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第四章 子どもが産める 二
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二
【今日は、初めて紙を漉いたんだよ……!】
青い双眸を輝かせて告げたナーヴェに、アッズーロは笑顔で応じた。
「あれからたった一週間で、やるではないか」
【レーニョが頑張ったんだよ】
ナーヴェは優しく微笑む。
【紙漉きにおいて重要なのは、紙を漉く技術と練りなんだけれど、レーニョが毎日、壺に入れた楡の様子を見て、湿気を加減して、上手に発酵させて、いい練りを作ってくれたんだ】
「そうか。そういう細かいことは、あやつの得意とするところだな」
【そうだね。でも、紙を漉く技術のほうはレーニョに頼る訳にいかないから、ぼくが手本を見せたんだけれど、思考回路にある情報を肉体で再現するのは、なかなか骨が折れるね。上手く紙を漉けるようになるまで、かなり練習が必要だったよ。泳いだ時も思ったけれど、思う通りに肉体を動かすのは本当に難しいね】
言葉とは裏腹に、ナーヴェの口調は明るい。
「そなた、楽しそうだな」
アッズーロが言うと、ナーヴェはきょとんとした。
【「楽しそう」?】
「見るからに楽しそうではないか」
【へえ……】
ナーヴェは不思議な表情をする。
【人が楽しそうなのは何度も見てきたし、「楽しい」というのは分かる。でも、ぼくは今「苦労している」ことを話していたつもりなんだけれど、「楽しそう」だったのかな?】
「――どこからどう見てもな」
アッズーロは面食らって頷いた。
【そう】
ナーヴェは、心持ち上げた自分の両手を見下ろすような仕草をする。
【人から「楽しそう」と言われたのは、初めてだよ。そうか、これが「楽しそう」に見える時の内実なんだ……】
「妙なことで驚くのだな」
虚を突かれて、アッズーロは実体ではないナーヴェを見つめた。
【……ぼくは、人ではないからね】
ナーヴェは青い双眸でアッズーロを見つめ返し、考え深げに言う。
【でも、肉体を持ってから、どんどん人のことが分かるようになって、人に近づいていると思う。「人ではないそなたが、人の生活をした時に何が見えるのか、興味がある」と、きみは言った。ぼくも、興味が湧いてきたよ。この先、何が見えるのか、に】
「それは重畳。これからも多くの物事を体験するがよい。但し、無理はするな。肉体を厭え」
【きみは意外に心配性だよね】
ナーヴェは華奢な肩を竦めて見せる。
【実は、もう一つ報告があるんだけれど、それはそっちに戻ってから言うよ】
「何だ、気になるではないか。今申せ」
軽く眉をひそめたアッズーロの命令に、ナーヴェは首を横に振った。
【ううん。今言っても仕方のないことだしね。後二週間ほどは特に問題ないから、大丈夫だよ。二週間後には、こっちの草木紙生産を軌道に乗せて、そっちに戻るから、その時に言うよ】
「そなたの『大丈夫』ほど当てにならぬものはない」
アッズーロが文句を言うと、ナーヴェは小首を傾げた。
【何故? ぼくには今のところ「嘘をつく」という機能がないのに】
「そなたが限界までやり過ぎるからだ」
【そうかな? ぼくは大丈夫な時にしか「大丈夫」と言っていないんだけれど】
呟いてから、ナーヴェはいつもの微笑みを浮かべる。
【まあ、気をつけるよ。肉体というものは、なかなか扱いが厄介で、計算通りにはいかないものだと分かってきたからね】
「そう致せ」
【うん。では、また明日】
ナーヴェは、アッズーロの命令を煙に巻いたような形で、接続を切ってしまった。
「あやつめ……」
アッズーロは、何も見えなくなった執務室の暗がりを睨み、溜め息をついた。
翌日も、その翌日も、毎夜ナーヴェは約束通りアッズーロに接続してきたが、もう一つの報告については、決して言おうとしなかった。
「そなた、相当に頑固だな」
呆れたアッズーロに、実体ではないナーヴェは青い髪を揺らして微笑んだ。
【そうかもしれないね。ぼくの判断には常に明確な根拠があるから、その根拠が揺らがない限りは、判断は変わらないんだよ】
「もうよい、分かった。それで、明日にはこちらに戻って、その報告を致すのだな?」
アッズーロは確認した。明日がとうとうナーヴェの言った二週間後なのだ。
【うん。葦紙がもう百枚ほどもできたし、若い職人のみんなに草木紙生産の全工程を覚えて貰ったからね。パルーデも満足しているよ】
ナーヴェの言葉の中に、久し振りにパルーデの名を聞いて、アッズーロは顔をしかめた。触れないようにしてきた話題だが、ずっと気にしてきたことだ。
「――パルーデは、やはり、毎夜そなたと過ごしたのか?」
【それが、そうでもないんだよね……】
ナーヴェは苦笑するような顔になる。
【ぼくが促した所為もあるんだろうけれど、三夜に一度はピーシェと過ごしていたみたいだよ。ぼくのところにも来たけれど、その時も、前とは違って、ぼくの髪を三つ編みにして遊んだり、思い出話をしたりが増えたね。勿論、前みたいに、ぼくを「味見」することもあったけれど。それも、今夜が最後だと言っていたよ】
「約束は果たされた。もう二度と、そなたをあやつの慰み者にはせん」
アッズーロはきっぱりと告げた。
【そう】
ナーヴェは目を伏せる。
【それは、少し寂しいね】
意外な反応に、アッズーロはひどく気持ちが逆撫でられるのを感じた。
「――あの女が、それほどよかったのか」
【前にも言ったけれど】
ナーヴェは目を上げ、悪びれず言う。
【きみ達は、パルーデも含めて、みんな、ぼくの子どもみたいなものなんだ。だから、会えなくなるのは、少し寂しいというだけだよ】
「そなたのそういうところは、理解できん」
つい零したアッズーロに、ナーヴェは悲しげに応じた。
【ぼくは、人ではないからね。それは仕方ないよ。――では、また明日】
接続が切られて数瞬後、アッズーロは唇を噛み、拳を握って執務机を叩いた。夜半も過ぎており、ガットもフィオーレも誰も傍にいないことが幸いだった。
翌日、星々が輝き始める頃、王城の前庭に停まった馬車から、ナーヴェは元気に降りてきた。一緒に降りてきたポンテも、御者を務めていたレーニョも、篝火の灯りの中、元気そうだ。
「ひと月に及ぶ任務、御苦労だった。報告を聞く。すぐにわれの部屋へ参れ」
アッズーロは王城の玄関で声を掛け、先に立って城内へ入った。
「何だか素っ気ないね。もしかして、怒っているのかい?」
ナーヴェの声が、追ってくる。
「夕食に間に合わなかったのは悪かったけれど、みんなに別れを告げるのに、少し時間が掛かってね。出発前に接続して言った通り、夕食は途中で済ませてきたから」
久し振りに聞く生の声だ。アッズーロは顔をしかめて、足早に執務室へ向かった。
執務机に着いたアッズーロの前に並んだ三人は、互いに顔を見合わせる。レーニョとポンテは小さく首を横に振って一歩下がり、結果、最初に口を開いたのはナーヴェだった。
「草木紙生産については、毎夜報告していたから、特に新しく報告することはないんだけれどね。つけ加えて報告するなら、パルーデは、きみに改めて忠誠を誓うと約束してくれたよ」
「閨の睦言なぞ信用できるか」
つい、またも言い返してしまったアッズーロに、ナーヴェは肩を竦め、溜め息をついてレーニョとポンテを振り向いてから答えた。
「今日は本当に御機嫌斜めだね。レーニョとポンテには明日、改めて報告して貰うよ。二人とも疲れているしね」
「いえ、ナーヴェ様、わたくしは――」
レーニョが反論しかけたが、ナーヴェは微笑んで首を横に振った。
「レーニョ、悪いけれど、ちょっと二人で話したいこともあるんだ。今日は、部屋に帰って休んでくれるかな?」
「――畏まりました」
レーニョは渋々と頭を下げた。
「お心遣い、ありがたく頂戴致します」
ポンテも頭を下げる。
「では陛下、また明日、お目に掛かります」
笑顔で執務室を辞したポンテの後にレーニョも続き、残ったのはナーヴェとアッズーロ、そして最初からいた侍従のガットだけとなった。ナーヴェは、そのガットへ優しい眼差しを向けた。
「きみも、今日はもう帰っていいよ。後は、ぼくが引き受けるから」
「え? は、はい……?」
ガットはしどろもどろになって、ナーヴェとアッズーロとを見比べる。アッズーロは無言で手を振った。下がれ、の合図だ。
「は、はい。畏まりました」
ガットは頭を下げて、足早に部屋を出ていった。
「さて、人払いは済んだぞ」
アッズーロは、執務机に頬杖を突き、目の前に立つナーヴェを見据える。
「われの代わりに命じるなぞ、暫く会わぬ内に偉くなったものだ。余ほど重大な報告なのだろうな?」
「うーん、どうだろう?」
ナーヴェは小首を傾げる。
「あんまり期待されると、拍子抜けされそうで、逆に言いにくいんだけれど」
「勿体をつけるからそうなる。さっさと申せ」
いい加減、堪忍袋の緒が切れかけたアッズーロに、ナーヴェは苦笑し、告げた。
「どうも月経があるみたいなんだ、この体。今回は初めてだから、初潮だね。それで、衣や敷布を汚してしまわないように、フィオーレに対処の仕方を――」
「は?」
アッズーロは、頬杖から顎を落としそうになって踏ん張り、ナーヴェの顔を見上げた。端正な顔に、嘘をついている気配はない。
(そもそも、こやつは嘘をつけぬのだったか……)
改めて事実を認識し、アッズーロは姿勢を正す。
「それは、つまり、子どもが産めるということか?」
「まだはっきりとは分からないけれど、不可能ではないかもしれないね。そんなつもり、全くなかったんだけれど。基本設定通り女として作ったから、そうなっただけで。これは、ぼくにとっても想定外の事態なんだよ。それで、まずきみに相談しようと思って」
「何故、接続でさっさと言わんのだ!」
文句を言ったアッズーロに、ナーヴェは片手を腰に当て、諭すように答えた。
「目の前にいないのに言っても、余計な心配を掛けるだけだからね。いつあるかも、予測できるものだし、それまでは、特に何ともないものだから」
「それは、そうだが……」
憮然としたアッズーロは、はっとして椅子から立ち上がった。自分では、月経に対処できない。
「フィオーレ!」
隣の寝室に控えている女官を呼び、アッズーロは命じる。
「ナーヴェに、その……月のもののことを、いろいろと教えてやるがよい」
「仰せのままに」
一礼したフィオーレの顔には、驚きと微笑みがあった。
沐浴を終え、黒い長衣を纏い、歯磨きを終えたナーヴェは、寝台に腰掛けて所在なさげにしていた。アッズーロが行くのを待っていたふうである。既に寝室を辞したフィオーレに拠れば、黒い衣は血を目立たせないための月経対策で、下袴も月経用のものにしてあるという。
「どうした? さっさと寝るがよい」
アッズーロが言うと、ナーヴェは僅かに肩を竦めた。
「きみが仕事をしている時に寝ていたら、また文句を言うかなと思って」
「文句は言うが、体調を崩されるのは困る。体調を崩さぬほうを選べ」
アッズーロが顔をしかめて告げると、ナーヴェは苦笑し、大人しく寝台に横になって掛布を被った。それを見届けてから、アッズーロは執務室から持ってきた油皿の火を消して卓の上に置き、自分の寝台に行った。ナーヴェと同じ部屋で寝るのは久し振りだ。
「おやすみ」
暗闇の向こうからナーヴェの小さな声がした。
「うむ」
短く応じて、アッズーロは寝台に横になり、掛布を被った。暫くはナーヴェの寝息が何となく気になったが、すぐ手の届くところで安眠しているのだという実感が深まるにつれ、アッズーロも眠りへと落ちていった。
アッズーロにとっても、久し振りの安眠だった。
【今日は、初めて紙を漉いたんだよ……!】
青い双眸を輝かせて告げたナーヴェに、アッズーロは笑顔で応じた。
「あれからたった一週間で、やるではないか」
【レーニョが頑張ったんだよ】
ナーヴェは優しく微笑む。
【紙漉きにおいて重要なのは、紙を漉く技術と練りなんだけれど、レーニョが毎日、壺に入れた楡の様子を見て、湿気を加減して、上手に発酵させて、いい練りを作ってくれたんだ】
「そうか。そういう細かいことは、あやつの得意とするところだな」
【そうだね。でも、紙を漉く技術のほうはレーニョに頼る訳にいかないから、ぼくが手本を見せたんだけれど、思考回路にある情報を肉体で再現するのは、なかなか骨が折れるね。上手く紙を漉けるようになるまで、かなり練習が必要だったよ。泳いだ時も思ったけれど、思う通りに肉体を動かすのは本当に難しいね】
言葉とは裏腹に、ナーヴェの口調は明るい。
「そなた、楽しそうだな」
アッズーロが言うと、ナーヴェはきょとんとした。
【「楽しそう」?】
「見るからに楽しそうではないか」
【へえ……】
ナーヴェは不思議な表情をする。
【人が楽しそうなのは何度も見てきたし、「楽しい」というのは分かる。でも、ぼくは今「苦労している」ことを話していたつもりなんだけれど、「楽しそう」だったのかな?】
「――どこからどう見てもな」
アッズーロは面食らって頷いた。
【そう】
ナーヴェは、心持ち上げた自分の両手を見下ろすような仕草をする。
【人から「楽しそう」と言われたのは、初めてだよ。そうか、これが「楽しそう」に見える時の内実なんだ……】
「妙なことで驚くのだな」
虚を突かれて、アッズーロは実体ではないナーヴェを見つめた。
【……ぼくは、人ではないからね】
ナーヴェは青い双眸でアッズーロを見つめ返し、考え深げに言う。
【でも、肉体を持ってから、どんどん人のことが分かるようになって、人に近づいていると思う。「人ではないそなたが、人の生活をした時に何が見えるのか、興味がある」と、きみは言った。ぼくも、興味が湧いてきたよ。この先、何が見えるのか、に】
「それは重畳。これからも多くの物事を体験するがよい。但し、無理はするな。肉体を厭え」
【きみは意外に心配性だよね】
ナーヴェは華奢な肩を竦めて見せる。
【実は、もう一つ報告があるんだけれど、それはそっちに戻ってから言うよ】
「何だ、気になるではないか。今申せ」
軽く眉をひそめたアッズーロの命令に、ナーヴェは首を横に振った。
【ううん。今言っても仕方のないことだしね。後二週間ほどは特に問題ないから、大丈夫だよ。二週間後には、こっちの草木紙生産を軌道に乗せて、そっちに戻るから、その時に言うよ】
「そなたの『大丈夫』ほど当てにならぬものはない」
アッズーロが文句を言うと、ナーヴェは小首を傾げた。
【何故? ぼくには今のところ「嘘をつく」という機能がないのに】
「そなたが限界までやり過ぎるからだ」
【そうかな? ぼくは大丈夫な時にしか「大丈夫」と言っていないんだけれど】
呟いてから、ナーヴェはいつもの微笑みを浮かべる。
【まあ、気をつけるよ。肉体というものは、なかなか扱いが厄介で、計算通りにはいかないものだと分かってきたからね】
「そう致せ」
【うん。では、また明日】
ナーヴェは、アッズーロの命令を煙に巻いたような形で、接続を切ってしまった。
「あやつめ……」
アッズーロは、何も見えなくなった執務室の暗がりを睨み、溜め息をついた。
翌日も、その翌日も、毎夜ナーヴェは約束通りアッズーロに接続してきたが、もう一つの報告については、決して言おうとしなかった。
「そなた、相当に頑固だな」
呆れたアッズーロに、実体ではないナーヴェは青い髪を揺らして微笑んだ。
【そうかもしれないね。ぼくの判断には常に明確な根拠があるから、その根拠が揺らがない限りは、判断は変わらないんだよ】
「もうよい、分かった。それで、明日にはこちらに戻って、その報告を致すのだな?」
アッズーロは確認した。明日がとうとうナーヴェの言った二週間後なのだ。
【うん。葦紙がもう百枚ほどもできたし、若い職人のみんなに草木紙生産の全工程を覚えて貰ったからね。パルーデも満足しているよ】
ナーヴェの言葉の中に、久し振りにパルーデの名を聞いて、アッズーロは顔をしかめた。触れないようにしてきた話題だが、ずっと気にしてきたことだ。
「――パルーデは、やはり、毎夜そなたと過ごしたのか?」
【それが、そうでもないんだよね……】
ナーヴェは苦笑するような顔になる。
【ぼくが促した所為もあるんだろうけれど、三夜に一度はピーシェと過ごしていたみたいだよ。ぼくのところにも来たけれど、その時も、前とは違って、ぼくの髪を三つ編みにして遊んだり、思い出話をしたりが増えたね。勿論、前みたいに、ぼくを「味見」することもあったけれど。それも、今夜が最後だと言っていたよ】
「約束は果たされた。もう二度と、そなたをあやつの慰み者にはせん」
アッズーロはきっぱりと告げた。
【そう】
ナーヴェは目を伏せる。
【それは、少し寂しいね】
意外な反応に、アッズーロはひどく気持ちが逆撫でられるのを感じた。
「――あの女が、それほどよかったのか」
【前にも言ったけれど】
ナーヴェは目を上げ、悪びれず言う。
【きみ達は、パルーデも含めて、みんな、ぼくの子どもみたいなものなんだ。だから、会えなくなるのは、少し寂しいというだけだよ】
「そなたのそういうところは、理解できん」
つい零したアッズーロに、ナーヴェは悲しげに応じた。
【ぼくは、人ではないからね。それは仕方ないよ。――では、また明日】
接続が切られて数瞬後、アッズーロは唇を噛み、拳を握って執務机を叩いた。夜半も過ぎており、ガットもフィオーレも誰も傍にいないことが幸いだった。
翌日、星々が輝き始める頃、王城の前庭に停まった馬車から、ナーヴェは元気に降りてきた。一緒に降りてきたポンテも、御者を務めていたレーニョも、篝火の灯りの中、元気そうだ。
「ひと月に及ぶ任務、御苦労だった。報告を聞く。すぐにわれの部屋へ参れ」
アッズーロは王城の玄関で声を掛け、先に立って城内へ入った。
「何だか素っ気ないね。もしかして、怒っているのかい?」
ナーヴェの声が、追ってくる。
「夕食に間に合わなかったのは悪かったけれど、みんなに別れを告げるのに、少し時間が掛かってね。出発前に接続して言った通り、夕食は途中で済ませてきたから」
久し振りに聞く生の声だ。アッズーロは顔をしかめて、足早に執務室へ向かった。
執務机に着いたアッズーロの前に並んだ三人は、互いに顔を見合わせる。レーニョとポンテは小さく首を横に振って一歩下がり、結果、最初に口を開いたのはナーヴェだった。
「草木紙生産については、毎夜報告していたから、特に新しく報告することはないんだけれどね。つけ加えて報告するなら、パルーデは、きみに改めて忠誠を誓うと約束してくれたよ」
「閨の睦言なぞ信用できるか」
つい、またも言い返してしまったアッズーロに、ナーヴェは肩を竦め、溜め息をついてレーニョとポンテを振り向いてから答えた。
「今日は本当に御機嫌斜めだね。レーニョとポンテには明日、改めて報告して貰うよ。二人とも疲れているしね」
「いえ、ナーヴェ様、わたくしは――」
レーニョが反論しかけたが、ナーヴェは微笑んで首を横に振った。
「レーニョ、悪いけれど、ちょっと二人で話したいこともあるんだ。今日は、部屋に帰って休んでくれるかな?」
「――畏まりました」
レーニョは渋々と頭を下げた。
「お心遣い、ありがたく頂戴致します」
ポンテも頭を下げる。
「では陛下、また明日、お目に掛かります」
笑顔で執務室を辞したポンテの後にレーニョも続き、残ったのはナーヴェとアッズーロ、そして最初からいた侍従のガットだけとなった。ナーヴェは、そのガットへ優しい眼差しを向けた。
「きみも、今日はもう帰っていいよ。後は、ぼくが引き受けるから」
「え? は、はい……?」
ガットはしどろもどろになって、ナーヴェとアッズーロとを見比べる。アッズーロは無言で手を振った。下がれ、の合図だ。
「は、はい。畏まりました」
ガットは頭を下げて、足早に部屋を出ていった。
「さて、人払いは済んだぞ」
アッズーロは、執務机に頬杖を突き、目の前に立つナーヴェを見据える。
「われの代わりに命じるなぞ、暫く会わぬ内に偉くなったものだ。余ほど重大な報告なのだろうな?」
「うーん、どうだろう?」
ナーヴェは小首を傾げる。
「あんまり期待されると、拍子抜けされそうで、逆に言いにくいんだけれど」
「勿体をつけるからそうなる。さっさと申せ」
いい加減、堪忍袋の緒が切れかけたアッズーロに、ナーヴェは苦笑し、告げた。
「どうも月経があるみたいなんだ、この体。今回は初めてだから、初潮だね。それで、衣や敷布を汚してしまわないように、フィオーレに対処の仕方を――」
「は?」
アッズーロは、頬杖から顎を落としそうになって踏ん張り、ナーヴェの顔を見上げた。端正な顔に、嘘をついている気配はない。
(そもそも、こやつは嘘をつけぬのだったか……)
改めて事実を認識し、アッズーロは姿勢を正す。
「それは、つまり、子どもが産めるということか?」
「まだはっきりとは分からないけれど、不可能ではないかもしれないね。そんなつもり、全くなかったんだけれど。基本設定通り女として作ったから、そうなっただけで。これは、ぼくにとっても想定外の事態なんだよ。それで、まずきみに相談しようと思って」
「何故、接続でさっさと言わんのだ!」
文句を言ったアッズーロに、ナーヴェは片手を腰に当て、諭すように答えた。
「目の前にいないのに言っても、余計な心配を掛けるだけだからね。いつあるかも、予測できるものだし、それまでは、特に何ともないものだから」
「それは、そうだが……」
憮然としたアッズーロは、はっとして椅子から立ち上がった。自分では、月経に対処できない。
「フィオーレ!」
隣の寝室に控えている女官を呼び、アッズーロは命じる。
「ナーヴェに、その……月のもののことを、いろいろと教えてやるがよい」
「仰せのままに」
一礼したフィオーレの顔には、驚きと微笑みがあった。
沐浴を終え、黒い長衣を纏い、歯磨きを終えたナーヴェは、寝台に腰掛けて所在なさげにしていた。アッズーロが行くのを待っていたふうである。既に寝室を辞したフィオーレに拠れば、黒い衣は血を目立たせないための月経対策で、下袴も月経用のものにしてあるという。
「どうした? さっさと寝るがよい」
アッズーロが言うと、ナーヴェは僅かに肩を竦めた。
「きみが仕事をしている時に寝ていたら、また文句を言うかなと思って」
「文句は言うが、体調を崩されるのは困る。体調を崩さぬほうを選べ」
アッズーロが顔をしかめて告げると、ナーヴェは苦笑し、大人しく寝台に横になって掛布を被った。それを見届けてから、アッズーロは執務室から持ってきた油皿の火を消して卓の上に置き、自分の寝台に行った。ナーヴェと同じ部屋で寝るのは久し振りだ。
「おやすみ」
暗闇の向こうからナーヴェの小さな声がした。
「うむ」
短く応じて、アッズーロは寝台に横になり、掛布を被った。暫くはナーヴェの寝息が何となく気になったが、すぐ手の届くところで安眠しているのだという実感が深まるにつれ、アッズーロも眠りへと落ちていった。
アッズーロにとっても、久し振りの安眠だった。
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