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第十章 星の海から帰る 二
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二
(そろそろ、きみがぼくの手紙を読んでいる頃かな……)
青い惑星は現在、ナーヴェから見て、左角百六十七度、俯角三十四度の位置にある。一度惑星オリッゾンテ・ブルから遠ざかり、その後、小惑星と並走して再び接近していく予定航路の、七分の一を過ぎた辺りだ。
(嘘をつくなんて、慣れないことを入れた時点で、ぼくの計画は破綻していたね……)
ナーヴェは、自嘲気味に考察する。
(もともと嘘をつくという機能がなかった代わりに、ぼくは言わないという機能を磨いてきたんだ。話を逸らしたり、知っていても黙っていたりね。最初から、その機能だけを使う計画を立てていればよかったよ……)
アッズーロは、手紙を読んでどう受け止めるだろうか。チェーロと上手く話せるだろうか。
(その手紙は、嘘をつく計画の一環ではあったけれど、別れ際に言った通り、ぼくがそこに記したことは真実の一部で、決して嘘ではないから、アッズーロ。本当の「王の宝」は、きみの許にある。きみはこれからも宝を守り、そして、宝に守られて、生きていってほしい――)
プラート・ブル大公チェーロは、先触れ通り半時後に、馬車に乗って現れた。
「――お久し振りです、父上」
椅子から立って迎えたアッズーロに、仮小屋へ入ってきた父は、優しい笑みを浮かべた。
(あなたは、いつもそうですね)
アッズーロは胸中で呟きながら、身振りで父に椅子を勧めた。
「そなた、背が伸びたな」
父は、目を細め、レーニョが引いた椅子に腰掛けた。傍らには、ぴたりと一人の従僕が付き添う。灰褐色の髪をした、十代半ばの少年だ。
「聞いておろうが、ナーヴェの手紙を預かっておる」
父は、上着の内隠しから封筒を取り出し、差し出した。アッズーロは待ち侘びていた手紙を受け取り、自らも椅子に座りながら、検める。封筒に記された宛て名は、「王へ」。そして差出人は、「王の宝を守る船より」となっていた。左利きの癖が表れた、丁寧な字だ。
アッズーロは、レーニョから小刀を受け取って、慎重に封を開けた。便箋はただ一枚きり。だが、その紙面一杯に、ナーヴェの字が並んでいた。
手紙は、問いかけから始まっていた。
[親愛なるアッズーロ、「王の宝」とは、何だと思う?
ぼくはかつて、きみに、ぼくが王の宝であると名乗り、次に、本当の宝は、ぼくが守る先人達の知識や情報だと告げた。でも、ぼくも、この一年を掛けて、漸く気づいたんだ。本当に本当の「王の宝」は、人々なんだよ。
ぼくは肉体を持つまで、機能上、船長一人としか会話できなかった。命令系統に混乱を生じさせないために、そういうふうに造られた。でも、肉体を持って、いろいろな人と会話できるようになって、悟ったんだ。ウッチェーロは、ぼくに「王の宝」という呼び名を与え、祖先達の知識と情報を守り、きみ達に教えるよう命じたけれど、本当の「王の宝」は――王が宝として守るべきなのは、人々なんだ、と。ぼくも、ぼくが守る知識や情報も、人々を守るためにこそ使われるべきものだったんだ。きみがこの手紙を読む頃、ぼくや、ぼくが守る知識と情報は、きみの手の届かないところへ行ってしまっているだろう。でも、どうか、落胆しないでほしい。きみが守るべき宝は、きみの目の前に在る。きみが守る人々を、ぼくも守るために、ぼくは、最期まで、最善を尽くすよ。
最後に、謝罪をさせてほしい。本体と肉体との間で生じる齟齬――不具合で、ぼくは随分ときみを傷つけた。本当に、申し訳なかったと思っている。あくまで全体主義、博愛主義の本体と、きみときみの周りの人々を特に愛する肉体と。二つの体は、時折、全く相容れない言動を思考回路に要求した。けれど、やっぱりぼくは、船だ。人としての姿は、あくまで親しみを持って貰うための表層に過ぎない。人はみんな基本的に平等であるべきなのに、特に大切な人と、そうではない人とに分けて捉えてしまう、この感覚を持った時点で、ぼくは壊れていたんだ。レーニョが撃たれた時、フェッロを殺しそうになって、ぼくは決定的に壊れた。これ以上壊れていけば、ぼくは人を差別して攻撃する、恐ろしい兵器になってしまう。だから、小惑星から、きみ達みんなを守って、機能停止できることは、とても嬉しいことなんだ。ぼくは、船として――移民船としての生を、全うする。
きみ達みんなを、最期の瞬間まで、愛しているよ。ナーヴェ・デッラ・スペランツァ
追伸
フィオーレとレーニョ、ペルソーネとジョールノのことは、是非応援してあげてほしい]
(あやつめ……)
アッズーロは目を眇めつつも、父の手前、冷静さを保ち、胸中で呟く。
(嘘をつく計画の一環であり、真実の一部、か……。確かにな)
記されているのは、移民船としての、本来のナーヴェの意思なのだろう。けれど、アッズーロと出会ってのちの、肉体を持ち、人々と触れ合い、ああも泣き虫になった、ナーヴェの本音は記されていない。意図的に隠されている。
(このような文面で、われを騙せるものか)
溜め息をついて、アッズーロは便箋を封筒に注意深く仕舞い、目を上げた。
「父上、わざわざ御足労頂き、ありがとうございます。ナーヴェは、父上を訪ねた折、何か言うておりましたか」
「そなたが、如何によい王か、嬉しげに話しておった。勤勉で、決断力があり、身の周りの者達に慕われている、と。ただ少々、独断専行に走るきらいがあるから心配だ、と」
(どちらが「独断専行」だ……)
アッズーロは黙ったまま鼻を鳴らした。父は穏やかに話し続けた。
「姉上からも聞いておったが、実際、会うてみると、あれが、如何に人になったかが、よう分かった。そなたが、あれを人にしたのだな。優しくとも、慈悲深くとも、どこかしら浮世離れして、淡泊であったあれが、そなたのことを、心の底から案じておった。あくまで、王の宝としての立場を貫いて語りながら、伴侶として、そなたのことを思いやる気持ちが滲み出ておった……」
「そうですか」
極力感情を表に出さず、素っ気なく相槌を打ったアッズーロに、父は告げた。
「あれは、船として降りくる星を迎え撃ちに行った後は、もう戻ってこられぬと言うておった。機能を停止する――死ぬのだと。わしが、そなたの母を失うた時は、随分と長い間、何もする気が起きず、困ったものだ。そなたは、やはり、わしなぞより、国王に相応しい」
先王は、少年侍従の助けを借りて、ゆっくりと椅子から立ち上がった。アッズーロは、言うべき言葉が見つからず、椅子に掛けたまま父を見上げる。父は、仄かに笑んだ。
「この大変な折に、国王の時を長く奪う訳にはいかぬ。また、落ち着いた折に、あれの話なぞ、できればよいな……」
立ち去る父を、ただ見送り、暫くしてからアッズーロは手紙を手に、立ち上がった。
(誰が、「国王に相応しい」のだ……)
今の心境では、政務など手に付かない。アッズーロは、レーニョを残して、防空壕へ行った。
「陛下?」
フィオーレが驚いた声を上げた。一緒にいたミエーレが、慌てて部屋の入り口へ跳び出してくる。
「陛下、ただ今は、少々憚りが……」
小柄なミエーレの頭越しに覗いてみれば、フィオーレがナーヴェの筒袴を脱がせて、襁褓を替えているところだった。アッズーロが来ない時間帯を狙って行なっていたものらしい。
「別に構わん……が、邪魔になるか。よい。われはここで待つ」
アッズーロは、入り口外の土壁に凭れた。
「陛下、申し訳ございません……」
フィオーレが作業を続けながら、謝ってくる。アッズーロは小さく息を吐いた。
「おまえが詫びる必要はない。政務を放り出してきた、われのほうに咎がある。それに……、わが妃も、そのようなことでは怒らぬ。肉体を持つ前の二週間は、そやつのほうが、われの手洗い場までついて来ておったらしいからな。これで相子だ」
「……そうなのでございますか……?」
ミエーレが驚いたように大きな目を瞬いた。
「うむ」
アッズーロは微苦笑する。
「そやつめ、初めて肉体で用を足した後、われに言うたのだ。『用を足すというのは、予測外に快感があるものなんだね。きみ達が何故いつも気持ちよさそうだったのか、よく理解できたよ』とな」
ミエーレは、やや引き攣るような笑みを浮かべた。あの時のアッズーロも、似たような表情をしていただろう。
――「そなた、われが用を足すところを見ておったのか」
問い詰めたアッズーロに、ナーヴェはすまなそうに頷いた。
――「うん。きみに接続している間は、ずっときみの視覚と聴覚を共有しているから、気持ちよさそうなのも、息遣いや声から、分かってしまったというか……。落ち着かないかと思って、手洗い場では、姿を見えないようにしていたんだけれど」
臆面もなく言われて、アッズーロは怒りを通り越して呆れてしまったのだが、今ではあれも、懐かしい思い出の一つだ。
「陛下、お待たせ致しました」
フィオーレが、汚れ物を入れた手桶を抱え、油皿を片手に部屋から出てきた。
「急がせた。許せ」
詫びて、アッズーロは入れ替わりに部屋に入った。ミエーレも、気を利かせたのか、フィオーレとともに姿を消している。アッズーロは、手にしていた油皿を小卓に置いて自らの長椅子に腰掛け、ナーヴェの寝顔を見つめた。
衣を整えられ、掛布を掛けられたナーヴェは、相変わらず穏やかに眠っている。けれども、目の辺りの陰影が増し、少しやつれてきたようにも見える。
「……馬鹿者め」
アッズーロは呟いて、手にした封筒から便箋を再び取り出した。
「このような文面で、われを騙せると思うたか」
返事はない。
「そなたが、どれだけわれに、人らしい面を見せてきたか、分かっておらん」
食べる時、寝る時、人と話す時、人と働く時、夜を過ごす時、赤子をあやす時――。
アッズーロは便箋を封筒に仕舞い、上着の内隠しに入れて立ち上がった。ナーヴェの長椅子へ腰掛け、その青い髪を指で梳く。フィオーレ達が毎日丁寧に櫛梳っているので、青い髪は滑らかだ。この愛おしい体は、いつまでもつのだろうか。
アッズーロは、ナーヴェの白い頬を撫で、閉じた目の青い睫毛に触れてから、身を屈めた。閉じた唇に、そっと唇を重ねる。けれど、整った歯列に阻まれて、それ以上は無理だった。思えば、ナーヴェは、最初にアッズーロが「少し、口を開け」と命じて以来、いつも自ら口を開いて受け入れてくれていたのだ。アッズーロは悲しく顔をしかめて、体を離した。湿らせてしまったナーヴェの唇を指先で優しく拭い、アッズーロは腰を上げる。政務に戻らねばならない。それが、ナーヴェの望みだ。
「また来る」
囁いて、アッズーロは小卓から油皿を取り、小部屋を後にした。
(そろそろ、きみがぼくの手紙を読んでいる頃かな……)
青い惑星は現在、ナーヴェから見て、左角百六十七度、俯角三十四度の位置にある。一度惑星オリッゾンテ・ブルから遠ざかり、その後、小惑星と並走して再び接近していく予定航路の、七分の一を過ぎた辺りだ。
(嘘をつくなんて、慣れないことを入れた時点で、ぼくの計画は破綻していたね……)
ナーヴェは、自嘲気味に考察する。
(もともと嘘をつくという機能がなかった代わりに、ぼくは言わないという機能を磨いてきたんだ。話を逸らしたり、知っていても黙っていたりね。最初から、その機能だけを使う計画を立てていればよかったよ……)
アッズーロは、手紙を読んでどう受け止めるだろうか。チェーロと上手く話せるだろうか。
(その手紙は、嘘をつく計画の一環ではあったけれど、別れ際に言った通り、ぼくがそこに記したことは真実の一部で、決して嘘ではないから、アッズーロ。本当の「王の宝」は、きみの許にある。きみはこれからも宝を守り、そして、宝に守られて、生きていってほしい――)
プラート・ブル大公チェーロは、先触れ通り半時後に、馬車に乗って現れた。
「――お久し振りです、父上」
椅子から立って迎えたアッズーロに、仮小屋へ入ってきた父は、優しい笑みを浮かべた。
(あなたは、いつもそうですね)
アッズーロは胸中で呟きながら、身振りで父に椅子を勧めた。
「そなた、背が伸びたな」
父は、目を細め、レーニョが引いた椅子に腰掛けた。傍らには、ぴたりと一人の従僕が付き添う。灰褐色の髪をした、十代半ばの少年だ。
「聞いておろうが、ナーヴェの手紙を預かっておる」
父は、上着の内隠しから封筒を取り出し、差し出した。アッズーロは待ち侘びていた手紙を受け取り、自らも椅子に座りながら、検める。封筒に記された宛て名は、「王へ」。そして差出人は、「王の宝を守る船より」となっていた。左利きの癖が表れた、丁寧な字だ。
アッズーロは、レーニョから小刀を受け取って、慎重に封を開けた。便箋はただ一枚きり。だが、その紙面一杯に、ナーヴェの字が並んでいた。
手紙は、問いかけから始まっていた。
[親愛なるアッズーロ、「王の宝」とは、何だと思う?
ぼくはかつて、きみに、ぼくが王の宝であると名乗り、次に、本当の宝は、ぼくが守る先人達の知識や情報だと告げた。でも、ぼくも、この一年を掛けて、漸く気づいたんだ。本当に本当の「王の宝」は、人々なんだよ。
ぼくは肉体を持つまで、機能上、船長一人としか会話できなかった。命令系統に混乱を生じさせないために、そういうふうに造られた。でも、肉体を持って、いろいろな人と会話できるようになって、悟ったんだ。ウッチェーロは、ぼくに「王の宝」という呼び名を与え、祖先達の知識と情報を守り、きみ達に教えるよう命じたけれど、本当の「王の宝」は――王が宝として守るべきなのは、人々なんだ、と。ぼくも、ぼくが守る知識や情報も、人々を守るためにこそ使われるべきものだったんだ。きみがこの手紙を読む頃、ぼくや、ぼくが守る知識と情報は、きみの手の届かないところへ行ってしまっているだろう。でも、どうか、落胆しないでほしい。きみが守るべき宝は、きみの目の前に在る。きみが守る人々を、ぼくも守るために、ぼくは、最期まで、最善を尽くすよ。
最後に、謝罪をさせてほしい。本体と肉体との間で生じる齟齬――不具合で、ぼくは随分ときみを傷つけた。本当に、申し訳なかったと思っている。あくまで全体主義、博愛主義の本体と、きみときみの周りの人々を特に愛する肉体と。二つの体は、時折、全く相容れない言動を思考回路に要求した。けれど、やっぱりぼくは、船だ。人としての姿は、あくまで親しみを持って貰うための表層に過ぎない。人はみんな基本的に平等であるべきなのに、特に大切な人と、そうではない人とに分けて捉えてしまう、この感覚を持った時点で、ぼくは壊れていたんだ。レーニョが撃たれた時、フェッロを殺しそうになって、ぼくは決定的に壊れた。これ以上壊れていけば、ぼくは人を差別して攻撃する、恐ろしい兵器になってしまう。だから、小惑星から、きみ達みんなを守って、機能停止できることは、とても嬉しいことなんだ。ぼくは、船として――移民船としての生を、全うする。
きみ達みんなを、最期の瞬間まで、愛しているよ。ナーヴェ・デッラ・スペランツァ
追伸
フィオーレとレーニョ、ペルソーネとジョールノのことは、是非応援してあげてほしい]
(あやつめ……)
アッズーロは目を眇めつつも、父の手前、冷静さを保ち、胸中で呟く。
(嘘をつく計画の一環であり、真実の一部、か……。確かにな)
記されているのは、移民船としての、本来のナーヴェの意思なのだろう。けれど、アッズーロと出会ってのちの、肉体を持ち、人々と触れ合い、ああも泣き虫になった、ナーヴェの本音は記されていない。意図的に隠されている。
(このような文面で、われを騙せるものか)
溜め息をついて、アッズーロは便箋を封筒に注意深く仕舞い、目を上げた。
「父上、わざわざ御足労頂き、ありがとうございます。ナーヴェは、父上を訪ねた折、何か言うておりましたか」
「そなたが、如何によい王か、嬉しげに話しておった。勤勉で、決断力があり、身の周りの者達に慕われている、と。ただ少々、独断専行に走るきらいがあるから心配だ、と」
(どちらが「独断専行」だ……)
アッズーロは黙ったまま鼻を鳴らした。父は穏やかに話し続けた。
「姉上からも聞いておったが、実際、会うてみると、あれが、如何に人になったかが、よう分かった。そなたが、あれを人にしたのだな。優しくとも、慈悲深くとも、どこかしら浮世離れして、淡泊であったあれが、そなたのことを、心の底から案じておった。あくまで、王の宝としての立場を貫いて語りながら、伴侶として、そなたのことを思いやる気持ちが滲み出ておった……」
「そうですか」
極力感情を表に出さず、素っ気なく相槌を打ったアッズーロに、父は告げた。
「あれは、船として降りくる星を迎え撃ちに行った後は、もう戻ってこられぬと言うておった。機能を停止する――死ぬのだと。わしが、そなたの母を失うた時は、随分と長い間、何もする気が起きず、困ったものだ。そなたは、やはり、わしなぞより、国王に相応しい」
先王は、少年侍従の助けを借りて、ゆっくりと椅子から立ち上がった。アッズーロは、言うべき言葉が見つからず、椅子に掛けたまま父を見上げる。父は、仄かに笑んだ。
「この大変な折に、国王の時を長く奪う訳にはいかぬ。また、落ち着いた折に、あれの話なぞ、できればよいな……」
立ち去る父を、ただ見送り、暫くしてからアッズーロは手紙を手に、立ち上がった。
(誰が、「国王に相応しい」のだ……)
今の心境では、政務など手に付かない。アッズーロは、レーニョを残して、防空壕へ行った。
「陛下?」
フィオーレが驚いた声を上げた。一緒にいたミエーレが、慌てて部屋の入り口へ跳び出してくる。
「陛下、ただ今は、少々憚りが……」
小柄なミエーレの頭越しに覗いてみれば、フィオーレがナーヴェの筒袴を脱がせて、襁褓を替えているところだった。アッズーロが来ない時間帯を狙って行なっていたものらしい。
「別に構わん……が、邪魔になるか。よい。われはここで待つ」
アッズーロは、入り口外の土壁に凭れた。
「陛下、申し訳ございません……」
フィオーレが作業を続けながら、謝ってくる。アッズーロは小さく息を吐いた。
「おまえが詫びる必要はない。政務を放り出してきた、われのほうに咎がある。それに……、わが妃も、そのようなことでは怒らぬ。肉体を持つ前の二週間は、そやつのほうが、われの手洗い場までついて来ておったらしいからな。これで相子だ」
「……そうなのでございますか……?」
ミエーレが驚いたように大きな目を瞬いた。
「うむ」
アッズーロは微苦笑する。
「そやつめ、初めて肉体で用を足した後、われに言うたのだ。『用を足すというのは、予測外に快感があるものなんだね。きみ達が何故いつも気持ちよさそうだったのか、よく理解できたよ』とな」
ミエーレは、やや引き攣るような笑みを浮かべた。あの時のアッズーロも、似たような表情をしていただろう。
――「そなた、われが用を足すところを見ておったのか」
問い詰めたアッズーロに、ナーヴェはすまなそうに頷いた。
――「うん。きみに接続している間は、ずっときみの視覚と聴覚を共有しているから、気持ちよさそうなのも、息遣いや声から、分かってしまったというか……。落ち着かないかと思って、手洗い場では、姿を見えないようにしていたんだけれど」
臆面もなく言われて、アッズーロは怒りを通り越して呆れてしまったのだが、今ではあれも、懐かしい思い出の一つだ。
「陛下、お待たせ致しました」
フィオーレが、汚れ物を入れた手桶を抱え、油皿を片手に部屋から出てきた。
「急がせた。許せ」
詫びて、アッズーロは入れ替わりに部屋に入った。ミエーレも、気を利かせたのか、フィオーレとともに姿を消している。アッズーロは、手にしていた油皿を小卓に置いて自らの長椅子に腰掛け、ナーヴェの寝顔を見つめた。
衣を整えられ、掛布を掛けられたナーヴェは、相変わらず穏やかに眠っている。けれども、目の辺りの陰影が増し、少しやつれてきたようにも見える。
「……馬鹿者め」
アッズーロは呟いて、手にした封筒から便箋を再び取り出した。
「このような文面で、われを騙せると思うたか」
返事はない。
「そなたが、どれだけわれに、人らしい面を見せてきたか、分かっておらん」
食べる時、寝る時、人と話す時、人と働く時、夜を過ごす時、赤子をあやす時――。
アッズーロは便箋を封筒に仕舞い、上着の内隠しに入れて立ち上がった。ナーヴェの長椅子へ腰掛け、その青い髪を指で梳く。フィオーレ達が毎日丁寧に櫛梳っているので、青い髪は滑らかだ。この愛おしい体は、いつまでもつのだろうか。
アッズーロは、ナーヴェの白い頬を撫で、閉じた目の青い睫毛に触れてから、身を屈めた。閉じた唇に、そっと唇を重ねる。けれど、整った歯列に阻まれて、それ以上は無理だった。思えば、ナーヴェは、最初にアッズーロが「少し、口を開け」と命じて以来、いつも自ら口を開いて受け入れてくれていたのだ。アッズーロは悲しく顔をしかめて、体を離した。湿らせてしまったナーヴェの唇を指先で優しく拭い、アッズーロは腰を上げる。政務に戻らねばならない。それが、ナーヴェの望みだ。
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囁いて、アッズーロは小卓から油皿を取り、小部屋を後にした。
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