ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗

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第13話 舞子与一と骨付鳥

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「あ~、よく寝た!」

目が覚めて、同時に出た言葉がそれだった。
時計は5時半。昨夜は8時過ぎには2人とも布団に沈んで、そのまま朝まで爆睡したらしい。

「お腹すいた!」

これもハモった。顔を見合わせてゲラゲラ笑う。平和な朝だ。

「もう起きとん? ほんなら朝ごはん用意しよか~」

襖の向こうから、民宿のおばちゃんの声がする。
僕が「こんな早くて大丈夫ですか?」と返すより早く、布団の中から舞子が、

「お願いします~!」

と元気に返事した。

洗面所で顔を洗う音を聞きながら布団をたたみ、ざっくり荷物をまとめる。
台所の方からは、だしの香りと、焼き魚の匂いが漂ってきた。

「昨日のしょうゆ豆、また出てくると思う?」

「出てきそうな気がする」

「うれしいの?」

「……まあまあ!」

えへへと笑う声が、朝の光に溶けていく。

おばちゃんに呼ばれて居間に行くと、ちゃぶ台の上には炊きたての白ごはん、焼き鮭、玉子焼き、味噌汁、漬物。
そして、やっぱり小さな鉢に、あの豆がちょこんと座っていた。

「しょうゆ豆だ~」

舞子が本当にうれしそうに笑う。

「昨日、あんたがようさん食べてくれたけんね。今朝はちょっと甘めに炊いてみたんよ」

「いただきます」

白味噌仕立ての味噌汁は、柔らかい甘さで寝起きの体にしみていく。
ごはんは粒立ちが良くて、噛むたびに甘い。

舞子は、しょうゆ豆を一粒つまんで、しばらくじっと眺めてから口に運んだ。

「……やっぱり好き。しょっぱいんだけど、ほっとする」

ごはんをひと口、豆をひと粒。お茶をすすって、また豆。
完全に「しょうゆ豆の人」になっている。

朝食を終えて部屋に戻ると、つい癖で布団を押し入れに片付けようとしてしまい、

「あ、それ、しまわんでええよ~。干したり点検したりするけん、そのままで助かるわ」

とおばちゃんに笑われた。

部屋でお茶を飲んでいると、縁側で舞子が座布団に丸くなり、猫みたいに日向ぼっこを始める。
こっちまで眠くなるなあと思ったところで、うっかり二度寝してしまったらしい。

ボーン。

柱時計の音で目を覚ますと、8時半だった。

「舞子、そろそろ行くよ」

声をかけると、縁側から「はーい」という返事。
玄関で靴を履いていると、舞子がお腹を押さえながら言った。

「……ちょっと、お腹すいてきたかも」

「はやない? さっきあれだけ食べてたやん」

「でも、なんか……“うどんの口”になってきた」

その言い方が妙にしっくりくる。
旅先特有の、「今ここでしか食べられないものを、今のうちに食べておきたい」あの感じだ。

「旅してるとさ、“食べとかなきゃ損”って気持ちにならない?」

「分かる」

2人して頷いてしまう。

支払いを済ませると、おばちゃんが小さなタッパーを差し出した。

「これ持っていき。昨日の残りに、今朝炊いたしょうゆ豆も足しておいたけん。冷めてもおいしいから、途中のおやつにでもして」

「うわっ……!」

舞子は両手でタッパーを受け取って、ぱあっと顔を輝かせた。

「ありがとうございます! 絶対こぼしません!」

車に荷物を積み込んで、手を振って民宿を後にする。

「しょうゆ豆はうどんまでガマンね。うどんの後のおやつ」

舞子はタッパーを膝の上に抱え、きっちりルールを決めている。
どこまで豆が好きなんだ、この子は。

◇  ◇  ◇  ◇

今日の最初のうどん屋は、昨日までの店よりもさらに「普通の家」だった。

小さな集落の中、畑の向こうに見える木造の家。
看板も暖簾もない。
引き戸の横に、簡素な長机とベンチが置かれているだけだ。

「ほんとにここがうどん屋さん?」

不安そうに言いながらも、舞子の目は期待でキラキラしている。

引き戸をそっと開けると、湯気と小麦粉の匂いがふわっと押し寄せてきた。
奥には大きな釜、その横に白い粉でうっすらと色づいた麺台。
腰の曲がった小柄なおばあちゃんが、白い割烹着姿でこちらを見て微笑んだ。

「食べますか?」

「はい。お願いします」

「熱いのですか、冷たいのですか。大きいのですか、小さいのですか」

メニューは、それだけ。

「僕は大の熱いので。舞子は?」

「うん、私も大の熱いの」

「ほな、ちょっと茹でるけんね。10分ほど待ちよって」

僕たちは外のベンチに座って待つことにした。

「まだかな、まだかな」

舞子が歌うように呟く。その横顔は完全に子どもだ。

「できとるで~」

声に呼ばれて中へ入ると、湯気の立つ丼がふたつ並んでいた。
横には、ざるに山積みになった生卵と、ネギの入ったタッパー、醤油の瓶。

「まず卵、割ってうどんに落とす」

僕が言うと、舞子は素直に従って、丼の真ん中にぽとりと落とした。

「次、ネギ」

タッパーから好きなだけすくって、卵の周りにふわりとかける。
最後に醤油を回しかける。かけ過ぎるとしょっぱいから、控えめに。

「そしたら、親の仇みたいに混ぜる」

2人して、ぐるぐる、ぐるぐる。
白い麺が、卵と醤油とネギに染まっていく。

「いただきます!」

ひと口すする。

「うわ!」

舞子が叫んだ。

「なにこれっ!? なにこれなにこれなにこれっ!?」

麺の熱で少し固まった卵が、濃厚なソースみたいに絡みついてくる。
しっかり腰のある麺なのに、口当たりはまろやかで、ネギと醤油の香りがふわっと立ち上がる。
和風カルボナーラとは、よく言ったものだ。

舞子はあっという間に「猫舌ハムスターモード」に入り、ほっぺたを膨らませたまま、一心不乱に麺をすすっている。
今、この子の視界には、きっと世界にうどんしかない。

「あ~~~! 美味しかった!」

丼を返しながら、2人同時に声を上げる。

「昨日の宮武さんも、フェリーのも、山の上の店も全部美味しかったけど、ここはまた別世界だね!」

「ここは絶対外せへん店やからな」

お会計は驚きの値段だったが、それを口に出すと旅情が安くなる気がしたので、心の中だけで驚いておいた。

◇  ◇  ◇  ◇

うどんで満たされたお腹をさすりながら、まだ朝の10時。
さて、どうしようかと考えていると、横から舞子が言った。

「ねえ、今日ってもう京都に戻るの?」

「うん。一応そのつもりやけど……その前に、ちょっと寄り道しよか」

「寄り道?」

「たぬき、好き?」

「たぬきさん? うん! かわいい!」

「よし。じゃあ、たぬきに挨拶して帰ろ」

そう言って、僕はハンドルを北の方へ向けた。

山道を越え、工事車両の多い広い道を抜ける。
新しい空港ができるらしく、大きな看板がいくつも立っていた。
市街地に下りていくと、案内板に「屋島」の文字が見えてきた。

駐車場に車を停めて降りると、まず視界に飛び込んできたのは──

「えっ、たぬき……多っ!」

土産物屋の前に、信楽焼のたぬきがずらりと並んでいる。
笑顔のたぬき、ほろ酔い顔のたぬき、笠をかぶったたぬき。
大中小、全部たぬき。うさぎもかえるもいない。徹底したたぬき推しだ。

「ここ、すごい……たぬき王国だ……」

舞子はたぬきの間を縫うように歩き、ひとつひとつじっくり眺めている。
ときどき本物そっくりの剥製に「ひゃっ」と跳びのいて、照れ笑いを浮かべる。

展望台へ向かう途中、「屋島合戦」の案内板が立っていた。
義経の夜襲、扇の的。教科書で見た名前が並んでいる。

「ここが、あの源平合戦の場所なんだ……」

舞子は珍しく真面目な顔で説明文を追っている。

「“与一、扇の真ん中を射よ”ってさ……外したらどうなるの? 討たれる?」

「たぶんな」

「うわぁ……プレッシャーえぐい」

しばし歴史に思いを馳せてから歩き出すと、「かわらけ投げ」の的台が見えてきた。

「投げていいやつだ!」

舞子は嬉々として三枚セットの素焼きの皿を買い、「心願成就」「厄除け」「恋愛成就」と書かれた皿に、それぞれ何か書き込んでいる。

「なんて書いたん?」

「内緒。恋愛ではない……と思う」

怪しい。

ひと呼吸おいて、皿を構える。

「いざ、出陣……!」

かっこいいセリフの直後、1枚目は見事に茂みに消えた。

「……あれ?」

「風のせいやな」

2枚目も3枚目も的は外れたが、舞子は悔しがるよりも、皿が空中で割れる音を楽しんでいた。

「なんかさ、パリンって音が気持ちいいね。嫌なものが落ちてく感じ」

展望台の望遠鏡に100円玉を入れて、海を覗く。

「あっ、船だ! あ、もう終わり!? 短っ!」

「それで100円やで」

「うん。でも、なんか得した気分」

最後に、売店でソフトクリームを買ってベンチに腰かけた。
濃いのにしつこくないバニラをひと舐めし、舞子が「はい、一口」と犬に餌をやるみたいな手つきでこちらに差し出してくる。

2人で笑い合いながらソフトクリームをつつく。
山の上の風は涼しくて、眼下には高松の街と、穏やかな海が広がっていた。

舞子はカップを手にしたまま、しばらく何も言わず海の方を見つめていた。
横顔が、風景に溶けていきそうになる。

「……ここ、来てよかったね」

ぽつりと、その一言。

「うん。そう思う」

僕も同じ方向を見ながら答えた。
遠くの海のあたりで、何かがゆっくり動いたような気がした。

◇  ◇  ◇  ◇

ソフトクリームを食べ終えて駐車場に戻る頃には、ちょうどお昼時だった。

「なんかまた、お腹すいてきた」

「うん。そろそろ、今日最後の“本命”いこか」

「本命?」

「骨付鳥」

「えっ、あの骨付鳥!? お祭りで売ってる、甘いタレのやつ!?」

「……まあ、骨付鳥は骨付鳥や」

なんとも曖昧な返事をしてしまった。

海沿いの道を西へ走り、街が少しずつ低くなっていく。
川にかかった橋を渡り、お目当ての店の駐車場に車を入れた。

「ここ?」

「うん。ここ」

古民家風の店構えの中に入ると、にんにくと鶏の脂と胡椒が混じり合った匂いが、一気に全身を包み込んだ。

「……なんか、すごい」

「戦のにおいやろ?」

「だから誰と戦ってるの……?」

笑いながら席に案内される。
窓の向こうには、川の土手が見えた。

「僕は“親”で。ちょっと固いけど、味が深い。舞子は“ひな”がええと思う」

「柔らかいのがいい。雛……名前がかわいすぎて怖いけど」

注文を済ませると、厨房の方からジュウウウ……という音が聞こえてくる。
にんにくが焦げる匂いがさっきより濃くなった。

「たぶん、今うちらの焼いてる」

「え、私たち、今こんがりしてるの……?」

しばらくして、まずキャベツが出てきた。
それをかじりながら待っていると、ついに本命が銀の皿にのってやってきた。

「……なにこれ」

舞子が素でつぶやく。

皿の上には、黒々とした皮をまとった肉の塊。
皮には細かい泡が浮かび、にんにくと胡椒と脂が一体になったような、凶悪な匂いを放っている。

「えっ、骨付鳥って、こんな迫力あった? もっとこう、かわいい照り焼き的な……」

「みたらし団子の親戚みたいな味想像してた?」

「そうそう! 砂糖醤油で、ちょっと甘くて安全なやつ!」

目の前の“ひな”は、安全とはだいぶ違う方向に振り切れている。

「とりあえず、一口やな」

箸袋で骨の細いところをくるりと巻いて、手でつかむ。
舞子はおそるおそるかぶりついた。

パリッ。

皮が裂けた瞬間、熱い肉汁があふれ出す。
にんにく、胡椒、脂。全部が一度に口の中を駆け抜けていく。

「……なにこれ」

さっきと同じ言葉なのに、声の色がぜんぜん違う。

「おいし……ちょ、待って、なにこれ……やば……」

「うまいやろ?」

「皮パリパリ! 中ジューシー! にんにく! でもくどくない! でも辛い! ていうか味濃い!!」

「そう、それがここの骨付鳥」

「ごはん……ごはん欲しい……!」

「おむすびあるで」

店員さんを呼んで、おむすびの皿を頼む。
しばらくして運ばれてきたのは、黒ごまが山のように乗った白い三角と、海苔付きが1つ。
黄色いたくあんが添えられている。

「かわいい……」

ひとつ手に取って、ひと口。

「……あああ~~~助かる~~~!!」

思わず声が漏れている。

「辛い! →白ごはん! →まだ辛い! →白ごはん! これ! これだよ!」

骨付鳥とおむすびのループに突入した舞子は、ほっぺたをパンパンに膨らませたまま、集中して咀嚼している。
さっきまで与一を心配していた子とは思えない。

おむすびを平らげたところで、舞子が言った。

「ねえ、もうひと皿頼んでいい?」

「ええよ」

2皿目が来たところで、僕は皿の縁を指さした。

「そのおむすび、ちょっとだけこの油にちょんちょんってつけて食べてみ?」

「えっ、そんなことしていいの?」

「だいぶ悪いことしてる気分になるけど、やってみ」

恐る恐る、黒ごまのてっぺんを油にちょん、とつけて、ぱくり。

「…………なにこれ」

数秒固まってから、目だけこっちを向けてきた。

「やば……やば……革命……」

言葉になっていない。

そこから先は、骨付鳥とおむすびと皿の油で、完全なる無限ループが完成した。

最後の一かけまできれいに食べきると、銀の皿には骨だけが残った。

「……すごかった……」

舞子は、しばらく皿を見つめてから、ふっとため息をついた。

◇  ◇  ◇  ◇

店を出ると、空はもう西に傾き始めていた。

「うどん、うどん、しょうゆ豆、うどん、たぬき、与一、骨付鳥……情報量えぐい……」

助手席で舞子がぼんやりつぶやく。

「楽しかった?」

「楽しいとかおいしいとか、そういう単語じゃ足りない……でも、全部、ちゃんと覚えておきたい……」

フロントガラスの向こうで、瀬戸内の光がゆっくりと淡くなっていく。

「じゃあ、そろそろ帰ろか」

「えー」

ライブで「次が最後の曲です」と言われた客みたいな声が出た。

「また連れてきたるから。うどんも、金毘羅さんも、たぬきも、骨付鳥も、しょうゆ豆も」

「絶対?」

「絶対。名物“かまど”にも誓う」

「しょうゆ豆にも誓って」

「もちろん」

そう言って、舞子の頭をぽんぽんと叩く。

京都へ向かう道のりは、来たときより少しだけ短く感じた。
助手席では、ポニーテールとタキシードサムが、ゆっくりと揺れていた。
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