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第二章 離れて過ごす夜 一
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一
パルーデとの謁見から一週間後、約束通り、ナーヴェはレ・ゾーネ・ウーミデ侯領へと出立した。パルーデの馬車に同乗しての旅路だ。見送るアッズーロの胸に複雑な思いはあったが、ナーヴェ自身が不安を見せないので、止める理由もなかった。
(とりあえずレーニョとポンテをつけたゆえ、助けにはなるであろう)
腹心の侍従まで傍から離すのは、この先の苦労が思いやられたが、仕方ない。レーニョは切れ者だ。少々のことなら切り抜けられる。そしてポンテは、アッズーロの育ての親と言っても過言ではない、古参女官だ。今年六十歳となる彼女なら、パルーデの嗜好の対象外だろうし、度胸も機転もある。アッズーロは信頼する側近二人に、ナーヴェを託したのだった。
馬車の窓からは、絶え間なく流れていく晴天の風景が見える。その眺めは、王都の街並みから仲春の田園風景へと変わっていた。王の宝は、窓に顔を寄せ、目をきらきらとさせて飽くことなく流れる風景を見つめている。
(確かに、こういうところは陛下が仰る通り、子どものようだ)
レーニョが思った時、馬車の向かいに座ったレ・ゾーネ・ウーミデ侯パルーデが、扇の陰で口を開いた。
「ナーヴェ様におかれましては、馬車の旅が、甚く気に入られた御様子。もしや、王都の外へ赴かれるは初めてでございますか?」
「初めて、ではないけれど、長い長い間、ずっとあそこから身動きできずにいたからね。この一週間、アッズーロのお陰で王城生活はさせて貰っているけれど、外には出ていないんだ。だから、『王都』というよりも、王城以外のところへ実際に行くのが本当に久し振り、だね」
王の宝は、青い瞳に笑みを浮かべてパルーデを見ると、すぐに視線を窓の外へ戻した。
「さようでございますか」
パルーデは上機嫌だ。
(まずいな……)
レーニョの目には、パルーデが扇の陰で舌なめずりしているように見える。
(絶対に、ナーヴェ様をお一人にしないようにしなければ)
アッズーロが再考しようとしたにも関わらず、王の宝はそれを拒否したという。
――「『ある程度のことは問題ない』そうだ」
アッズーロは腕組みし、再考の結果をそう告げた。
(あの時の陛下は、ひどく浮かない顔をしておられた……)
「――レーニョは、もしかして、ぼくがレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に行くことに反対だった?」
唐突に問われ、レーニョは驚いて王の宝を見た。
「いえ、そのようなことは決して」
冷静に答えたつもりだが、心臓の鼓動が速まっている。いつの間にこちらを向いていたのだろう。王の宝は、深い青色の双眸でじっとレーニョを見た後、優しく微笑んだ。
「なら、いいんだけれど。きみにとっては、ぼくなんてただのお荷物だろうし、アッズーロの傍を離れたくはなかっただろうと思ってね」
「陛下のお傍を離れたくないのは、その通りですが、あなた様をお守りすることも、同じくらい大切なことですから」
「――ありがとう」
礼を述べると、王の宝は小さく欠伸をした。目に涙を浮かべて、かなり眠そうだ。すかさずパルーデが言った。
「旅はまだ長うございます。お休みになられるのでしたら、どうぞこちらへ」
パルーデが座る向かいの座席は、その隣に誰も座っていないので、広く空いている。対して、こちら側には、ナーヴェとレーニョに加えて、ふくよかな体をした女官のポンテと、ピーシェとかいうパルーデの従僕まで座っているので、余裕はない。だが、王の宝は首を小さく横に振った。
「ううん。座ったまま寝られるから、大丈夫。レーニョ、ちょっと肩だけ貸してくれると嬉しい」
「御意のままに」
応じたレーニョの肩に、艶やかな青い髪に覆われた形のいい頭が、そっと凭れかかった。そのまま目を閉じて、王の宝は本当に寝てしまう。
(これでは、身動きもできない……)
固まったレーニョと、寝息を立てる王の宝を見て、パルーデが目を細めた。
「まあまあ、愛らしいこと」
その呟きは、レーニョにとって、ぞくりと寒気を感じるものだった。
「水路を、でございますか」
治水担当大臣バンカ伯コッコドリーロは、裏返った声を出した。道路担当大臣ストラーダ伯カッメーロも、難しい顔で顎に手を当て、言った。
「テッラ・ロッサも、そのようなことで納得致しますかな」
「納得させるのは、わたくしの仕事です」
冷ややかに指摘したのは、外務担当大臣フォレスタ・ブル大公女ヴァッレ。アッズーロの従姉だ。
「そもそもあの国は、わが国の一部から独立した、属国であったもの」
財務担当大臣オーロ伯モッルスコが、細長くした口髭を引っ張りながら首を捻る。
「そのような国に、情けは必要ですかな?」
「情け云々の話ではない」
アッズーロは一段高い壇上に設けられた王座から口を挟む。
「水路か戦争かという話だ」
ナーヴェの助言を得て、毎週月曜日の午前中に行う大臣会議で、カンナ河からテッラ・ロッサ王国へ水路を引く構想を授けたのだが、予想通り、殆どの大臣は難色を示した。
(やはり、こやつらは保守的過ぎるな……)
アッズーロは溜め息をつき、手を振った。
「よい。それぞれの大臣で、この案件に関する担当分野の資料と意見をまとめよ。来週、またこの件を審議する」
「はっ」
「御意のままに」
大臣達が頭を下げ、会議はお開きとなった。
真っ先に席を立ったアッズーロは、檀を下りて、頭を下げた大臣達の横を通り過ぎ、寝室へ戻る。
「またこちらでお食事でございますか?」
後から小走りでついて来た侍従のガットが、不思議そうに言った。確かに、以前のアッズーロであれば、食事は、謁見を兼ねて広間で取るか、一人で食べるにしても、見晴らしのいい露台で取るなどしていたものだ。それが、ナーヴェと食事をするようになってからは、いつも寝室で食事をするようになった。
「考え事をするには、ここがよい」
適当に答えて、アッズーロは卓に着く。用意された昼食は、乾酪を絡めた麺に椒をまぶしたもの。それに干し林檎が添えてあった。飲み物は羊乳だ。
(これはまだ、あやつには食べさせておらなんだな……)
肉叉で麺を巻き取って口へ運びながら、アッズーロは目の前にナーヴェを想像してしまう。
(あやつは、何でもかんでも美味しいと食しておったが……)
約束通り乾酪の蜂蜜掛けを食べさせた朝は、特に嬉しそうだった。白い頬を紅潮させて、幸せそうに乾酪を咀嚼していた。
(あれは本当は、母上が思いついた食べ方なのだが、あやつ、わが母と同じ好みらしい)
レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の食事はナーヴェの口に合うだろうか。否、そんなことよりも心配なのは――。
嫌な想像をしそうになって、アッズーロは頭を横に振った。
「どうかなさいましたか?」
控えていたガットが、心配そうに訊いてきた。レーニョの推挙で、代わりとして使っている十七歳の侍従だが、どうにもおどおどとして落ち着きがない。レーニョは十七歳の頃から落ち着いていたように思うが、ガットは違うらしい。しかも、まだアッズーロの行動に慣れないためか、一つ一つ言ってやらないと分からないことが多い。
「問題ない。それより、おまえも食事をして参れ。われは暫くここにいる」
「か、畏まりました」
慌てて一礼して、ガットは下がっていった。その姿を静かに見送ったフィオーレが、おもむろに口を開いた。
「――陛下、お疲れでございますか」
「いや、そういう訳ではないが」
アッズーロは目を上げて、栗色の髪を結った女官を見た。フィオーレはしっかり者だが慎ましい。特に用事もないのに話し掛けてくるのは珍しかった。
「近頃、お食事があまり進まれぬようにお見受けしましたので。失礼致しました」
フィオーレは、固い面持ちで弁明し、目を伏せた。
「確かに、そうだな……」
アッズーロは微苦笑して認める。
「あやつがおらんと、食事も張り合いがない」
「――レーニョ殿も案じておられました」
フィオーレは会話に応じる。
「レ・ゾーネ・ウーミデ侯は、その……少々心配な方だから、と」
「ゆえに、同行させたのだが。レーニョは頭が切れる」
「それが不安なのでございます」
フィオーレは目を上げ、胸元で心細げに白い手を組み合わせる。
「レーニョ殿は、切れ者ではございますが、レ・ゾーネ・ウーミデ侯のような方に対しては、あまり上手く立ち回れるとは思えず……」
(それも事実だが、結局のところ、一番の難敵はナーヴェ自身)
アッズーロは胸中で呟いた。自分は、ナーヴェに再考させることができなかった。パルーデも手強いが、誰よりナーヴェが手強い。アッズーロにできなかったことをレーニョができるとは思えなかった。
「われがレーニョに期待しておるのは、政治的な補佐だ。その点に関しては、あやつは充分立ち回れる。そしてパルーデに対しては、ポンテだ。ポンテならば、パルーデにも、ある程度、角を立てず物が言えるであろう」
「そうでございますね」
フィオーレは頷いて漸く微笑み、頭を下げる。
「わたくしなどが詮無いことを申し上げました。お許し下さい」
「よい。あやつを案じてくれているのは嬉しい」
「ナーヴェ様は、わたくしどもにも丁寧に接して下さる、とてもよい方ですから」
フィオーレは、目を細め、優しい表情を浮かべた。
小脳の調整が進んだので、思考回路の殆どを肉体から切り離すことができるようになった。その間、肉体は眠らせておくことになるが、馬車に乗っている間は問題ないだろう。
(最近、肉体の調整に掛かり切りだったから、少し予習しておかないとね)
オリッゾンテ・ブル王国上空の静止軌道に設置している人工衛星の光学測定器を使って、ナーヴェはレ・ゾーネ・ウーミデ侯領を見下ろす。一糎掛ける一糎の分解能を誇るので、地上を歩いている人々を見分けることも容易だ。
(葦も楡も充分生えている。紙漉きに必要な道具の材料も、ちゃんと揃いそうだ……)
紙を漉く簀を作るためには竹ひごと糸が要るが、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領に広がる湿地混じりの丘陵地帯には、竹林もあれば、糸の原料となる毛を纏った羊達も群れている。簀を嵌める桁や、紙の原料と水を入れる漉き舟、原料を掻き混ぜる馬鍬を作るためには、杉や檜が必要だが、それらの木も生えていることが確認できた。
(原料を煮る大釜は、パルーデが用意できると言っていたから大丈夫として、後は……)
ナーヴェは、光学測定器の観測幅の西端へ集中を移した。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領は、その西端の一部を隣国テッラ・ロッサと接している。
(国境の向こう側、以前より、施設が増えている……)
テッラ・ロッサの名の由来となった赤い沙漠には、土煉瓦で作られた建物が多く立ち並んでいた。
(本当に、戦争をするつもりなのか……)
テッラ・ロッサがオリッゾンテ・ブルから独立したのは、先々々代の王ザッフィロの治世の時だ。ザッフィロは、マーレやチェーロの父親である。
(多様性があったほうが、人が生き延びる可能性が広がると思って、ザッフィロに助言したけれど……)
いずれ、独立した国と対立することもあり得ると知りながら、ナーヴェは大局的見地で物を言った。だが今、実際にアッズーロが悩んでいるのを見ると、居た堪れない。
(こうなったのは全部ぼくの所為だから、何とかしないとね……)
施設をできる限り見て調べてから、ナーヴェは思考回路の接続を、肉体へと戻した。心地よい振動が、馬車から伝わってくる。整備された道路の上を走っているようだ。頭には、やや硬い肩が当たっている。
(そう言えば、レーニョに凭れたままだった)
ナーヴェは目を開いて、レーニョから離れた。
「ごめん。重かった?」
自分より高い位置にある顔を見上げて問うと、青年は目だけでこちらを見下ろして一言言った。
「いいえ」
それきり会話が途絶えそうになり、ナーヴェは苦笑した。自分は、どうやらこの青年に嫌われているらしい。理由はいろいろと思い当たる。一番は、やはり一時的にアッズーロから引き離す形になってしまったことだろう。
「ごめん。もうしないよ」
告げて、ナーヴェは傍らの窓の外へ視線を転じた。
外は晴天の下、依然、眩しい田園風景が続いている。
(空から見た時も、今日はこの辺り一面、雲一つない快晴だったな……)
肉体の目で見る地上の様子は、本当に美しい。
(アッズーロも、一緒に来られたら――)
不意に考えてしまい、ナーヴェは、こつんと窓枠に額をぶつけた。王にそんな自由は許されない。
(この眺めを、きみと共有したいだなんて、ぼくも随分と人らしくなれたものだ……)
宇宙を進んでいた旅路を合わせれば、もう三千年近く、人と付き合っている。
(でも、ぼくはどこまでいっても、人にはなれない。きみ達と過ごして、ただ見送るだけだ……)
そうして、時に、アッズーロのような型破りなことを求めてくる人に出会う。
(きみとの出会いは、本当に嬉しいよ……)
ナーヴェは、窓の外を見つめたまま、微笑んだ。
パルーデとの謁見から一週間後、約束通り、ナーヴェはレ・ゾーネ・ウーミデ侯領へと出立した。パルーデの馬車に同乗しての旅路だ。見送るアッズーロの胸に複雑な思いはあったが、ナーヴェ自身が不安を見せないので、止める理由もなかった。
(とりあえずレーニョとポンテをつけたゆえ、助けにはなるであろう)
腹心の侍従まで傍から離すのは、この先の苦労が思いやられたが、仕方ない。レーニョは切れ者だ。少々のことなら切り抜けられる。そしてポンテは、アッズーロの育ての親と言っても過言ではない、古参女官だ。今年六十歳となる彼女なら、パルーデの嗜好の対象外だろうし、度胸も機転もある。アッズーロは信頼する側近二人に、ナーヴェを託したのだった。
馬車の窓からは、絶え間なく流れていく晴天の風景が見える。その眺めは、王都の街並みから仲春の田園風景へと変わっていた。王の宝は、窓に顔を寄せ、目をきらきらとさせて飽くことなく流れる風景を見つめている。
(確かに、こういうところは陛下が仰る通り、子どものようだ)
レーニョが思った時、馬車の向かいに座ったレ・ゾーネ・ウーミデ侯パルーデが、扇の陰で口を開いた。
「ナーヴェ様におかれましては、馬車の旅が、甚く気に入られた御様子。もしや、王都の外へ赴かれるは初めてでございますか?」
「初めて、ではないけれど、長い長い間、ずっとあそこから身動きできずにいたからね。この一週間、アッズーロのお陰で王城生活はさせて貰っているけれど、外には出ていないんだ。だから、『王都』というよりも、王城以外のところへ実際に行くのが本当に久し振り、だね」
王の宝は、青い瞳に笑みを浮かべてパルーデを見ると、すぐに視線を窓の外へ戻した。
「さようでございますか」
パルーデは上機嫌だ。
(まずいな……)
レーニョの目には、パルーデが扇の陰で舌なめずりしているように見える。
(絶対に、ナーヴェ様をお一人にしないようにしなければ)
アッズーロが再考しようとしたにも関わらず、王の宝はそれを拒否したという。
――「『ある程度のことは問題ない』そうだ」
アッズーロは腕組みし、再考の結果をそう告げた。
(あの時の陛下は、ひどく浮かない顔をしておられた……)
「――レーニョは、もしかして、ぼくがレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に行くことに反対だった?」
唐突に問われ、レーニョは驚いて王の宝を見た。
「いえ、そのようなことは決して」
冷静に答えたつもりだが、心臓の鼓動が速まっている。いつの間にこちらを向いていたのだろう。王の宝は、深い青色の双眸でじっとレーニョを見た後、優しく微笑んだ。
「なら、いいんだけれど。きみにとっては、ぼくなんてただのお荷物だろうし、アッズーロの傍を離れたくはなかっただろうと思ってね」
「陛下のお傍を離れたくないのは、その通りですが、あなた様をお守りすることも、同じくらい大切なことですから」
「――ありがとう」
礼を述べると、王の宝は小さく欠伸をした。目に涙を浮かべて、かなり眠そうだ。すかさずパルーデが言った。
「旅はまだ長うございます。お休みになられるのでしたら、どうぞこちらへ」
パルーデが座る向かいの座席は、その隣に誰も座っていないので、広く空いている。対して、こちら側には、ナーヴェとレーニョに加えて、ふくよかな体をした女官のポンテと、ピーシェとかいうパルーデの従僕まで座っているので、余裕はない。だが、王の宝は首を小さく横に振った。
「ううん。座ったまま寝られるから、大丈夫。レーニョ、ちょっと肩だけ貸してくれると嬉しい」
「御意のままに」
応じたレーニョの肩に、艶やかな青い髪に覆われた形のいい頭が、そっと凭れかかった。そのまま目を閉じて、王の宝は本当に寝てしまう。
(これでは、身動きもできない……)
固まったレーニョと、寝息を立てる王の宝を見て、パルーデが目を細めた。
「まあまあ、愛らしいこと」
その呟きは、レーニョにとって、ぞくりと寒気を感じるものだった。
「水路を、でございますか」
治水担当大臣バンカ伯コッコドリーロは、裏返った声を出した。道路担当大臣ストラーダ伯カッメーロも、難しい顔で顎に手を当て、言った。
「テッラ・ロッサも、そのようなことで納得致しますかな」
「納得させるのは、わたくしの仕事です」
冷ややかに指摘したのは、外務担当大臣フォレスタ・ブル大公女ヴァッレ。アッズーロの従姉だ。
「そもそもあの国は、わが国の一部から独立した、属国であったもの」
財務担当大臣オーロ伯モッルスコが、細長くした口髭を引っ張りながら首を捻る。
「そのような国に、情けは必要ですかな?」
「情け云々の話ではない」
アッズーロは一段高い壇上に設けられた王座から口を挟む。
「水路か戦争かという話だ」
ナーヴェの助言を得て、毎週月曜日の午前中に行う大臣会議で、カンナ河からテッラ・ロッサ王国へ水路を引く構想を授けたのだが、予想通り、殆どの大臣は難色を示した。
(やはり、こやつらは保守的過ぎるな……)
アッズーロは溜め息をつき、手を振った。
「よい。それぞれの大臣で、この案件に関する担当分野の資料と意見をまとめよ。来週、またこの件を審議する」
「はっ」
「御意のままに」
大臣達が頭を下げ、会議はお開きとなった。
真っ先に席を立ったアッズーロは、檀を下りて、頭を下げた大臣達の横を通り過ぎ、寝室へ戻る。
「またこちらでお食事でございますか?」
後から小走りでついて来た侍従のガットが、不思議そうに言った。確かに、以前のアッズーロであれば、食事は、謁見を兼ねて広間で取るか、一人で食べるにしても、見晴らしのいい露台で取るなどしていたものだ。それが、ナーヴェと食事をするようになってからは、いつも寝室で食事をするようになった。
「考え事をするには、ここがよい」
適当に答えて、アッズーロは卓に着く。用意された昼食は、乾酪を絡めた麺に椒をまぶしたもの。それに干し林檎が添えてあった。飲み物は羊乳だ。
(これはまだ、あやつには食べさせておらなんだな……)
肉叉で麺を巻き取って口へ運びながら、アッズーロは目の前にナーヴェを想像してしまう。
(あやつは、何でもかんでも美味しいと食しておったが……)
約束通り乾酪の蜂蜜掛けを食べさせた朝は、特に嬉しそうだった。白い頬を紅潮させて、幸せそうに乾酪を咀嚼していた。
(あれは本当は、母上が思いついた食べ方なのだが、あやつ、わが母と同じ好みらしい)
レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の食事はナーヴェの口に合うだろうか。否、そんなことよりも心配なのは――。
嫌な想像をしそうになって、アッズーロは頭を横に振った。
「どうかなさいましたか?」
控えていたガットが、心配そうに訊いてきた。レーニョの推挙で、代わりとして使っている十七歳の侍従だが、どうにもおどおどとして落ち着きがない。レーニョは十七歳の頃から落ち着いていたように思うが、ガットは違うらしい。しかも、まだアッズーロの行動に慣れないためか、一つ一つ言ってやらないと分からないことが多い。
「問題ない。それより、おまえも食事をして参れ。われは暫くここにいる」
「か、畏まりました」
慌てて一礼して、ガットは下がっていった。その姿を静かに見送ったフィオーレが、おもむろに口を開いた。
「――陛下、お疲れでございますか」
「いや、そういう訳ではないが」
アッズーロは目を上げて、栗色の髪を結った女官を見た。フィオーレはしっかり者だが慎ましい。特に用事もないのに話し掛けてくるのは珍しかった。
「近頃、お食事があまり進まれぬようにお見受けしましたので。失礼致しました」
フィオーレは、固い面持ちで弁明し、目を伏せた。
「確かに、そうだな……」
アッズーロは微苦笑して認める。
「あやつがおらんと、食事も張り合いがない」
「――レーニョ殿も案じておられました」
フィオーレは会話に応じる。
「レ・ゾーネ・ウーミデ侯は、その……少々心配な方だから、と」
「ゆえに、同行させたのだが。レーニョは頭が切れる」
「それが不安なのでございます」
フィオーレは目を上げ、胸元で心細げに白い手を組み合わせる。
「レーニョ殿は、切れ者ではございますが、レ・ゾーネ・ウーミデ侯のような方に対しては、あまり上手く立ち回れるとは思えず……」
(それも事実だが、結局のところ、一番の難敵はナーヴェ自身)
アッズーロは胸中で呟いた。自分は、ナーヴェに再考させることができなかった。パルーデも手強いが、誰よりナーヴェが手強い。アッズーロにできなかったことをレーニョができるとは思えなかった。
「われがレーニョに期待しておるのは、政治的な補佐だ。その点に関しては、あやつは充分立ち回れる。そしてパルーデに対しては、ポンテだ。ポンテならば、パルーデにも、ある程度、角を立てず物が言えるであろう」
「そうでございますね」
フィオーレは頷いて漸く微笑み、頭を下げる。
「わたくしなどが詮無いことを申し上げました。お許し下さい」
「よい。あやつを案じてくれているのは嬉しい」
「ナーヴェ様は、わたくしどもにも丁寧に接して下さる、とてもよい方ですから」
フィオーレは、目を細め、優しい表情を浮かべた。
小脳の調整が進んだので、思考回路の殆どを肉体から切り離すことができるようになった。その間、肉体は眠らせておくことになるが、馬車に乗っている間は問題ないだろう。
(最近、肉体の調整に掛かり切りだったから、少し予習しておかないとね)
オリッゾンテ・ブル王国上空の静止軌道に設置している人工衛星の光学測定器を使って、ナーヴェはレ・ゾーネ・ウーミデ侯領を見下ろす。一糎掛ける一糎の分解能を誇るので、地上を歩いている人々を見分けることも容易だ。
(葦も楡も充分生えている。紙漉きに必要な道具の材料も、ちゃんと揃いそうだ……)
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ナーヴェは、光学測定器の観測幅の西端へ集中を移した。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領は、その西端の一部を隣国テッラ・ロッサと接している。
(国境の向こう側、以前より、施設が増えている……)
テッラ・ロッサの名の由来となった赤い沙漠には、土煉瓦で作られた建物が多く立ち並んでいた。
(本当に、戦争をするつもりなのか……)
テッラ・ロッサがオリッゾンテ・ブルから独立したのは、先々々代の王ザッフィロの治世の時だ。ザッフィロは、マーレやチェーロの父親である。
(多様性があったほうが、人が生き延びる可能性が広がると思って、ザッフィロに助言したけれど……)
いずれ、独立した国と対立することもあり得ると知りながら、ナーヴェは大局的見地で物を言った。だが今、実際にアッズーロが悩んでいるのを見ると、居た堪れない。
(こうなったのは全部ぼくの所為だから、何とかしないとね……)
施設をできる限り見て調べてから、ナーヴェは思考回路の接続を、肉体へと戻した。心地よい振動が、馬車から伝わってくる。整備された道路の上を走っているようだ。頭には、やや硬い肩が当たっている。
(そう言えば、レーニョに凭れたままだった)
ナーヴェは目を開いて、レーニョから離れた。
「ごめん。重かった?」
自分より高い位置にある顔を見上げて問うと、青年は目だけでこちらを見下ろして一言言った。
「いいえ」
それきり会話が途絶えそうになり、ナーヴェは苦笑した。自分は、どうやらこの青年に嫌われているらしい。理由はいろいろと思い当たる。一番は、やはり一時的にアッズーロから引き離す形になってしまったことだろう。
「ごめん。もうしないよ」
告げて、ナーヴェは傍らの窓の外へ視線を転じた。
外は晴天の下、依然、眩しい田園風景が続いている。
(空から見た時も、今日はこの辺り一面、雲一つない快晴だったな……)
肉体の目で見る地上の様子は、本当に美しい。
(アッズーロも、一緒に来られたら――)
不意に考えてしまい、ナーヴェは、こつんと窓枠に額をぶつけた。王にそんな自由は許されない。
(この眺めを、きみと共有したいだなんて、ぼくも随分と人らしくなれたものだ……)
宇宙を進んでいた旅路を合わせれば、もう三千年近く、人と付き合っている。
(でも、ぼくはどこまでいっても、人にはなれない。きみ達と過ごして、ただ見送るだけだ……)
そうして、時に、アッズーロのような型破りなことを求めてくる人に出会う。
(きみとの出会いは、本当に嬉しいよ……)
ナーヴェは、窓の外を見つめたまま、微笑んだ。
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彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
【ご報告】
2月15日付で、誤字脱字の修正および一部表現の見直しを行いました。
ただし、記載内容の趣旨に大きな変更はございません。
引き続きよろしくお願いいたします。
地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
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