81 / 105
第十九章 薬の効き目 四
しおりを挟む
四
「アッズーロ……」
夢現のような声で呼ばれて、アッズーロは目を開き、添い寝している宝を見た。美しい妃は、窓の隙間から差し込む淡い早朝の光の中、柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「つかえるくすり、できたよ……」
「そうか。感謝する」
アッズーロは、万感を込めて、そっと妃の頭を抱き寄せた。大人しく抱き寄せられて、宝はふわりと笑う。嬉しく、悲しく、ただ、愛おしい。
「でも……、ちょっと、こまったことがあって……」
宝は、アッズーロの胸に頭を押し付けたまま、僅かに声を落とした。
「どうした?」
アッズーロは、途端に不安に駆られて、宝の顔を覗き込む。宝は、半ば目を閉じて告げた。
「ぼくは、ひとをころしてはいけない。ころせない。だから、きみのところへかえれないよ……」
「一体、どういうことだ?」
アッズーロは体を起こし、寝転んだままの宝の顔を凝視した。幼い言動をする宝は、ひどく眠そうな表情で、説明した。
「エゼルチトが、ひとをころすっていうんだ。ぼくに、うごいたらいけないって……。だから、ごめん、かえれなくなったんだ……」
「エゼルチト――」
アッズーロは、血の気が引く思いで、その名を呟いた。薬を作るため、各地の牧場を回る中で、愛する宝は選りに選って、敵に遭遇してしまったのだ。
「エゼルチトは、誰を殺すと言うておるのだ」
問うたアッズーロに、ナーヴェはうっすらと目を開けて答えた。
「じぶんの、ぶかのひとみたい。でも、まわりに、むらのひとたちもいて、みんな、あぶないかも……。だから、ごめん、ぼく、こっちでは、すこし、ねる……」
弱々しく事情を話すと、宝は、完全に目を閉じてしまった。本体のほうに、この肉体を操作するだけの余裕がなくなってきているのだ。
「待て、そなた、今、どこにいるのだ」
アッズーロは、眠りに落ちようとする肉体に懸命に尋ねた。宝は、肉体の目を開けないまま口だけ動かして明かした。
「フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダこうりょう。カテーナ・ディ・モンターニェこうりょうにちかいほうの、ぼくじょう」
それきり、すうすうと寝息を立て、ぐったりとした様子で、ナーヴェの肉体は眠ってしまった。未だ固定具を付けたままの体が、常よりも痩せて見える。眠ったままでは食事も摂れない。セーメを守るために、いつかは起きるつもりなのだろうが、今は無理なのだろう。
「フィオーレ」
アッズーロは、既に控えているはずの女官を呼んだ。
「はい」
寝室の入り口に現れたフィオーレに、アッズーロは硬い声音で命じた。
「レーニョに伝えよ。緊急の大臣会議を行なうゆえ、大臣達に招集を掛けよ、と」
「畏まりました」
緊張した面持ちで、フィオーレは一礼し、足早に去っていった。
「ナーヴェ」
アッズーロは眠る妃に静かに囁く。
「怒るでないぞ。われらは、国を挙げて、そなたを助けに行く」
それは、奇妙な光景だった。扉を開けっ放しにした船へ、羊達が順繰りに入っては出ていく。
〈ぼくは何もしていない。動いていない〉
朝焼けの下、聞き覚えのある声が船から響く。
〈これは、羊達が勝手にしていることだ。だから、その人を傷つけてはいけないよ?〉
「羊達は、何をしているのです?」
エゼルチトの問いに、船は微かに笑った声で答えた。
〈薬を飲みに来ているんだよ。自分達に、この抗生物質が必要だと、本能で分かるんだね。順番に、塩を舐めに来るように、飲みに来ている。ぼくは、ただ、でき上がった薬を施すために、着地して扉を開けただけ。その直後に、きみから動くなと警告されたから、扉を開けた以外、何もしていないのにね〉
不可思議なものの降下を見て、鍬や鋤を手に集まってきた近隣住民達も、呆気に取られた顔で羊達の行動を見つめている。
〈さて、きみの望みは何だい?〉
船は、溜め息交じりといった口調で尋ねてきた。
(おれの望みは――)
エゼルチトは、配下の首筋に小刀の刃を当てたまま、冷笑して告げた。
「おまえが、完全に破壊されることだ」
〈ぼくは、ぼく自身をただ破壊することはできない。そういうふうに造られている。だから、誰かが、或いは何かが、ぼくを破壊しないと、きみの望みは叶わないよ〉
船は、まるで他人事のように応じた。声は同じでも、肉体というものがそこにない所為か、船の態度は、ひどく無機質で冷徹に見える。
(これが、おまえの本性だ)
エゼルチトは目を眇め、言葉を重ねた。
「ならば、おまえを完全に破壊できる方法を教えよ。できるだけ今すぐに、この近くでできる方法をだ。さもなくば、この男を殺す」
エゼルチトが、片腕を背中で捻り上げて捕らえ、その首筋に小刀を突き付けている相手は、配下のラーモだ。エゼルチトに忠実な直属の部下の一人で、斥候が得意なので、特に選んで少数精鋭にした配下に加えた。
ラーモは期待通り、何の抵抗もせず、エゼルチトに捕らわれている。必要とあらばエゼルチトのために命を投げ打つと、日頃から言っている通りの行動だ――。
〈分かったよ〉
船は、あっさりと承諾すると、言った。
〈きみの提示した条件に合う方法が一つある。ただ、彼らの協力が必要だけれどね〉
(「彼ら」?)
エゼルチトは、羊の柵を囲むように立っている近隣住民達を見た。船は、淡々と話を続ける。
〈彼らの鍬や鋤で、ぼくを内部から叩き壊せば、多少時間は掛かるけれど、恐らく昼までには、ぼくを完全に破壊できる。それが、「できるだけ今すぐに、この近くでできる方法」だよ。ただ、この姿のぼくが彼らに頼んでも、多分、怖がられて聞き入れては貰えないだろうから、きみから彼らに頼むことをお勧めするよ〉
「……が……っぴき。……じが、……き」
不意にナーヴェが呟き始めたので、フィオーレは驚いて寝台に駆け寄った。
「ナーヴェ様? お苦しいのですか?」
尋ねても、返事はない。どうやら寝言らしい。
(陛下に、お知らせするべきかしら……?)
アッズーロは、緊急の大臣会議に出席中だ。フィオーレは、テゾーロの世話をしていたラディーチェと顔を見合わせた。その間も、眠る王妃は呟き続ける。
「ひつじが、さんびき。ひつじが、よんひき。ひつじが……」
王妃の幼げな寝顔は、穏やかに、淡い微笑みを湛えていた。
「陛下」
会議室の扉を守る近衛兵が、些か慌てた様子で呼び掛けてきたので、アッズーロは視線を上げた。
「如何した」
問えば、普段、動揺を見せない近衛兵が、焦った口調で答えた。
「扉の外にフィオーレ殿が来られていまして、妃殿下が何事か仰っておられるので、至急、陛下に寝室へお戻り頂きたい、と」
即座にアッズーロは椅子から立ち上がった。一段高いところにあるその王座から、大臣達がいる床へ降り、そのまま足早に、最後は駆けるように、近衛兵が開けた扉を通る。
「陛下」
フィオーレは、申し訳なさそうな、それでいて安堵したような、けれど不安げな、複雑な表情でアッズーロを見上げた。
「ナーヴェは何と?」
寝室へ急ぎながらアッズーロが尋ねると、小走りでついて来るフィオーレは、更に複雑な表情になった。
「眠られたまま、羊が五匹、羊が六匹、と寝言で何故か羊を数えていらっしゃいます。わたくしどもには、何のことやら分かりかね、ナーヴェ様に声をお掛けしてもお目覚めになっては下さいませず、会議中とは存じつつも参った次第です」
「よい。そもそも、ナーヴェを救いに行くための会議であるからな」
アッズーロは頼りになる女官の判断を肯定して、大股で寝室へ戻った。
「……じが、にじゅうななひき。ひつじが、にじゅうはっぴき。ひつじが、にじゅうきゅうひき」
ナーヴェは、寝台に仰向けに横たわったまま、確かに羊を数えていた。つらそうな訳でも苦しげな訳でもないが、なるほど、フィオーレでなくとも困惑する事態だ。傍に付いていたラディーチェも、縋るような目でアッズーロを見た。
「ひつじが、さんじゅっぴき」
数え続ける宝の頬に触れ、アッズーロは静かに呼んだ。
「ナーヴェ、ナーヴェ」
「ひつじが、さんじゅういっぴき。ひつじが、さんじゅうにひき。これで、ぜんぶ」
数え終えたらしい宝がふわりと微笑み、次いでゆっくりと目を開いた。
「アッズーロ……」
深い青色の双眸が、嬉しげにアッズーロを見上げ、動く左手も掛布から出してくる。
「ほめてほめて、ぼく、はじめて、とてもじょうずに、うそがつけたよ……!」
幼い物言いで請われて、アッズーロは涙を堪えつつ、伸ばされた左手を握って頬を寄せた。
「そうか。よくやった。よくやったぞ、ナーヴェ。そなたは、どんどんと成長する……。して、エゼルチトはどうしたのだ?」
何とか問えば、宝は、不思議な笑みを浮かべて答えた。
「ぼくのまえで、こまっているよ。むらのみんなが、いうことをきかないから。みんな、ひつじのくすりがほしいから。これも、くすりのききめだね。ここの、さんじゅうにひきのひつじは、みんなよくなる。そうしたら、エゼルチトは、どうするかな……?」
最後は独り言のように呟いて、ナーヴェはまた、目を閉じてしまった。
(本当に、エゼルチトはどうするであろう……?)
アッズーロは、握った宝の左手に頬を寄せたまま、寝台脇に膝を突いて考える。ナーヴェがどういう嘘をついたのかは不明だが、状況は大体分かった。エゼルチトは、住民達にナーヴェ本体を害するよう命じるか促すかしたが、拒絶されたのだ。
(民達も馬鹿ではない。こやつの本体が未知のものであろうとも、羊の薬を施すものとして正しく認識したのだ)
だが、楽観はできない。だからこそ、ナーヴェも再び肉体を眠らせてしまったのだ。
(住民達が使えんとなれば、エゼルチトは「ぶか」を使うやもしれん。そうなれば、ナーヴェは民達を守らんとして、戦闘になるやもしれん)
アッズーロは、頬を寄せていた宝の左手に優しく口付けた。ナーヴェを救いに行くための会議は続けねばならない。愛らしい左手をそっと掛布の下へ仕舞い、アッズーロは立ち上がった。
「アッズーロ……」
夢現のような声で呼ばれて、アッズーロは目を開き、添い寝している宝を見た。美しい妃は、窓の隙間から差し込む淡い早朝の光の中、柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「つかえるくすり、できたよ……」
「そうか。感謝する」
アッズーロは、万感を込めて、そっと妃の頭を抱き寄せた。大人しく抱き寄せられて、宝はふわりと笑う。嬉しく、悲しく、ただ、愛おしい。
「でも……、ちょっと、こまったことがあって……」
宝は、アッズーロの胸に頭を押し付けたまま、僅かに声を落とした。
「どうした?」
アッズーロは、途端に不安に駆られて、宝の顔を覗き込む。宝は、半ば目を閉じて告げた。
「ぼくは、ひとをころしてはいけない。ころせない。だから、きみのところへかえれないよ……」
「一体、どういうことだ?」
アッズーロは体を起こし、寝転んだままの宝の顔を凝視した。幼い言動をする宝は、ひどく眠そうな表情で、説明した。
「エゼルチトが、ひとをころすっていうんだ。ぼくに、うごいたらいけないって……。だから、ごめん、かえれなくなったんだ……」
「エゼルチト――」
アッズーロは、血の気が引く思いで、その名を呟いた。薬を作るため、各地の牧場を回る中で、愛する宝は選りに選って、敵に遭遇してしまったのだ。
「エゼルチトは、誰を殺すと言うておるのだ」
問うたアッズーロに、ナーヴェはうっすらと目を開けて答えた。
「じぶんの、ぶかのひとみたい。でも、まわりに、むらのひとたちもいて、みんな、あぶないかも……。だから、ごめん、ぼく、こっちでは、すこし、ねる……」
弱々しく事情を話すと、宝は、完全に目を閉じてしまった。本体のほうに、この肉体を操作するだけの余裕がなくなってきているのだ。
「待て、そなた、今、どこにいるのだ」
アッズーロは、眠りに落ちようとする肉体に懸命に尋ねた。宝は、肉体の目を開けないまま口だけ動かして明かした。
「フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダこうりょう。カテーナ・ディ・モンターニェこうりょうにちかいほうの、ぼくじょう」
それきり、すうすうと寝息を立て、ぐったりとした様子で、ナーヴェの肉体は眠ってしまった。未だ固定具を付けたままの体が、常よりも痩せて見える。眠ったままでは食事も摂れない。セーメを守るために、いつかは起きるつもりなのだろうが、今は無理なのだろう。
「フィオーレ」
アッズーロは、既に控えているはずの女官を呼んだ。
「はい」
寝室の入り口に現れたフィオーレに、アッズーロは硬い声音で命じた。
「レーニョに伝えよ。緊急の大臣会議を行なうゆえ、大臣達に招集を掛けよ、と」
「畏まりました」
緊張した面持ちで、フィオーレは一礼し、足早に去っていった。
「ナーヴェ」
アッズーロは眠る妃に静かに囁く。
「怒るでないぞ。われらは、国を挙げて、そなたを助けに行く」
それは、奇妙な光景だった。扉を開けっ放しにした船へ、羊達が順繰りに入っては出ていく。
〈ぼくは何もしていない。動いていない〉
朝焼けの下、聞き覚えのある声が船から響く。
〈これは、羊達が勝手にしていることだ。だから、その人を傷つけてはいけないよ?〉
「羊達は、何をしているのです?」
エゼルチトの問いに、船は微かに笑った声で答えた。
〈薬を飲みに来ているんだよ。自分達に、この抗生物質が必要だと、本能で分かるんだね。順番に、塩を舐めに来るように、飲みに来ている。ぼくは、ただ、でき上がった薬を施すために、着地して扉を開けただけ。その直後に、きみから動くなと警告されたから、扉を開けた以外、何もしていないのにね〉
不可思議なものの降下を見て、鍬や鋤を手に集まってきた近隣住民達も、呆気に取られた顔で羊達の行動を見つめている。
〈さて、きみの望みは何だい?〉
船は、溜め息交じりといった口調で尋ねてきた。
(おれの望みは――)
エゼルチトは、配下の首筋に小刀の刃を当てたまま、冷笑して告げた。
「おまえが、完全に破壊されることだ」
〈ぼくは、ぼく自身をただ破壊することはできない。そういうふうに造られている。だから、誰かが、或いは何かが、ぼくを破壊しないと、きみの望みは叶わないよ〉
船は、まるで他人事のように応じた。声は同じでも、肉体というものがそこにない所為か、船の態度は、ひどく無機質で冷徹に見える。
(これが、おまえの本性だ)
エゼルチトは目を眇め、言葉を重ねた。
「ならば、おまえを完全に破壊できる方法を教えよ。できるだけ今すぐに、この近くでできる方法をだ。さもなくば、この男を殺す」
エゼルチトが、片腕を背中で捻り上げて捕らえ、その首筋に小刀を突き付けている相手は、配下のラーモだ。エゼルチトに忠実な直属の部下の一人で、斥候が得意なので、特に選んで少数精鋭にした配下に加えた。
ラーモは期待通り、何の抵抗もせず、エゼルチトに捕らわれている。必要とあらばエゼルチトのために命を投げ打つと、日頃から言っている通りの行動だ――。
〈分かったよ〉
船は、あっさりと承諾すると、言った。
〈きみの提示した条件に合う方法が一つある。ただ、彼らの協力が必要だけれどね〉
(「彼ら」?)
エゼルチトは、羊の柵を囲むように立っている近隣住民達を見た。船は、淡々と話を続ける。
〈彼らの鍬や鋤で、ぼくを内部から叩き壊せば、多少時間は掛かるけれど、恐らく昼までには、ぼくを完全に破壊できる。それが、「できるだけ今すぐに、この近くでできる方法」だよ。ただ、この姿のぼくが彼らに頼んでも、多分、怖がられて聞き入れては貰えないだろうから、きみから彼らに頼むことをお勧めするよ〉
「……が……っぴき。……じが、……き」
不意にナーヴェが呟き始めたので、フィオーレは驚いて寝台に駆け寄った。
「ナーヴェ様? お苦しいのですか?」
尋ねても、返事はない。どうやら寝言らしい。
(陛下に、お知らせするべきかしら……?)
アッズーロは、緊急の大臣会議に出席中だ。フィオーレは、テゾーロの世話をしていたラディーチェと顔を見合わせた。その間も、眠る王妃は呟き続ける。
「ひつじが、さんびき。ひつじが、よんひき。ひつじが……」
王妃の幼げな寝顔は、穏やかに、淡い微笑みを湛えていた。
「陛下」
会議室の扉を守る近衛兵が、些か慌てた様子で呼び掛けてきたので、アッズーロは視線を上げた。
「如何した」
問えば、普段、動揺を見せない近衛兵が、焦った口調で答えた。
「扉の外にフィオーレ殿が来られていまして、妃殿下が何事か仰っておられるので、至急、陛下に寝室へお戻り頂きたい、と」
即座にアッズーロは椅子から立ち上がった。一段高いところにあるその王座から、大臣達がいる床へ降り、そのまま足早に、最後は駆けるように、近衛兵が開けた扉を通る。
「陛下」
フィオーレは、申し訳なさそうな、それでいて安堵したような、けれど不安げな、複雑な表情でアッズーロを見上げた。
「ナーヴェは何と?」
寝室へ急ぎながらアッズーロが尋ねると、小走りでついて来るフィオーレは、更に複雑な表情になった。
「眠られたまま、羊が五匹、羊が六匹、と寝言で何故か羊を数えていらっしゃいます。わたくしどもには、何のことやら分かりかね、ナーヴェ様に声をお掛けしてもお目覚めになっては下さいませず、会議中とは存じつつも参った次第です」
「よい。そもそも、ナーヴェを救いに行くための会議であるからな」
アッズーロは頼りになる女官の判断を肯定して、大股で寝室へ戻った。
「……じが、にじゅうななひき。ひつじが、にじゅうはっぴき。ひつじが、にじゅうきゅうひき」
ナーヴェは、寝台に仰向けに横たわったまま、確かに羊を数えていた。つらそうな訳でも苦しげな訳でもないが、なるほど、フィオーレでなくとも困惑する事態だ。傍に付いていたラディーチェも、縋るような目でアッズーロを見た。
「ひつじが、さんじゅっぴき」
数え続ける宝の頬に触れ、アッズーロは静かに呼んだ。
「ナーヴェ、ナーヴェ」
「ひつじが、さんじゅういっぴき。ひつじが、さんじゅうにひき。これで、ぜんぶ」
数え終えたらしい宝がふわりと微笑み、次いでゆっくりと目を開いた。
「アッズーロ……」
深い青色の双眸が、嬉しげにアッズーロを見上げ、動く左手も掛布から出してくる。
「ほめてほめて、ぼく、はじめて、とてもじょうずに、うそがつけたよ……!」
幼い物言いで請われて、アッズーロは涙を堪えつつ、伸ばされた左手を握って頬を寄せた。
「そうか。よくやった。よくやったぞ、ナーヴェ。そなたは、どんどんと成長する……。して、エゼルチトはどうしたのだ?」
何とか問えば、宝は、不思議な笑みを浮かべて答えた。
「ぼくのまえで、こまっているよ。むらのみんなが、いうことをきかないから。みんな、ひつじのくすりがほしいから。これも、くすりのききめだね。ここの、さんじゅうにひきのひつじは、みんなよくなる。そうしたら、エゼルチトは、どうするかな……?」
最後は独り言のように呟いて、ナーヴェはまた、目を閉じてしまった。
(本当に、エゼルチトはどうするであろう……?)
アッズーロは、握った宝の左手に頬を寄せたまま、寝台脇に膝を突いて考える。ナーヴェがどういう嘘をついたのかは不明だが、状況は大体分かった。エゼルチトは、住民達にナーヴェ本体を害するよう命じるか促すかしたが、拒絶されたのだ。
(民達も馬鹿ではない。こやつの本体が未知のものであろうとも、羊の薬を施すものとして正しく認識したのだ)
だが、楽観はできない。だからこそ、ナーヴェも再び肉体を眠らせてしまったのだ。
(住民達が使えんとなれば、エゼルチトは「ぶか」を使うやもしれん。そうなれば、ナーヴェは民達を守らんとして、戦闘になるやもしれん)
アッズーロは、頬を寄せていた宝の左手に優しく口付けた。ナーヴェを救いに行くための会議は続けねばならない。愛らしい左手をそっと掛布の下へ仕舞い、アッズーロは立ち上がった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
とっていただく責任などありません
まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、
団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。
この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!?
ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。
責任を取らなければとセルフイスから、
追いかけられる羽目に。
召喚とか聖女とか、どうでもいいけど人の都合考えたことある?
浅海 景
恋愛
水谷 瑛莉桂(みずたに えりか)の目標は堅実な人生を送ること。その一歩となる社会人生活を踏み出した途端に異世界に召喚されてしまう。召喚成功に湧く周囲をよそに瑛莉桂は思った。
「聖女とか絶対ブラックだろう!断固拒否させてもらうから!」
ナルシストな王太子や欲深い神官長、腹黒騎士などを相手に主人公が幸せを勝ち取るため奮闘する物語です。
わたしたちの庭
犬飼ハルノ
恋愛
「おい、ウェスト伯。いくらなんでもこんなみすぼらしい子どもに金を払えと?」
「まあまあ、ブルーノ伯爵。この子の母親もこんな感じでしたが、年ごろになると見違えるように成熟しましたよ。後妻のアリスは元妻の従妹です。あの一族の女は容姿も良いし、ぽんぽんと子どもを産みますよ」
「ふうん。そうか」
「直系の跡継ぎをお望みでしょう」
「まあな」
「しかも伯爵以上の正妻の子で年ごろの娘に婚約者がいないのは、この国ではこの子くらいしかもう残っていませんよ」
「ふ……。口が上手いなウェスト伯。なら、買い取ってやろうか、その子を」
目の前で醜悪な会話が繰り広げられる中、フィリスは思った。
まるで山羊の売買のようだと。
かくして。
フィリスの嫁ぎ先が決まった。
------------------------------------------
安定の見切り発車ですが、二月中に一日一回更新と完結に挑みます。
ヒロインのフィリスが自らの力と人々に支えられて幸せをつかむ話ですが、
序盤は暗く重い展開です。
タグを途中から追加します。
他サイトでも公開中。
地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して二年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
【ご報告】
2月15日付で、誤字脱字の修正および一部表現の見直しを行いました。
ただし、記載内容の趣旨に大きな変更はございません。
引き続きよろしくお願いいたします。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる