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6. 契約終了
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「……では、行ってくる」
「はい、いってらっしゃいませ、ザイール様」
侯爵の爵位を継いだザイール様は忙しかった。今日も共に朝食をとった後早々にお出かけになるのを、私は玄関先で見送っていた。
「……。」
「……?……どうされました?」
「……いや。……行ってくる」
ザイール様は玄関先で振り返り、しばらく私の顔を無言でジッと見つめたけれど、何も言わずにそのまま行ってしまった。
「……っ、」
ザイール様の姿を見送った後、私は部屋に引き上げ、考えた。
(……そうよね。もう充分だわ。……長くここにいすぎた)
お父様を失った辛さはまだ癒えてはいないだろうけど、ザイール様はもう充分立ち直りつつある。日常の忙しい業務も淡々とこなしているし、食欲もだいぶ戻っている。
私に出て行って欲しいのだろう。だけど優しいザイール様のことだ、自分のためにここに残っていそうな私に向かって追い出すようなことを言えず、困っておられるのだ。
さっきの沈黙は、きっとその逡巡だろう。
「……もう、行かなくちゃね」
辛いけど。本当は、私はずっとザイール様のおそばにいたいけれど。
それはこの白い結婚の契約とは違う。ザイール様がこの役目を全うするために私を選んでくださったのは、私ならしつこく言い寄ってきたりはしないと信頼してくださったからだろう。
……諦めなくては。あの優しい方を、困らせてはいけない。
「……。」
もう一度お顔を見る前に、ここを離れた方がいい。大好きなザイール様のお顔を見たら、せっかくの決心が鈍ってしまうから。
……幸せだったな。短い間だったけど、あんな素敵な人の妻になれたんだから。
ありがとうございました、ザイール様。
涙が零れそうになるのを堪えながら、私は自分の荷物をまとめはじめた。
***************
「……。」
父が亡くなって数週間。メリナはずっと私のそばにいてくれた。
予想もしていなかった自分自身の変化に、私は驚いていた。父が他界すれば、すぐにメリナとは離縁するつもりだった。父を失った辛さは、独りで耐えるつもりでいたのに。
何故だろうか。そばに寄り添ってくれる彼女の存在がとても心地良く、それに甘えて契約終了を言い出せないでいた。
「…………はぁ」
帰路につく馬車の中、私は溜息をついた。優しいメリナのことだ、弱った姿を見せてしまった私のそばから離れて実家に帰りたいとは、言い出し辛いのだろう。
だがもう、父の死から数週間が経った。さすがに長すぎる。もういい加減、彼女を解放してやらねばならないだろう。
何日も前からそう考えていた。だからこそ今朝も、その話をメリナにしようと思っていたのだ。だが結局朝食の席では言い出せずに、玄関先まで見送ってきてくれたメリナに、今こそ言おうと思った。
それなのに。
『……?……どうされました?』
自分を見つめてくるメリナの愛らしい顔を見ていると、言葉が喉でつかえたように出てこなくなった。
結局言い出せないまま、今朝も屋敷を出てきてしまったのだった。
(……こんなことになるとは、思ってもみなかった……)
彼女は他の女性たちとは違う。何故こんなにも、自分の心を満たしてくれるのだろうか。この数ヶ月のメリナの言動が次々に思い出される。
私を不快にさせまいと、適度な距離を保ち続けようとしてくれている心遣いにも気付いていたし、私の両親の前や社交の場での妻としての役割は完璧だった。
あの夜会の夜だけは、少し違ったが。
自分を攻撃してくるパトリシアにムキになって歯向かうメリナの姿を思い出すと、いつもつい笑ってしまう。侯爵令息の妻の振る舞いとしては明らかに失敗であったはずなのに、少しも不快に思わない。それどころか、……何故かあの夜のことを思い出すたびに、胸が温かくなる。
(……ふ。……随分親近感を持つようになってしまったものだ。これは良くないな)
本当に、まさかこんなことになってしまうとは。自分に限って、こんな親しみの感情を女性に抱くことになるとは思いもしなかった。
(何を躊躇っているんだ、私は。これ以上メリナの時間を奪ってしまうのは申し訳ない。彼女の役目はもう終わったんだ。帰ったらきちんと話そう。これで契約は終わりだと。今までの感謝を述べて、約束どおり慰謝料という名目で支払う謝礼の話をしよう)
なんとなく寂しく思うのは、家族や使用人たち以外の人間と共に屋敷で暮らしたことなどなかったからだろう。しかもメリナは、とても素敵な女性だったから。
……別に、二度と会えなくなるわけではない。今後は良き友人として付き合っていくことだってできるはずだ。
自分に言い聞かせるように、私は頭の中でそう繰り返した。
馬車が屋敷に着く。私は意を決して玄関に足を踏み入れた。
使用人に上着を渡し、自室に上がりドアを開けると、テーブルの上でキラリと光るものが目に飛び込んできた。
「……?」
何だろう。私はテーブルに歩み寄った。そしてそこに置いてある物が何かを理解した時、
「──────っ!」
心臓が凍り付くような衝撃を覚えた。
テーブルの上には、メリナが記入した離婚に関する書類と、以前父の見舞いに行く前にメリナに買い与えた私の瞳の色の宝石がついた首飾り、そして、丁寧に折り畳まれた白い紙が置いてあった。
「はい、いってらっしゃいませ、ザイール様」
侯爵の爵位を継いだザイール様は忙しかった。今日も共に朝食をとった後早々にお出かけになるのを、私は玄関先で見送っていた。
「……。」
「……?……どうされました?」
「……いや。……行ってくる」
ザイール様は玄関先で振り返り、しばらく私の顔を無言でジッと見つめたけれど、何も言わずにそのまま行ってしまった。
「……っ、」
ザイール様の姿を見送った後、私は部屋に引き上げ、考えた。
(……そうよね。もう充分だわ。……長くここにいすぎた)
お父様を失った辛さはまだ癒えてはいないだろうけど、ザイール様はもう充分立ち直りつつある。日常の忙しい業務も淡々とこなしているし、食欲もだいぶ戻っている。
私に出て行って欲しいのだろう。だけど優しいザイール様のことだ、自分のためにここに残っていそうな私に向かって追い出すようなことを言えず、困っておられるのだ。
さっきの沈黙は、きっとその逡巡だろう。
「……もう、行かなくちゃね」
辛いけど。本当は、私はずっとザイール様のおそばにいたいけれど。
それはこの白い結婚の契約とは違う。ザイール様がこの役目を全うするために私を選んでくださったのは、私ならしつこく言い寄ってきたりはしないと信頼してくださったからだろう。
……諦めなくては。あの優しい方を、困らせてはいけない。
「……。」
もう一度お顔を見る前に、ここを離れた方がいい。大好きなザイール様のお顔を見たら、せっかくの決心が鈍ってしまうから。
……幸せだったな。短い間だったけど、あんな素敵な人の妻になれたんだから。
ありがとうございました、ザイール様。
涙が零れそうになるのを堪えながら、私は自分の荷物をまとめはじめた。
***************
「……。」
父が亡くなって数週間。メリナはずっと私のそばにいてくれた。
予想もしていなかった自分自身の変化に、私は驚いていた。父が他界すれば、すぐにメリナとは離縁するつもりだった。父を失った辛さは、独りで耐えるつもりでいたのに。
何故だろうか。そばに寄り添ってくれる彼女の存在がとても心地良く、それに甘えて契約終了を言い出せないでいた。
「…………はぁ」
帰路につく馬車の中、私は溜息をついた。優しいメリナのことだ、弱った姿を見せてしまった私のそばから離れて実家に帰りたいとは、言い出し辛いのだろう。
だがもう、父の死から数週間が経った。さすがに長すぎる。もういい加減、彼女を解放してやらねばならないだろう。
何日も前からそう考えていた。だからこそ今朝も、その話をメリナにしようと思っていたのだ。だが結局朝食の席では言い出せずに、玄関先まで見送ってきてくれたメリナに、今こそ言おうと思った。
それなのに。
『……?……どうされました?』
自分を見つめてくるメリナの愛らしい顔を見ていると、言葉が喉でつかえたように出てこなくなった。
結局言い出せないまま、今朝も屋敷を出てきてしまったのだった。
(……こんなことになるとは、思ってもみなかった……)
彼女は他の女性たちとは違う。何故こんなにも、自分の心を満たしてくれるのだろうか。この数ヶ月のメリナの言動が次々に思い出される。
私を不快にさせまいと、適度な距離を保ち続けようとしてくれている心遣いにも気付いていたし、私の両親の前や社交の場での妻としての役割は完璧だった。
あの夜会の夜だけは、少し違ったが。
自分を攻撃してくるパトリシアにムキになって歯向かうメリナの姿を思い出すと、いつもつい笑ってしまう。侯爵令息の妻の振る舞いとしては明らかに失敗であったはずなのに、少しも不快に思わない。それどころか、……何故かあの夜のことを思い出すたびに、胸が温かくなる。
(……ふ。……随分親近感を持つようになってしまったものだ。これは良くないな)
本当に、まさかこんなことになってしまうとは。自分に限って、こんな親しみの感情を女性に抱くことになるとは思いもしなかった。
(何を躊躇っているんだ、私は。これ以上メリナの時間を奪ってしまうのは申し訳ない。彼女の役目はもう終わったんだ。帰ったらきちんと話そう。これで契約は終わりだと。今までの感謝を述べて、約束どおり慰謝料という名目で支払う謝礼の話をしよう)
なんとなく寂しく思うのは、家族や使用人たち以外の人間と共に屋敷で暮らしたことなどなかったからだろう。しかもメリナは、とても素敵な女性だったから。
……別に、二度と会えなくなるわけではない。今後は良き友人として付き合っていくことだってできるはずだ。
自分に言い聞かせるように、私は頭の中でそう繰り返した。
馬車が屋敷に着く。私は意を決して玄関に足を踏み入れた。
使用人に上着を渡し、自室に上がりドアを開けると、テーブルの上でキラリと光るものが目に飛び込んできた。
「……?」
何だろう。私はテーブルに歩み寄った。そしてそこに置いてある物が何かを理解した時、
「──────っ!」
心臓が凍り付くような衝撃を覚えた。
テーブルの上には、メリナが記入した離婚に関する書類と、以前父の見舞いに行く前にメリナに買い与えた私の瞳の色の宝石がついた首飾り、そして、丁寧に折り畳まれた白い紙が置いてあった。
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