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【34】長い夢
しおりを挟むあれは人質として帝国にやってきて二年、ラドゥが十七になった頃。
地面に転がされ、突き飛ばされてもラドゥは無抵抗だった。大柄な宦官達に手足を押さえ付けられて、身動き出来なくなる。
さらには着ていた服どころか、顔に巻いていた包帯も千切るようにはがされた。露わになったラドゥの全身に這う黒蛇のような痣に「なんて醜い」「化け物め!」と少年達のはやし立てる残酷な声が響く。
アジーズが無抵抗だったのは、その相手が帝国の王子だったからだ。セシムとムスタ。どちらかが次の帝王となると言われ、二人の仲は普段は悪い。
が、悪だくみするときだけは仲良くなられるから、質が悪いと……宦官達のぼやきをラドゥは耳にしたことがあった。
今回はそれのようだ。
二人の王子には、まるで愛妾のごとく耳飾りや腕飾りの宝石で着飾った、美しい少年がべったりとくっついていた。どちらも王子の“気に入り”の小姓だ。
十日ほど前の剣の稽古で、ラドゥはこの二人を打ちのめしていた。別に私怨があってやったわけではなく、シニチェリからやってくるようになった師範の指示だ。
女のように甘えた声ばかり出して剣もまともに握れない二人に、カツを入れてやれと。
その容姿から当初は遠巻きにされていたが、ラドゥの学びにたいする真摯な態度は、まともな大人達や教師達からは、正当な評価を受けるようになっていた。
王子二人の“愛人”である二人の小姓だけでない。彼らの背後には、属国や属州からやってきた人質の少年達の姿も見えた。彼らもラドゥを散々馬鹿にしてきた者達だ。
それがこの頃は教師達はラドゥの優秀さを認め、それに対してお前達はなんだ? と彼らの平凡さを嘆くようになっていた。
ようするにこれは嫉妬からの私刑だ。
そんなことに自分は負けないと、ラドゥは彼らを冷ややかに見た。
どうせ自分は傷つけられても死なないと。
しかし、一人の宦官が縄を引いて連れてきた獣の姿に、さすがのラドゥも息を呑んだ。
それは子牛ほどの大きさもある黒い犬だった。ハアハアと荒い息と、口からよだれを垂らす様子は明らかにおかしい。
「化け物の相手には、ケダモノが似合いだろう?」とセシム王子が言い「兄上もまったく趣味がよろしい」とムスタが下卑た笑みを見せる。
「なになに、お前の悪知恵にはかなわんさ。狗に死ぬまで腰を振り続けるような薬を盛って、これを放置しろとな」
その言葉どおり、興奮した狗はよだれを垂らして、宦官達に手足を押さえ付けられたラドゥに、ちかよってくる。そのよだれが痩せた太ももにかかる、ヒンヤリした感覚も悍ましい。
それでもラドゥは泣き叫ぶことも、逃げようと暴れるなどという無駄なことはせず、目の前の狗の血走った瞳を、じっと紫の瞳で見つめた。
俺はお前には負けないと、いや、こんな狗ではなく、その後ろであざ笑っている人間として最低な奴らに、心は屈することはないと。
すると狗はなぜか後ずさりをした、尻尾を巻いて明らかに怯えた様子だ。「なにを怯えているんだ? この狗は!」「引き摺ってもやらせろ!」という、二人の王子に、一人宦官は狗の綱を強引に引き、一人は狗の尻を後ろから押したが、狗はてこでも動かない。
「まったく、狗でさえ化け物相手ではやりたくないそうだぞ。宦官達に命じようにも、奴らには肝心の役に立つモノがないからな!」
思い通りにいかない苛立ちに声を荒げるセシム王子に「まあまあ」とムスタ王子が言い。
「だったら、そこらへんのほうきの柄でもツッコんでおけばいいじゃないですか? そのうえで裸に樹に吊してさらし者にすれば」
「お前は次から次へと悪知恵が働くな。だったら、一本や二本では生ぬるい。ありったけ入れてやれ。どうせ腹が割けたって、この化け物は死なないのだろう? 何本入るか見物だ」
どこまで人は残酷に悪趣味になれるのだろう? とラドゥは、王子達の言葉に追従しておかしげに笑う少年達の姿を目に焼き付けた。
いや、こんな奴らこそ人とは言えない。
心に化け物を飼っているのはお前らだ。
「なにをしている?」
またしても、その長身の人物の顔は逆光で見えなかった。
そう“彼”の顔はいつも見えない。
だからこれはあの頃ではなく、あの頃の夢なのだと、ここで自覚する。
これは夢だと。
「こ、これはこいつが生意気な態度をとったので、躾けてやっていたのだ」
「そう、私の大切な小姓達を虐めたというのでね」
「貴殿達が大声で笑いながら話していたことは、聞こえていたぞ。これをそのまま、大人達に話してよいと?」
大人達とはたんに子供に対しての……という意味ではない。その言葉は大宰相や宰相、シニチェリの軍団長達も示していた。
二人の王子はとたんに気まずそうな顔となり「興が削がれた」と自分達の取り巻きと宦官を連れて、そそくさと立ち去った。
宦官に押さえ付けられていた両手足が自由になったラドゥは、屈辱と怒りに震えていた。
ひどい暴力に死にそうな目には何度も遭ってきた。身体の傷はたちまち治った。だが浴びせられた嘲笑や投げかけられた酷い言葉は、記憶の澱となって確実に残っている。
どうして、醜いというだけで、このような理不尽に遭わねばならないのか? 嘲笑を浮かべ、酷い言葉を投げつけるお前達の中身のほうがよほど醜い! とラドゥは何時だって叫びたかった。
それに今回受けたのはなぐる蹴るの単なる暴力ではない。ラドゥの尊厳を踏みにじり粉々にまで砕こうとする、どす黒い悪意だ。
人と触れあったことも、同年代の友人もいないラドゥにはよくわからないことだったが、彼らがとてつもなく邪悪で非道なことを自分にしようとしていたことだけはわかる。
そんなものに挫けたくないとラドゥは思う。自分の心はこんなもので折れないと……。
だが、彼はそれでもたった十五歳の子供だった。
「大丈夫か?」
逆光ではよく見えない、輝く存在が自分に手を差し伸べる。いつもは安心感をあたえてくれる大きな手。だが今は、それさえもまぶしくて、ラドゥは振り払っていた。
「同情ならば、これ以上俺に触れないでくれ!」
そうだ。今の自分には可哀想と慰めてくれる、そんな優しささえ、施されることが惨めでしかない。
こんなこんな醜い自分など。
「なあ、あんた、こんな俺でも好きだって言えるのか?」
だから聞いてしまった。
逆光に輝く“神様”みたいな存在に。
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