん……」
「ふぅんって……セト君こそ、どうなの?」
「ん?」
「セト君は、これでいいの?」
「………………」
空の細い月から目を落とし、セトはティアを振り返った。
夜闇に灯る金は月よりも冴え、さやかな光を見せて強く存在を示し、
「——俺は、ウサギが好きだ。あいつが笑ってられるなら、なんだっていい」
はっきりとした答えが、夜気を震わせた。
ティアの胸に残っていた、暗いわだかまりを貫くほど——明朗に。
しっかり10秒、ティアは呆けて固まっていた。
膝に乗せていた両手を離し、上体を起こして小さく笑う。
「……敗北宣言? なかなか前向きな失恋だね?」
数歩前に進んで、ティアもセトに並ぶ。
からかいを口にしたが、いまだ弾んでいるティアの息の音に、セトの鼻で笑う音が重なった。
「負けてねぇよ。隙あらば奪ってやる」
「わ、強気だ。相手は、あのサクラさんだよ?」
「相手として不足はねぇな」
高らかなティアの笑い声が、夜風と共に月の浮かぶ水面を駆けていった。
——そばにいるだろ。これからもずっと。
彼方の海に忘れられたはずの約束は、一方の胸に強く灯っている。
その輝きは、消えそうもない。
Fin.
降り積もっていた雪は融雪装置によって刻々と解かされ、白き城館は森深い黒の世界にその存在を知らしめていた。
城館——ハウスの1階南に位置するエントランスホールから、外へのドアを抜けるのは、くすんだ金髪の青年。
夜空の下に踏み出された彼の足は、先客を見つけて停止した。
蒼黒の闇に映える白い長髪。高くひとつに纏められたポニーテールが、くるりと回った。
「あれ? セト君?」
見慣れないティアの姿に、セトは片眉を上げて幻かと疑う。
ティアはトレーニングウェアを着ていた。冷えた外気にスマートマテリアルのウェアが形状変化していく過程で、体温をキープする密度の高いそれに、セトは上から下まで一瞥して本物であると確認する。
「お前、何やってんだ?」
「セト君こそ、こんな時間にどうしたの?」
「俺はトレーニングだ」
「えっ、セト君って夜も走ってるの?」
「森の見回りついでにな」
「野生だね~……」
「馬鹿にしてるだろ」
「や、褒めてる褒めてる」
話しながらストレッチをするように身体を動かしていたティアへ、細い目をぶつける。
ティアは両肩を上げて受け流しながら、セトの最初の質問に答えた。
「僕もトレーニングだよ。今から走るとこ。2週間前くらいからかな……? なるべく毎日走るよう心掛けてるよ」
「……嘘だろ?」
「わ、すごく失礼な反応だね? ……ま、きっと君からしたらウォーキング程度だよ」
「…………急にどうした」
「いろいろあって、心境の変化かな? セト君と同じ」
くすっと音の鳴る唇に、セトは不可解な目を向ける。
ティアは笑顔のまま、ハウスとは反対の方向を示し、
「森の方って僕でも走れる?」
「ああ。舗装された小径なら行けるんじゃねぇか?」
「前にさ、ゲームのなかで湖に行ったよね? ずっと本物を見てみたいなぁと思ってて……よかったら案内してくれない?」
「今か?」
「うん、今」
「……まあ、いいけど」
「ありがとう」
「………………」
色素のないティアの肌は、闇夜に白々と浮いている。笑顔にはどこか齟齬を覚える。指摘することなく、セトは止めていた足を踏み出した。
ティアもトレーニングと言っていたので、ランニングのつもりで。速度は配慮する。ティアの走れる速さを知らないが、こちらの通常ペースについて来るのは無理だろう。
「ちょっ……セト君、速い! もっとゆっくり!」
「これ以上遅くしたらトレーニングになんねぇだろ」
「君にとってのウォーキングって言ったよねっ?」
「謙遜してたんじゃねぇのか……」
歩くのとなんら変わらない速度まで落とした。
隣に並ぶティアはランニングの雰囲気で軽快感を出している。しかし、遅い。
セトは踵をしっかりつけて普通に歩き始めた。
「この速度だと湖まで一生かかるぞ」
「セト君と一生走るなんて人生終わってるな……」
「こっちのセリフだ」
「僕がアリスちゃんなら、君は一生付き合えてハッピーだろうにね?」
「そうだな」
「………………」
「………………」
「……え?」
「あ?」
ティアの驚きに、セトの不審な声が返される。
ティアは少し先のセトの横顔を見ていたが、セトは振り向いていない。
「……や、発言の取り消しは? しないの?」
「なんで取り消すんだよ」
「えっ……でもほら、前だったら……(そういう意味じゃねぇ、お前よりマシって意味だ。くらいの言い訳は言ってたよね?)」
ティアが言葉をつなぐ前に、セトが顔を向けた。
ティアのウェアはぼんやりと発光している。それを見て眩しげに目を細めつつ、
「——お前、なんか悩みでもあんのか?」
突然の問いに、走ることで思考力の下がっていたティアが素直に目を丸くした。
「え、なんで?」
「お前が俺にうざ絡みしてくるときは、大抵ストレス発散だろ」
「やだな、誤解だよ」
「否定しても無駄だ。長く一緒にいるんだ。それくらいもう分かってんだよ」
「………………」
ティアは否定しなかった。
代わりに、走る足をゆるりと歩きに変え、苦笑の息を吐いた。
「——いやだな。長くいると、こっちの手の内まで読まれちゃうんだ」
肩をすくめるティアの口から、白い息が流れる。熱のこもった吐息は、冷たい冬の空気に溶けていく。
「……何を悩んでんだよ」
さらに速度を落とせば、ティアはやっと心を開く気になったらしい。伏せた瞳で口を開いた。
「……人魚姫ってさ、人間に愛されることで、永遠の魂を授かるんだ」
(——は?)
いきなりどうした。
突っこみたい気持ちを堪えて、その先を待った。
森閑とした夜の小径に、ティアの細い声は、ともすれば呑まれそうで。下手な口は挟めなかった。
また何か変な喩え話だろうな。とは思っていたが。
「……だから、人魚姫は人間に愛されたかったんだよね。——で、アリスちゃんは、サクラさんから家族の証を貰って、ハウスの住人になったわけだけれども」
「お、おぉ……そこからウサギの話になんのか」
急な展開に戸惑い、うっかり口を挟んでいた。
ティアは横目をセトに送り、たしょう非難の色を浮かべて、
「セト君さ、なんで帰ってきちゃったの?」
「……あ? なんだよ、結局帰ってくんなっつぅ話か?」
「そうじゃないよ。せっかくアリスちゃんと二人きりだったのに何してるの、って話」
「仕方ねぇだろ。ウサギが帰りたがったんだから」
「止めてよ。ハウスに戻ったらまたサクラさんの支配下なのに」
「アトランティスだってモルガンの支配下だ」
「それでもあっちは普通のひとでしょ?」
「普通ってなんだよ。大して変わんねぇよ」
「………………」
ため息なのか、単に運動で息が荒いのか。判別できないティアの吐息の音は、足音に被って消えていく。
目線を前方の空に向けたセトは、ティアの不満の矛先を考えた。
「——まあ、お前の言いたいことも分かるけどな」
「え? セト君に僕の何が分かるの?」
心外いっぱいの声には半眼を送る。調子に乗んな。
セトの牽制に反して、ティアは笑った。その声は森の静寂に透きとおるように響いた。
ジャッカルあたりは森奥で反応しているかも知れない。やかましい夜だな、と。
「お前や俺が何言ったって、最終的にウサギを護ったのはサクラさんだからな。文句ねぇだろ」
「まぁね。……そういえば、アトランティスに報復はしないの?」
「報復ってなんだよ、物騒だな……」
「アリスちゃんにあんなことさせといて、お咎めなし?」
「あぁ……それな、この前ラグーンのリーダーと話して——仕掛けたの、モルガンじゃねぇんじゃねぇか? っつぅ話になって」
「うん? そうなの? あ、もしかしてユーグってひと?」
「——いや、それも違う。それならウサギを使って俺らを闘わせる必要なんてなかった。ロキが言うには……アトランティスのセキュリティは脆弱すぎて外からでも介入できただろうから——もしかしたら、まったく関係ないやつらが仕掛けた可能性もあるんじゃねぇか、ってよ」
「えぇっ……それ怖い話じゃない?」
「——ああ。ウサギを攫ったやつが特定できてねぇから、そっちのほうが蓋然性高い。ハウスを狙ってんのか、ウサギを狙ってんのか分かんねぇけど……まじな話、気ぃつけたほうがいい」
「そんな深刻なのに、この前みんなでラグーンシティ行っちゃったの?」
「この前はサクラさんがいただろ」
「……このサクラさん信者め」
「なんか言ったか?」
「なにも?」
少し睨むと、ティアの足は逃げるように走りに戻った。
「……サクラさんは最強だからな」
追いかけて、セトもランニングのかたちに足を速める。口調は投げやりに、言い訳のような諦めのような。
ティアが半笑いで声をあげた。
「分かってないな~? サクラさんが最強なのは……そうあろうとしてるのは、君たちがいるからでしょ?」
「どういう意味だよ?」
「サクラさんは、自分の存在意義を〈兄〉にしたんでしょ? 理由は知らないけどね? ……設定を守るみたいに、お兄ちゃんごっこをしてるんだよ。最強の兄——や、違うな。最高の兄かも。過保護だけど、成長の邪魔はしない。なるべく手を出さない。——でも、すべては掌の上。それすらも気づかせない、完璧なお兄ちゃん」
「……なんの話だ?」
セトの疑念には答えず、ティアは笑っていた唇をわずかに収めて、思いを吐き出すように唱えた。
「ね、セト君。サクラさんは……こわいよ? 君が思ってるよりも、ずっとずっと恐いひとだよ」
「………………」
「僕は——アリスちゃんが、心配なんだよ」
こぼれ落ちた名は、ティアの軽薄な口にしては、そっと慎重な響きをしていた。
壊れ物を扱うような、口に出すのも憚れる存在に触れるような、繊細な音で。
「ずっと——人魚姫の話を思い出すんだ。王子様に大切にされて、愛されるかと錯覚したのに……最後の最後で、裏切られる。ほんとうの愛は貰えない——そんな人魚姫が重なって、心配になるんだ」
なんの話だよ。とは、もう言えなかった。
ふざけていたはずのティアは、いつのまにか切実な声で思いを吐露している。
「アリスちゃんが……愛されなくて身を投げ出した、人魚みたいになりそうで……あの子なら、物語と同じように……こころよく命を投げ出しそうで……怖いんだよ……」
冷たい夜風に紛れる声は、かすかに震えている。
セトの耳は、その恐れの心を捉えて——けれども、なんでもないことのように、
「——心配ねぇよ。ウサギには最悪、俺がいる」
「……うん?」
場違いな声をもらしたティアの方は見ずに、前方だけ見据えて、
「俺は、たぶん一生分の幸運をあの数日で使った気ぃすんだよな」
「……え? なんの話?」
「自分勝手な時間をウサギに使わせた。身に余るもんを貰った。——だから、これ以上は望まねぇ」
「うん? だから、なんの話? ……あとさ、きみ、走るのちょっと速くなってるから、もうすこしスピード落として……聞いてるかなっ?」
セトに大きく遅れをとるティアを振り返って、早く来るよう催促する。
「遅ぇぞ。何やってんだ?」
「いやいや、君が急に速いんだよ!」
「すぐ湖に着くから、もう少し頑張れよ」
「えっ、ほんと?」
乗せられて走ったティアは、最終的に息も絶えだえの状態に追い込まれて、ようやっと目的の地へとたどり着いた。
「っ……どこが、〈もう少し〉……」
「一生と比べたら〈もう少し〉だったろ?」
「ひどい……しぬ……ここで死んだら、セト君を呪う……」
「勝手に呪っとけ」
肩を落とし、両膝に手をついて呪詛を吐くティアを背後に、セトは湖を眺めた。
水面は凍っていない。気温は今後上がっていくだろうから、今シーズンはもう氷が張ることはない。
(……来年また氷が張ったら、スケートでも誘ってみるか)
「——あ。いまセト君、アリスちゃんのこと考えてるでしょ?」
「おぉ、お前やっぱすげぇな?」
「え……冗談で言ったんだけど」
「は?」
「………………」
「………………」
「あの、さ。セト君……アリスちゃんと、なんかあったよね? でも、僕ぜんぜん推測できないんだよ。アリスちゃんは普通な感じだし……何があったの?」
「なんもねぇよ」
「嘘だ……僕がこんなにアリスちゃんを心配してるのに……君はなんでそんな悠長なのかな……? サクラさんに首輪までつけられちゃって……」
「チョーカーを首輪つったら、俺らみんな繋がれてるじゃねぇか。サクラさんも。——つぅか、これをずっと着けようっつったのはミヅキだろ? みんな外見あんま似てねぇから……兄弟の証に。どこの誰が見ても、全員繋がってんだなって分かるように……」
「あぁ、そうだったね。ミヅキくん、そんなこと言ってたね」
ティアと同時に、空を見上げていた。
ミヅキ——美しい月を表す名前だと、二人とも知っている。
「——ウサギが、自分でサクラさんの庇護を選んだ。サクラさんも護る気でいる。……外は危ねぇし、他に道もねぇよ。お前だって似たようなもんだから、ウサギの気持ちは分かるだろ?」
「……ま、そうなんだけどさ……いろいろ思うところがあるんだよ、僕には」
「ふぅん……」
「ふぅんって……セト君こそ、どうなの?」
「ん?」
「セト君は、これでいいの?」
「………………」
空の細い月から目を落とし、セトはティアを振り返った。
夜闇に灯る金は月よりも冴え、さやかな光を見せて強く存在を示し、
「——俺は、ウサギが好きだ。あいつが笑ってられるなら、なんだっていい」
はっきりとした答えが、夜気を震わせた。
ティアの胸に残っていた、暗いわだかまりを貫くほど——明朗に。
しっかり10秒、ティアは呆けて固まっていた。
膝に乗せていた両手を離し、上体を起こして小さく笑う。
「……敗北宣言? なかなか前向きな失恋だね?」
数歩前に進んで、ティアもセトに並ぶ。
からかいを口にしたが、いまだ弾んでいるティアの息の音に、セトの鼻で笑う音が重なった。
「負けてねぇよ。隙あらば奪ってやる」
「わ、強気だ。相手は、あのサクラさんだよ?」
「相手として不足はねぇな」
高らかなティアの笑い声が、夜風と共に月の浮かぶ水面を駆けていった。
——そばにいるだろ。これからもずっと。
彼方の海に忘れられたはずの約束は、一方の胸に強く灯っている。
その輝きは、消えそうもない。
Fin.
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