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第一章 出会い 三
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三
翌朝、アッズーロが目覚めた時には、ナーヴェは既に寝台の上で起き上がって、林檎果汁を飲んでいた。
「調子はどうだ」
アッズーロの問いに、朝日の中ナーヴェは微笑んだ。
「大丈夫だよ。今日は、謁見に同席できる」
その後、ナーヴェは女官達に付き添われて沐浴を済ませ、身形を整えた。
「髪は、どうなさいますか」
フィオーレの問いに、寝室で簡単な朝食を摂っていたアッズーロは、改めてナーヴェの姿を見た。
白い下袴の上に白い筒袴を履き、その上に白い長衣をすとんと着て、青い髪をただ垂らした姿は、受信とやらで見ていた姿ほぼそのままだ。この国の女は、大体長くした髪を束ねたり編んだりしているが、王の宝に、それは似合わない気がした。
「そのままでよい。よく梳かして、垂らしておけ」
「畏まりました」
フィオーレは一礼すると、椅子に座らせたナーヴェの、腰に届く癖のない青い髪を、丁寧に櫛梳り始めた。
「そう言えば、そなたの髪は何故青いのだ」
アッズーロは、疑問に思っていたことを、ふと問うた。
「人ではないから、かな」
大人しく髪を梳かれながら、ナーヴェは自嘲するような笑みを浮かべる。
「人を模した姿を持って人に寄り添いながら、決して人ではない。それが、ぼく達なんだ」
「『ぼく達』?」
「うん。ぼくには、姉妹が何隻かいたから」
「そやつらは、今どうしているのだ」
「さあ」
ナーヴェは寂しげな表情になる。
「彼女達との連絡が途絶えて、もう久しいから。どこかで生きていてくれたらいいんだけれど」
「――そうか」
少々まずいことを訊いたのかもしれない。アッズーロが話題を変えようと、言葉の接ぎ穂を探し始めた時、ナーヴェのほうから別の話題を振ってきた。
「それはそうと、何を食べているんだい?」
「これは――」
アッズーロは、眼前の皿を見下ろす。
「乾酪に蜂蜜を掛けたものだが」
「へえ」
ナーヴェは興味津々といった様子で身を乗り出す。
「やっぱり乾酪なんだ。でも、蜂蜜を掛けて食べている人は初めて見たよ」
「これは、われが編み出した食べ方だからな」
アッズーロが得意げに言ってみると、ナーヴェは信じたようだった。
「へえ、美味しそうだね。明日は、ぼくもそれが食べられるといいな。味覚というものは、肉体を持って初めて感じたけれど、とてもいいよね。臭気は、本体で検知していたから、少しは知っていたけれど、嗅覚と味覚が合わさると、凄いね。林檎果汁は、香りも味も、本当に予測を超える刺激だった」
青い双眸が、きらきらとしている。心底嬉しそうだ。実体のない時は、外見よりも老成している印象が強かったが、今はまるで年端の行かない子どものようだ。アッズーロは、即位して以来、最も上機嫌になっている自分を感じながら頷いた。
「それはよい。明日は、そなたとともに蜂蜜掛け乾酪を食べるとしよう」
立ったままでは、まだ肉体がつらいだろうと判断して、王の間の、王座を見上げる階段のすぐ下に椅子を置かせてナーヴェを座らせ、アッズーロは午前の謁見を始めた。
「レ・ゾーネ・ウーミデ侯パルーデ様、参られました」
階段の下に立ったレーニョが声を張って告げ、近衛兵達によって開かれた扉から、艶やかな黒髪を美しく結い、白い肌を宝石で飾った女が広間に入ってきた。
「新王陛下におかれましては、御機嫌麗しゅう」
優雅に礼をして顔を上げた三十代の女に、アッズーロは皮肉な笑みを浮かべた。
「その『新王』に、即位後早々に謁見を申し込み、領地から遥々重い腰を上げてやって来て、さて、何の用向きだ」
「新王陛下の、先王陛下よりも英明なることを信じまして、お願いに上がったのでございます」
レ・ゾーネ・ウーミデ侯は、黒い双眸でアッズーロを見つめ、不敵に言う。
「何卒、わが領地に課せられております租税を、軽くして頂きとう存じます」
「何を抜け抜けと」
アッズーロは王座の肘掛けに肘を置き、頬杖を突いて、王と臣下とを隔てる階段の下に立ったレ・ゾーネ・ウーミデ侯を見下ろす。各領地には、それぞれの産物を国に納める租税が課せられている。それは見込まれる生産量に応じて決められているが、年によっては不作などもあり、減税、免税する場合もある。
「酒か? 麦か? それとも羊か?」
「紙でございます」
きっぱりとレ・ゾーネ・ウーミデ侯は告げた。紙は、先々代の王の治世で租税に加えられたもので、国に羊皮紙を納めるのだ。
「今年、わが領地では羊の病が流行り、羊を納めるだけでやっと。紙にまで回せる羊の余裕がございません」
パルーデの言に、アッズーロは眉間に皺を寄せた。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領で、羊の病が流行っていることは報告書で知っている。
「なれど、わが国の紙生産の半分はそなたの領地で賄われておる。全て免じることはできんぞ」
羊皮紙を作るには、大量の水がいる。川の多いレ・ゾーネ・ウーミデ侯領は、羊皮紙生産に向いており、増産に次ぐ増産をしてきたのだ――。
話の雲行きが怪しくなってきたところで、それまで黙って椅子に座っていたナーヴェが口を開いた。
「ちょっといいかな?」
青い双眸が、階段の下から、真っ直ぐにアッズーロを見上げる。アッズーロは頷いた。
「許す。申せ」
「羊皮紙ではない紙を作る、というのは、どうかな?」
ナーヴェは、アッズーロとパルーデ、双方を見比べるようにして提案した。
「一体何から作るというのだ?」
アッズーロが問い質すと、ナーヴェは微笑んだ。
「レ・ゾーネ・ウーミデ侯領にたくさん生えている、葦の茎と楡の皮から作れるよ」
他の謁見は問答無用で午後に回し、午前全てを使ってパルーデとの話を詰めたアッズーロは、愉快でならなかった。
「パルーデめ、そなたの提案に、目を白黒させておったな」
寝室で昼食の席に着き、アッズーロが笑い含みに言うと、向かいに座ったナーヴェはすまなそうに微笑んだ。
「急に口を挟んで、悪いことをしたと思っているよ。でも、ああしたほうが、話が早いからね」
確かに話は進んだ。訴えのあった羊皮紙は三分の一の減税とし、代わりにナーヴェがレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に赴いて、草木紙生産を指導することになったのだ。
「しかし、そなた、葦や楡を使った紙の作り方なぞ、どこで知ったのだ」
アッズーロの問いに、ナーヴェは遠くを見る目になった。
「ぼくは本当のところ、宝ではなくて、宝を守るものなんだ。ぼくの本体の中には、きみ達の先祖が受け継いできた知識や情報、そしてさまざまな生物の遺伝子が保存されている。ぼくは、必要に応じて、きみ達にそれらを渡すことができる」
「要するに、われらの先祖は、葦や楡を使った紙の作り方を知っていたという訳か」
「うん。きみ達は忘れてしまったことが、ぼくの中にはたくさん保存されているんだよ」
「全く、得体の知れん奴め」
アッズーロは鼻を鳴らし、目の前の卓に用意されたものへ手を伸ばした。篭に盛られた麺麭と、小皿に載った羊酪、それに干した杏が今日の昼食だ。瓶に入った羊の乳も置いてある。だが、それらはアッズーロ用。ナーヴェの前には、林檎果汁の入った杯と、麦を羊の乳で煮た粥の入った皿が用意されている。本調子ではない王の宝を気遣った食事だった。
ナーヴェは、アッズーロが麺麭に羊酪を挟んで食べるのに合わせて、林檎果汁の杯に口を付ける。用心深く、ちびりちびりと飲む姿は、まだ体調にかなりの不安があることを示していた。
「どうだ?」
「うん。大丈夫」
小さく頷いてナーヴェは杯を置き、匙を取って、粥の皿に向かった。
「無理はするな」
思わず声を掛けたアッズーロに、また小さく頷いて、ナーヴェはゆっくりと粥を掬った匙を口へ運んだ。慎重に咀嚼して飲み込み、幸せそうに笑う。
「これも、凄く美味しい。羊乳は、本当に濃厚な味で、麦の歯触りも、とてもいい。でも……」
ナーヴェは傍らに控えたフィオーレを振り向いた。
「ごめん。全部は食べられそうにないんだ」
「よい。気にするな」
アッズーロは麺麭を頬張りながら告げる。
「残りはわれが食す」
「陛下が……?」
フィオーレが珍しく驚いた声を出した。王が他人の残り物を食べるなど、前代未聞なので当然だろう。
「午前の謁見はひどく愉快だったからな。腹が減ったのだ」
アッズーロがにやりと笑いかけると、ナーヴェは安堵した笑みを浮かべた。
(あれが、王の宝か)
パルーデは、王都内に構えた館に戻る馬車の中で、口元に扇を当て、考える。王の宝ナーヴェの提案は、全く予想外のことだった。
(羊皮紙ではない紙を作れ、とはな……)
アッズーロ即位の際、宝の姿は目にしたものの、それほど存在感のあるものという認識はなかった。簒奪に近い形で即位した新王が、自身の箔付けのため、歴代の王よりも宝を前面に出していると、寧ろ侮っていたのだ。それが、どうだろう。
(宝が、あのような女子神官であったとは……)
恐らく、王以外立ち入りを禁じられているあの神殿の中には、神官達がいて、門外不出の知識を学んでいるのだ。王は、その知識を政に使う。ゆえに、神官達は王の宝と呼ばれているのだ。あの青い髪も、神官としての身形だろう。
(とても美しかった。あの染め方もまた、門外不出の知識かもしれないねえ)
「パルーデ様、何やらよいことがありましたか?」
向かいの席に座った赤毛の従僕が、不思議そうに訊いてきた。
「ああ」
パルーデは、扇の陰で笑みを浮かべ、頷く。
「来週、王の宝とともに領地へ戻る栄誉を賜ったからね」
はっきり言って、あの華奢な神官はとても好みの容姿だ。王族や、その先祖として語られる神と同じ澄んだ青い双眸も、透けるような白い肌も、神官服らしい男物の長衣をすとんと着こなした、ほっそりとした体付きも、全てが好みだった。目の前に座る従僕の少女ピーシェも、その容姿を特に気に入って召し上げ、傍に置いているが、あの神官はまた格別だ。
(王は疾うに手をつけておられるだろうが、味見くらいは、許されるかねえ)
あの神官を、単独かそれに近い形でパルーデに同行させるというなら、許されると解釈して構わないだろう。減税とともに特別の褒美を得たのだ。
(あの神官に免じて、もう暫くだけ、この国に留まってやるのも一興かもしれないねえ)
パルーデは目を細めて、馬車の窓の外を流れる街並みを眺める。新王即位の夜には、王都に常駐させている工作員の少女ノッテに命じて矢で脅しを掛けさせたが、謁見の中で、その件について探られることもなかった。新王アッズーロは、どれほど強がっていても、あらゆる手段を用いて、諸侯を取り込もうと躍起になっているのだ。
翌朝、アッズーロが目覚めた時には、ナーヴェは既に寝台の上で起き上がって、林檎果汁を飲んでいた。
「調子はどうだ」
アッズーロの問いに、朝日の中ナーヴェは微笑んだ。
「大丈夫だよ。今日は、謁見に同席できる」
その後、ナーヴェは女官達に付き添われて沐浴を済ませ、身形を整えた。
「髪は、どうなさいますか」
フィオーレの問いに、寝室で簡単な朝食を摂っていたアッズーロは、改めてナーヴェの姿を見た。
白い下袴の上に白い筒袴を履き、その上に白い長衣をすとんと着て、青い髪をただ垂らした姿は、受信とやらで見ていた姿ほぼそのままだ。この国の女は、大体長くした髪を束ねたり編んだりしているが、王の宝に、それは似合わない気がした。
「そのままでよい。よく梳かして、垂らしておけ」
「畏まりました」
フィオーレは一礼すると、椅子に座らせたナーヴェの、腰に届く癖のない青い髪を、丁寧に櫛梳り始めた。
「そう言えば、そなたの髪は何故青いのだ」
アッズーロは、疑問に思っていたことを、ふと問うた。
「人ではないから、かな」
大人しく髪を梳かれながら、ナーヴェは自嘲するような笑みを浮かべる。
「人を模した姿を持って人に寄り添いながら、決して人ではない。それが、ぼく達なんだ」
「『ぼく達』?」
「うん。ぼくには、姉妹が何隻かいたから」
「そやつらは、今どうしているのだ」
「さあ」
ナーヴェは寂しげな表情になる。
「彼女達との連絡が途絶えて、もう久しいから。どこかで生きていてくれたらいいんだけれど」
「――そうか」
少々まずいことを訊いたのかもしれない。アッズーロが話題を変えようと、言葉の接ぎ穂を探し始めた時、ナーヴェのほうから別の話題を振ってきた。
「それはそうと、何を食べているんだい?」
「これは――」
アッズーロは、眼前の皿を見下ろす。
「乾酪に蜂蜜を掛けたものだが」
「へえ」
ナーヴェは興味津々といった様子で身を乗り出す。
「やっぱり乾酪なんだ。でも、蜂蜜を掛けて食べている人は初めて見たよ」
「これは、われが編み出した食べ方だからな」
アッズーロが得意げに言ってみると、ナーヴェは信じたようだった。
「へえ、美味しそうだね。明日は、ぼくもそれが食べられるといいな。味覚というものは、肉体を持って初めて感じたけれど、とてもいいよね。臭気は、本体で検知していたから、少しは知っていたけれど、嗅覚と味覚が合わさると、凄いね。林檎果汁は、香りも味も、本当に予測を超える刺激だった」
青い双眸が、きらきらとしている。心底嬉しそうだ。実体のない時は、外見よりも老成している印象が強かったが、今はまるで年端の行かない子どものようだ。アッズーロは、即位して以来、最も上機嫌になっている自分を感じながら頷いた。
「それはよい。明日は、そなたとともに蜂蜜掛け乾酪を食べるとしよう」
立ったままでは、まだ肉体がつらいだろうと判断して、王の間の、王座を見上げる階段のすぐ下に椅子を置かせてナーヴェを座らせ、アッズーロは午前の謁見を始めた。
「レ・ゾーネ・ウーミデ侯パルーデ様、参られました」
階段の下に立ったレーニョが声を張って告げ、近衛兵達によって開かれた扉から、艶やかな黒髪を美しく結い、白い肌を宝石で飾った女が広間に入ってきた。
「新王陛下におかれましては、御機嫌麗しゅう」
優雅に礼をして顔を上げた三十代の女に、アッズーロは皮肉な笑みを浮かべた。
「その『新王』に、即位後早々に謁見を申し込み、領地から遥々重い腰を上げてやって来て、さて、何の用向きだ」
「新王陛下の、先王陛下よりも英明なることを信じまして、お願いに上がったのでございます」
レ・ゾーネ・ウーミデ侯は、黒い双眸でアッズーロを見つめ、不敵に言う。
「何卒、わが領地に課せられております租税を、軽くして頂きとう存じます」
「何を抜け抜けと」
アッズーロは王座の肘掛けに肘を置き、頬杖を突いて、王と臣下とを隔てる階段の下に立ったレ・ゾーネ・ウーミデ侯を見下ろす。各領地には、それぞれの産物を国に納める租税が課せられている。それは見込まれる生産量に応じて決められているが、年によっては不作などもあり、減税、免税する場合もある。
「酒か? 麦か? それとも羊か?」
「紙でございます」
きっぱりとレ・ゾーネ・ウーミデ侯は告げた。紙は、先々代の王の治世で租税に加えられたもので、国に羊皮紙を納めるのだ。
「今年、わが領地では羊の病が流行り、羊を納めるだけでやっと。紙にまで回せる羊の余裕がございません」
パルーデの言に、アッズーロは眉間に皺を寄せた。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領で、羊の病が流行っていることは報告書で知っている。
「なれど、わが国の紙生産の半分はそなたの領地で賄われておる。全て免じることはできんぞ」
羊皮紙を作るには、大量の水がいる。川の多いレ・ゾーネ・ウーミデ侯領は、羊皮紙生産に向いており、増産に次ぐ増産をしてきたのだ――。
話の雲行きが怪しくなってきたところで、それまで黙って椅子に座っていたナーヴェが口を開いた。
「ちょっといいかな?」
青い双眸が、階段の下から、真っ直ぐにアッズーロを見上げる。アッズーロは頷いた。
「許す。申せ」
「羊皮紙ではない紙を作る、というのは、どうかな?」
ナーヴェは、アッズーロとパルーデ、双方を見比べるようにして提案した。
「一体何から作るというのだ?」
アッズーロが問い質すと、ナーヴェは微笑んだ。
「レ・ゾーネ・ウーミデ侯領にたくさん生えている、葦の茎と楡の皮から作れるよ」
他の謁見は問答無用で午後に回し、午前全てを使ってパルーデとの話を詰めたアッズーロは、愉快でならなかった。
「パルーデめ、そなたの提案に、目を白黒させておったな」
寝室で昼食の席に着き、アッズーロが笑い含みに言うと、向かいに座ったナーヴェはすまなそうに微笑んだ。
「急に口を挟んで、悪いことをしたと思っているよ。でも、ああしたほうが、話が早いからね」
確かに話は進んだ。訴えのあった羊皮紙は三分の一の減税とし、代わりにナーヴェがレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に赴いて、草木紙生産を指導することになったのだ。
「しかし、そなた、葦や楡を使った紙の作り方なぞ、どこで知ったのだ」
アッズーロの問いに、ナーヴェは遠くを見る目になった。
「ぼくは本当のところ、宝ではなくて、宝を守るものなんだ。ぼくの本体の中には、きみ達の先祖が受け継いできた知識や情報、そしてさまざまな生物の遺伝子が保存されている。ぼくは、必要に応じて、きみ達にそれらを渡すことができる」
「要するに、われらの先祖は、葦や楡を使った紙の作り方を知っていたという訳か」
「うん。きみ達は忘れてしまったことが、ぼくの中にはたくさん保存されているんだよ」
「全く、得体の知れん奴め」
アッズーロは鼻を鳴らし、目の前の卓に用意されたものへ手を伸ばした。篭に盛られた麺麭と、小皿に載った羊酪、それに干した杏が今日の昼食だ。瓶に入った羊の乳も置いてある。だが、それらはアッズーロ用。ナーヴェの前には、林檎果汁の入った杯と、麦を羊の乳で煮た粥の入った皿が用意されている。本調子ではない王の宝を気遣った食事だった。
ナーヴェは、アッズーロが麺麭に羊酪を挟んで食べるのに合わせて、林檎果汁の杯に口を付ける。用心深く、ちびりちびりと飲む姿は、まだ体調にかなりの不安があることを示していた。
「どうだ?」
「うん。大丈夫」
小さく頷いてナーヴェは杯を置き、匙を取って、粥の皿に向かった。
「無理はするな」
思わず声を掛けたアッズーロに、また小さく頷いて、ナーヴェはゆっくりと粥を掬った匙を口へ運んだ。慎重に咀嚼して飲み込み、幸せそうに笑う。
「これも、凄く美味しい。羊乳は、本当に濃厚な味で、麦の歯触りも、とてもいい。でも……」
ナーヴェは傍らに控えたフィオーレを振り向いた。
「ごめん。全部は食べられそうにないんだ」
「よい。気にするな」
アッズーロは麺麭を頬張りながら告げる。
「残りはわれが食す」
「陛下が……?」
フィオーレが珍しく驚いた声を出した。王が他人の残り物を食べるなど、前代未聞なので当然だろう。
「午前の謁見はひどく愉快だったからな。腹が減ったのだ」
アッズーロがにやりと笑いかけると、ナーヴェは安堵した笑みを浮かべた。
(あれが、王の宝か)
パルーデは、王都内に構えた館に戻る馬車の中で、口元に扇を当て、考える。王の宝ナーヴェの提案は、全く予想外のことだった。
(羊皮紙ではない紙を作れ、とはな……)
アッズーロ即位の際、宝の姿は目にしたものの、それほど存在感のあるものという認識はなかった。簒奪に近い形で即位した新王が、自身の箔付けのため、歴代の王よりも宝を前面に出していると、寧ろ侮っていたのだ。それが、どうだろう。
(宝が、あのような女子神官であったとは……)
恐らく、王以外立ち入りを禁じられているあの神殿の中には、神官達がいて、門外不出の知識を学んでいるのだ。王は、その知識を政に使う。ゆえに、神官達は王の宝と呼ばれているのだ。あの青い髪も、神官としての身形だろう。
(とても美しかった。あの染め方もまた、門外不出の知識かもしれないねえ)
「パルーデ様、何やらよいことがありましたか?」
向かいの席に座った赤毛の従僕が、不思議そうに訊いてきた。
「ああ」
パルーデは、扇の陰で笑みを浮かべ、頷く。
「来週、王の宝とともに領地へ戻る栄誉を賜ったからね」
はっきり言って、あの華奢な神官はとても好みの容姿だ。王族や、その先祖として語られる神と同じ澄んだ青い双眸も、透けるような白い肌も、神官服らしい男物の長衣をすとんと着こなした、ほっそりとした体付きも、全てが好みだった。目の前に座る従僕の少女ピーシェも、その容姿を特に気に入って召し上げ、傍に置いているが、あの神官はまた格別だ。
(王は疾うに手をつけておられるだろうが、味見くらいは、許されるかねえ)
あの神官を、単独かそれに近い形でパルーデに同行させるというなら、許されると解釈して構わないだろう。減税とともに特別の褒美を得たのだ。
(あの神官に免じて、もう暫くだけ、この国に留まってやるのも一興かもしれないねえ)
パルーデは目を細めて、馬車の窓の外を流れる街並みを眺める。新王即位の夜には、王都に常駐させている工作員の少女ノッテに命じて矢で脅しを掛けさせたが、謁見の中で、その件について探られることもなかった。新王アッズーロは、どれほど強がっていても、あらゆる手段を用いて、諸侯を取り込もうと躍起になっているのだ。
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