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16 出航
しおりを挟む食事が終わると、みんなが一斉に動き出した。私も早く片付けた方がいいだろうと思っていると、リカルドが私を見た。
「イリスさん、これから1時間後に出航する」
「わかりました。私は何をしましょうか?」
リカルドは少し考えた。
「さっきイリスさんは景色を見るために甲板に行ったって言ってただろ?」
「はい」
「それで、剣の稽古をしたなら、ゆっくりと景色なんて見てねぇんだろ?」
一応、甲板からチラリと見たがゆっくりとは見ていない。
「はい、ゆっくりとは見ていないです」
「じゃあ、俺と一緒に甲板で出港準備するか? イリスさんは隣で景色を見てればいい」
「ありがとうございます!!」
リカルドと話をしていると、ガイが私の分まで下げようとしたので、慌てて声を上げた。
「あの、私も自分で持って行ってもいいですか?」
さっきもいつの間にか持って来てもらったので、せめて片付けくらいは自分でしかった。
「ああ、もちろんだ」
ガイが私の食事の乗ったトレーから手を離して、自分の分を持って去って行った。
リカルドが「こっちだ」と言って立ち上がったので、私も席を立ってリカルドについて行った。
それぞれ、水の入った入れ物に食器ごとに分けていれる方式だった。
そして、最後のトレーを重ねると、リカルドが中で必死に作業をしている男性に声をかけた。
「美味しかった!!」
すると男性がこちらを見た。
「あいよ~~。……ん? うわぁ!! 可愛い女の子がいる!!」
男性が声を上げてこちらを見ると、手に取って拭いてたトレーを離して、厨房から食堂に出て来た。
そして男性が私の前まで来ると、リカルドが紹介してくれた。
「紹介しただろ? イリスさんだ」
「はじまして」
私があいさつをすると、茶色の瞳に明るい茶色の髪の小柄な男性が目を丸くした。
「若の妄想かと思ってた……はじめましてだな。俺はライド。この船では厨房を任されている。よろしくな」
「よろしくお願いします」
リカルドは私を見ながら言った。
「ライドは普段は俺の補佐のようなことをしてくれている。『ディルッソ』を押さえてくれたのはライドだ」
どうやら、あの予約困難なレストランを押さえてくれたのライドのようだ。
「予約を取るのは困難だと周りから聞いていましたので、驚きました。その節はありがとうございます」
ライドは笑いながら言った。
「ああ、気にするな。あの店には貸しがあるってだけだ」
ライドは笑っているがあの超一流の高級店にどんな貸しがあるのだろうか?
「おっと、こうしちゃ~いられれね。今日は若が先陣を切るんじゃねぇんだった!! 急いで片付け終わらせる!!」
ライドは「またな」というと厨房の中に戻って行った。
先陣を切る??
不思議に思っていると、リカルドが私を見て微笑んだ。
「それじゃあ、甲板に行くか?」
「はい」
そして私は食堂を出て甲板に向かった。
すでに甲板では出港準備に向けて忙しそうに働いていた。
みんなが働いているのに、自分だけが景色を見ているのが申し訳なく感じる。
「何か手伝わなくてもいいのですか?」
私は近くでロープをまとめていたリカルドに声をかけた。
「あ~~そうだな~~景色を見るのは退屈か?」
「いえ……みんなが何かしているのに、何もできなくて申し訳なくて……」
私の言葉を聞いたリカルドが目を大きく開けた。
「え? いやいや、こいつは観光船じゃねぇからな……この船に乗っているのは、みんないわば……船を動かすプロばかりなんだ。みんなこれで飯を食ってる。レストランに、給仕係がいるのと同じだ。給仕に申し訳ねぇと思うよりも、料理を楽しんでくれた方がいい。だから申し訳思う必要はねぇ、船は俺たちに任せて、イリスさんはこの景色を堪能してくれ。だが……気遣いは嬉しい。ありがとな」
リカルドに微笑まれて、私は当初の目的の景色を見ることにした。
船から眺める王都は、坂のようになっていてとても綺麗だ。
(ずっとここに住んでいたんだな……)
城の辺りを見たが森に囲まれていて、ここからでは女官寮は見えなかった。
(そうか……私……結婚したんだ……)
なぜだろう、王都を離れるという時にようやく、自分が結婚してこれまでの生き方と全く違う生き方をすることになるということを実感した。
これから私はどうなるのだろうか?
1年経ったら、またここに戻って来ることになるのだろうか? ――リカルドの側を離れて。
(寂しいな……)
私は寂しいと思ってふと、顔を上げた。
(寂しい?)
私は自分の心の中から湧き上がって来た感情に戸惑ってしまった。
(ダメよ、リカルドは伯爵様……私が相手じゃ釣り合わない。今回は仕方なく結婚しただけで、本来ならもっと素敵なお相手が……)
これからのことを思うと胸が痛くて泣きそうになった。
これは交渉のために結婚。いつはは終わると覚悟していたはずだ。
リカルドがあまりも優しく微笑むので私はいつしかその笑顔独占したいという浅ましい願いを持つようになってしまっていた。
泣きそうになるのを堪えて胸を押さえていると、リカルドがロープをまとめると、私の隣に立ったそして呟くように言った。
「ずっとここにいたんだ。突然離れるのは……やっぱり、寂しいよな……でも、また、いつでも連れて来てやるから……」
私がリカルドの方を見ると切なそうな顔の彼と目が合った。
きっと私が慣れ親しんだ王都から離れるから寂しいと思ってくれたのだろう。その気遣いがとても嬉しいと思えた。
(……これ以上優しくしないでほしいな……ああ、でもリカルドが笑いかけてくれるのは……嬉しい……)
自分の感情をどんな言葉を使って伝えればいいのかわからず、言葉が出ない。
「ありがとうございます」
結局私はその一言しか口に出来なかった。
これまでたくさんの言葉の勉強をしたはずなのに、肝心な時に口から出て来ない。
もどかしくて、胸が痛んだ。
そして汽笛が鳴り響いた。
「出航だな……」
リカルドの呟きと共に船がゆっくりと歩き出した。
船が港を離れると波が渦を巻く。
先ほどまではなかった場所に出現した渦を見て、船の存在の大きさを知る。
これほどの力がある乗り物に乗っているのだ、と。
「岸から離れる瞬間、俺はいつも楽しく仕方ないんだ」
「え?」
私は海から顔を上げてリカルドを見た。
リカルドは離れる王都の街並みから私に視線を移した。
「だが……今日は……複雑だな。ごめんな、突然全てを捨てさせちまって……絶対に一生大事にするからな」
「え!? 一生!?」
私は驚いて、リカルドの顔をじっと見つめた。
「そんなに驚くことか? そ、そりゃ~~結婚したんだし……俺の命があるうちは、大事にする」
「あの……1年経てば……離婚も可能ですが……」
もしかして、リカルドは離婚できることを知らないのかもしれない。
知らないのならば、教えてあげる必要がある。
「いや、それは知っているが……もしかしてイリスさんは、1年で離婚するつもりで俺と結婚してくれたのか!?」
「……はい」
リカルドが、顔面蒼白になり、がっかりと肩を落とした。
「そうか……そうなのか……通りですんなりと、結婚してくれたと思った……」
私は自分で言って、胸が痛くなった。
本心では私はこのままリカルドの側にずっといたいと思っている。
でもリカルドは、借金はあるがとても優しいし、素敵だし、なによりも伯爵様だ。
男爵家の私とは釣り合わない。
きつく拳を握ると、リカルドが私を見て――笑った。
「うん、そうだよな。俺はイリスさんのような素敵なお嬢さんに対して随分とズルしちまった。そう思われても当然だな。イリスさん、俺に1年時間をくれ。イリスさんにずっと一緒にいてもいいと思われるようにするから」
「え?」
今のはどういう意味だろう?
もしかして、リカルドは私と1年で離婚するつもりはないのだろうか?
今の言い方だと、そんな期待を持ってしまう……
「イリスさん、出会ってすぐで信じられねぇかもしれないが、俺はイリスさんに惚れた。俺としてはこのままずっとイリスさんに家族でいてほしい」
リカルドが真剣な顔で言った。
(惚れた? リカルドが? 私に?)
信じられないが、目の前のリカルドは真剣だった。
私もずっとリカルドと一緒にいたいと思っている――そう言いたかった。
でも……
(今回の結婚は、借金のために仕方なくすることになった。優しいリカルドは、もしかしたら、私を好きになろう、愛そうと自分に言い聞かせたのかもしれない……それに……)
実は貴族令嬢というのはかなり厄介で、日本にいたら到底信じられないようなことを平気でする。
例えば、結婚するまでは見向きもされなかった男性が妻に対して優しくしているところを見た途端に、その人がいいと、欲しい思う。普通はそこで終わりだが、彼女たちはそうではない。
身分が高ければ、二人を別れさせ自分と結婚するように命令することなど簡単だ。
この世界は絶対的な階級社会だ。
これまでリカルドの魅力に気づかなった身分の高い令嬢が、私という貴族でも最下層の令嬢に優しくしているのを見てリカルドを見染めたら……?
それに最大の懸念はラーン伯爵領の借金だ。
リカルドは、領の危機のために私と結婚したのだ。
同じく領の危機の借金問題を解決してくれるという令嬢と出会ったらどうなるかわからない。
(私と結婚しても、リカルドの領の借金返済には何の得もない。でも、もっと高い位の方からお声がかかれば……)
もしかしたら、借金が返せるほどの好条件での結婚の打診があるかもしれない。
私が考え込んでいると、リカルドが眉を下げながら言った。
「悩ませるつもりはなかったんだ。イリスさんにも俺と同じ気持ちになってくれるようにする。だから、そんな顔するな」
そしてリカルドは、私の顔をのぞきこんで真剣な顔で言った。
「悪いが、手放す気はねぇから、全力で愛するから覚悟してな」
心臓が急激に早くなり、顔に熱が集まる。
私もリカルドと一緒にいたいと――叫びたかった。
だが、これでも一応、貴族令嬢だ。
これまで、高い身分の女性に旦那様を奪われて、女官になった同僚をたくさん見て来た。
愛だけじゃ、守れないこともあると……私はすでに知ってる。
「あり……が……とう……ございます」
私はリカルドを見てようやくこれだけを口にした。
こんな気持ちを教えてくれたリカルドを心から愛おしいと思う。
少なくとも1年はリカルドの側にいることができる。
それまでに、私がリカルドのためにできること……それを探そうと思った。
「そんな顔するなって、先はまだ長い。俺たちの関係は始まったばかりだ、な?」
リカルドが片目を閉じて楽しそうに笑うので、私まで心が明るくなった。
そして気が付けば、重く沈んでいた心が――軽くなっていた。
(そうだ、1年はリカルドの側に居られる)
その間に、ラーン伯爵領の財政を改善できたら……希望が持てるかもしれない。
「リカルド、よろしくお願いします」
私がリカルドを見上げると、リカルドも「ああ」と笑ったのだった。
すでに王都は小さくなっていた。
海鳥の泣き声が聞こえ、空は青く晴れ渡っている。
そして隣には私を見て微笑むリカルドが立っていた。
私は今はただ、この景色を楽しむことにした。
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