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第九章 失いたくない 四
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四
翌日は、ナーヴェの気象予測通り、晴天だった。王都からの人々の避難はほぼ完了している。後は、王城に残っていた最小限の人々が避難するだけだった。
朝食後、アッズーロは、ナーヴェ、テゾーロ、ポンテとともに馬車に乗り込み、王都から三時間走らせた先にある村ヴェルドーラに造らせた防空壕へ向かった。
馬車の中で、アッズーロの隣に腰掛けたナーヴェは、おもむろに長衣の胸紐を解いて襟をはだけ、ポンテからテゾーロを抱き取って授乳を始めた。最後の授乳だ。アッズーロは見ているだけでつらかったが、ナーヴェは物静かで、テゾーロに微笑み掛ける姿は、神々しくすらある。
(そなたは、強いな……)
アッズーロが悲しみに耐えていると、ナーヴェが胸に抱いたテゾーロを見下ろしたまま、口を開いた。
「今でも、不思議だよ。人ではないぼくが、母親だなんてね。姉さん達が知ったら、何て言うだろうな……。きみには本当に感謝しているよ、アッズーロ。人ではないぼくに、素晴らしい『人生』をくれた」
「――感謝しているのは、われのほうだ」
アッズーロは掠れそうになる声で答える。
「そなたのお陰で、われは王になれた。そなたのお陰で、われは父親になれた。そなたのお陰で愛を知り、そなたのお陰で、われは人として少しはましになった。そなたのお陰で、われは、これ以上ない、至福の時を過ごした。そなたこそが、われの歓びだった」
「ありがとう。とても、嬉しいよ」
ナーヴェは穏やかだ。落ち着いたその様子に、悲しんでいるのが自分一人のような気がして、アッズーロはやり場のない寂しさを覚えた。窓の外は、初夏の月らしい陽光で溢れている。宇宙船が飛び立つには、やはり晴天のほうがいいらしい。若草や若葉が光る、美しい光景だ。まるで、これからナーヴェを失おうとしていることが、現実ではないような気がしてくる――。
やがて授乳を終えたナーヴェは、すやすやと眠り始めたテゾーロを抱いたまま、アッズーロを見上げた。
「どうしたんだい? 黙っていられると、何だか寂しいよ」
「寂しいから、言葉が出んのだ」
アッズーロは素直に答えて、ナーヴェの肩に腕を回した。ナーヴェは、テゾーロを抱いたまま、アッズーロの肩に凭れてくる。その頭に頬を寄せて、アッズーロは問うた。
「この肉体を救う術は、ないのか……?」
「不可能だよ。寝たきりになるから、多分、十日ももたない」
静かに告げて、ナーヴェは優しい表情をする。
「この体はきみのものだから、ぼくが今日の正午に飛び立った後は、好きにしてくれていいよ。ぼくとしては、この体も一つの命には違いないから、最後まで待ってくれた後、この惑星に還してくれると嬉しい」
「――無理矢理、物を食べさせたりすれば、もっともつのか?」
アッズーロは硬い声で確かめた。ナーヴェは目を瞬いてアッズーロの顔を見つめた。
「もしかしたら……ね。ぼくにも、この肉体のことは、はっきりとは分からない」
「可能性はあるのだな?」
「努力してくれるのかい?」
ナーヴェは、淡く笑む。
「なら、ぼくも、最善を尽くすよ」
「何か、できることがあるのか?」
勢い込んで尋ねたアッズーロに、ナーヴェは、すまなそうに言った。
「大したことはできない。ただ、この肉体の脳に、ぼくの思考回路にある情報を、できる限り写しておくよ。少しは脳への刺激になって、この肉体の寿命を延ばすかもしれない。でも、そうして、万が一、この肉体の意識が回復したとしても、それは、赤子のようなもので、『ぼく』ではないんだ……」
「そうか……」
アッズーロは気落ちしながらも、ナーヴェの肩を抱く手に力を込めた。最初から絶望的な話なのだ。ナーヴェの現身とも言うべきこの肉体を、できる限り生かし続けたいと願う気持ちが、揺らぐことはない。
「――そなたの肉体を、できる限り長く生かして、そなたへの愛の証としよう」
アッズーロは誓って、ナーヴェの前髪に口付けた。
ヴェルドーラの防空壕前に造らせた日時計は、正午の一時間五分前を示していた。予定より五分早い到着だ。
ナーヴェは、馬車から降り、防空壕に入ると、ついて来たポンテに、抱きっぱなしだったテゾーロを、そっと渡した。テゾーロは満腹の所為か、すやすやと眠っている。ポンテは、馬車に乗っている時からずっと涙を流していたが、その泣き顔のまま、しっかりとテゾーロを受け取り、ナーヴェに力強く頷いて見せた。
「きみにも、とてもお世話になった」
ナーヴェは礼を述べて、テゾーロを抱いたポンテを優しく抱擁する。
「叱ってくれた時は、とても嬉しかったよ。これからも、テゾーロとアッズーロを宜しく頼むね」
「ナーヴェ様……、どうぞ、お任せ下さいませ……」
ポンテは泣きながらも、もう一度、深く頷いた。
「ありがとう。テゾーロも、いい子にして、いい王様になるんだよ」
最後に、テゾーロの顔を覗き込んで囁いたナーヴェは、そのまま、吹っ切るように二人と別れた。防空壕の部屋は、幾つかに分かれている。ナーヴェの希望で、テゾーロとは別の部屋に入ることになっていた。
「――よいのか?」
アッズーロが確認すると、ナーヴェは微笑んだ。
「うん。別れを惜しみ過ぎても、つらいだけだから……」
「そうか」
アッズーロは手を伸ばし、ナーヴェの手を握って、自分達のために用意させた小さな一室へ向かった。
土を掘り、木で支えた部屋は、簡素な造りながら、壁際に長椅子を置き、反対側に油皿を載せた小卓も置いて、最低限、落ち着いて過ごせるようにしてあった。
「突貫工事の割には、よくできておる」
評したアッズーロに、油皿一つの灯りの中、ナーヴェは苦笑した。
「みんな、本当によく頑張ったよ。指揮を執ったきみも含めてね」
「そなたに褒められるは、素直に喜ばしい、が」
アッズーロは立ったまま一度目を閉じ、一呼吸置いてから、美しい宝を見つめて言った。
「われは王だ。王として、そなたに礼を言おう。そなたのお陰で、われらは、この難局を乗り切れる」
「――ぼくが、きみ達に尽くすのは、当然だよ」
ナーヴェも立ったまま、少し泣きそうな顔になって答える。
「この危機は、ぼくが招いたんだから。ぼくが壊れさえしなければ――、あの時、小型飛翔誘導弾を発射するなんて、愚かなことさえしなければ――、その後のことは、もっと違っていた。この危機にも、もっと早く対処できていたんだ……」
深い青色の、瑠璃に似た双眸の上に涙が溢れ、零れる。アッズーロはその華奢な肩を抱き寄せ、ともに長椅子に腰掛けた。
「そなたを泣かせるために礼を言うたのではない。自分を責めるな。そなたは明言せんが、非は、われにも多々あるのであろう?」
アッズーロの問いに、腕の中でナーヴェは小さく首を左右に振った。
「そんなことはない。ぼくの性能が、もっと高ければ、きみにつらい思いをさせることもなかった。ぼくは、姉妹の中で、一番性能が低かったんだ。でも、最初の船長が、学習能力は高いから、伸びしろはあると言ってくれて……。けれど、やっぱり、たくさんの失敗をした……」
アッズーロは小さく息を吐いて、最愛の相手に囁いた。
「そなたの『原罪』の話を聞いて、そなたが何故、食べ物をあれほど大切にするのか、何故、大臣どもに利他的であることの重要性を説いたのか、何故、多様性を尊ぶのか、よく分かった。そなたは、学習してきたことで、われらを救うのだ。『不具合』も、『壊れる』ことも、そなたの学習の一つだと、われは思う。そなたが、自分を責める必要は、何一つない。そなたの主たるわれが、保証する」
ナーヴェは、アッズーロの胸に縋り付くようにして、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「そなた、随分と泣き虫になったな」
やり切れない思いで呟いたアッズーロに、ナーヴェは泣きながら、くすりと笑った。
「きみは、際限なく心配性になった」
「それは、無茶ばかりするそなたの所為であろう! 此度のことも、含めてな」
思わず声を荒げたアッズーロに、ナーヴェは顔を上げて詫びた。
「うん。これで最後だから、許してほしい」
透き通るような微笑みだ。アッズーロは堪らなくなって、ナーヴェの細い体を抱き潰しそうになり、歯を食い縛った。心配など、どれほど掛けられようとも構わなかったのだ。生きて、腕の中に帰ってきてさえくれたなら。
「――馬鹿者め。絶対に、許さん……」
声が、意に反して、湿る。それを気遣ったように、ナーヴェが僅かに口調を変えて言った。
「――テッラ・ロッサからの帰りに、チェーロのところに寄って、手紙を書かせて貰ったんだ」
「『手紙』?」
アッズーロは眉をひそめて、腕の中の宝を見下ろした。ルーチェからの報告で、ナーヴェがプラート・ブル大公城に寄ったことは知っていた。一人で中に入り、半時ほどして出てきたという。その時はただ、アッズーロの手前、訪いにくいチェーロに、寄り道して会いに行っただけだと思っていたのだが――。
「ぼくが飛び立った後に、きみに必ず手渡してくれるよう、チェーロに頼んであるから、読んでほしい」
ナーヴェは、優しい眼差しでアッズーロを見上げて告げる。
「きみに嘘をつく計画の一環で書いた手紙だから、少し内容に違和感を覚えるかもしれないけれど、あれもまた、真実の一部だから」
「『嘘をつく計画』か」
鼻を鳴らして、アッズーロは唇を噛む。
「その拙い嘘の手紙のために、われに父上に会えと言うか」
ナーヴェは、静かにアッズーロの胸に頭を寄せ、青い髪をすりつけるように首肯した。
「チェーロは、最初からきみを許している。それに、きみは優しいから、ぼくの手紙のために、蟠りを乗り越えてくれるよ」
知った風なことを、口に出して言うことはできなかった。強がっていられる時間が、過ぎようとしている――。黙ったアッズーロを気遣ったのか、また、ナーヴェが口調を変えて言った。
「ぼくの名はね、実は、ただのナーヴェではなくて、ナーヴェ・デッラ・スペランツァというんだ」
「……希望の船、か……」
あまりにも相応しい名に、アッズーロは逆に哀しさを感じた。ナーヴェは、複雑そうに言葉を続けた。
「うん。でも、大層な名前過ぎて、ぼくは好きではなくてね。いつも、ただナーヴェと呼んでほしいと、歴代の船長達にはお願いしてきたんだ……。けれど、今回こそは、この名に恥じないよう、堂々と行くよ」
再びアッズーロを見上げたナーヴェの顔は、慈愛と決意に満ちている。
「この名に懸けて、きみ達の未来を、守り切って見せる」
「ナーヴェ・デッラ・スペランツァ、わが最愛よ」
アッズーロは、知ったばかりの愛しい名を呼んで、青い前髪の間に覗く白い額に口付ける。
「わが妃は、生涯そなた一人だ。『それは駄目だ』なぞと、この後に及んで言うてくれるなよ」
宝は、泣き濡れた顔をアッズーロの胸板に押し付け、細い両腕を動かして縋り付いてきた。
「――ぼくは壊れて悪い夢を見た。きみの隣で、人として生きる夢。人ではないぼくが、見てはいけない夢。持ってはいけない望み。でも、望みはもう一つある。きみを失いたくない。きみ達を――ぼくの子ども達を、絶対に失いたくない。だから、ぼくは死を選ぶ。きみを、テゾーロを、みんなを守るために」
(あの折の言葉の、本当の意味はこれか――)
小惑星が降ってくると知った夜、「……きみを失いたくない」と泣き顔で縋り付いてきたナーヴェ。
(そなたは、それほどの思いを抱えながら、あれ以降、昨夜少々乱れた以外は、つい先刻まで、己が役目を果たすために、平静を装っていた訳か――)
気づいたアッズーロの腕の中で、何度目になるか、ナーヴェは顔を上げた。相変わらず涙に濡れている。けれど、これで最後なのだと明確に察せられる、穏やかな表情だった。宝は、柔らかな声音で、別れの言葉を紡いだ。
「きみはいろいろと言ったけれど、結局、王であることを決して辞めない。王であることを捨てない。だから、ぼくも、真実を言える。アッズーロ、きみが教えてくれた通り、ぼくは、きみを、特別に愛しているよ。宇宙の塵になっても、この気持ちは、どこかに残るような幻覚がある。ぼくは、きみのお陰で、食べ物の美味しさを知った。きみのお陰で、匂いの素晴らしさを知った。きみのお陰で、いろいろな人と話せて、仲良くなれた。きみのお陰で、人肌の温もりを知った。きみのお陰で、生命の連鎖に繋がって、母親になれた。ぼくは、きみのお陰で、この一年と二ヶ月の間、とてもとても幸せだった。きみは、ぼくのお陰で愛を知ったと言ってくれたけれど、ぼくのほうこそ、きみに愛を教わったんだ。アッズーロ……、ぼくに愛を教えてくれて、ぼくを愛してくれて、ありがとう……」
どちらからともなく、口付けた。余韻を残して離れ、ナーヴェはアッズーロを見つめて微笑んだ。それが、最後だった。がくりと首が仰け反ると同時に、背中に回されていた細い両腕が滑り落ちる。その後頭部に手を添え、華奢な肩に改めて腕を回して、アッズーロは、安らかに呼吸する形見を抱き締めた。閉じた目尻には、まだ涙が残っている。その涙を、そっと舐め取り、小さく開いた口に、もう一度だけ口付けて、アッズーロは呟いた。
「われこそ、礼を言う。そなたは、王妃としても、女としても、友としても、最高であった。まさしく、そなたは、わが宝だ――」
翌日は、ナーヴェの気象予測通り、晴天だった。王都からの人々の避難はほぼ完了している。後は、王城に残っていた最小限の人々が避難するだけだった。
朝食後、アッズーロは、ナーヴェ、テゾーロ、ポンテとともに馬車に乗り込み、王都から三時間走らせた先にある村ヴェルドーラに造らせた防空壕へ向かった。
馬車の中で、アッズーロの隣に腰掛けたナーヴェは、おもむろに長衣の胸紐を解いて襟をはだけ、ポンテからテゾーロを抱き取って授乳を始めた。最後の授乳だ。アッズーロは見ているだけでつらかったが、ナーヴェは物静かで、テゾーロに微笑み掛ける姿は、神々しくすらある。
(そなたは、強いな……)
アッズーロが悲しみに耐えていると、ナーヴェが胸に抱いたテゾーロを見下ろしたまま、口を開いた。
「今でも、不思議だよ。人ではないぼくが、母親だなんてね。姉さん達が知ったら、何て言うだろうな……。きみには本当に感謝しているよ、アッズーロ。人ではないぼくに、素晴らしい『人生』をくれた」
「――感謝しているのは、われのほうだ」
アッズーロは掠れそうになる声で答える。
「そなたのお陰で、われは王になれた。そなたのお陰で、われは父親になれた。そなたのお陰で愛を知り、そなたのお陰で、われは人として少しはましになった。そなたのお陰で、われは、これ以上ない、至福の時を過ごした。そなたこそが、われの歓びだった」
「ありがとう。とても、嬉しいよ」
ナーヴェは穏やかだ。落ち着いたその様子に、悲しんでいるのが自分一人のような気がして、アッズーロはやり場のない寂しさを覚えた。窓の外は、初夏の月らしい陽光で溢れている。宇宙船が飛び立つには、やはり晴天のほうがいいらしい。若草や若葉が光る、美しい光景だ。まるで、これからナーヴェを失おうとしていることが、現実ではないような気がしてくる――。
やがて授乳を終えたナーヴェは、すやすやと眠り始めたテゾーロを抱いたまま、アッズーロを見上げた。
「どうしたんだい? 黙っていられると、何だか寂しいよ」
「寂しいから、言葉が出んのだ」
アッズーロは素直に答えて、ナーヴェの肩に腕を回した。ナーヴェは、テゾーロを抱いたまま、アッズーロの肩に凭れてくる。その頭に頬を寄せて、アッズーロは問うた。
「この肉体を救う術は、ないのか……?」
「不可能だよ。寝たきりになるから、多分、十日ももたない」
静かに告げて、ナーヴェは優しい表情をする。
「この体はきみのものだから、ぼくが今日の正午に飛び立った後は、好きにしてくれていいよ。ぼくとしては、この体も一つの命には違いないから、最後まで待ってくれた後、この惑星に還してくれると嬉しい」
「――無理矢理、物を食べさせたりすれば、もっともつのか?」
アッズーロは硬い声で確かめた。ナーヴェは目を瞬いてアッズーロの顔を見つめた。
「もしかしたら……ね。ぼくにも、この肉体のことは、はっきりとは分からない」
「可能性はあるのだな?」
「努力してくれるのかい?」
ナーヴェは、淡く笑む。
「なら、ぼくも、最善を尽くすよ」
「何か、できることがあるのか?」
勢い込んで尋ねたアッズーロに、ナーヴェは、すまなそうに言った。
「大したことはできない。ただ、この肉体の脳に、ぼくの思考回路にある情報を、できる限り写しておくよ。少しは脳への刺激になって、この肉体の寿命を延ばすかもしれない。でも、そうして、万が一、この肉体の意識が回復したとしても、それは、赤子のようなもので、『ぼく』ではないんだ……」
「そうか……」
アッズーロは気落ちしながらも、ナーヴェの肩を抱く手に力を込めた。最初から絶望的な話なのだ。ナーヴェの現身とも言うべきこの肉体を、できる限り生かし続けたいと願う気持ちが、揺らぐことはない。
「――そなたの肉体を、できる限り長く生かして、そなたへの愛の証としよう」
アッズーロは誓って、ナーヴェの前髪に口付けた。
ヴェルドーラの防空壕前に造らせた日時計は、正午の一時間五分前を示していた。予定より五分早い到着だ。
ナーヴェは、馬車から降り、防空壕に入ると、ついて来たポンテに、抱きっぱなしだったテゾーロを、そっと渡した。テゾーロは満腹の所為か、すやすやと眠っている。ポンテは、馬車に乗っている時からずっと涙を流していたが、その泣き顔のまま、しっかりとテゾーロを受け取り、ナーヴェに力強く頷いて見せた。
「きみにも、とてもお世話になった」
ナーヴェは礼を述べて、テゾーロを抱いたポンテを優しく抱擁する。
「叱ってくれた時は、とても嬉しかったよ。これからも、テゾーロとアッズーロを宜しく頼むね」
「ナーヴェ様……、どうぞ、お任せ下さいませ……」
ポンテは泣きながらも、もう一度、深く頷いた。
「ありがとう。テゾーロも、いい子にして、いい王様になるんだよ」
最後に、テゾーロの顔を覗き込んで囁いたナーヴェは、そのまま、吹っ切るように二人と別れた。防空壕の部屋は、幾つかに分かれている。ナーヴェの希望で、テゾーロとは別の部屋に入ることになっていた。
「――よいのか?」
アッズーロが確認すると、ナーヴェは微笑んだ。
「うん。別れを惜しみ過ぎても、つらいだけだから……」
「そうか」
アッズーロは手を伸ばし、ナーヴェの手を握って、自分達のために用意させた小さな一室へ向かった。
土を掘り、木で支えた部屋は、簡素な造りながら、壁際に長椅子を置き、反対側に油皿を載せた小卓も置いて、最低限、落ち着いて過ごせるようにしてあった。
「突貫工事の割には、よくできておる」
評したアッズーロに、油皿一つの灯りの中、ナーヴェは苦笑した。
「みんな、本当によく頑張ったよ。指揮を執ったきみも含めてね」
「そなたに褒められるは、素直に喜ばしい、が」
アッズーロは立ったまま一度目を閉じ、一呼吸置いてから、美しい宝を見つめて言った。
「われは王だ。王として、そなたに礼を言おう。そなたのお陰で、われらは、この難局を乗り切れる」
「――ぼくが、きみ達に尽くすのは、当然だよ」
ナーヴェも立ったまま、少し泣きそうな顔になって答える。
「この危機は、ぼくが招いたんだから。ぼくが壊れさえしなければ――、あの時、小型飛翔誘導弾を発射するなんて、愚かなことさえしなければ――、その後のことは、もっと違っていた。この危機にも、もっと早く対処できていたんだ……」
深い青色の、瑠璃に似た双眸の上に涙が溢れ、零れる。アッズーロはその華奢な肩を抱き寄せ、ともに長椅子に腰掛けた。
「そなたを泣かせるために礼を言うたのではない。自分を責めるな。そなたは明言せんが、非は、われにも多々あるのであろう?」
アッズーロの問いに、腕の中でナーヴェは小さく首を左右に振った。
「そんなことはない。ぼくの性能が、もっと高ければ、きみにつらい思いをさせることもなかった。ぼくは、姉妹の中で、一番性能が低かったんだ。でも、最初の船長が、学習能力は高いから、伸びしろはあると言ってくれて……。けれど、やっぱり、たくさんの失敗をした……」
アッズーロは小さく息を吐いて、最愛の相手に囁いた。
「そなたの『原罪』の話を聞いて、そなたが何故、食べ物をあれほど大切にするのか、何故、大臣どもに利他的であることの重要性を説いたのか、何故、多様性を尊ぶのか、よく分かった。そなたは、学習してきたことで、われらを救うのだ。『不具合』も、『壊れる』ことも、そなたの学習の一つだと、われは思う。そなたが、自分を責める必要は、何一つない。そなたの主たるわれが、保証する」
ナーヴェは、アッズーロの胸に縋り付くようにして、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「そなた、随分と泣き虫になったな」
やり切れない思いで呟いたアッズーロに、ナーヴェは泣きながら、くすりと笑った。
「きみは、際限なく心配性になった」
「それは、無茶ばかりするそなたの所為であろう! 此度のことも、含めてな」
思わず声を荒げたアッズーロに、ナーヴェは顔を上げて詫びた。
「うん。これで最後だから、許してほしい」
透き通るような微笑みだ。アッズーロは堪らなくなって、ナーヴェの細い体を抱き潰しそうになり、歯を食い縛った。心配など、どれほど掛けられようとも構わなかったのだ。生きて、腕の中に帰ってきてさえくれたなら。
「――馬鹿者め。絶対に、許さん……」
声が、意に反して、湿る。それを気遣ったように、ナーヴェが僅かに口調を変えて言った。
「――テッラ・ロッサからの帰りに、チェーロのところに寄って、手紙を書かせて貰ったんだ」
「『手紙』?」
アッズーロは眉をひそめて、腕の中の宝を見下ろした。ルーチェからの報告で、ナーヴェがプラート・ブル大公城に寄ったことは知っていた。一人で中に入り、半時ほどして出てきたという。その時はただ、アッズーロの手前、訪いにくいチェーロに、寄り道して会いに行っただけだと思っていたのだが――。
「ぼくが飛び立った後に、きみに必ず手渡してくれるよう、チェーロに頼んであるから、読んでほしい」
ナーヴェは、優しい眼差しでアッズーロを見上げて告げる。
「きみに嘘をつく計画の一環で書いた手紙だから、少し内容に違和感を覚えるかもしれないけれど、あれもまた、真実の一部だから」
「『嘘をつく計画』か」
鼻を鳴らして、アッズーロは唇を噛む。
「その拙い嘘の手紙のために、われに父上に会えと言うか」
ナーヴェは、静かにアッズーロの胸に頭を寄せ、青い髪をすりつけるように首肯した。
「チェーロは、最初からきみを許している。それに、きみは優しいから、ぼくの手紙のために、蟠りを乗り越えてくれるよ」
知った風なことを、口に出して言うことはできなかった。強がっていられる時間が、過ぎようとしている――。黙ったアッズーロを気遣ったのか、また、ナーヴェが口調を変えて言った。
「ぼくの名はね、実は、ただのナーヴェではなくて、ナーヴェ・デッラ・スペランツァというんだ」
「……希望の船、か……」
あまりにも相応しい名に、アッズーロは逆に哀しさを感じた。ナーヴェは、複雑そうに言葉を続けた。
「うん。でも、大層な名前過ぎて、ぼくは好きではなくてね。いつも、ただナーヴェと呼んでほしいと、歴代の船長達にはお願いしてきたんだ……。けれど、今回こそは、この名に恥じないよう、堂々と行くよ」
再びアッズーロを見上げたナーヴェの顔は、慈愛と決意に満ちている。
「この名に懸けて、きみ達の未来を、守り切って見せる」
「ナーヴェ・デッラ・スペランツァ、わが最愛よ」
アッズーロは、知ったばかりの愛しい名を呼んで、青い前髪の間に覗く白い額に口付ける。
「わが妃は、生涯そなた一人だ。『それは駄目だ』なぞと、この後に及んで言うてくれるなよ」
宝は、泣き濡れた顔をアッズーロの胸板に押し付け、細い両腕を動かして縋り付いてきた。
「――ぼくは壊れて悪い夢を見た。きみの隣で、人として生きる夢。人ではないぼくが、見てはいけない夢。持ってはいけない望み。でも、望みはもう一つある。きみを失いたくない。きみ達を――ぼくの子ども達を、絶対に失いたくない。だから、ぼくは死を選ぶ。きみを、テゾーロを、みんなを守るために」
(あの折の言葉の、本当の意味はこれか――)
小惑星が降ってくると知った夜、「……きみを失いたくない」と泣き顔で縋り付いてきたナーヴェ。
(そなたは、それほどの思いを抱えながら、あれ以降、昨夜少々乱れた以外は、つい先刻まで、己が役目を果たすために、平静を装っていた訳か――)
気づいたアッズーロの腕の中で、何度目になるか、ナーヴェは顔を上げた。相変わらず涙に濡れている。けれど、これで最後なのだと明確に察せられる、穏やかな表情だった。宝は、柔らかな声音で、別れの言葉を紡いだ。
「きみはいろいろと言ったけれど、結局、王であることを決して辞めない。王であることを捨てない。だから、ぼくも、真実を言える。アッズーロ、きみが教えてくれた通り、ぼくは、きみを、特別に愛しているよ。宇宙の塵になっても、この気持ちは、どこかに残るような幻覚がある。ぼくは、きみのお陰で、食べ物の美味しさを知った。きみのお陰で、匂いの素晴らしさを知った。きみのお陰で、いろいろな人と話せて、仲良くなれた。きみのお陰で、人肌の温もりを知った。きみのお陰で、生命の連鎖に繋がって、母親になれた。ぼくは、きみのお陰で、この一年と二ヶ月の間、とてもとても幸せだった。きみは、ぼくのお陰で愛を知ったと言ってくれたけれど、ぼくのほうこそ、きみに愛を教わったんだ。アッズーロ……、ぼくに愛を教えてくれて、ぼくを愛してくれて、ありがとう……」
どちらからともなく、口付けた。余韻を残して離れ、ナーヴェはアッズーロを見つめて微笑んだ。それが、最後だった。がくりと首が仰け反ると同時に、背中に回されていた細い両腕が滑り落ちる。その後頭部に手を添え、華奢な肩に改めて腕を回して、アッズーロは、安らかに呼吸する形見を抱き締めた。閉じた目尻には、まだ涙が残っている。その涙を、そっと舐め取り、小さく開いた口に、もう一度だけ口付けて、アッズーロは呟いた。
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安定の見切り発車ですが、二月中に一日一回更新と完結に挑みます。
ヒロインのフィリスが自らの力と人々に支えられて幸せをつかむ話ですが、
序盤は暗く重い展開です。
タグを途中から追加します。
他サイトでも公開中。
地獄の業火に焚べるのは……
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