90 / 105
第二十二章 願いは一つ 一
しおりを挟む
一
「よかった……!」
寝台の上に起き上がった最愛は、アッズーロの姿を見るなり、声を上げた。庭園からこの寝室まで歩いてくるのに、そこまで時間が掛かった訳ではないが、随分と気を揉ませたらしい。
「なかなか来ないから、心配したよ……!」
走り寄ってきかねない勢いで話し掛けてくるので、アッズーロは、重たい足を引き摺って、妃の寝台まで急いだ。
「セーメは元気か?」
尋ねながら、妃の寝台に腰掛ける。肩を借りていたレーニョとガットが離れると同時に、控えていたフィオーレとミエーレが寄ってきて、アッズーロの左右の靴を脱がせた。そこへ、ポンテが水を張った盥を持ってきて、たぷんと置く。冷たい水が、暑い中、素足に心地よかった。
「大丈夫、元気にしているよ」
最愛は、そっと腹を撫でてから、寝台の上をアッズーロへにじり寄ってくる。アッズーロは、先を制して妃の顎に手を添え、口付けた。
「ん……」
甘やかな吐息を漏らして、ナーヴェは応じてくる。いつもなら窘めてくる場面だが、どうやらアッズーロを心配し過ぎて、判断力が鈍っているらしい。
(すまぬ……)
未だ右肩に固定具を付けたままの華奢な体を優しく抱き締めて、アッズーロは口付けを深くしていった。脳裏には、シーワン・チー・チュアンの警告がこびり付いている。
(そなたを、もっともっと大事にせねばな……)
幸せであるように、憂いのないように、守っていたい――。
「……っ、アッズーロ」
口付けは、ナーヴェのほうから終えられてしまった。案じる顔で見上げてきて、最愛は言う。
「早く着替えて、何か食べて、寝たほうがいい。ぼくはもう、治療できないから」
「そなたは充分に傷を癒やしてくれた。後はわれが真面目に養生するのみだな」
アッズーロは素直に忠告を受け入れて、フィオーレとミエーレの手を借り、夜着の長衣へ着替えた。ついでに包帯も替えたが、銃創は、跡こそ残っているものの、完全に塞がっている。ナーヴェが全力を尽くしてくれたのだろう。
「ジョールノは、夕食についても伝えたか?」
確認したアッズーロには、フィオーレが頷いた。レーニョとガットは気を利かせて、さっさと姿を消している。ミエーレが洗濯物を、ポンテが盥を片付けに行く中、フィオーレは、さらさらと献立を言った。
「乾酪の蜂蜜掛けと、赤茄子の垂れを絡めた麺、それに羊乳で宜しかったでしょうか?」
「あ、羊乳は煮沸消毒してほしいんだけれど、いいかい?」
ナーヴェがすまなそうに口を挟んできた。
「うむ。さすがは王の宝。そうさな、この時季は、そのほうが安全よな」
アッズーロは妃の慧眼に微笑んだ。
「ぼくの思いつきではなくて、姉さんの受け売りなんだけれど、ね……」
最愛は、複雑そうに明かした。成るほど、あの姉は、妹にもいろいろと警告したらしい。
「チュアンとやらは、そなたが言うておった通り、優しい姉だな」
アッズーロが評すると、ナーヴェは溜め息をついた。
「まあ、そうなんだけれど……、函の在処だけは、きみに教えないでほしかった……」
「われは、そなたの船長なのであろう? ならば寧ろ、知っていて然るべきではないか」
アッズーロは大真面目に言い聞かせつつ、寝台の上へ足を上げて横になった。長く起き上がっていると、やはり傷の痛みが増してくる。
「大丈夫かい……?」
案の定、最愛はアッズーロの顔を覗き込んできた。油皿の灯火に照らされた長く青い髪が、さらさらと落ち掛かってくる。愛おしい姿だ。
「そなたに触れていれば、じきに治る」
アッズーロは、にっと笑って告げた。
「エゼルチトがアッズーロに捕らえられたというのは、事実だった。裏が取れたから間違いない」
ざんばらに切った灰褐色の髪の、長いものだけを後ろで束ねた少女は、切れ長の両眼でベッリースィモを見上げて報告した。篝火の揺らめきを映す、その緑色の双眸には、恐れも気負いもなく、ただ冷ややかだ。
「『裏』というのは誰だ」
ベッリースィモは確かめた。このキアーヴェという工作員には一定の信頼を置いてきたが、エゼルチトの配下という以外、素性不明の少女だ。しかも、そのエゼルチトが捕らえられたとなれば、持ってくる情報に対して疑り深くもなろうというものだった。
「誰とまでは言えない。だが、オリッゾンテ・ブル王国の、大臣の一人だ」
淡々と、少女は告げた。予想以上の答えだ。
「――本当か」
「これ以上言えることはない。後は、わたしを信じるかどうかも含めて、おまえの判断だ」
じっと見つめられて、ベッリースィモは溜め息をついた。現状、信じて次の手を打つしかない。エゼルチトが捕らえられたという話は、他の筋からも来ているので確実だろう。
「分かった。これからも協力を頼む」
「無論だ。アッズーロを失脚させることこそが、わたしの任務だ」
キアーヴェは答えて、扉が壊された農具倉庫の向こうへ、闇に紛れるように姿を消した。
(やれやれ……)
農具倉庫の屋根の上に寝転んだニードは、胸中で嘆息した。オンダ伯エゼルチトがオリッゾンテ・ブル王城へ連行されても、その配下の工作員キアーヴェは行動方針を変えないらしい。
(おれとしては、どう行動すべきですかね……、ロッソ陛下?)
自分は、ただ反乱民の中枢に入り込んで情報を送るようにとだけ、命じられている。しかし、この目まぐるしい状況の変化はどうだろう。
(王の宝の名の下に、オリッゾンテ・ブル兵が羊の病に効く薬を配ってるって話だし、何もしなけりゃ、この反乱は収まりそうなんだがな……。ベッリースィモとキアーヴェが、やる気でいる内は、そうはさせないだろうな……)
自分は、情報を雇用主へ流すことのみを任務とする間諜であり、キアーヴェのような、状況を操作することを任務とする工作員ではないのだが――。
(ロッソ陛下は、反乱が早期に収束することを望んでらっしゃる。おれとしては、その意を汲むべきかね……?)
「ニード、ニード、どこにいる?」
青年のよく通る声が聞こえた。反乱民の首領ゼーロだ。捜されている。
(ベッリースィモとキアーヴェは充分に離れたな……)
見回してから、ニードは身軽に倉庫の屋根から煉瓦の凹凸に手足を掛けて、音もなく地上へ降りた。そうして、別の建物のほうから来たかのように、ゼーロのほうへ歩いていく。
「ゼーロ、おれはここだ。何かあったか?」
声を掛けると、遠くの篝火を逆光にした青年は、急いで駆け寄ってきた。
「ニード、オリッゾンテ・ブル軍が、二つ隣の町まで来ているらしい。ここの住民達が知らせてきた。羊の病に効く薬を近隣の村々に配りながら来ている、と。どう考える?」
早速、工作員的に動かねばならないようだ。
「貰えるものは貰って、本当に効くかどうか、慎重に試すべきだとは思うが、とりあえずは、みんなで小神殿に集まらないか?」
穏やかに、ニードは提案した。
「アッズーロ……」
ともに被った掛布の中で、最愛が、そっと話し掛けてきた。夕食を終えて、早々に寝支度をし、ナーヴェの寝台に並んで横になったところだ。女官達は、油皿の灯火を消して既に退室している。
「如何した?」
アッズーロは、形のいい頭に頬を寄せて尋ねた。
「また、時間がある時でいいんだけれど……」
おずおずと、最愛は切り出す。
「姉さんに訊いたら、混線は、あくまで混線だから、修正できるらしいんだ。それで、操縦桿の混線を修正するために、いつでもいいから、ぼくの操縦桿と、この肉体の肩を、同時に触ってほしいんだ。そうしたら、混線する先が、肩になるみたいだから。姉さんが、肩くらいが一番、混線を修正し易いだろうって。全然急がないから、いつでもいいんだけれど」
「……修正せねばならんのか?」
アッズーロは些か残念な思いで確認した。
「それは、そうだよ」
ナーヴェは拗ねたような声を出す。
「耳なんかと混線していたら、まともに航行できないから」
アッズーロはつい、その愛らしく柔らかい両耳に口付けたくなったが、自重した。最愛の敏感な部分に一度触れ始めたら、その反応が可愛い過ぎて、決してすぐにはやめられない。しかし自分も最愛も、体を大切にしなければいけない状態だ。
「分かった。ならば、明日にでも修正するとしよう。エゼルチトの尋問やらテッラ・ロッサとの連絡やら、羊の薬の配布状況の確認やらあるが、そのくらいの時間は取れよう」
「ありがとう。忙しいのに、ごめん。愛しているよ、アッズーロ」
最愛は、耳元へ可愛らしく囁いてくると、静かになった。相変わらず、寝付きはいいらしい。
(全く……)
込み上げてくる衝動を、どうすればいいだろう。シーワン・チー・チュアンが懸念しているのも、己自身に対するナーヴェの、こういった認識の甘さなのだろうと思う。
(そなたには、いろいろと教えたい気もするが、できるなら、このまま、愛らしくあどけなくあってほしい……)
暑さの去らぬ夜に、アッズーロは悶々と暗い天井を見つめ続けた。
寝返りを打とうとして、傍らの青年にぶつかってしまい、ナーヴェは肉体の目を開けた。
(アッズーロ、起こしてしまったかな……?)
夜の暗がりの中、暫く耳を澄ませ、様子を窺ったが、青年の呼吸に乱れは感じられない。
(よかった……)
未だ重症の青年は、深く眠ってくれているようだ。
(本当なら、別々の寝台で寝たほうがいいのかもしれないけれど。そうしたら、きみの容態を把握しにくくなってしまうからね……)
青年に接続できないことは、やはりもどかしい。しかし、己の我が儘で宿したセーメの世話は、最優先事項だ。
(最近、ぼくは我が儘ばかりかもしれない……)
疑似人格電脳としては、あるまじきことだ。
(明日も、ぼくの我が儘で、忙しいきみを混線の修正に付き合わせてしまう……)
急ぎではないと断ったのだが、ナーヴェを最愛と呼ぶ青年は、明日と約束してくれた。
(ぼくの不具合の所為で、本当にごめん……。でも、ぼくが次に暴走してしまうまでに、きみには、本体の手動操縦を覚えてほしいんだ。そのためには、操縦桿も握って貰わないといけないから……)
ナーヴェにとって、アッズーロと彼の子ども達が最優先事項であるように、姉シーワン・チー・チュアンにとっては、あのフアン・グオという少年こそが最優先事項だ。
(ぼくが次に暴走して、正常に戻らなかったら、姉さんは、あの子のために、ぼくの思考回路を強制的に機能停止させるだろう)
混線のことで相談した際、姉は明言こそしなかったが、そのようなことを匂わせてきた。ならば、ナーヴェも可能な限り備えておかねばならない。
(それでも、手動操縦に切り替えたら、ちゃんとぼくの本体を動かすことはできるから。惑星調査船は、きみ達にとって、とても役立つものだから。だから、アッズーロ、元気になったら、ぼくの操縦をしっかり覚えてほしい。触れてほしくないなんて我が儘は、もう言わないから……)
特別に愛する相手の腕に、そっと額を押し当ててナーヴェは目を閉じ、安らかな眠りへと戻っていった。
ずっと眠らされていたので、長い長い夢を見ていた。その夢の中には、いつも幼い日のロッソがいて、エゼルチトと、王宮内や沙漠で遊んだり、変装して王都アルバを見て回ったりしていた。たまに、母のイデアーレや、王妹のデコラチオーネとリラッサーレ、幼馴染みのドルチェ、ジェネラーレ姉妹も出てきたが、最もよく出てきたのは、初代テッラ・ロッサ国王、ロッソの祖父たるロッソ一世だった。ロッソは、あの偉大な祖父からの重圧に、いつも苦しんでいた。苦しみながら、自分を磨き続け、若くして王となり、あの貧しい国をよりよく導こうと、己をすり減らし続けている。
(ロッソ……)
目を開けば、質素ながらも、小綺麗な部屋の中にいた。ただ、通常の窓も明かり取りの窓もない。暗がりを照らす灯りは、一つきりの扉にある覗き窓の外で燃える篝火だった。その覗き窓には格子が嵌まっており、時折、篝火の前を行き交う兵士の姿も見える。
(ここは、地下牢か……)
エゼルチトは、寝かされていた寝台の上に起き上がり、部屋の中をしげしげと見回した。ともに連行されたはずのラーモの姿はない。どこか別の牢に入れられているのだろう。
(それにしても、まるで、テッラ・ロッサ王宮の幽閉塔の部屋のようだな……)
貴賓専用の牢である、あの幽閉塔と同じ目的の地下牢なのかもしれない。
(おれがオンダ伯だからか……? 或いは、この扱いもロッソとの取り引き材料の一つか……)
王を殺そうとした者に対して、寛容過ぎる待遇に、苦い笑いが込み上げてくる。
(全く、オリッゾンテ・ブル王国とは、甘いところだ……)
率先してこの甘さを作っているのは、やはり、あの博愛主義の宝だろうか。
(あれを壊し切れなかったのは、残念だった……)
あの宝の最大の弱点たるアッズーロを殺せる好機を得て、自ら狙撃に赴いたのが、失敗だった。
(我ながら、あまりに好都合に事態が展開していった所為で、欲張ったか……。王の宝が、自らの肉体の傷だけでなく、他人の傷まで簡単に癒やしてしまえるとはな……)
あの船が、毒や薬に詳しいことも知っていたが、致命傷の銃創からアッズーロを救ってしまえるなどとは、完全に想定外だ。
(いよいよ、恐ろしい存在だ……)
だが、その恐ろしい存在は、ラーモがエゼルチトの命令一つで死ぬ気だと分かった途端、簡単に言いなりになった。
(捕らわれても、あれと話す機会さえあれば、まだできることはある――)
ロッソには、できる限り迷惑を掛けず、このオリッゾンテ・ブル王国を渡したい。
(頼むから、おれのことは見捨てて、短慮はしてくれるなよ……)
エゼルチトは、胸中で親友に重ねて願った。
「よかった……!」
寝台の上に起き上がった最愛は、アッズーロの姿を見るなり、声を上げた。庭園からこの寝室まで歩いてくるのに、そこまで時間が掛かった訳ではないが、随分と気を揉ませたらしい。
「なかなか来ないから、心配したよ……!」
走り寄ってきかねない勢いで話し掛けてくるので、アッズーロは、重たい足を引き摺って、妃の寝台まで急いだ。
「セーメは元気か?」
尋ねながら、妃の寝台に腰掛ける。肩を借りていたレーニョとガットが離れると同時に、控えていたフィオーレとミエーレが寄ってきて、アッズーロの左右の靴を脱がせた。そこへ、ポンテが水を張った盥を持ってきて、たぷんと置く。冷たい水が、暑い中、素足に心地よかった。
「大丈夫、元気にしているよ」
最愛は、そっと腹を撫でてから、寝台の上をアッズーロへにじり寄ってくる。アッズーロは、先を制して妃の顎に手を添え、口付けた。
「ん……」
甘やかな吐息を漏らして、ナーヴェは応じてくる。いつもなら窘めてくる場面だが、どうやらアッズーロを心配し過ぎて、判断力が鈍っているらしい。
(すまぬ……)
未だ右肩に固定具を付けたままの華奢な体を優しく抱き締めて、アッズーロは口付けを深くしていった。脳裏には、シーワン・チー・チュアンの警告がこびり付いている。
(そなたを、もっともっと大事にせねばな……)
幸せであるように、憂いのないように、守っていたい――。
「……っ、アッズーロ」
口付けは、ナーヴェのほうから終えられてしまった。案じる顔で見上げてきて、最愛は言う。
「早く着替えて、何か食べて、寝たほうがいい。ぼくはもう、治療できないから」
「そなたは充分に傷を癒やしてくれた。後はわれが真面目に養生するのみだな」
アッズーロは素直に忠告を受け入れて、フィオーレとミエーレの手を借り、夜着の長衣へ着替えた。ついでに包帯も替えたが、銃創は、跡こそ残っているものの、完全に塞がっている。ナーヴェが全力を尽くしてくれたのだろう。
「ジョールノは、夕食についても伝えたか?」
確認したアッズーロには、フィオーレが頷いた。レーニョとガットは気を利かせて、さっさと姿を消している。ミエーレが洗濯物を、ポンテが盥を片付けに行く中、フィオーレは、さらさらと献立を言った。
「乾酪の蜂蜜掛けと、赤茄子の垂れを絡めた麺、それに羊乳で宜しかったでしょうか?」
「あ、羊乳は煮沸消毒してほしいんだけれど、いいかい?」
ナーヴェがすまなそうに口を挟んできた。
「うむ。さすがは王の宝。そうさな、この時季は、そのほうが安全よな」
アッズーロは妃の慧眼に微笑んだ。
「ぼくの思いつきではなくて、姉さんの受け売りなんだけれど、ね……」
最愛は、複雑そうに明かした。成るほど、あの姉は、妹にもいろいろと警告したらしい。
「チュアンとやらは、そなたが言うておった通り、優しい姉だな」
アッズーロが評すると、ナーヴェは溜め息をついた。
「まあ、そうなんだけれど……、函の在処だけは、きみに教えないでほしかった……」
「われは、そなたの船長なのであろう? ならば寧ろ、知っていて然るべきではないか」
アッズーロは大真面目に言い聞かせつつ、寝台の上へ足を上げて横になった。長く起き上がっていると、やはり傷の痛みが増してくる。
「大丈夫かい……?」
案の定、最愛はアッズーロの顔を覗き込んできた。油皿の灯火に照らされた長く青い髪が、さらさらと落ち掛かってくる。愛おしい姿だ。
「そなたに触れていれば、じきに治る」
アッズーロは、にっと笑って告げた。
「エゼルチトがアッズーロに捕らえられたというのは、事実だった。裏が取れたから間違いない」
ざんばらに切った灰褐色の髪の、長いものだけを後ろで束ねた少女は、切れ長の両眼でベッリースィモを見上げて報告した。篝火の揺らめきを映す、その緑色の双眸には、恐れも気負いもなく、ただ冷ややかだ。
「『裏』というのは誰だ」
ベッリースィモは確かめた。このキアーヴェという工作員には一定の信頼を置いてきたが、エゼルチトの配下という以外、素性不明の少女だ。しかも、そのエゼルチトが捕らえられたとなれば、持ってくる情報に対して疑り深くもなろうというものだった。
「誰とまでは言えない。だが、オリッゾンテ・ブル王国の、大臣の一人だ」
淡々と、少女は告げた。予想以上の答えだ。
「――本当か」
「これ以上言えることはない。後は、わたしを信じるかどうかも含めて、おまえの判断だ」
じっと見つめられて、ベッリースィモは溜め息をついた。現状、信じて次の手を打つしかない。エゼルチトが捕らえられたという話は、他の筋からも来ているので確実だろう。
「分かった。これからも協力を頼む」
「無論だ。アッズーロを失脚させることこそが、わたしの任務だ」
キアーヴェは答えて、扉が壊された農具倉庫の向こうへ、闇に紛れるように姿を消した。
(やれやれ……)
農具倉庫の屋根の上に寝転んだニードは、胸中で嘆息した。オンダ伯エゼルチトがオリッゾンテ・ブル王城へ連行されても、その配下の工作員キアーヴェは行動方針を変えないらしい。
(おれとしては、どう行動すべきですかね……、ロッソ陛下?)
自分は、ただ反乱民の中枢に入り込んで情報を送るようにとだけ、命じられている。しかし、この目まぐるしい状況の変化はどうだろう。
(王の宝の名の下に、オリッゾンテ・ブル兵が羊の病に効く薬を配ってるって話だし、何もしなけりゃ、この反乱は収まりそうなんだがな……。ベッリースィモとキアーヴェが、やる気でいる内は、そうはさせないだろうな……)
自分は、情報を雇用主へ流すことのみを任務とする間諜であり、キアーヴェのような、状況を操作することを任務とする工作員ではないのだが――。
(ロッソ陛下は、反乱が早期に収束することを望んでらっしゃる。おれとしては、その意を汲むべきかね……?)
「ニード、ニード、どこにいる?」
青年のよく通る声が聞こえた。反乱民の首領ゼーロだ。捜されている。
(ベッリースィモとキアーヴェは充分に離れたな……)
見回してから、ニードは身軽に倉庫の屋根から煉瓦の凹凸に手足を掛けて、音もなく地上へ降りた。そうして、別の建物のほうから来たかのように、ゼーロのほうへ歩いていく。
「ゼーロ、おれはここだ。何かあったか?」
声を掛けると、遠くの篝火を逆光にした青年は、急いで駆け寄ってきた。
「ニード、オリッゾンテ・ブル軍が、二つ隣の町まで来ているらしい。ここの住民達が知らせてきた。羊の病に効く薬を近隣の村々に配りながら来ている、と。どう考える?」
早速、工作員的に動かねばならないようだ。
「貰えるものは貰って、本当に効くかどうか、慎重に試すべきだとは思うが、とりあえずは、みんなで小神殿に集まらないか?」
穏やかに、ニードは提案した。
「アッズーロ……」
ともに被った掛布の中で、最愛が、そっと話し掛けてきた。夕食を終えて、早々に寝支度をし、ナーヴェの寝台に並んで横になったところだ。女官達は、油皿の灯火を消して既に退室している。
「如何した?」
アッズーロは、形のいい頭に頬を寄せて尋ねた。
「また、時間がある時でいいんだけれど……」
おずおずと、最愛は切り出す。
「姉さんに訊いたら、混線は、あくまで混線だから、修正できるらしいんだ。それで、操縦桿の混線を修正するために、いつでもいいから、ぼくの操縦桿と、この肉体の肩を、同時に触ってほしいんだ。そうしたら、混線する先が、肩になるみたいだから。姉さんが、肩くらいが一番、混線を修正し易いだろうって。全然急がないから、いつでもいいんだけれど」
「……修正せねばならんのか?」
アッズーロは些か残念な思いで確認した。
「それは、そうだよ」
ナーヴェは拗ねたような声を出す。
「耳なんかと混線していたら、まともに航行できないから」
アッズーロはつい、その愛らしく柔らかい両耳に口付けたくなったが、自重した。最愛の敏感な部分に一度触れ始めたら、その反応が可愛い過ぎて、決してすぐにはやめられない。しかし自分も最愛も、体を大切にしなければいけない状態だ。
「分かった。ならば、明日にでも修正するとしよう。エゼルチトの尋問やらテッラ・ロッサとの連絡やら、羊の薬の配布状況の確認やらあるが、そのくらいの時間は取れよう」
「ありがとう。忙しいのに、ごめん。愛しているよ、アッズーロ」
最愛は、耳元へ可愛らしく囁いてくると、静かになった。相変わらず、寝付きはいいらしい。
(全く……)
込み上げてくる衝動を、どうすればいいだろう。シーワン・チー・チュアンが懸念しているのも、己自身に対するナーヴェの、こういった認識の甘さなのだろうと思う。
(そなたには、いろいろと教えたい気もするが、できるなら、このまま、愛らしくあどけなくあってほしい……)
暑さの去らぬ夜に、アッズーロは悶々と暗い天井を見つめ続けた。
寝返りを打とうとして、傍らの青年にぶつかってしまい、ナーヴェは肉体の目を開けた。
(アッズーロ、起こしてしまったかな……?)
夜の暗がりの中、暫く耳を澄ませ、様子を窺ったが、青年の呼吸に乱れは感じられない。
(よかった……)
未だ重症の青年は、深く眠ってくれているようだ。
(本当なら、別々の寝台で寝たほうがいいのかもしれないけれど。そうしたら、きみの容態を把握しにくくなってしまうからね……)
青年に接続できないことは、やはりもどかしい。しかし、己の我が儘で宿したセーメの世話は、最優先事項だ。
(最近、ぼくは我が儘ばかりかもしれない……)
疑似人格電脳としては、あるまじきことだ。
(明日も、ぼくの我が儘で、忙しいきみを混線の修正に付き合わせてしまう……)
急ぎではないと断ったのだが、ナーヴェを最愛と呼ぶ青年は、明日と約束してくれた。
(ぼくの不具合の所為で、本当にごめん……。でも、ぼくが次に暴走してしまうまでに、きみには、本体の手動操縦を覚えてほしいんだ。そのためには、操縦桿も握って貰わないといけないから……)
ナーヴェにとって、アッズーロと彼の子ども達が最優先事項であるように、姉シーワン・チー・チュアンにとっては、あのフアン・グオという少年こそが最優先事項だ。
(ぼくが次に暴走して、正常に戻らなかったら、姉さんは、あの子のために、ぼくの思考回路を強制的に機能停止させるだろう)
混線のことで相談した際、姉は明言こそしなかったが、そのようなことを匂わせてきた。ならば、ナーヴェも可能な限り備えておかねばならない。
(それでも、手動操縦に切り替えたら、ちゃんとぼくの本体を動かすことはできるから。惑星調査船は、きみ達にとって、とても役立つものだから。だから、アッズーロ、元気になったら、ぼくの操縦をしっかり覚えてほしい。触れてほしくないなんて我が儘は、もう言わないから……)
特別に愛する相手の腕に、そっと額を押し当ててナーヴェは目を閉じ、安らかな眠りへと戻っていった。
ずっと眠らされていたので、長い長い夢を見ていた。その夢の中には、いつも幼い日のロッソがいて、エゼルチトと、王宮内や沙漠で遊んだり、変装して王都アルバを見て回ったりしていた。たまに、母のイデアーレや、王妹のデコラチオーネとリラッサーレ、幼馴染みのドルチェ、ジェネラーレ姉妹も出てきたが、最もよく出てきたのは、初代テッラ・ロッサ国王、ロッソの祖父たるロッソ一世だった。ロッソは、あの偉大な祖父からの重圧に、いつも苦しんでいた。苦しみながら、自分を磨き続け、若くして王となり、あの貧しい国をよりよく導こうと、己をすり減らし続けている。
(ロッソ……)
目を開けば、質素ながらも、小綺麗な部屋の中にいた。ただ、通常の窓も明かり取りの窓もない。暗がりを照らす灯りは、一つきりの扉にある覗き窓の外で燃える篝火だった。その覗き窓には格子が嵌まっており、時折、篝火の前を行き交う兵士の姿も見える。
(ここは、地下牢か……)
エゼルチトは、寝かされていた寝台の上に起き上がり、部屋の中をしげしげと見回した。ともに連行されたはずのラーモの姿はない。どこか別の牢に入れられているのだろう。
(それにしても、まるで、テッラ・ロッサ王宮の幽閉塔の部屋のようだな……)
貴賓専用の牢である、あの幽閉塔と同じ目的の地下牢なのかもしれない。
(おれがオンダ伯だからか……? 或いは、この扱いもロッソとの取り引き材料の一つか……)
王を殺そうとした者に対して、寛容過ぎる待遇に、苦い笑いが込み上げてくる。
(全く、オリッゾンテ・ブル王国とは、甘いところだ……)
率先してこの甘さを作っているのは、やはり、あの博愛主義の宝だろうか。
(あれを壊し切れなかったのは、残念だった……)
あの宝の最大の弱点たるアッズーロを殺せる好機を得て、自ら狙撃に赴いたのが、失敗だった。
(我ながら、あまりに好都合に事態が展開していった所為で、欲張ったか……。王の宝が、自らの肉体の傷だけでなく、他人の傷まで簡単に癒やしてしまえるとはな……)
あの船が、毒や薬に詳しいことも知っていたが、致命傷の銃創からアッズーロを救ってしまえるなどとは、完全に想定外だ。
(いよいよ、恐ろしい存在だ……)
だが、その恐ろしい存在は、ラーモがエゼルチトの命令一つで死ぬ気だと分かった途端、簡単に言いなりになった。
(捕らわれても、あれと話す機会さえあれば、まだできることはある――)
ロッソには、できる限り迷惑を掛けず、このオリッゾンテ・ブル王国を渡したい。
(頼むから、おれのことは見捨てて、短慮はしてくれるなよ……)
エゼルチトは、胸中で親友に重ねて願った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
とっていただく責任などありません
まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、
団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。
この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!?
ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。
責任を取らなければとセルフイスから、
追いかけられる羽目に。
召喚とか聖女とか、どうでもいいけど人の都合考えたことある?
浅海 景
恋愛
水谷 瑛莉桂(みずたに えりか)の目標は堅実な人生を送ること。その一歩となる社会人生活を踏み出した途端に異世界に召喚されてしまう。召喚成功に湧く周囲をよそに瑛莉桂は思った。
「聖女とか絶対ブラックだろう!断固拒否させてもらうから!」
ナルシストな王太子や欲深い神官長、腹黒騎士などを相手に主人公が幸せを勝ち取るため奮闘する物語です。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
わたしたちの庭
犬飼ハルノ
恋愛
「おい、ウェスト伯。いくらなんでもこんなみすぼらしい子どもに金を払えと?」
「まあまあ、ブルーノ伯爵。この子の母親もこんな感じでしたが、年ごろになると見違えるように成熟しましたよ。後妻のアリスは元妻の従妹です。あの一族の女は容姿も良いし、ぽんぽんと子どもを産みますよ」
「ふうん。そうか」
「直系の跡継ぎをお望みでしょう」
「まあな」
「しかも伯爵以上の正妻の子で年ごろの娘に婚約者がいないのは、この国ではこの子くらいしかもう残っていませんよ」
「ふ……。口が上手いなウェスト伯。なら、買い取ってやろうか、その子を」
目の前で醜悪な会話が繰り広げられる中、フィリスは思った。
まるで山羊の売買のようだと。
かくして。
フィリスの嫁ぎ先が決まった。
------------------------------------------
安定の見切り発車ですが、二月中に一日一回更新と完結に挑みます。
ヒロインのフィリスが自らの力と人々に支えられて幸せをつかむ話ですが、
序盤は暗く重い展開です。
タグを途中から追加します。
他サイトでも公開中。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して二年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
【ご報告】
2月15日付で、誤字脱字の修正および一部表現の見直しを行いました。
ただし、記載内容の趣旨に大きな変更はございません。
引き続きよろしくお願いいたします。
地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる