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第三章 母の面影 四
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四
朝、ピーシェが鍵を開ける音を待って、アッズーロは与えられた部屋を出、ナーヴェの部屋へ入った。
寝台で、ナーヴェは掛布を被り、静かに眠っていた。枕の周りに青い髪が綺麗に広がっている。
「昨夜は、いつもと少し違ったのかもしれません」
寝台の傍らに佇んだピーシェが、ぽつりと言う。
「ナーヴェ様の衣が、床に落ちていません」
ピーシェがそっと掛布をめくると、ナーヴェの体は予想通り長衣を纏っていた。
「こんなことは、初めてです」
ピーシェは静かに告げ、掛布をナーヴェに掛け直して寝台を離れ、窓を開けた。朝の光が束となって部屋の中に差し込み、ナーヴェの青い睫毛が揺れる。うっすらと目が開き、青い双眸が、近寄ったアッズーロを捉えた。
「おはよう」
優しい微笑みと挨拶に、アッズーロは手を伸ばして、宝の白い頬に触れた。
「体は、大丈夫か?」
「うん。パルーデは、いつも以上に優しかったよ。気遣ってくれたんだろうね」
「当たり前だ」
アッズーロは鼻を鳴らし、手を下ろして寝台に腰掛ける。
「あやつがそなたを壊せば、われは即刻この領を攻める」
「そんなこと、言ったら駄目だよ」
言いながら、ナーヴェが上体を起こした。形のいい青い眉をひそめ、アッズーロを軽く睨む。
「パルーデは、きみに必要な人なんだから」
「分かっておる」
アッズーロは溜め息混じりに言った。分かっているから、手が出せず、もどかしいのだ。
「――そうだね。ごめん。きみはよく分かっているのに、ぼくは時々、言わなくていいことを言ってしまうね」
ナーヴェは謝りながら、寝台の上で座り直すと、そっとアッズーロを背中から抱き締めてきた。温かい抱擁に、驚きで身が竦む。人から抱き締められたのは、本当に久し振りだった。幼い頃、母やポンテに抱き締められて以来だ。
「――子ども扱いするな」
文句を言いながら、自分の肩から胸に回った白い腕に、アッズーロはそっと手を重ねた。
「――きみ達はね」
耳元で、ナーヴェが呟く。
「みんなぼくの子どものようなものだよ……」
「――御歓談中申し訳ありませんが、ナーヴェ様は、お召し替えをお願い致します」
ピーシェが、迷惑そうに口を挟んできた。
朝食後、ナーヴェはまず、侯城の庭に大きめの石を並べさせ、その上に大きな鉄釜を置かせた。釜にたっぷり水を入れさせ、石の間には薪をくべさせ、同時に、丘の麓を流れる川岸から冬枯れの葦を取ってこさせる。
「葦の茎をできるだけ細かく切って、砕いて、釜に入れて」
ナーヴェは、アッズーロが見守る先で、木工職人と竹細工職人の中から若者を集め、指示を出す。
「葦の茎がたっぷり釜に入ったら、灰も入れて。薪に火を点けて、葦の茎が充分柔らかくなるまで煮るんだ」
若い職人達は、葦を刈る者、葦を運ぶ者、葦の茎を砕いて釜に入れる者に分かれて、せっせと働き始めた。壮年から年配の職人達は、昨日に引き続き、紙漉きに必要な道具を作っていく。ナーヴェは、暫くそうした職人達の間を回って、細かい指示を出した後、釜のところで自分も作業に加わった。
「そなたには、人を仕切る力もあるようだな」
アッズーロは、ナーヴェを手伝って、自らも葦の茎を鎌で切りながら言った。
「それは、きみのお陰だよ」
ナーヴェは微笑んで答える。
「きみが、ぼくを王の宝として、国民に知らしめた。ぼくが王の宝だから、みんなぼくに従うんだよ」
「それはそうだが……」
アッズーロは、周囲の職人達を見回す。皆、楽しげに生き生きと作業している。ナーヴェに話し掛ける時も、皆、明るく熱心だ。それは、権威などではなく、ナーヴェの人柄が為せる業に他ならない。
「ぼくは王の宝だ」
ナーヴェは笑顔で告げる。
「ぼくができることは、即ち、きみができることなんだよ。ぼくは、きみの従僕なんだから」
「従僕なぞではない。そなたは――」
アッズーロが言い止したところへ、また職人がナーヴェへ質問に来て、会話は途切れた。
(そなたは、われの唯一無二の宝だ)
アッズーロは、胸中で呟いた。
釜一杯になった葦を煮始めたところで、ナーヴェは職人達に昼食を取るよう指示した。
アッズーロもナーヴェとともに部屋に戻り、卓に着いた。
「午後は、釜から葦を揚げて、塵取りをして、打ち棒で叩く作業ができるよ」
卓の向かいで、ナーヴェは嬉しそうに言った。天気にも恵まれ、作業は全て順調だ。
「それにしても、これ、美味しいね」
ナーヴェが舌鼓を打ったのは、羊乳を煮詰めた蘇に、干し杏と乾酪を細かく切って混ぜたものだ。昨日に続き、アッズーロが朝の内に厨房の料理人に作り方を教えた料理である。
「きみが料理に熱心なのは、グランディナーレの影響なのかな……?」
さらりと問われて、アッズーロはまじまじとナーヴェを見つめた。卓の向かいから、ナーヴェも静かにアッズーロを見つめ返してくる。ナーヴェは、父チェーロの傍にいた。それなら、当然、母グランディナーレのことについても知っているのだろう。
「そうだな」
アッズーロは蘇を口に運びながら、認めた。母は、父の前では人形のようだったが、アッズーロの前では、生き生きとした姿を見せた。料理は、その母の趣味の一つで、いろいろな料理を発明しては、アッズーロにも食べさせた。中には、顔をしかめるものもあったが、殆どは美味しいものだった。
「なら、もしかして」
ナーヴェは、アッズーロを見つめたまま問いを重ねる。
「乾酪に蜂蜜を掛けることを発明したのは、きみではなく、グランディナーレ?」
「――そうだな。まあ、一番相性のよい乾酪と蜂蜜の組み合わせを研究したのは、寧ろ、われだが」
アッズーロは多少の言い訳を混ぜて答えた。
「やっぱり、そうなんだね……」
ナーヴェは微笑み、匙を動かして蘇を平らげていく。その姿が、母に重なる。初めて会った時は、そこまで思わなかったというのに、ナーヴェは、日に日に母グランディナーレに似てくる気がする。
(まさか、意図的に似せておる訳ではあるまいな……?)
疑念が湧いたが、馬鹿馬鹿しくて尋ねる気にはならない。アッズーロは、別のことを口にした。
「しかし、そなた、随分と薄汚れたな」
白い男物の長衣は、葦の汁や屑であちこち汚れ、小さな鉤裂きもできている。長く青い髪にまで、屑が付いている。
「きみも、似たようなものだけれど?」
ナーヴェは可笑しそうに言った。確かに、同じ作業をしたアッズーロの長衣も、薄汚れている。髪も汚れているかもしれない。控えていたピーシェが口を開いた。
「早めに作業を切り上げて、日が高く暖かい内に、水浴びをなさっては如何ですか? 沐浴場がない代わり、この辺りの人々は、よく水浴びを致します。もう仲春ですし、ここは王都より南で水も温かいです」
「それはいいね。髪は暫く洗っていないから、そろそろ洗いたかったし」
蘇を食べ終え、林檎果汁を飲み終えたナーヴェは、乗り気な様子で立ち上がった。
充分に煮た葦の茎を庭の石畳の上に出させたナーヴェは、若い職人達を集め、午後の作業を説明した。
「まずは、この煮た茎から、塵、つまり外皮やごみを取り除く塵取りをするんだ。その後、棒で叩いて、繊維が分かれ易くする打ち解きを行なう。まずは、塵取り頑張ろう」
率先して座り込み、作業を始めたナーヴェに倣って、若者達も塵取りに取り掛かった。アッズーロも参加したが、それはなかなか骨の折れる作業だった。何より根気がいる。
「妥協したら駄目だよ。白くて汚れの少ない紙を作るには、この塵取りが大切なんだ」
ナーヴェは笑顔で職人達を励ます。アッズーロも励まされながら、段々と作業に没頭していった。
気がつくと、釜一杯の葦の茎は全て、微かに茶色がかった白さの、毛羽立った塊になっていた。
「今度は、これを棒で叩くんだ」
ナーヴェの指示の下、若者達は、広間の道具作りの過程でできた手頃な角材を取ってきて、白く毛羽立った塊を叩き始めた。ナーヴェも同じように作業に加わろうとするので、アッズーロは細い手から角材を奪った。
「そなたは座って見ていよ。一度倒れたのだろう? また倒れられては適わん」
周りの若者達も揃って頷き、ナーヴェは苦笑して石畳の端に腰を下ろした。
「分かったよ。でも、きみも無理しないでね。どうせあんまり寝ていないんだろう?」
肩を竦めて言い当てられ、アッズーロは鼻を鳴らした。
「一日二日の睡眠不足で倒れておったら、王なぞ務まらんわ」
「さすが陛下だ」
「では、体力勝負といきやしょう」
周りの若者達から、陽気な声が幾つも上がる。
「わたしも、負けちゃいませんよ!」
最後にフルミネが元気に言って、賑やかに打ち解きが始まった。
打てば打つほど、叩けば叩くほど、微かに茶色がかった白い塊は、柔らかくなっていく。同時に息も切れてくる。
「おい、ナーヴェ、まだ叩くのか?」
振り向いたアッズーロは、うつらうつらと、座ったまま舟を漕ぐナーヴェを見た。その傍らで、ジャッロが唇の前に人差し指を立てて、眉を吊り上げている。しまった、と思ったが、ナーヴェは、ゆっくりと身動きして、顔を上げた。
「ごめん。うたた寝していた。ええと、何?」
「すまん。これは、まだ叩くのか?」
仕方なくアッズーロが問うと、ナーヴェは立ち上がって傍まで来た。若者達も手を止めて下がる中、ナーヴェは白い手で毛羽立った塊を触り、状態を確かめた。
「いい感じだよ。ありがとう。今日は、ここまでにしておこう。この塊を広間に運んだら、作業終了だ」
職人達はナーヴェの指示通り動き、広間に集まって全員で明日の作業を確認した後、解散した。
「アッズーロも、お疲れ様」
職人達を見送ったナーヴェは、笑顔でアッズーロを振り向く。
「さあ、水浴びに行こうか」
昼からずっと楽しみにしていたような口振りだ。
「そうだな」
お互い、随分と小汚い格好になっているのが妙に可笑しい。
「行くとするか。王が水浴びをした場所として、ゆくゆくは名所の一つになるやもしれんしな」
「観光名所になれば、この領の利益になるね」
ナーヴェは、アッズーロの軽口に真面目な考察を加えながら、先に立って歩き始めた。
丘を下り、川へ行くと、先にフルミネとジャッロ、それに他の何人かの職人達が浅瀬で水浴びをしていた。フルミネの父トゥオーロの姿もある。男達は下穿きだけで水に入り、泳いでいる者さえいる。フルミネも下着だけになって、素っ裸になったジャッロと浅瀬に入り、その頭を洗ってやっていた。
「みんな、楽しそうだね」
ナーヴェは職人達より少し下流の岸辺へ行き、膝を着いて屈むと、長く青い髪を水に浸けた。内心、裸になられるのではと案じていたアッズーロは、ほっとしてその傍らに腰を下ろす。ナーヴェの長く青い髪は、水の流れの中で、まるで水草のようだ。
「そなたの青い髪には、やはり海藻や貝や動物の肝臓が必要なのか?」
ふと問うたアッズーロに、ナーヴェは頭を水に浸けたまま、こちらを向いて微笑んだ。
「うん。この髪の青い色素は、きみがぼくの肉体の材料として用意してくれた露草の遺伝子を取り込んで作っているんだけれど、青色を鮮やかに発現させるためには、ほんの少し金属が必要なんだよ。海藻や貝や動物の肝臓には、他の食べ物よりも多くの金属が含まれていてね。だから、毎日ではないけれど、ぼくは海藻や貝や動物の肝臓を食べないといけないんだ。昨日は、それで食事に海藻を入れてくれたんだね。ありがとう」
「礼を言う必要はない。そなたに無理矢理肉体を作らせたは、われだからな」
肉体の材料として、青い花に加えて告げられた海藻と貝と動物の肝臓の意味を正確に知れて、アッズーロは満足だった。
ナーヴェは、頭の角度を少しずつ変えて水に浸け、頭皮を指で洗っていく。水音は静かで、川上からはジャッロや職人達の笑いさざめく声が聞こえてくる。平和だ。
「きみも、せっかくだから手足や頭くらい洗ったら?」
水から頭を上げたナーヴェに提案され、アッズーロが靴を脱ぎ始めた時だった。川上で、悲鳴が上がった。
「ジャッロ!」
フルミネが叫んで、川の中ほどへ水を蹴立てて走っていく。その先で、小さな頭が水に沈んだ。
「きみは岸でぼく達を引き上げて!」
ナーヴェが早口で叫んで川へ跳び込んだ。
「おい!」
アッズーロは止めようとしたが、ナーヴェは巧みに泳いで、再び浮かんだジャッロの頭へ近づいていく。こちらが川下だったので、流れてくるジャッロを迎えにいく形だ。水の色や、ナーヴェの動きから察するに、川は、途中から急に深くなっているようだ。それでジャッロも、分からず深みに嵌まったのだろう。
ナーヴェが、ジャッロを捕まえた。そのまま、今度は岸へと泳ぎ戻ってくる。流されながら、泳いでくる。アッズーロは、その動きを見ながら、岸を走った。走りながら、川の様相を見て、ナーヴェの言葉の意味を悟った。ここまで真っ直ぐ流れていた川が、すぐ先から曲がり始め、同時に、抉られて切り立った川岸になっているのだ。水深もかなりある。
(確かに、あれでは川岸から誰かが引き上げんと、なかなか川から上がれん……!)
ナーヴェが、片腕でジャッロの上半身を支え、横泳ぎをしながら、その川岸に近づいてくる。二人が丁度川岸へ着く、その場所へ、アッズーロは駆け寄った。手を伸ばして、ナーヴェが懸命に押し上げるジャッロの腕を掴む。もう一方の手も伸ばしてジャッロの脇の下へ入れ、勢いよく岸の上まで引っ張り上げて、アッズーロはすぐにナーヴェへ視線を転じた。しかし、アッズーロの目に映ったのは、速い流れに呑まれる青い髪だった。
「ナーヴェ!」
叫んだアッズーロの眼前に、ナーヴェが――実体ではない姿が立ちはだかった。
【駄目だ! ここから先は流れが速い!】
だが、アッズーロはナーヴェの言葉を無視して、川へ跳び込んだ。
(そう簡単に、諦められるか!)
急に入った所為もあるだろう、水は、心臓を鷲掴みにするように冷たい。
【馬鹿! きみは王だぞ!】
ナーヴェの声が頭の中で響く。
(怒鳴る暇があるなら、そなたの肉体を少しでも泳がせよ!)
頭の中で怒鳴り返して、アッズーロは青い髪目指し、川の流れも利用しながら、懸命に冷たい水を掻いた。
ナーヴェも、アッズーロを戻らせるには、自分が泳ぐのが最良と悟ったらしい。弱々しい動きながら、腕で水を掻いて、川の流れに抵抗し始めた。
二人の距離が少しずつ近づいていく。腕を伸ばし、水を掻き、流れを蹴って、アッズーロはナーヴェの手首を掴んだ。そのまま、今度は岸を目指して泳ぐ。ナーヴェは重く、流れは速い。けれど、岸には走る人影が幾つか見える。アッズーロは最後の力を振り絞って、岸へ泳ぎ着いた。複数の手が伸ばされ、アッズーロを、そしてアッズーロが手首を掴んでいるナーヴェを引き上げる。岸辺に転がってすぐにアッズーロは起き上がり、傍らに横たわったナーヴェを見た。目を閉じ、蒼白な肌色になっている。
「息をしていない……」
トゥオーロが告げた。
「馬鹿者!」
アッズーロは吐き捨て、ナーヴェの背を叩いた。あの硝子のような樽でナーヴェの肉体を目覚めさせた時と同じだ。
「さっさと目を開けよ!」
何度目か叩いた時、ナーヴェが咳込んだ。ごぼりと水を吐き、激しく咳込み続ける。咳込みながら、細く目を開け、アッズーロを見た。
「……馬鹿……、無茶、して……」
咳の合間に文句を言われて、アッズーロは憮然とした。
「その言葉、そっくりそのまま返すわ! それから、王相手に何度も馬鹿と言うな」
ナーヴェは、咳込みながら、微笑んだ。
朝、ピーシェが鍵を開ける音を待って、アッズーロは与えられた部屋を出、ナーヴェの部屋へ入った。
寝台で、ナーヴェは掛布を被り、静かに眠っていた。枕の周りに青い髪が綺麗に広がっている。
「昨夜は、いつもと少し違ったのかもしれません」
寝台の傍らに佇んだピーシェが、ぽつりと言う。
「ナーヴェ様の衣が、床に落ちていません」
ピーシェがそっと掛布をめくると、ナーヴェの体は予想通り長衣を纏っていた。
「こんなことは、初めてです」
ピーシェは静かに告げ、掛布をナーヴェに掛け直して寝台を離れ、窓を開けた。朝の光が束となって部屋の中に差し込み、ナーヴェの青い睫毛が揺れる。うっすらと目が開き、青い双眸が、近寄ったアッズーロを捉えた。
「おはよう」
優しい微笑みと挨拶に、アッズーロは手を伸ばして、宝の白い頬に触れた。
「体は、大丈夫か?」
「うん。パルーデは、いつも以上に優しかったよ。気遣ってくれたんだろうね」
「当たり前だ」
アッズーロは鼻を鳴らし、手を下ろして寝台に腰掛ける。
「あやつがそなたを壊せば、われは即刻この領を攻める」
「そんなこと、言ったら駄目だよ」
言いながら、ナーヴェが上体を起こした。形のいい青い眉をひそめ、アッズーロを軽く睨む。
「パルーデは、きみに必要な人なんだから」
「分かっておる」
アッズーロは溜め息混じりに言った。分かっているから、手が出せず、もどかしいのだ。
「――そうだね。ごめん。きみはよく分かっているのに、ぼくは時々、言わなくていいことを言ってしまうね」
ナーヴェは謝りながら、寝台の上で座り直すと、そっとアッズーロを背中から抱き締めてきた。温かい抱擁に、驚きで身が竦む。人から抱き締められたのは、本当に久し振りだった。幼い頃、母やポンテに抱き締められて以来だ。
「――子ども扱いするな」
文句を言いながら、自分の肩から胸に回った白い腕に、アッズーロはそっと手を重ねた。
「――きみ達はね」
耳元で、ナーヴェが呟く。
「みんなぼくの子どものようなものだよ……」
「――御歓談中申し訳ありませんが、ナーヴェ様は、お召し替えをお願い致します」
ピーシェが、迷惑そうに口を挟んできた。
朝食後、ナーヴェはまず、侯城の庭に大きめの石を並べさせ、その上に大きな鉄釜を置かせた。釜にたっぷり水を入れさせ、石の間には薪をくべさせ、同時に、丘の麓を流れる川岸から冬枯れの葦を取ってこさせる。
「葦の茎をできるだけ細かく切って、砕いて、釜に入れて」
ナーヴェは、アッズーロが見守る先で、木工職人と竹細工職人の中から若者を集め、指示を出す。
「葦の茎がたっぷり釜に入ったら、灰も入れて。薪に火を点けて、葦の茎が充分柔らかくなるまで煮るんだ」
若い職人達は、葦を刈る者、葦を運ぶ者、葦の茎を砕いて釜に入れる者に分かれて、せっせと働き始めた。壮年から年配の職人達は、昨日に引き続き、紙漉きに必要な道具を作っていく。ナーヴェは、暫くそうした職人達の間を回って、細かい指示を出した後、釜のところで自分も作業に加わった。
「そなたには、人を仕切る力もあるようだな」
アッズーロは、ナーヴェを手伝って、自らも葦の茎を鎌で切りながら言った。
「それは、きみのお陰だよ」
ナーヴェは微笑んで答える。
「きみが、ぼくを王の宝として、国民に知らしめた。ぼくが王の宝だから、みんなぼくに従うんだよ」
「それはそうだが……」
アッズーロは、周囲の職人達を見回す。皆、楽しげに生き生きと作業している。ナーヴェに話し掛ける時も、皆、明るく熱心だ。それは、権威などではなく、ナーヴェの人柄が為せる業に他ならない。
「ぼくは王の宝だ」
ナーヴェは笑顔で告げる。
「ぼくができることは、即ち、きみができることなんだよ。ぼくは、きみの従僕なんだから」
「従僕なぞではない。そなたは――」
アッズーロが言い止したところへ、また職人がナーヴェへ質問に来て、会話は途切れた。
(そなたは、われの唯一無二の宝だ)
アッズーロは、胸中で呟いた。
釜一杯になった葦を煮始めたところで、ナーヴェは職人達に昼食を取るよう指示した。
アッズーロもナーヴェとともに部屋に戻り、卓に着いた。
「午後は、釜から葦を揚げて、塵取りをして、打ち棒で叩く作業ができるよ」
卓の向かいで、ナーヴェは嬉しそうに言った。天気にも恵まれ、作業は全て順調だ。
「それにしても、これ、美味しいね」
ナーヴェが舌鼓を打ったのは、羊乳を煮詰めた蘇に、干し杏と乾酪を細かく切って混ぜたものだ。昨日に続き、アッズーロが朝の内に厨房の料理人に作り方を教えた料理である。
「きみが料理に熱心なのは、グランディナーレの影響なのかな……?」
さらりと問われて、アッズーロはまじまじとナーヴェを見つめた。卓の向かいから、ナーヴェも静かにアッズーロを見つめ返してくる。ナーヴェは、父チェーロの傍にいた。それなら、当然、母グランディナーレのことについても知っているのだろう。
「そうだな」
アッズーロは蘇を口に運びながら、認めた。母は、父の前では人形のようだったが、アッズーロの前では、生き生きとした姿を見せた。料理は、その母の趣味の一つで、いろいろな料理を発明しては、アッズーロにも食べさせた。中には、顔をしかめるものもあったが、殆どは美味しいものだった。
「なら、もしかして」
ナーヴェは、アッズーロを見つめたまま問いを重ねる。
「乾酪に蜂蜜を掛けることを発明したのは、きみではなく、グランディナーレ?」
「――そうだな。まあ、一番相性のよい乾酪と蜂蜜の組み合わせを研究したのは、寧ろ、われだが」
アッズーロは多少の言い訳を混ぜて答えた。
「やっぱり、そうなんだね……」
ナーヴェは微笑み、匙を動かして蘇を平らげていく。その姿が、母に重なる。初めて会った時は、そこまで思わなかったというのに、ナーヴェは、日に日に母グランディナーレに似てくる気がする。
(まさか、意図的に似せておる訳ではあるまいな……?)
疑念が湧いたが、馬鹿馬鹿しくて尋ねる気にはならない。アッズーロは、別のことを口にした。
「しかし、そなた、随分と薄汚れたな」
白い男物の長衣は、葦の汁や屑であちこち汚れ、小さな鉤裂きもできている。長く青い髪にまで、屑が付いている。
「きみも、似たようなものだけれど?」
ナーヴェは可笑しそうに言った。確かに、同じ作業をしたアッズーロの長衣も、薄汚れている。髪も汚れているかもしれない。控えていたピーシェが口を開いた。
「早めに作業を切り上げて、日が高く暖かい内に、水浴びをなさっては如何ですか? 沐浴場がない代わり、この辺りの人々は、よく水浴びを致します。もう仲春ですし、ここは王都より南で水も温かいです」
「それはいいね。髪は暫く洗っていないから、そろそろ洗いたかったし」
蘇を食べ終え、林檎果汁を飲み終えたナーヴェは、乗り気な様子で立ち上がった。
充分に煮た葦の茎を庭の石畳の上に出させたナーヴェは、若い職人達を集め、午後の作業を説明した。
「まずは、この煮た茎から、塵、つまり外皮やごみを取り除く塵取りをするんだ。その後、棒で叩いて、繊維が分かれ易くする打ち解きを行なう。まずは、塵取り頑張ろう」
率先して座り込み、作業を始めたナーヴェに倣って、若者達も塵取りに取り掛かった。アッズーロも参加したが、それはなかなか骨の折れる作業だった。何より根気がいる。
「妥協したら駄目だよ。白くて汚れの少ない紙を作るには、この塵取りが大切なんだ」
ナーヴェは笑顔で職人達を励ます。アッズーロも励まされながら、段々と作業に没頭していった。
気がつくと、釜一杯の葦の茎は全て、微かに茶色がかった白さの、毛羽立った塊になっていた。
「今度は、これを棒で叩くんだ」
ナーヴェの指示の下、若者達は、広間の道具作りの過程でできた手頃な角材を取ってきて、白く毛羽立った塊を叩き始めた。ナーヴェも同じように作業に加わろうとするので、アッズーロは細い手から角材を奪った。
「そなたは座って見ていよ。一度倒れたのだろう? また倒れられては適わん」
周りの若者達も揃って頷き、ナーヴェは苦笑して石畳の端に腰を下ろした。
「分かったよ。でも、きみも無理しないでね。どうせあんまり寝ていないんだろう?」
肩を竦めて言い当てられ、アッズーロは鼻を鳴らした。
「一日二日の睡眠不足で倒れておったら、王なぞ務まらんわ」
「さすが陛下だ」
「では、体力勝負といきやしょう」
周りの若者達から、陽気な声が幾つも上がる。
「わたしも、負けちゃいませんよ!」
最後にフルミネが元気に言って、賑やかに打ち解きが始まった。
打てば打つほど、叩けば叩くほど、微かに茶色がかった白い塊は、柔らかくなっていく。同時に息も切れてくる。
「おい、ナーヴェ、まだ叩くのか?」
振り向いたアッズーロは、うつらうつらと、座ったまま舟を漕ぐナーヴェを見た。その傍らで、ジャッロが唇の前に人差し指を立てて、眉を吊り上げている。しまった、と思ったが、ナーヴェは、ゆっくりと身動きして、顔を上げた。
「ごめん。うたた寝していた。ええと、何?」
「すまん。これは、まだ叩くのか?」
仕方なくアッズーロが問うと、ナーヴェは立ち上がって傍まで来た。若者達も手を止めて下がる中、ナーヴェは白い手で毛羽立った塊を触り、状態を確かめた。
「いい感じだよ。ありがとう。今日は、ここまでにしておこう。この塊を広間に運んだら、作業終了だ」
職人達はナーヴェの指示通り動き、広間に集まって全員で明日の作業を確認した後、解散した。
「アッズーロも、お疲れ様」
職人達を見送ったナーヴェは、笑顔でアッズーロを振り向く。
「さあ、水浴びに行こうか」
昼からずっと楽しみにしていたような口振りだ。
「そうだな」
お互い、随分と小汚い格好になっているのが妙に可笑しい。
「行くとするか。王が水浴びをした場所として、ゆくゆくは名所の一つになるやもしれんしな」
「観光名所になれば、この領の利益になるね」
ナーヴェは、アッズーロの軽口に真面目な考察を加えながら、先に立って歩き始めた。
丘を下り、川へ行くと、先にフルミネとジャッロ、それに他の何人かの職人達が浅瀬で水浴びをしていた。フルミネの父トゥオーロの姿もある。男達は下穿きだけで水に入り、泳いでいる者さえいる。フルミネも下着だけになって、素っ裸になったジャッロと浅瀬に入り、その頭を洗ってやっていた。
「みんな、楽しそうだね」
ナーヴェは職人達より少し下流の岸辺へ行き、膝を着いて屈むと、長く青い髪を水に浸けた。内心、裸になられるのではと案じていたアッズーロは、ほっとしてその傍らに腰を下ろす。ナーヴェの長く青い髪は、水の流れの中で、まるで水草のようだ。
「そなたの青い髪には、やはり海藻や貝や動物の肝臓が必要なのか?」
ふと問うたアッズーロに、ナーヴェは頭を水に浸けたまま、こちらを向いて微笑んだ。
「うん。この髪の青い色素は、きみがぼくの肉体の材料として用意してくれた露草の遺伝子を取り込んで作っているんだけれど、青色を鮮やかに発現させるためには、ほんの少し金属が必要なんだよ。海藻や貝や動物の肝臓には、他の食べ物よりも多くの金属が含まれていてね。だから、毎日ではないけれど、ぼくは海藻や貝や動物の肝臓を食べないといけないんだ。昨日は、それで食事に海藻を入れてくれたんだね。ありがとう」
「礼を言う必要はない。そなたに無理矢理肉体を作らせたは、われだからな」
肉体の材料として、青い花に加えて告げられた海藻と貝と動物の肝臓の意味を正確に知れて、アッズーロは満足だった。
ナーヴェは、頭の角度を少しずつ変えて水に浸け、頭皮を指で洗っていく。水音は静かで、川上からはジャッロや職人達の笑いさざめく声が聞こえてくる。平和だ。
「きみも、せっかくだから手足や頭くらい洗ったら?」
水から頭を上げたナーヴェに提案され、アッズーロが靴を脱ぎ始めた時だった。川上で、悲鳴が上がった。
「ジャッロ!」
フルミネが叫んで、川の中ほどへ水を蹴立てて走っていく。その先で、小さな頭が水に沈んだ。
「きみは岸でぼく達を引き上げて!」
ナーヴェが早口で叫んで川へ跳び込んだ。
「おい!」
アッズーロは止めようとしたが、ナーヴェは巧みに泳いで、再び浮かんだジャッロの頭へ近づいていく。こちらが川下だったので、流れてくるジャッロを迎えにいく形だ。水の色や、ナーヴェの動きから察するに、川は、途中から急に深くなっているようだ。それでジャッロも、分からず深みに嵌まったのだろう。
ナーヴェが、ジャッロを捕まえた。そのまま、今度は岸へと泳ぎ戻ってくる。流されながら、泳いでくる。アッズーロは、その動きを見ながら、岸を走った。走りながら、川の様相を見て、ナーヴェの言葉の意味を悟った。ここまで真っ直ぐ流れていた川が、すぐ先から曲がり始め、同時に、抉られて切り立った川岸になっているのだ。水深もかなりある。
(確かに、あれでは川岸から誰かが引き上げんと、なかなか川から上がれん……!)
ナーヴェが、片腕でジャッロの上半身を支え、横泳ぎをしながら、その川岸に近づいてくる。二人が丁度川岸へ着く、その場所へ、アッズーロは駆け寄った。手を伸ばして、ナーヴェが懸命に押し上げるジャッロの腕を掴む。もう一方の手も伸ばしてジャッロの脇の下へ入れ、勢いよく岸の上まで引っ張り上げて、アッズーロはすぐにナーヴェへ視線を転じた。しかし、アッズーロの目に映ったのは、速い流れに呑まれる青い髪だった。
「ナーヴェ!」
叫んだアッズーロの眼前に、ナーヴェが――実体ではない姿が立ちはだかった。
【駄目だ! ここから先は流れが速い!】
だが、アッズーロはナーヴェの言葉を無視して、川へ跳び込んだ。
(そう簡単に、諦められるか!)
急に入った所為もあるだろう、水は、心臓を鷲掴みにするように冷たい。
【馬鹿! きみは王だぞ!】
ナーヴェの声が頭の中で響く。
(怒鳴る暇があるなら、そなたの肉体を少しでも泳がせよ!)
頭の中で怒鳴り返して、アッズーロは青い髪目指し、川の流れも利用しながら、懸命に冷たい水を掻いた。
ナーヴェも、アッズーロを戻らせるには、自分が泳ぐのが最良と悟ったらしい。弱々しい動きながら、腕で水を掻いて、川の流れに抵抗し始めた。
二人の距離が少しずつ近づいていく。腕を伸ばし、水を掻き、流れを蹴って、アッズーロはナーヴェの手首を掴んだ。そのまま、今度は岸を目指して泳ぐ。ナーヴェは重く、流れは速い。けれど、岸には走る人影が幾つか見える。アッズーロは最後の力を振り絞って、岸へ泳ぎ着いた。複数の手が伸ばされ、アッズーロを、そしてアッズーロが手首を掴んでいるナーヴェを引き上げる。岸辺に転がってすぐにアッズーロは起き上がり、傍らに横たわったナーヴェを見た。目を閉じ、蒼白な肌色になっている。
「息をしていない……」
トゥオーロが告げた。
「馬鹿者!」
アッズーロは吐き捨て、ナーヴェの背を叩いた。あの硝子のような樽でナーヴェの肉体を目覚めさせた時と同じだ。
「さっさと目を開けよ!」
何度目か叩いた時、ナーヴェが咳込んだ。ごぼりと水を吐き、激しく咳込み続ける。咳込みながら、細く目を開け、アッズーロを見た。
「……馬鹿……、無茶、して……」
咳の合間に文句を言われて、アッズーロは憮然とした。
「その言葉、そっくりそのまま返すわ! それから、王相手に何度も馬鹿と言うな」
ナーヴェは、咳込みながら、微笑んだ。
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