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第二十五章 過てばこそ 一
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一
「ナーヴェ、わが拘束を解くがよい!」
呼ばわっても、最愛の船は応答しない。妊娠している肉体を活発に動かしているため、船体のほうの応答機能は疎かになっているのかもしれない。近衛兵二人も外へ出たのか、仕切り戸の向こうからも反応がない。
(頼む、無茶だけはしてくれるなよ……!)
施術台に拘束されたままの状態で、アッズーロは唇を噛んだ。ともに下船し、反乱民達の前に立つつもりであったのに、宝は自らの肉体の拘束のみを解いてアッズーロを置き去りにしたのだ。その意図は痛いほど分かるが、しかし業腹だ。
(あやつめ、戻ってきたら、どうしてくれよう……!)
否。そうではない。ただ無事に、心身ともに無事に戻ってきてくれるだけでいいのだ。
小さく溜め息をついて、アッズーロは神ウッチェーロへ祈る。
(ウッチェーロよ、二度とわが最愛が――あなたが残して下さった宝が傷つけられぬよう、お願い申し上げる――)
「作り話だ! 皆、騙されるな!」
不意に大きな声が響き、ドゥーエはびくりとしてそちらを見た。姿を眩ましていたはずのベッリースィモだ。ドゥーエと同じように頭を上げた人々の向こうで、一人立っている男は、宝を指差し、糾弾する。
「『オリッゾンテ・ブルとテッラ・ロッサ、双方にとって脅威となる、新しい勢力が赤い沙漠の向こうに現れた』? 『神殿と同じ船を持った』? 『テッラ・ロッサより強力な軍事力』? 一体、この話のどこが信じられるのだ? どうやって確かめることができる? 何故、皆、そう簡単に騙されるのだ! その女は、『王の宝』を詐称するところから、徹頭徹尾、嘘をついているのだぞ?」
群衆が再びざわめく中、ドゥーエの傍らで、チーニョがすっくと立ち上がった。
「それは違う!」
青年の、半ば裏返った精一杯の声に、ドゥーエはまた驚いた。気弱で、周りの言いなりでしかなかった青年が、ゼーロと並ぶ発言力を持つベッリースィモに、真っ向から対峙し、反対したのだ。
「あの人は、あの方は、本当に本物の『王の宝』なんだ!」
叫んで、痩せた青年は、纏った短衣の隠しから、大切そうに何かを取り出した。
「これは、あの方の髪の毛だ! おれはこれを、扉の壊された、あの倉庫で拾った!」
(自分達が、あの方を犯した、あの倉庫で――)
顔をしかめて、ドゥーエは青年の手に握られた一本の髪を凝視する。暗がりの中、すぐ隣にいるドゥーエの目にも、その髪が本当に青いのかどうか、宝のものかどうかなど分からない。
「おれは、どうせ染めてあるだけだと思って、この髪を切ったんだ。でも、この髪は、表面だけじゃなく、中まで青かった! 正真正銘の、青い髪なんだよ! この意味が、分かるだろう?」
「そんな髪一本が何の証拠になる? その一本を、中まで青く染めただけだろう」
せせら笑ったベッリースィモに応じたのは、当の王の宝だった。
「ぼく自身が、王の宝であることを証明するのが、一番手っ取り早いみたいだね。グースト」
宝は斜め後ろに控えた近衛兵を振り向く。
「ちょっと、きみの剣を貸してくれるかな?」
「いえ、それではわたしが殿下をお守りできなくなります」
断った近衛兵に、宝は重ねて求めた。
「大丈夫、ぼくは強いから。それに、今ここで剣が必要なんだよ。どうか貸してほしい」
尚も躊躇う近衛兵に、もう一人の近衛兵が言った。
「おまえが貸さんのなら、おれが貸す。そして貸していないほうが、命に替えて殿下をお守りするんだ。『今ここで』の意味をよく考えろ」
「分かった」
グーストというらしい金髪の近衛兵は、ゆっくりと革帯から剣を鞘ごと引き抜き、恭しく両手で宝へ渡した。
「ありがとう」
受け取った宝は、何の躊躇もなく、すらりと剣を抜く。うわっと宝の近くにいた人々が後退った。その内の一人へ、宝はゆるりと近付く。
「悪いんだけれど、この剣で、ぼくの右腕を切ってくれるかな?」
「は?」
抜き身の剣を差し出された男は、困惑した様子で、宝と剣を見比べ、次いで左右の人々を見回した。淡い光に向こうから照らされた顔は、やはり影になっていて見えにくいが、確か、小神殿近くの家に住む、壮年の農具職人だ。
「本当に悪いんだけれど、きみは力も強そうだし、ここに住んでいて周りのみんなからよく知られている人だから、適任なんだ。どうか、ぼくの右腕を、この剣で切り付けてほしい」
重ねて請われ、ずいと剣を押し付けられて、場の空気に呑まれたように、農具職人は剣を受け取った。
「おやめ下さい、殿下! 何をお考えです!」
慌てて動こうとした金髪の近衛兵を、もう一人の近衛兵が手を伸ばして止めた。
「殿下のやろうとしていらっしゃることをもっと考えろ、この馬鹿!」
低く叱責した黒髪の近衛兵は、鋭い眼差しを農具職人にも向ける。
「さあ、殿下の仰せの通りにしろ。殿下が怪我を負われても、おれはおまえを成敗したりはせん。安心して切れ。但し、その剣はよく切れる。力を入れ過ぎるなよ」
「そんな……」
更に後退る憐れな農具職人に、王の宝がまた一歩迫った。
「ごめんね。でも、ブイオの言う通り、ぼく達は誰もきみを責めない。寧ろ感謝するから、頼むよ、デゼルト」
さらりと名を呼ばれて、農具職人は硬直した。彼を見知っているドゥーエでさえうろ覚えだった名前を、王の宝は知っていたのだ。その事実が後押ししたのか、農具職人デゼルトは剣を軽く振り上げた。ずんぐりとした体躯の、両肩の筋肉が盛り上がる。農具職人として培った筋力だ。
「切りますよ!」
声を掛けて、デゼルトは、宝が袖を捲った白く細い腕へ剣を振り下ろした。血飛沫が飛び、住民達から悲鳴が上がる。
「す、すいやせん……!」
出血の量に驚いたのか、デゼルトは剣を取り落とし、跪いた。その剣を素早く回収し、自らの袖を切って包帯を作ろうとする金髪の近衛兵や、デゼルト、そして周りの住民達全員に、宝は微笑み掛けた。
「大丈夫だよ、心配しないで」
溢れるように血を流す細い腕を、淡い光の中、掲げて見せる。
「ほら、もう血が止まる」
魔法のような言葉に、ドゥーエは白い腕を伝って滴る血を凝視した。やはり逆光で半ば黒々として見える血は、ぼたぼたぼたぼたと、かなりの勢いで滴っていたが、徐々に量が減っていき、やがて、ぽたりと滴を落として止まった。まだ赤黒く汚れている腕を、宝は袖の端で拭う。再び掲げられた腕には、血の跡は多少残っていても、傷跡らしき切れ目は見当たらなかった。人々は、一様に息を呑み、小さくざわめいている。
「この体は人だけれど」
王の宝が言葉を継ぐ。
「ぼくは人ではないから、こういうこともできる。ぼくが正真正銘の『王の宝』だと、理解してくれると嬉しい」
「――奇跡だ……! 奇跡だよ……!」
ドゥーエの傍の老婆が、跪いたまま、両手を握り締めて叫んだ。
「王の宝は、奇跡を起こされる……! あたしの息子は、近衛兵を勤めさせて頂いてて、テッラ・ロッサとの国境で磔にされなすった殿下を、確かに見て、お御足から釘も抜いたと言ってた。だけど王の宝は見事に蘇りなすったんだ! あんた達もみんな、その奇跡は知ってるだろう? そうして今回も奇跡を見せて下すった! あのお方は間違いなく、王の宝だよ!」
「まやかしだ! 手品に決まっている!」
ベッリースィモが反論したが、今度はデゼルトが振り向いて言い返した。
「わしは確かに切ったんだ! だが今、殿下の傷は、綺麗に塞がっとる! 疑うなら、ここまで見に来るんだ!」
逆にベッリースィモは一歩下がった。
「馬鹿馬鹿しい! 茶番に付き合ってなどいられるか!」
言い捨てて踵を返し、夜の中へ去っていく。その背へ、ゼーロが怒鳴った。
「待て、ベッリースィモ! やましいことがないなら逃げるな!」
「捕まって罪をなすりつけられるのは御免なので、失礼する!」
殆ど走りながら応じて、小神殿の向こうへ姿を消そうとしたベッリースィモが、不意に転んだ。その傍らに誰か立っている。小神殿の陰から出てきたらしい。
「みっともないですよ、ベッリースィモ様。『罪をなすりつけ』たのは、どなたです?」
呆れ返ったような若い女の声。聞き覚えのある声だ。
「ダーチェ、助かる!」
ニードが明るく言って、その女――小神殿裏の宿屋で働くダーチェと、未だ立ち上がれないでいるベッリースィモへ駆け寄っていった。
「彼女、ベッリィースィモに足を引っ掛けて転ばせたように見えたね?」
ナーヴェが問うてみれば、エゼルチトは微かに冷笑して答えた。
「あの女は、ロッソ陛下の配下です。ニードの同僚ですよ」
「成るほど。そういうことか」
緩く癖のある黒髪を後ろで一つに束ね、浅黒い肌に、くっきりとした黒い双眸を持つダーチェの姿は初めて確認したが、その名は以前、ムーロがエゼルチトに知っているかと尋ねた中にあった。
「きみは尋問されている時、ベッリースィモ以外については、知っているとも知らないとも言わなかったけれど、彼女のことも知っていたんだね」
「キアーヴェの報告に拠れば、ダーチェは小神殿に付属する宿屋で働きながら、反乱民の中枢へ入り込んでいたようですよ」
エゼルチトは淡々と情報を明かした。キアーヴェが自らの配下であることも認めたのだ。
「ニードと言い、ダーチェと言い、ロッソには幾ら感謝してもし足りないね……」
ナーヴェはしみじみと呟いた。すると、隣から同様にしみじみと相槌があった。
「陛下は、そういうお方です」
エゼルチトは真面目な顔で、ダーチェとニードがベッリースィモを捕縛するさまを眺めている。ナーヴェは不思議になって尋ねた。
「きみはそんなにもロッソのことが好きなのに、どうして、彼の意に染まないことを独断でしようと思ったんだい?」
「歯痒いからですよ」
エゼルチトは即答した。その横顔が厳しい。
「陛下は、あの乾いた貧しい国を継いで、確実に豊かにしてこられた。それでも民の中には、このオリッゾンテ・ブルと比較して、生活が苦しいと嘆く者もいる。オリッゾンテ・ブルへ移住したがる者もいる。だが、そのオリッゾンテ・ブルは、そもそも陛下が継ぐべき国だ……!」
「アッズーロに罪はない。どちらの国に住んでいる人にも、罪はない」
静かに、ナーヴェは訴える。
「罪を負うべきは、新たな国を創るようザッフィロに進言した、ぼくだけだ」
「ロッソ陛下にオリッゾンテ・ブルの王位をお返しすることでしか、その罪は償えませんよ」
冷然と言い切ったエゼルチトに、ナーヴェは真摯に告げた。
「罪は、ずっと背負っていくよ。そして、これからもテッラ・ロッサ王国のために、できるだけのことをしていく。今ぼくにできることは、そこまでなんだ」
「――わたしは、あなたが嫌いです」
「うん。よく分かっているよ」
ナーヴェが応じた時、ゼーロが群衆を掻き分けるようにナーヴェへと歩み寄ってきた。後ろには、捕縛されたベッリースィモと、その縄を握ったニードを連れている。銀髪を短めに刈り、白い肌を持ち、白い長衣を纏った青年は、夜目にも目立っていた。
「王の宝よ」
反乱を率いてきた青年は、琥珀色の双眸でナーヴェを見据える。
「おれの仲間があなた様に狼藉を働いたこと、深くお詫び申し上げます。そちらのエゼルチト将軍が仰ったこと、あなた様が仰ったこととなさったこと、信じ難いことが多いですが、今のところ、信じるべきだと、おれは判断しています。それらのことも含めて、どうか、改めて話せる場を設けては頂けないでしょうか」
「勿論だよ。それは、こちらからお願いしようと思っていたことなんだ。また日時と場所を調整しよう」
ナーヴェは微笑んで約束した。
「ありがとうございます」
少し表情を和らげたゼーロは、背後のベッリースィモを振り返る。
「それから、このベッリースィモについては、あなた様に引き取って頂くことが、一番ではないかと思うのですが、どうでしょうか」
「きみ達にとっては、仲間だった人だけれど、それで構わないのかい?」
「テッラ・ロッサの将軍の手先となって、羊に毒を盛って殺すような奴は、仲間じゃない」
冷たく断言したゼーロに、ベッリースィモが叫んだ。
「わたしは羊に毒など盛っていない。それはキアーヴェという、あの女がしたことだろう! わたしは無関係だ!」
「確かに、おまえは直接毒を盛るなどしていないだろうな」
冷ややかに口を挟んだのは、エゼルチト。
「だが、おまえはわたしの指示を知っていた。キアーヴェと常に連携していた。それは立派な罪だ。テッラ・ロッサの筆頭将軍たるわたしが断言しよう。おまえは、アッズーロを陥れようとしていたわたしと協力し、国王アッズーロや王の宝について、周辺住民に誤った認識を植え付けて、反乱へ導いていた。オリッゾンテ・ブル王国への立派な反逆罪だ」
「『反逆罪』と言うなら!」
ベッリースィモが凄絶な笑みを浮かべる。
「ゼーロ、おまえも立派な反逆罪だろう!」
「反逆罪を問うかどうかは、事実関係を調べたのち決定するよ」
ナーヴェは議論を引き取り、ベッリースィモを見つめた。
「ただ、きみに関しては、エゼルチトからフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯に関するさまざまな証言を貰っているからね。きみは重要参考人で、おまけに逃亡の恐れもある。悪いけれど、拘束したまま王城まで一緒に来て貰うよ」
「敵国の筆頭将軍の言うことを信じるのか!」
怒鳴ったベッリースィモに、ナーヴェは真顔で頷いた。
「うん。ぼくはきみと違って、できるだけ人を信じたいと思っているから」
「ナーヴェ、わが拘束を解くがよい!」
呼ばわっても、最愛の船は応答しない。妊娠している肉体を活発に動かしているため、船体のほうの応答機能は疎かになっているのかもしれない。近衛兵二人も外へ出たのか、仕切り戸の向こうからも反応がない。
(頼む、無茶だけはしてくれるなよ……!)
施術台に拘束されたままの状態で、アッズーロは唇を噛んだ。ともに下船し、反乱民達の前に立つつもりであったのに、宝は自らの肉体の拘束のみを解いてアッズーロを置き去りにしたのだ。その意図は痛いほど分かるが、しかし業腹だ。
(あやつめ、戻ってきたら、どうしてくれよう……!)
否。そうではない。ただ無事に、心身ともに無事に戻ってきてくれるだけでいいのだ。
小さく溜め息をついて、アッズーロは神ウッチェーロへ祈る。
(ウッチェーロよ、二度とわが最愛が――あなたが残して下さった宝が傷つけられぬよう、お願い申し上げる――)
「作り話だ! 皆、騙されるな!」
不意に大きな声が響き、ドゥーエはびくりとしてそちらを見た。姿を眩ましていたはずのベッリースィモだ。ドゥーエと同じように頭を上げた人々の向こうで、一人立っている男は、宝を指差し、糾弾する。
「『オリッゾンテ・ブルとテッラ・ロッサ、双方にとって脅威となる、新しい勢力が赤い沙漠の向こうに現れた』? 『神殿と同じ船を持った』? 『テッラ・ロッサより強力な軍事力』? 一体、この話のどこが信じられるのだ? どうやって確かめることができる? 何故、皆、そう簡単に騙されるのだ! その女は、『王の宝』を詐称するところから、徹頭徹尾、嘘をついているのだぞ?」
群衆が再びざわめく中、ドゥーエの傍らで、チーニョがすっくと立ち上がった。
「それは違う!」
青年の、半ば裏返った精一杯の声に、ドゥーエはまた驚いた。気弱で、周りの言いなりでしかなかった青年が、ゼーロと並ぶ発言力を持つベッリースィモに、真っ向から対峙し、反対したのだ。
「あの人は、あの方は、本当に本物の『王の宝』なんだ!」
叫んで、痩せた青年は、纏った短衣の隠しから、大切そうに何かを取り出した。
「これは、あの方の髪の毛だ! おれはこれを、扉の壊された、あの倉庫で拾った!」
(自分達が、あの方を犯した、あの倉庫で――)
顔をしかめて、ドゥーエは青年の手に握られた一本の髪を凝視する。暗がりの中、すぐ隣にいるドゥーエの目にも、その髪が本当に青いのかどうか、宝のものかどうかなど分からない。
「おれは、どうせ染めてあるだけだと思って、この髪を切ったんだ。でも、この髪は、表面だけじゃなく、中まで青かった! 正真正銘の、青い髪なんだよ! この意味が、分かるだろう?」
「そんな髪一本が何の証拠になる? その一本を、中まで青く染めただけだろう」
せせら笑ったベッリースィモに応じたのは、当の王の宝だった。
「ぼく自身が、王の宝であることを証明するのが、一番手っ取り早いみたいだね。グースト」
宝は斜め後ろに控えた近衛兵を振り向く。
「ちょっと、きみの剣を貸してくれるかな?」
「いえ、それではわたしが殿下をお守りできなくなります」
断った近衛兵に、宝は重ねて求めた。
「大丈夫、ぼくは強いから。それに、今ここで剣が必要なんだよ。どうか貸してほしい」
尚も躊躇う近衛兵に、もう一人の近衛兵が言った。
「おまえが貸さんのなら、おれが貸す。そして貸していないほうが、命に替えて殿下をお守りするんだ。『今ここで』の意味をよく考えろ」
「分かった」
グーストというらしい金髪の近衛兵は、ゆっくりと革帯から剣を鞘ごと引き抜き、恭しく両手で宝へ渡した。
「ありがとう」
受け取った宝は、何の躊躇もなく、すらりと剣を抜く。うわっと宝の近くにいた人々が後退った。その内の一人へ、宝はゆるりと近付く。
「悪いんだけれど、この剣で、ぼくの右腕を切ってくれるかな?」
「は?」
抜き身の剣を差し出された男は、困惑した様子で、宝と剣を見比べ、次いで左右の人々を見回した。淡い光に向こうから照らされた顔は、やはり影になっていて見えにくいが、確か、小神殿近くの家に住む、壮年の農具職人だ。
「本当に悪いんだけれど、きみは力も強そうだし、ここに住んでいて周りのみんなからよく知られている人だから、適任なんだ。どうか、ぼくの右腕を、この剣で切り付けてほしい」
重ねて請われ、ずいと剣を押し付けられて、場の空気に呑まれたように、農具職人は剣を受け取った。
「おやめ下さい、殿下! 何をお考えです!」
慌てて動こうとした金髪の近衛兵を、もう一人の近衛兵が手を伸ばして止めた。
「殿下のやろうとしていらっしゃることをもっと考えろ、この馬鹿!」
低く叱責した黒髪の近衛兵は、鋭い眼差しを農具職人にも向ける。
「さあ、殿下の仰せの通りにしろ。殿下が怪我を負われても、おれはおまえを成敗したりはせん。安心して切れ。但し、その剣はよく切れる。力を入れ過ぎるなよ」
「そんな……」
更に後退る憐れな農具職人に、王の宝がまた一歩迫った。
「ごめんね。でも、ブイオの言う通り、ぼく達は誰もきみを責めない。寧ろ感謝するから、頼むよ、デゼルト」
さらりと名を呼ばれて、農具職人は硬直した。彼を見知っているドゥーエでさえうろ覚えだった名前を、王の宝は知っていたのだ。その事実が後押ししたのか、農具職人デゼルトは剣を軽く振り上げた。ずんぐりとした体躯の、両肩の筋肉が盛り上がる。農具職人として培った筋力だ。
「切りますよ!」
声を掛けて、デゼルトは、宝が袖を捲った白く細い腕へ剣を振り下ろした。血飛沫が飛び、住民達から悲鳴が上がる。
「す、すいやせん……!」
出血の量に驚いたのか、デゼルトは剣を取り落とし、跪いた。その剣を素早く回収し、自らの袖を切って包帯を作ろうとする金髪の近衛兵や、デゼルト、そして周りの住民達全員に、宝は微笑み掛けた。
「大丈夫だよ、心配しないで」
溢れるように血を流す細い腕を、淡い光の中、掲げて見せる。
「ほら、もう血が止まる」
魔法のような言葉に、ドゥーエは白い腕を伝って滴る血を凝視した。やはり逆光で半ば黒々として見える血は、ぼたぼたぼたぼたと、かなりの勢いで滴っていたが、徐々に量が減っていき、やがて、ぽたりと滴を落として止まった。まだ赤黒く汚れている腕を、宝は袖の端で拭う。再び掲げられた腕には、血の跡は多少残っていても、傷跡らしき切れ目は見当たらなかった。人々は、一様に息を呑み、小さくざわめいている。
「この体は人だけれど」
王の宝が言葉を継ぐ。
「ぼくは人ではないから、こういうこともできる。ぼくが正真正銘の『王の宝』だと、理解してくれると嬉しい」
「――奇跡だ……! 奇跡だよ……!」
ドゥーエの傍の老婆が、跪いたまま、両手を握り締めて叫んだ。
「王の宝は、奇跡を起こされる……! あたしの息子は、近衛兵を勤めさせて頂いてて、テッラ・ロッサとの国境で磔にされなすった殿下を、確かに見て、お御足から釘も抜いたと言ってた。だけど王の宝は見事に蘇りなすったんだ! あんた達もみんな、その奇跡は知ってるだろう? そうして今回も奇跡を見せて下すった! あのお方は間違いなく、王の宝だよ!」
「まやかしだ! 手品に決まっている!」
ベッリースィモが反論したが、今度はデゼルトが振り向いて言い返した。
「わしは確かに切ったんだ! だが今、殿下の傷は、綺麗に塞がっとる! 疑うなら、ここまで見に来るんだ!」
逆にベッリースィモは一歩下がった。
「馬鹿馬鹿しい! 茶番に付き合ってなどいられるか!」
言い捨てて踵を返し、夜の中へ去っていく。その背へ、ゼーロが怒鳴った。
「待て、ベッリースィモ! やましいことがないなら逃げるな!」
「捕まって罪をなすりつけられるのは御免なので、失礼する!」
殆ど走りながら応じて、小神殿の向こうへ姿を消そうとしたベッリースィモが、不意に転んだ。その傍らに誰か立っている。小神殿の陰から出てきたらしい。
「みっともないですよ、ベッリースィモ様。『罪をなすりつけ』たのは、どなたです?」
呆れ返ったような若い女の声。聞き覚えのある声だ。
「ダーチェ、助かる!」
ニードが明るく言って、その女――小神殿裏の宿屋で働くダーチェと、未だ立ち上がれないでいるベッリースィモへ駆け寄っていった。
「彼女、ベッリィースィモに足を引っ掛けて転ばせたように見えたね?」
ナーヴェが問うてみれば、エゼルチトは微かに冷笑して答えた。
「あの女は、ロッソ陛下の配下です。ニードの同僚ですよ」
「成るほど。そういうことか」
緩く癖のある黒髪を後ろで一つに束ね、浅黒い肌に、くっきりとした黒い双眸を持つダーチェの姿は初めて確認したが、その名は以前、ムーロがエゼルチトに知っているかと尋ねた中にあった。
「きみは尋問されている時、ベッリースィモ以外については、知っているとも知らないとも言わなかったけれど、彼女のことも知っていたんだね」
「キアーヴェの報告に拠れば、ダーチェは小神殿に付属する宿屋で働きながら、反乱民の中枢へ入り込んでいたようですよ」
エゼルチトは淡々と情報を明かした。キアーヴェが自らの配下であることも認めたのだ。
「ニードと言い、ダーチェと言い、ロッソには幾ら感謝してもし足りないね……」
ナーヴェはしみじみと呟いた。すると、隣から同様にしみじみと相槌があった。
「陛下は、そういうお方です」
エゼルチトは真面目な顔で、ダーチェとニードがベッリースィモを捕縛するさまを眺めている。ナーヴェは不思議になって尋ねた。
「きみはそんなにもロッソのことが好きなのに、どうして、彼の意に染まないことを独断でしようと思ったんだい?」
「歯痒いからですよ」
エゼルチトは即答した。その横顔が厳しい。
「陛下は、あの乾いた貧しい国を継いで、確実に豊かにしてこられた。それでも民の中には、このオリッゾンテ・ブルと比較して、生活が苦しいと嘆く者もいる。オリッゾンテ・ブルへ移住したがる者もいる。だが、そのオリッゾンテ・ブルは、そもそも陛下が継ぐべき国だ……!」
「アッズーロに罪はない。どちらの国に住んでいる人にも、罪はない」
静かに、ナーヴェは訴える。
「罪を負うべきは、新たな国を創るようザッフィロに進言した、ぼくだけだ」
「ロッソ陛下にオリッゾンテ・ブルの王位をお返しすることでしか、その罪は償えませんよ」
冷然と言い切ったエゼルチトに、ナーヴェは真摯に告げた。
「罪は、ずっと背負っていくよ。そして、これからもテッラ・ロッサ王国のために、できるだけのことをしていく。今ぼくにできることは、そこまでなんだ」
「――わたしは、あなたが嫌いです」
「うん。よく分かっているよ」
ナーヴェが応じた時、ゼーロが群衆を掻き分けるようにナーヴェへと歩み寄ってきた。後ろには、捕縛されたベッリースィモと、その縄を握ったニードを連れている。銀髪を短めに刈り、白い肌を持ち、白い長衣を纏った青年は、夜目にも目立っていた。
「王の宝よ」
反乱を率いてきた青年は、琥珀色の双眸でナーヴェを見据える。
「おれの仲間があなた様に狼藉を働いたこと、深くお詫び申し上げます。そちらのエゼルチト将軍が仰ったこと、あなた様が仰ったこととなさったこと、信じ難いことが多いですが、今のところ、信じるべきだと、おれは判断しています。それらのことも含めて、どうか、改めて話せる場を設けては頂けないでしょうか」
「勿論だよ。それは、こちらからお願いしようと思っていたことなんだ。また日時と場所を調整しよう」
ナーヴェは微笑んで約束した。
「ありがとうございます」
少し表情を和らげたゼーロは、背後のベッリースィモを振り返る。
「それから、このベッリースィモについては、あなた様に引き取って頂くことが、一番ではないかと思うのですが、どうでしょうか」
「きみ達にとっては、仲間だった人だけれど、それで構わないのかい?」
「テッラ・ロッサの将軍の手先となって、羊に毒を盛って殺すような奴は、仲間じゃない」
冷たく断言したゼーロに、ベッリースィモが叫んだ。
「わたしは羊に毒など盛っていない。それはキアーヴェという、あの女がしたことだろう! わたしは無関係だ!」
「確かに、おまえは直接毒を盛るなどしていないだろうな」
冷ややかに口を挟んだのは、エゼルチト。
「だが、おまえはわたしの指示を知っていた。キアーヴェと常に連携していた。それは立派な罪だ。テッラ・ロッサの筆頭将軍たるわたしが断言しよう。おまえは、アッズーロを陥れようとしていたわたしと協力し、国王アッズーロや王の宝について、周辺住民に誤った認識を植え付けて、反乱へ導いていた。オリッゾンテ・ブル王国への立派な反逆罪だ」
「『反逆罪』と言うなら!」
ベッリースィモが凄絶な笑みを浮かべる。
「ゼーロ、おまえも立派な反逆罪だろう!」
「反逆罪を問うかどうかは、事実関係を調べたのち決定するよ」
ナーヴェは議論を引き取り、ベッリースィモを見つめた。
「ただ、きみに関しては、エゼルチトからフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯に関するさまざまな証言を貰っているからね。きみは重要参考人で、おまけに逃亡の恐れもある。悪いけれど、拘束したまま王城まで一緒に来て貰うよ」
「敵国の筆頭将軍の言うことを信じるのか!」
怒鳴ったベッリースィモに、ナーヴェは真顔で頷いた。
「うん。ぼくはきみと違って、できるだけ人を信じたいと思っているから」
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こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
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「ふうん。そうか」
「直系の跡継ぎをお望みでしょう」
「まあな」
「しかも伯爵以上の正妻の子で年ごろの娘に婚約者がいないのは、この国ではこの子くらいしかもう残っていませんよ」
「ふ……。口が上手いなウェスト伯。なら、買い取ってやろうか、その子を」
目の前で醜悪な会話が繰り広げられる中、フィリスは思った。
まるで山羊の売買のようだと。
かくして。
フィリスの嫁ぎ先が決まった。
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安定の見切り発車ですが、二月中に一日一回更新と完結に挑みます。
ヒロインのフィリスが自らの力と人々に支えられて幸せをつかむ話ですが、
序盤は暗く重い展開です。
タグを途中から追加します。
他サイトでも公開中。
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