68 / 105
第十七章 罪ある者達 三
しおりを挟む
三
右肩の銃創を綺麗に縫合し直され、包帯を巻き直されて、改めて固定具を着けられたナーヴェは、それでも目覚めず、静かに眠り続けている。
「とにかく、絶対安静です」
強い口調で言い残して、メーディコは退室していった。
アッズーロは深い溜め息をついて、ナーヴェの寝台に歩み寄ると、治療のため、右肩の部分を斬り裂かれた長衣を脱がせ始めた。フィオーレがおろおろと胸の前で両手を組み合わせているが、手伝いは命じず、長衣をナーヴェの頭のほうから抜いて脱がせ、胸当ても外し、筒袴も下袴も脱がせてしまう。全裸にした最愛の傷ついた体を見下ろし、アッズーロはフィオーレに指示した。
「濡らして絞った手巾をこれへ」
「はい、ただ今」
一礼して、フィオーレはすぐに衣装箱の一つから手巾を取り出し、手桶に入れて持ってきてあった水に浸して絞る。捧げ渡された手巾を受け取り、アッズーロは、窓から燦々と降り注ぐ朝日の中、ナーヴェの白い体を隅々まで拭いて清めた。それでも、ナーヴェは目覚めない。穏やかに呼吸したまま、どこに触れられようと、されるがままだ。
(もし、壊れたそなたが、既にこの肉体に接続していなかったとしたら……)
小惑星の迎撃に旅立った時と同様に、肉体は目覚めぬまま、衰弱していくことになる。
(それは、わが罪科に対する、神ウッチェーロの罰かもしれんな……)
王としての役目を満足に果たさなかったアッズーロから、神は、最愛を奪おうとしているのかもしれない。アッズーロは、それだけのことをしたのだ。
(われは、王の宝を所持するに相応しくなかった……)
項垂れたアッズーロに、フィオーレがナーヴェの新たな下袴を差し出してきた。その表情が、不安げだ。フィオーレもまた、目覚めないナーヴェを心底心配しているのだろう。
(そうだ、ナーヴェ)
アッズーロは、顔を上げて手巾と交換に下袴を受け取り、ナーヴェの寝顔を見る。
(そなたは、既にわれ一人の宝ではない。そなたは、この一年と三ヶ月で、実に多くの者と心を通わせた。そなたは、皆の宝だ。そなたの愛する、そなたの「子どもみたいな」者達の宝だ。そなたを慕う者達に、もう一度笑顔を見せよ。もう一度、言葉を交わせ。われのためではない。彼らのために、頼む、目覚めよ、ナーヴェ)
祈るように胸中で語り掛けながら、アッズーロは最愛の華奢な体へ、下袴を穿かせ、フィオーレが差し出す順に、胸当てと筒袴と長衣も纏わせた。
自身の着替えも済ませ、一人の朝食を終えたアッズーロは、すぐに大臣会議へ赴いた。
開口一番、ナーヴェの体調が優れないことを伝え、「王の宝が民の前で本領を発揮する」作戦については、保留するよう命じた。残りの「テッラ・ロッサとの交渉」作戦と「羊の病への対処」作戦については、各担当大臣に検討した内容を報告させた。その上で、未明に練った幾つかの作戦を大臣達に伝え、バーゼにも議論に参加させて詳細を詰めさせた。そこまでで正午となった。
「一度昼食休憩とする。午後からは、更に各作戦の詳細と連携を詰めていくゆえ、各自そのつもりで足りぬ資料等集めておくがよい」
命じて、アッズーロは王座を立ち、頭を下げた大臣達とバーゼの前を通って、会議室を出た。足早に回廊を歩き、寝室に戻ると、ナーヴェはまだ静かに眠っていた。控えているフィオーレも、悲しげな顔で首を横に振る。ずっと眠ったままなのだ。
(やはり、そなたはもう目覚めんのか……?)
一度、庭園に鎮座している本体のほうへ話し掛けてみるべきなのかもしれない。或いは、執務机の引き出しに大切に仕舞っている通信端末を使うべきなのか。アッズーロは沈痛な思いを懐きながら、安らかな寝顔を見下ろし、その白い頬にそっと触れた。途端に、青い睫毛が揺れ、ゆっくりと両眼が開く。深い青色の双眸が、眩しげにアッズーロを見上げた。
「そなた、大丈夫なのか……?」
思わず寝台に片膝を乗せ、片手を突いて、アッズーロは最愛の顔を間近から見る。ナーヴェはすまなそうに微笑んだ。
「心配掛けたね。昨夜は、無理を言ってごめん。それに、極小機械の操作にほぼ専念しながら、記録の上書き保存もするために、きみへの応答機能は途中から三歳児並に落としていたから、不安にさせただろう? でもお陰で、しっかり眠れたよ。ただ、彼らと何があったかの記録は、予備情報として肉体の感覚記憶からは切り離したところに保存したものだけ残して、後はきみとの記録で上書きしてしまったから、すぐには再生できなくなって――、つまり、詳細は報告できなくなって、申し訳ないんだけれど」
「それは、即ち、『忘れた』ということか……?」
確かめたアッズーロに、ナーヴェは嬉しげに頷いた。
「うん。まさにそういうことだよ。きみは本当に理解が早くて助かるよ」
何でもないことのように言われた内容だが、アッズーロは深刻に受け止めざるを得なかった。三千年に渡る詳細な記憶を持つナーヴェが、「忘れ」なければいけない記憶だったのだ――。
「それで……」
ナーヴェは言葉を継ぐ。
「応答機能を三歳児並に落としてまで、極小機械の操作に集中しなければいけなかった理由なんだけれど……」
アッズーロは目を瞬いた。
「右肩の治療のためではないのか?」
「うん。途中から、もう一つ、しなければならないことが増えて……」
ナーヴェの返答は珍しく歯切れが悪い。アッズーロは眉をひそめた。
「他にも、酷く痛めているところがあったのか」
内臓などに損傷が見つかったのだろうか――。
悪い報せを受け止める覚悟を決めて、答えを待ったアッズーロに、ナーヴェは白い頬を僅かに赤らめ、けれど青い双眸には不安げな色を湛えて、告げた。
「妊娠、したんだ。今度は、女の子だよ」
アッズーロは口を開け、何も言えず息を吸ってから、乾いた声で問うた。
「――しかし、そなた、月のものがまだだったではないか……」
テゾーロを出産してから、ナーヴェには一度も月経がなかった。だから、そんなことになろうとは、全く予想していなかったのだ。
「うん。でも、十日後には来る予定だったんだ……」
ナーヴェは、複雑そうに説明する。
「そうして、準備ができていたところに、きみの分身が来たから……。ぼくが強引に頼んでしまった所為なんだけれど……。喜んで、くれるかい……?」
心配そうに訊いてきた最愛の眼差しに、アッズーロは自分を殴りつけたい衝動に駆られた。
「当たり前であろう……!」
傷ついた華奢な体に、そっと覆い被さって抱擁しながら、アッズーロは激しい後悔を繰り返す。何故、自分は、妊娠した最愛に、こんな表情をさせているのだろう。
(われは、そなたの妊娠を喜ぶこともできぬ、余裕のない男に見えたか)
情けない、不甲斐ない夫だ。
「ナーヴェ、体を厭え。必ず、無事に子を産んでくれ」
アッズーロが囁き掛けると、漸く、ナーヴェから嬉しげな声が返ってきた。
「うん。そうさせて貰うよ」
自由に動く左手が、アッズーロの背に回り、優しく抱擁し返してくれる。
「名前は、どうしようか……?」
高揚を乗せた問いに、アッズーロは微笑んで僅かに身を起こし、最愛の顔を見下ろした。
「テゾーロの時は、われが考えたゆえ、此度は、そなたが考えるがよい。何か案はあるのか?」
「うん」
最愛は、幸せそうにアッズーロを見つめ返す。
「セーメ、というのはどうかな?」
植物の種という意味だ。
「よい名ではないか。響きもよい。この子は、セーメだ」
アッズーロは体をずらし、まだ何の膨らみもない最愛の腹を、愛おしく撫でた。
「……おめでとうございます、陛下、妃殿下……」
感極まった涙声に振り向けば、フィオーレが嬉し泣きをしている。まるでナーヴェの身内のようだ。アッズーロは微苦笑し、命じた。
「フィオーレ、厨房に、干し杏と林檎果汁を用意するよう伝えよ。これからの王妃の食事は、全て悪阻に備えたものに致す」
「畏まりました」
一礼して、フィオーレはすぐに退室していった。
アッズーロが特に口止めをしなかったので、王妃懐妊の報は、瞬く間に王城中に広がった。主に厨房から広まったその報にバーゼが接したのは、午後の大臣会議へ出席する直前だった。厨房へ、昼食の食器を返しに行った時に、同じく厨房へ食器を持ってきていた女官達の話が聞こえてきたのだ。
「ナーヴェ様がまた御懐妊なさったそうよ……!」
「テゾーロ様が産まれて三ヶ月も経っていないのに……?」
「あの陛下の溺愛振りを見れば、少しも意外ではないわよ」
「ナーヴェ様が最近、御体調の優れないことが多いのは、その所為だったのね」
「それは分からないけれど、でも、これからは本当に御体調に気を付けていかないと……!」
「そうね。厨房にはもう悪阻に備えた食事を用意するよう、陛下から御下命があったそうよ」
「さすが陛下。何でも手早くていらっしゃる」
「お子を作るのも、ね」
「まあ、あなた失敬よ……!」
女官達のさざめく声を背に、食器を返したバーゼは、ふらつきそうになる体を壁に手を突いて支えながら懸命に廊下を歩いた。
(まさか、御懐妊というのは、昨日、あの男達に凌辱された時の――)
血の気が引いていく。王の宝ナーヴェは、体内に極小機械というものを持っていて、自身の肉体の状態を立ち所に把握することができると聞いている。懐妊などもそれで即座に分かるのだという。
(でも、ナーヴェ様は、「彼らの分身は、全部、極小機械で殺した。妃として、きみ以外の子を妊娠する訳にはいかないから」と仰っていた。なら、やはりお子は、アッズーロ陛下の……?)
しかし、あの状態のナーヴェを、アッズーロが抱くことはないはずだ。普段からの溺愛振りを見ていれば、それは確信を持って言える。
(もし、御懐妊が、あの男達の誰かの所為だったとしたら……、わたしは、償いようのないことを……)
「バーゼ殿、どうしました?」
不意に声を掛けられて、バーゼは顔を上げた。会議室へ続く回廊の途中、黒い肌の青年が、心配そうにバーゼを見下ろしている。軍務担当大臣カヴァッロ伯ムーロだ。
「顔色が悪いですよ? 激務の後、休暇もなく連日大臣会議に出席では、体を休める間もないでしょうが……」
優しいムーロの言葉に、バーゼは無理に微笑んだ。
「大丈夫です。少し眩暈がしただけで……。会議の間は、どうせ座っていますから、すぐ治るでしょう」
「そうですか。しかし、無理は禁物です。あなたは、とても有能な方ですが、どうも勤勉過ぎるきらいがある。気を付けて下さい」
「――ありがとうございます……」
礼を述べて頭を下げたバーゼに、会釈を返して、ムーロは会議室の入り口へ戻っていった。わざわざ近づいてきて労わってくれたのだ。
「バーゼ」
今度は背後から声を掛けられて、バーゼはびくりと背筋を伸ばした。国王アッズーロの声だ。いつもは、大臣達が全員着席した頃に現れるのに、どうした風の吹き回しだろう。
「陛下……」
懐妊のことを寿ぐべきかどうか迷って、バーゼは青年王に向き直ったまま言葉に詰まってしまった。
「何だ、その顔は」
青年王はいつものように鼻を鳴らし、そして言った。
「やはり、わが妃の案じていた通りか」
何のことかと、伏せていた目を僅かに上げたバーゼに、青年王は尊大に告げた。
「わが妃が懐妊したは、間違いなくわれの子だ。昨夜、われが抱いた時に宿ったのだ。おまえが懸念するには及ばん。――と、おまえに伝えよと、わが妃が喧しかった」
「……それで、早めにお越し下さったのですか……?」
驚いてバーゼが問うと、青年王は笑みを浮かべた。
「おまえの働きは、これからも重要ゆえな。有能な臣下のために、多少の時間を割くくらいは致そう」
「……ありがとうございます……!」
深々と頭を下げたバーゼの横を、青年王は大股に通り過ぎていった。お陰で、懐妊の祝いは言えなかったが、バーゼの胸中は安堵に満ちて、会議に向かうことができたのだった。
右肩の銃創を綺麗に縫合し直され、包帯を巻き直されて、改めて固定具を着けられたナーヴェは、それでも目覚めず、静かに眠り続けている。
「とにかく、絶対安静です」
強い口調で言い残して、メーディコは退室していった。
アッズーロは深い溜め息をついて、ナーヴェの寝台に歩み寄ると、治療のため、右肩の部分を斬り裂かれた長衣を脱がせ始めた。フィオーレがおろおろと胸の前で両手を組み合わせているが、手伝いは命じず、長衣をナーヴェの頭のほうから抜いて脱がせ、胸当ても外し、筒袴も下袴も脱がせてしまう。全裸にした最愛の傷ついた体を見下ろし、アッズーロはフィオーレに指示した。
「濡らして絞った手巾をこれへ」
「はい、ただ今」
一礼して、フィオーレはすぐに衣装箱の一つから手巾を取り出し、手桶に入れて持ってきてあった水に浸して絞る。捧げ渡された手巾を受け取り、アッズーロは、窓から燦々と降り注ぐ朝日の中、ナーヴェの白い体を隅々まで拭いて清めた。それでも、ナーヴェは目覚めない。穏やかに呼吸したまま、どこに触れられようと、されるがままだ。
(もし、壊れたそなたが、既にこの肉体に接続していなかったとしたら……)
小惑星の迎撃に旅立った時と同様に、肉体は目覚めぬまま、衰弱していくことになる。
(それは、わが罪科に対する、神ウッチェーロの罰かもしれんな……)
王としての役目を満足に果たさなかったアッズーロから、神は、最愛を奪おうとしているのかもしれない。アッズーロは、それだけのことをしたのだ。
(われは、王の宝を所持するに相応しくなかった……)
項垂れたアッズーロに、フィオーレがナーヴェの新たな下袴を差し出してきた。その表情が、不安げだ。フィオーレもまた、目覚めないナーヴェを心底心配しているのだろう。
(そうだ、ナーヴェ)
アッズーロは、顔を上げて手巾と交換に下袴を受け取り、ナーヴェの寝顔を見る。
(そなたは、既にわれ一人の宝ではない。そなたは、この一年と三ヶ月で、実に多くの者と心を通わせた。そなたは、皆の宝だ。そなたの愛する、そなたの「子どもみたいな」者達の宝だ。そなたを慕う者達に、もう一度笑顔を見せよ。もう一度、言葉を交わせ。われのためではない。彼らのために、頼む、目覚めよ、ナーヴェ)
祈るように胸中で語り掛けながら、アッズーロは最愛の華奢な体へ、下袴を穿かせ、フィオーレが差し出す順に、胸当てと筒袴と長衣も纏わせた。
自身の着替えも済ませ、一人の朝食を終えたアッズーロは、すぐに大臣会議へ赴いた。
開口一番、ナーヴェの体調が優れないことを伝え、「王の宝が民の前で本領を発揮する」作戦については、保留するよう命じた。残りの「テッラ・ロッサとの交渉」作戦と「羊の病への対処」作戦については、各担当大臣に検討した内容を報告させた。その上で、未明に練った幾つかの作戦を大臣達に伝え、バーゼにも議論に参加させて詳細を詰めさせた。そこまでで正午となった。
「一度昼食休憩とする。午後からは、更に各作戦の詳細と連携を詰めていくゆえ、各自そのつもりで足りぬ資料等集めておくがよい」
命じて、アッズーロは王座を立ち、頭を下げた大臣達とバーゼの前を通って、会議室を出た。足早に回廊を歩き、寝室に戻ると、ナーヴェはまだ静かに眠っていた。控えているフィオーレも、悲しげな顔で首を横に振る。ずっと眠ったままなのだ。
(やはり、そなたはもう目覚めんのか……?)
一度、庭園に鎮座している本体のほうへ話し掛けてみるべきなのかもしれない。或いは、執務机の引き出しに大切に仕舞っている通信端末を使うべきなのか。アッズーロは沈痛な思いを懐きながら、安らかな寝顔を見下ろし、その白い頬にそっと触れた。途端に、青い睫毛が揺れ、ゆっくりと両眼が開く。深い青色の双眸が、眩しげにアッズーロを見上げた。
「そなた、大丈夫なのか……?」
思わず寝台に片膝を乗せ、片手を突いて、アッズーロは最愛の顔を間近から見る。ナーヴェはすまなそうに微笑んだ。
「心配掛けたね。昨夜は、無理を言ってごめん。それに、極小機械の操作にほぼ専念しながら、記録の上書き保存もするために、きみへの応答機能は途中から三歳児並に落としていたから、不安にさせただろう? でもお陰で、しっかり眠れたよ。ただ、彼らと何があったかの記録は、予備情報として肉体の感覚記憶からは切り離したところに保存したものだけ残して、後はきみとの記録で上書きしてしまったから、すぐには再生できなくなって――、つまり、詳細は報告できなくなって、申し訳ないんだけれど」
「それは、即ち、『忘れた』ということか……?」
確かめたアッズーロに、ナーヴェは嬉しげに頷いた。
「うん。まさにそういうことだよ。きみは本当に理解が早くて助かるよ」
何でもないことのように言われた内容だが、アッズーロは深刻に受け止めざるを得なかった。三千年に渡る詳細な記憶を持つナーヴェが、「忘れ」なければいけない記憶だったのだ――。
「それで……」
ナーヴェは言葉を継ぐ。
「応答機能を三歳児並に落としてまで、極小機械の操作に集中しなければいけなかった理由なんだけれど……」
アッズーロは目を瞬いた。
「右肩の治療のためではないのか?」
「うん。途中から、もう一つ、しなければならないことが増えて……」
ナーヴェの返答は珍しく歯切れが悪い。アッズーロは眉をひそめた。
「他にも、酷く痛めているところがあったのか」
内臓などに損傷が見つかったのだろうか――。
悪い報せを受け止める覚悟を決めて、答えを待ったアッズーロに、ナーヴェは白い頬を僅かに赤らめ、けれど青い双眸には不安げな色を湛えて、告げた。
「妊娠、したんだ。今度は、女の子だよ」
アッズーロは口を開け、何も言えず息を吸ってから、乾いた声で問うた。
「――しかし、そなた、月のものがまだだったではないか……」
テゾーロを出産してから、ナーヴェには一度も月経がなかった。だから、そんなことになろうとは、全く予想していなかったのだ。
「うん。でも、十日後には来る予定だったんだ……」
ナーヴェは、複雑そうに説明する。
「そうして、準備ができていたところに、きみの分身が来たから……。ぼくが強引に頼んでしまった所為なんだけれど……。喜んで、くれるかい……?」
心配そうに訊いてきた最愛の眼差しに、アッズーロは自分を殴りつけたい衝動に駆られた。
「当たり前であろう……!」
傷ついた華奢な体に、そっと覆い被さって抱擁しながら、アッズーロは激しい後悔を繰り返す。何故、自分は、妊娠した最愛に、こんな表情をさせているのだろう。
(われは、そなたの妊娠を喜ぶこともできぬ、余裕のない男に見えたか)
情けない、不甲斐ない夫だ。
「ナーヴェ、体を厭え。必ず、無事に子を産んでくれ」
アッズーロが囁き掛けると、漸く、ナーヴェから嬉しげな声が返ってきた。
「うん。そうさせて貰うよ」
自由に動く左手が、アッズーロの背に回り、優しく抱擁し返してくれる。
「名前は、どうしようか……?」
高揚を乗せた問いに、アッズーロは微笑んで僅かに身を起こし、最愛の顔を見下ろした。
「テゾーロの時は、われが考えたゆえ、此度は、そなたが考えるがよい。何か案はあるのか?」
「うん」
最愛は、幸せそうにアッズーロを見つめ返す。
「セーメ、というのはどうかな?」
植物の種という意味だ。
「よい名ではないか。響きもよい。この子は、セーメだ」
アッズーロは体をずらし、まだ何の膨らみもない最愛の腹を、愛おしく撫でた。
「……おめでとうございます、陛下、妃殿下……」
感極まった涙声に振り向けば、フィオーレが嬉し泣きをしている。まるでナーヴェの身内のようだ。アッズーロは微苦笑し、命じた。
「フィオーレ、厨房に、干し杏と林檎果汁を用意するよう伝えよ。これからの王妃の食事は、全て悪阻に備えたものに致す」
「畏まりました」
一礼して、フィオーレはすぐに退室していった。
アッズーロが特に口止めをしなかったので、王妃懐妊の報は、瞬く間に王城中に広がった。主に厨房から広まったその報にバーゼが接したのは、午後の大臣会議へ出席する直前だった。厨房へ、昼食の食器を返しに行った時に、同じく厨房へ食器を持ってきていた女官達の話が聞こえてきたのだ。
「ナーヴェ様がまた御懐妊なさったそうよ……!」
「テゾーロ様が産まれて三ヶ月も経っていないのに……?」
「あの陛下の溺愛振りを見れば、少しも意外ではないわよ」
「ナーヴェ様が最近、御体調の優れないことが多いのは、その所為だったのね」
「それは分からないけれど、でも、これからは本当に御体調に気を付けていかないと……!」
「そうね。厨房にはもう悪阻に備えた食事を用意するよう、陛下から御下命があったそうよ」
「さすが陛下。何でも手早くていらっしゃる」
「お子を作るのも、ね」
「まあ、あなた失敬よ……!」
女官達のさざめく声を背に、食器を返したバーゼは、ふらつきそうになる体を壁に手を突いて支えながら懸命に廊下を歩いた。
(まさか、御懐妊というのは、昨日、あの男達に凌辱された時の――)
血の気が引いていく。王の宝ナーヴェは、体内に極小機械というものを持っていて、自身の肉体の状態を立ち所に把握することができると聞いている。懐妊などもそれで即座に分かるのだという。
(でも、ナーヴェ様は、「彼らの分身は、全部、極小機械で殺した。妃として、きみ以外の子を妊娠する訳にはいかないから」と仰っていた。なら、やはりお子は、アッズーロ陛下の……?)
しかし、あの状態のナーヴェを、アッズーロが抱くことはないはずだ。普段からの溺愛振りを見ていれば、それは確信を持って言える。
(もし、御懐妊が、あの男達の誰かの所為だったとしたら……、わたしは、償いようのないことを……)
「バーゼ殿、どうしました?」
不意に声を掛けられて、バーゼは顔を上げた。会議室へ続く回廊の途中、黒い肌の青年が、心配そうにバーゼを見下ろしている。軍務担当大臣カヴァッロ伯ムーロだ。
「顔色が悪いですよ? 激務の後、休暇もなく連日大臣会議に出席では、体を休める間もないでしょうが……」
優しいムーロの言葉に、バーゼは無理に微笑んだ。
「大丈夫です。少し眩暈がしただけで……。会議の間は、どうせ座っていますから、すぐ治るでしょう」
「そうですか。しかし、無理は禁物です。あなたは、とても有能な方ですが、どうも勤勉過ぎるきらいがある。気を付けて下さい」
「――ありがとうございます……」
礼を述べて頭を下げたバーゼに、会釈を返して、ムーロは会議室の入り口へ戻っていった。わざわざ近づいてきて労わってくれたのだ。
「バーゼ」
今度は背後から声を掛けられて、バーゼはびくりと背筋を伸ばした。国王アッズーロの声だ。いつもは、大臣達が全員着席した頃に現れるのに、どうした風の吹き回しだろう。
「陛下……」
懐妊のことを寿ぐべきかどうか迷って、バーゼは青年王に向き直ったまま言葉に詰まってしまった。
「何だ、その顔は」
青年王はいつものように鼻を鳴らし、そして言った。
「やはり、わが妃の案じていた通りか」
何のことかと、伏せていた目を僅かに上げたバーゼに、青年王は尊大に告げた。
「わが妃が懐妊したは、間違いなくわれの子だ。昨夜、われが抱いた時に宿ったのだ。おまえが懸念するには及ばん。――と、おまえに伝えよと、わが妃が喧しかった」
「……それで、早めにお越し下さったのですか……?」
驚いてバーゼが問うと、青年王は笑みを浮かべた。
「おまえの働きは、これからも重要ゆえな。有能な臣下のために、多少の時間を割くくらいは致そう」
「……ありがとうございます……!」
深々と頭を下げたバーゼの横を、青年王は大股に通り過ぎていった。お陰で、懐妊の祝いは言えなかったが、バーゼの胸中は安堵に満ちて、会議に向かうことができたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
とっていただく責任などありません
まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、
団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。
この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!?
ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。
責任を取らなければとセルフイスから、
追いかけられる羽目に。
召喚とか聖女とか、どうでもいいけど人の都合考えたことある?
浅海 景
恋愛
水谷 瑛莉桂(みずたに えりか)の目標は堅実な人生を送ること。その一歩となる社会人生活を踏み出した途端に異世界に召喚されてしまう。召喚成功に湧く周囲をよそに瑛莉桂は思った。
「聖女とか絶対ブラックだろう!断固拒否させてもらうから!」
ナルシストな王太子や欲深い神官長、腹黒騎士などを相手に主人公が幸せを勝ち取るため奮闘する物語です。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
わたしたちの庭
犬飼ハルノ
恋愛
「おい、ウェスト伯。いくらなんでもこんなみすぼらしい子どもに金を払えと?」
「まあまあ、ブルーノ伯爵。この子の母親もこんな感じでしたが、年ごろになると見違えるように成熟しましたよ。後妻のアリスは元妻の従妹です。あの一族の女は容姿も良いし、ぽんぽんと子どもを産みますよ」
「ふうん。そうか」
「直系の跡継ぎをお望みでしょう」
「まあな」
「しかも伯爵以上の正妻の子で年ごろの娘に婚約者がいないのは、この国ではこの子くらいしかもう残っていませんよ」
「ふ……。口が上手いなウェスト伯。なら、買い取ってやろうか、その子を」
目の前で醜悪な会話が繰り広げられる中、フィリスは思った。
まるで山羊の売買のようだと。
かくして。
フィリスの嫁ぎ先が決まった。
------------------------------------------
安定の見切り発車ですが、二月中に一日一回更新と完結に挑みます。
ヒロインのフィリスが自らの力と人々に支えられて幸せをつかむ話ですが、
序盤は暗く重い展開です。
タグを途中から追加します。
他サイトでも公開中。
地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる