曖昧な距離で愛している

山田森湖

文字の大きさ
2 / 54

第2話「後輩という存在」

しおりを挟む
第2話「後輩という存在」


「課長、これでよろしいでしょうか」

デスクの横に立った桜井みなみが、書類を差し出してきた。俺は画面から目を離して、彼女を見上げる。

「ああ、ありがとう。ちょっと待ってて」

書類に目を通す。新人にしては丁寧な仕事だ。ミスもない。

「うん、これで大丈夫。助かるよ」

「本当ですか!よかったです」

みなみは満面の笑みを浮かべる。二十四歳。俺より八つ下。大学を出てこの春に入社してきた新人だ。明るくて、素直で、よく笑う。

「桜井さん、飲み込み早いね。もう一人で任せられそう」

「先輩が教えるの上手だからですよ」

そう言って、彼女はまた笑う。

俺は少し照れくさくなって、視線を画面に戻す。

「じゃあ、これ進めといて」

「はい!」

みなみは自分のデスクに戻っていく。その後ろ姿を、俺は何となく目で追ってしまう。

IT企業で働き始めて十年。プロジェクトマネージャーとして、いくつものチームを率いてきた。仕事は嫌いじゃない。むしろ好きだ。でも、最近は刺激がない。

結婚して四年。美咲との生活も、仕事も、すべてがルーティン化している。

「田中さん、ランチ行きます?」

同僚の佐藤が声をかけてきた。

「ああ、行く行く」

いつものメンバーで社食へ向かう。途中、みなみが先輩社員と楽しそうに話しているのが見えた。彼女は誰とでもすぐに打ち解ける。羨ましい能力だ。

ランチを食べながら、佐藤が言う。

「桜井さん、可愛いよな」

「ああ、明るいし仕事もできるし」

「田中さん、教育係だっけ?」

「まあ、一応」

「いいなあ。俺も新人の面倒見たかった」

佐藤は独身で、すぐ女の子の話をする。俺は適当に相槌を打ちながら、カレーを口に運ぶ。

「田中さんは結婚してるから関係ないか」

「そうだな」

でも、正直に言えば、みなみに教えるのは悪くない。彼女は俺の話をちゃんと聞いてくれるし、「すごいですね」「さすがです」と言ってくれる。

美咲は最近、俺の話をあまり聞かない。仕事の愚痴を言っても、「ふーん」で終わる。

午後、みなみが俺のデスクにやってきた。

「田中さん、ちょっといいですか」

「どうした?」

「このデータの見方が分からなくて…」

俺は彼女の横に立って、画面を覗き込む。近い。彼女の髪からシャンプーの香りがする。

「ああ、ここはこうやって見るんだよ」

マウスを操作しながら説明する。みなみは真剣な顔で聞いている。

「なるほど!分かりました。ありがとうございます」

「分からないことあったら、いつでも聞いて」

「はい。先輩、優しいですね」

その言葉に、俺の心臓が少しだけ跳ねた。

優しい。

美咲は最近、俺にそんなこと言わない。

仕事が終わって、帰宅する。夜九時過ぎ。

「ただいま」

リビングでは美咲がソファに座ってテレビを見ていた。顔も上げない。

「おかえり」

俺はそのままシャワーを浴びに行く。熱い湯を浴びながら、今日のことを思い返す。みなみの笑顔。「優しいですね」という言葉。

別に、何も考えてないけど。

でも、悪い気はしなかった。

シャワーから上がって、リビングに戻る。美咲は相変わらずテレビを見ている。

「明日も早いから、先に寝るわ」

「うん」

それだけ。

俺は寝室へ向かい、ベッドに入る。スマホを見る。LINEを開くと、会社のグループチャットにみなみのメッセージが入っていた。

『今日もありがとうございました!明日もよろしくお願いします』

スタンプ付き。笑顔の犬。

俺は既読をつけて、画面を閉じる。

しばらくして、美咲が寝室に入ってきた。

「風呂、入った?」

「うん」

彼女はベッドに入り、電気を消す。

暗闇の中で、俺は美咲の気配を感じる。

そして、なぜか今日は抱きたくなった。

理由は分からない。ただ、何となく。

俺は美咲の腰に手を伸ばす。彼女は何も言わずに、身を委ねてくる。

いつものように、スムーズに事が進む。でも、頭の中はぼんやりしている。

終わった後、俺はすぐに眠くなった。

「疲れた」

そう言って、目を閉じる。

美咲が何か考えているのは分かる。でも、訊かない。訊いても、どうせ答えは返ってこない。

翌朝、また同じ日常が始まる。

「おはよう」

「おはよう。ゴミ、出しといて」

「了解」

美咲の淹れたコーヒーを飲みながら、スマホでニュースをチェックする。

会社に行けば、みなみがいる。

家に帰れば、美咲がいる。

どちらも悪くない。

でも、何かが足りない気がする。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

一条さん結婚したんですか⁉︎

あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎ 嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡ ((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜 ⭐︎本編は完結しております⭐︎ ⭐︎番外編更新中⭐︎

夫婦交錯

山田森湖
恋愛
同じマンションの隣の部屋の同い年の夫婦。思いの交錯、運命かそれとも・・・・。 少しアダルトなラブコメ

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

籠の鳥〜見えない鎖に囚われて✿❦二人の愛から…逃れられない。

クラゲ散歩
恋愛
私。ユリアナ=オリーブ(17)は、自然豊かなオータム国にあるグローパー学院に在籍している。 3年生になって一ヶ月が経ったある日。学院長に呼ばれた。技術と魔術の発展しているフォール国にある。姉妹校のカイト学院に。同じクラスで3年生の男子3名と女子3名(私を含め)。計6名で、半年の交換留学をする事になった。 ユリアナは、気楽な気持ちで留学をしたのだが…まさか学院で…あの二人に会うなんて。これは…仕組まれていたの?幼い頃の記憶。 「早く。早く。逃げなきゃ。誰か〜私を…ここから…。」

処理中です...