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「いいです!結構ですから!!キナリ様!!」
「いいから、いいから」
「いいえ!それは私の仕事です!」
ツィーは怒ったように言うと、僕からフワフワした手触りのいい雑巾を取り上げた。
「邪魔です!大人しくしていてください!」
「だって……」
「だってもなにも!いきなりどうしたんですか?!キナリ様はアルナイル様の番となられたんです!!少しは自覚をもっていただかないと!!」
雑巾の前は、虹色のホウキを取り上げられて。
その前は、ピンクの羽根のついたハタキを取り上げられた。
少しでも蔵の中を再現したくて、僕は掃除から始めようと思ったんだ。
欠けた記憶を取り戻すため。
アルナイルにふさわしい番になるため。
流されないと決めた矢先に、ツィーから出鼻を挫かれる。
何も、させてもらえない。
掃除はもちろん、ベッドメイキングから洗濯まで。
あまりにもチョロチョロ手を出してしまったようで、とうとうツィーの堪忍袋の尾が切れた。
「動かない!触らない!ジッとしてろ!」と非常に低くて凄みのある声で、ツィーは僕を脅す……制する。
この時僕は、初めて………小さくてかわいいツィーのことを怖いと思った。
逆らったら、ガチでダメなヤツだったよ、ツィーは。
でもなぁ、僕は僕自身のことをしっかり固めないといけないんだ。
だから、とにかく何かしていたい。
些細なことでも刺激になるハズだから、体を一心不乱に動かしたいのかに。
結局、怒りに震えるツィーから、僕は部屋をつまみ出されて。
あてもなく、フラフラと海岸線のキワキワを歩いていた。
白い砂は太陽に照らされているはずなのに、サラサラして脚に纏わり付かない上に、熱くもない。
波打ち際の足に、たまにかかる海水は冷たくて心地良くて。
そういえば………。
アルナイルに腕を引っ張られて、転がり落ちた先がこの浜辺だったよな。
落ちたところで、強引に処女を奪われて。
あれよあれよいう間に、運命だのオメガだの言われて、今じゃアルナイルの番という立場になって。
誰かとライバルという関係になるのは、まだ慣れないけど。
ツィーのように、僕に対して裏表なく心配したり、励ましてくれたり。
アルナイルのように、その全ての愛情を僕に注いでくれたり。
元々の世界よりも、居心地が良いのは確かで。
………思い出さなきゃならないのに。
アルナイルとの出会いから全てを、思い出さなきゃならないのに。
父の顔も、母の顔も、ましてや兄弟の顔すら。
輪郭がボヤけて、ハッキリと〝こうだっ!〟って顔が出てこない。
無意識に、元の世界を忘れようとしている……?
番になったから……?
まるで最初からここにいたんじゃないか、って……?
………いやいやいや、そんなワケないんだよ!!
悶々としながら歩いていたら、いつの間にか浜辺の端の方まできていた。
足元からふと顔を上げると、視線の先には見慣れた先客がいた。
ミルクティー色の髪を風になびかせた、エニフだ。
………今は、なんとなく会いたくなかった。
そう思って、回れ右をしようとした瞬間、視界の端にうつるエニフの手が、風景に同化して消えるのを見た。
「エニフ!!何してるんだ!!」
ビクッと大きく体を震わせて、エニフが振り返った。
そうだ……!!あそこ………!!
僕が、飛ばされたところだ!!
エニフに手を伸ばした瞬間、エニフの体が引き摺られるように風景の中に消えた。
空気が歪んで、エニフを飲み込んだ場所から円状に波紋が広がる。
ここだ………!!
僕はここから来たんだ……!!
躊躇いもなく、僕は余韻で残る波紋の中に手を入れた。
中が……強い海流のようなすごい勢いで、渦巻いている。
………引っ張られる……!!
そう思って、足を踏ん張った次の瞬間には、僕の体は空間の歪みに吸い込まれていた。
洗濯機の中にいるみたいに。
体が縦横斜めに、もんどり打ちながら回転して、偶然にも手先が何かの枠を掴む。
長方形の細長い四角が僕の目の前に現れて、僕はそのまま指先に力を入れると、体をぐっと持ち上げた。
頭に、錦の布がかかる。
布の間から垣間見えるのは、真っ暗な………蔵の中。
………やっぱり!!
あの浜辺の空間の歪みは、僕ん家の蔵に繋がっていたんだ。
………なんて……感心している場合じゃない!
エニフは?!
エニフは、どこに行ったんだ?!
「いやーっ!!」
その時、暗闇からエニフと思しき声が響いた。
咄嗟に身を乗り出し、暗闇の中必死に目を凝らす。
あ………古箪笥の後ろ………仄かに、明るい。
僕は足音を立てずに、そっと古箪笥の影に身を隠した。
「大人しくせんかっ!!」
突然、遠い記憶の奥底に覚えのある、嗄れた声が地鳴りのように大きく響く。
………これ………おじいちゃんの、声?
なんで……?
おじいちゃんは、僕が小さい頃亡くなって………それで………。
「やだぁ!!離してーっ!!」
「お前か!!俺の………俺の………大事な雪也に手をかけたのは!!」
はぁ?!
………手をかけたぁ?!大事ぃ?!
………はぁ?!
おじいちゃんって、こんなキャラだったっけ?
そう言われてみれば………おじいちゃんの記憶と、アルナイルの記憶がスッパリ無い。
おじいちゃんがいたという事実と、アルナイルが座敷童子だという勘違いと、僕が分かってるのはそれだけで。
………心臓が飛び出すんじゃないか、ってくらい。
その音がおじいちゃんとエニフに届くんじゃないかってくらい………大きく鼓動が、脈打つ。
「雪也は俺のだっ!!俺しか知らないんだ!!知らなかったのに……なんてことをしてくれたんだ!!」
おじいちゃんの言葉が、僕の鳩尾に深く入り込んで。
鳩尾にうけた衝撃は、瞬時に頭の中に蓋をした記憶の箱を振動させて、粉々に砕いた。
『おじいちゃん……!……やめて…!!……痛いっ!!痛いよぉ……!!』
おじいちゃんの部屋で、毎日おじいちゃんは僕を畳の上に押し倒して、足の間を痛くする。
『雪也がいけない子なんだ……!!いけない子はお仕置きをしなきゃ、ならん……!!』
『や……やだ………たす……けて………や、だぁ』
今なら、分かる………。
僕、おじいちゃんにヤられた。
それが父や母にバレないはずもなく、僕は毎日、蔵に閉じ込められたんだ。
でもそれは、幼い僕をさらに追い込む結果となってしまった。
僕が悪い子だから、だからおじいちゃんが痛いことをする。
だから、こんなところに閉じ込められる。
だから………だから………苦しくて、悲しくて。
どうして蔵に閉じ込められているか分からなくなって。
そんな時に、アルナイルに出会った。
アルナイルは、優しかった。
花のいい香を振り撒きながら、僕を包み込むように抱きしめてくれるし、柔らかな唇で僕の冷たくなった体を温めてくれる。
おじいちゃんと同じことをしても、全然苦しくなかった、辛くなかった。
アルナイルが、好きだった。
暗くてハッキリとは分からなかったけど、優しい声も、暗闇でも輝く瞳も、僕に触れる手や肌も。
全部、全部、好きだったんた、アルナイルが。
アルナイルがいたら、おじいちゃんも怖くなかったし、蔵の中も全然辛くなかった。
でも、あの後すぐ………おじいちゃんに、バレて………。
アルナイルがどうとかじゃなくて、僕がおじいちゃん以外の輩にヤられたっていう事実に、おじいちゃんは憤慨して………。
僕をめちゃくちゃに、抱き潰して………心臓発作を起こして、死んじゃったんだ。
………忘れてたんじゃない。
辛くて、苦しくて、悲しくて。
おじいちゃんの最後の顔が、怖くて。
………アルナイルに、すっごく申し訳なくて。
僕は………僕は………記憶を、封印した。
封印して、楽な人生を歩むことを選んだんだ。
………何が、本当の自分だよ。
偉そうなこと抜かしてた割には、鼻っから僕の人生は偽りの人生だったじゃないか。
逃げて、ばかり………嫌な記憶すら無くして、楽な方楽な方に………。
僕は………何一つ………本当がないじゃないか!!
「エニフ!!」
古箪笥を踏みつけて、僕はおじいちゃんとエニフの間に飛び出した。
「ぬわっ!」
計算ではなかったけど、僕はうまい具合におじいちゃんに体当たりをすることができて、恐怖で固まっているエニフを抱き上げる。
「エニフ!走って!!早くっ!!」
エニフを支えながら、僕はあの鏡に向かって走った。
………あっちの世界に、とりあえず逃げなきゃ。
エニフを戻して、おじいちゃんがあっちの世界に来たらどうしようとか思ったけど。
とにかく、僕はエニフを鏡の中に押し込んだ。
「待てぇ、こらーっ!!」
背後でおじいちゃんの雷鳴のような声が響いて、僕は思わず振り返る。
………おじいちゃんが、古い花瓶を投げようとしていたのが見えて、僕は慌てて鏡の中に体を入れた。
鏡が割れたら、もう………二度とこっちには戻って来られないけど………。
今はもう、そんなこと言ってられない!!
そんなこと、関係ない!!
体が鏡の中に全部入りきるか、どうか。
ーーーパリン。
ガラスが砕け散る音が僕の耳を覆って、鏡の破片が僕の体の周りにまとわりつく。
「っつ!!」
左足首に鋭い痛みが走った。
それでも、僕の心は妙に落ち着いていたんだ。
目の前に映るは、アルナイルの汀。
通ずるは、君の汀。
ハッキリとその汀が見えるから、だから……大丈夫。
………もう、怖くない。
僕はもう、大丈夫。
ドサッーーー。
あの時と同じように、僕の体は砂浜に派手に転がり落ちた。
落ちたと同時に、バラバラと鏡の破片が僕に降り注ぐ。
体を起こそうとして、左足に力が入らないことに気付いた。
顔を後方に向けると、足首がズタズタに切り刻まれている。
……鏡が割れた瞬間、僕の左足首はちょうど鏡とど真ん中にあったんだろうな、きっと。
僕は情けなくも、そこに倒れ込んで動けなくなってしまった。
「キナリ様!!キナリ様!!」
頭上で僕を呼ぶ、エニフの叫び声が聞こえる。
「………エニフ…。怪我……してない?」
「大丈夫……大丈夫だよ。キナリ様」
「よかった……。よかったぁ………」
初めて、おじいちゃんに逆らえた。
初めて、自分の意思で動けた。
逃げなかった。
………そして、何より。
僕は全てを思い出して、手に入れた。
なんて……なんて………気持ちがいいんだろうか。
冷たい海の水と、あたたかな砂の上で。
僕の気持ちよさは、より大きくなってくる。
「………あぁ……。気持ちいぃ………」
そう、本当に言ったかどうかは分からない。
エニフの声がだんだんと、遠くから響いてくる感じがして。
瞼がすごく重たくなって。
その瞼には、愛しい人の笑顔が焼きついていた。
「………アル…。愛してる、心から。………愛してる」
「いいから、いいから」
「いいえ!それは私の仕事です!」
ツィーは怒ったように言うと、僕からフワフワした手触りのいい雑巾を取り上げた。
「邪魔です!大人しくしていてください!」
「だって……」
「だってもなにも!いきなりどうしたんですか?!キナリ様はアルナイル様の番となられたんです!!少しは自覚をもっていただかないと!!」
雑巾の前は、虹色のホウキを取り上げられて。
その前は、ピンクの羽根のついたハタキを取り上げられた。
少しでも蔵の中を再現したくて、僕は掃除から始めようと思ったんだ。
欠けた記憶を取り戻すため。
アルナイルにふさわしい番になるため。
流されないと決めた矢先に、ツィーから出鼻を挫かれる。
何も、させてもらえない。
掃除はもちろん、ベッドメイキングから洗濯まで。
あまりにもチョロチョロ手を出してしまったようで、とうとうツィーの堪忍袋の尾が切れた。
「動かない!触らない!ジッとしてろ!」と非常に低くて凄みのある声で、ツィーは僕を脅す……制する。
この時僕は、初めて………小さくてかわいいツィーのことを怖いと思った。
逆らったら、ガチでダメなヤツだったよ、ツィーは。
でもなぁ、僕は僕自身のことをしっかり固めないといけないんだ。
だから、とにかく何かしていたい。
些細なことでも刺激になるハズだから、体を一心不乱に動かしたいのかに。
結局、怒りに震えるツィーから、僕は部屋をつまみ出されて。
あてもなく、フラフラと海岸線のキワキワを歩いていた。
白い砂は太陽に照らされているはずなのに、サラサラして脚に纏わり付かない上に、熱くもない。
波打ち際の足に、たまにかかる海水は冷たくて心地良くて。
そういえば………。
アルナイルに腕を引っ張られて、転がり落ちた先がこの浜辺だったよな。
落ちたところで、強引に処女を奪われて。
あれよあれよいう間に、運命だのオメガだの言われて、今じゃアルナイルの番という立場になって。
誰かとライバルという関係になるのは、まだ慣れないけど。
ツィーのように、僕に対して裏表なく心配したり、励ましてくれたり。
アルナイルのように、その全ての愛情を僕に注いでくれたり。
元々の世界よりも、居心地が良いのは確かで。
………思い出さなきゃならないのに。
アルナイルとの出会いから全てを、思い出さなきゃならないのに。
父の顔も、母の顔も、ましてや兄弟の顔すら。
輪郭がボヤけて、ハッキリと〝こうだっ!〟って顔が出てこない。
無意識に、元の世界を忘れようとしている……?
番になったから……?
まるで最初からここにいたんじゃないか、って……?
………いやいやいや、そんなワケないんだよ!!
悶々としながら歩いていたら、いつの間にか浜辺の端の方まできていた。
足元からふと顔を上げると、視線の先には見慣れた先客がいた。
ミルクティー色の髪を風になびかせた、エニフだ。
………今は、なんとなく会いたくなかった。
そう思って、回れ右をしようとした瞬間、視界の端にうつるエニフの手が、風景に同化して消えるのを見た。
「エニフ!!何してるんだ!!」
ビクッと大きく体を震わせて、エニフが振り返った。
そうだ……!!あそこ………!!
僕が、飛ばされたところだ!!
エニフに手を伸ばした瞬間、エニフの体が引き摺られるように風景の中に消えた。
空気が歪んで、エニフを飲み込んだ場所から円状に波紋が広がる。
ここだ………!!
僕はここから来たんだ……!!
躊躇いもなく、僕は余韻で残る波紋の中に手を入れた。
中が……強い海流のようなすごい勢いで、渦巻いている。
………引っ張られる……!!
そう思って、足を踏ん張った次の瞬間には、僕の体は空間の歪みに吸い込まれていた。
洗濯機の中にいるみたいに。
体が縦横斜めに、もんどり打ちながら回転して、偶然にも手先が何かの枠を掴む。
長方形の細長い四角が僕の目の前に現れて、僕はそのまま指先に力を入れると、体をぐっと持ち上げた。
頭に、錦の布がかかる。
布の間から垣間見えるのは、真っ暗な………蔵の中。
………やっぱり!!
あの浜辺の空間の歪みは、僕ん家の蔵に繋がっていたんだ。
………なんて……感心している場合じゃない!
エニフは?!
エニフは、どこに行ったんだ?!
「いやーっ!!」
その時、暗闇からエニフと思しき声が響いた。
咄嗟に身を乗り出し、暗闇の中必死に目を凝らす。
あ………古箪笥の後ろ………仄かに、明るい。
僕は足音を立てずに、そっと古箪笥の影に身を隠した。
「大人しくせんかっ!!」
突然、遠い記憶の奥底に覚えのある、嗄れた声が地鳴りのように大きく響く。
………これ………おじいちゃんの、声?
なんで……?
おじいちゃんは、僕が小さい頃亡くなって………それで………。
「やだぁ!!離してーっ!!」
「お前か!!俺の………俺の………大事な雪也に手をかけたのは!!」
はぁ?!
………手をかけたぁ?!大事ぃ?!
………はぁ?!
おじいちゃんって、こんなキャラだったっけ?
そう言われてみれば………おじいちゃんの記憶と、アルナイルの記憶がスッパリ無い。
おじいちゃんがいたという事実と、アルナイルが座敷童子だという勘違いと、僕が分かってるのはそれだけで。
………心臓が飛び出すんじゃないか、ってくらい。
その音がおじいちゃんとエニフに届くんじゃないかってくらい………大きく鼓動が、脈打つ。
「雪也は俺のだっ!!俺しか知らないんだ!!知らなかったのに……なんてことをしてくれたんだ!!」
おじいちゃんの言葉が、僕の鳩尾に深く入り込んで。
鳩尾にうけた衝撃は、瞬時に頭の中に蓋をした記憶の箱を振動させて、粉々に砕いた。
『おじいちゃん……!……やめて…!!……痛いっ!!痛いよぉ……!!』
おじいちゃんの部屋で、毎日おじいちゃんは僕を畳の上に押し倒して、足の間を痛くする。
『雪也がいけない子なんだ……!!いけない子はお仕置きをしなきゃ、ならん……!!』
『や……やだ………たす……けて………や、だぁ』
今なら、分かる………。
僕、おじいちゃんにヤられた。
それが父や母にバレないはずもなく、僕は毎日、蔵に閉じ込められたんだ。
でもそれは、幼い僕をさらに追い込む結果となってしまった。
僕が悪い子だから、だからおじいちゃんが痛いことをする。
だから、こんなところに閉じ込められる。
だから………だから………苦しくて、悲しくて。
どうして蔵に閉じ込められているか分からなくなって。
そんな時に、アルナイルに出会った。
アルナイルは、優しかった。
花のいい香を振り撒きながら、僕を包み込むように抱きしめてくれるし、柔らかな唇で僕の冷たくなった体を温めてくれる。
おじいちゃんと同じことをしても、全然苦しくなかった、辛くなかった。
アルナイルが、好きだった。
暗くてハッキリとは分からなかったけど、優しい声も、暗闇でも輝く瞳も、僕に触れる手や肌も。
全部、全部、好きだったんた、アルナイルが。
アルナイルがいたら、おじいちゃんも怖くなかったし、蔵の中も全然辛くなかった。
でも、あの後すぐ………おじいちゃんに、バレて………。
アルナイルがどうとかじゃなくて、僕がおじいちゃん以外の輩にヤられたっていう事実に、おじいちゃんは憤慨して………。
僕をめちゃくちゃに、抱き潰して………心臓発作を起こして、死んじゃったんだ。
………忘れてたんじゃない。
辛くて、苦しくて、悲しくて。
おじいちゃんの最後の顔が、怖くて。
………アルナイルに、すっごく申し訳なくて。
僕は………僕は………記憶を、封印した。
封印して、楽な人生を歩むことを選んだんだ。
………何が、本当の自分だよ。
偉そうなこと抜かしてた割には、鼻っから僕の人生は偽りの人生だったじゃないか。
逃げて、ばかり………嫌な記憶すら無くして、楽な方楽な方に………。
僕は………何一つ………本当がないじゃないか!!
「エニフ!!」
古箪笥を踏みつけて、僕はおじいちゃんとエニフの間に飛び出した。
「ぬわっ!」
計算ではなかったけど、僕はうまい具合におじいちゃんに体当たりをすることができて、恐怖で固まっているエニフを抱き上げる。
「エニフ!走って!!早くっ!!」
エニフを支えながら、僕はあの鏡に向かって走った。
………あっちの世界に、とりあえず逃げなきゃ。
エニフを戻して、おじいちゃんがあっちの世界に来たらどうしようとか思ったけど。
とにかく、僕はエニフを鏡の中に押し込んだ。
「待てぇ、こらーっ!!」
背後でおじいちゃんの雷鳴のような声が響いて、僕は思わず振り返る。
………おじいちゃんが、古い花瓶を投げようとしていたのが見えて、僕は慌てて鏡の中に体を入れた。
鏡が割れたら、もう………二度とこっちには戻って来られないけど………。
今はもう、そんなこと言ってられない!!
そんなこと、関係ない!!
体が鏡の中に全部入りきるか、どうか。
ーーーパリン。
ガラスが砕け散る音が僕の耳を覆って、鏡の破片が僕の体の周りにまとわりつく。
「っつ!!」
左足首に鋭い痛みが走った。
それでも、僕の心は妙に落ち着いていたんだ。
目の前に映るは、アルナイルの汀。
通ずるは、君の汀。
ハッキリとその汀が見えるから、だから……大丈夫。
………もう、怖くない。
僕はもう、大丈夫。
ドサッーーー。
あの時と同じように、僕の体は砂浜に派手に転がり落ちた。
落ちたと同時に、バラバラと鏡の破片が僕に降り注ぐ。
体を起こそうとして、左足に力が入らないことに気付いた。
顔を後方に向けると、足首がズタズタに切り刻まれている。
……鏡が割れた瞬間、僕の左足首はちょうど鏡とど真ん中にあったんだろうな、きっと。
僕は情けなくも、そこに倒れ込んで動けなくなってしまった。
「キナリ様!!キナリ様!!」
頭上で僕を呼ぶ、エニフの叫び声が聞こえる。
「………エニフ…。怪我……してない?」
「大丈夫……大丈夫だよ。キナリ様」
「よかった……。よかったぁ………」
初めて、おじいちゃんに逆らえた。
初めて、自分の意思で動けた。
逃げなかった。
………そして、何より。
僕は全てを思い出して、手に入れた。
なんて……なんて………気持ちがいいんだろうか。
冷たい海の水と、あたたかな砂の上で。
僕の気持ちよさは、より大きくなってくる。
「………あぁ……。気持ちいぃ………」
そう、本当に言ったかどうかは分からない。
エニフの声がだんだんと、遠くから響いてくる感じがして。
瞼がすごく重たくなって。
その瞼には、愛しい人の笑顔が焼きついていた。
「………アル…。愛してる、心から。………愛してる」
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