みにくい凶王は帝王の鳥籠【ハレム】で溺愛される

志麻友紀

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【36】婚姻の日

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 帝王バーディシャーアジーズ・ハミトと正妃ハセキとなるソフィアとの婚姻の日。

 帝都では祝いの振る舞い酒に甘い菓子が配られた。若き新帝王と数百年ぶりに誕生した正妃に民達は祝祭のごとくもりあがった。
 宮殿においても、外廷の庭にてシニチェリの者達には、大鍋に盛られた羊肉のピラフにこれも羊肉の肉団子キョフテのスープがふるまわれた。本日は無礼講とばかり、ターバンに常にはさんでいる各自専用の大きな木のスプーンで、彼らは肉たっぷりのこのごちそうを我先にと口にした。
 大宰相以下の高官達には外廷の御前会議の間に宴席の場が設けられて、大膳部の料理人がここぞとばかり腕を振るった料理が並べられた。子羊の丸焼きに、各種詰め物ドルマの料理が東方の染め付けの大皿のうえに花開くがごとく盛り付けられる。さらに高価な砂糖をたっぷりと使った飴細工の木の枝や花に、同じく飴細工の鳥や蝶がとまる。

 しかし、そこに今日の主役たる正妃が姿を現すことはない。帝国において妃達は隠された存在。帝王以外の目に触れることは許されない秘花だからだ。

 その隠された場所を意味する名のハレム。

 中央に飾られた東方の陶器に鮮やかな牡丹の絵付けがされた大きなツボから、さらさらと水がこぼれ落ち、下の大きな銀の盆に受けとめられて、さらにあふれた水が小さな人工の川となって部屋の四方に流れる、床のタイルの花々も美しい、花園の間。
 そこに帝王を現す緋色の座面と金泥の縁取りの玉座のとなりに、もう一つ一回り小さな椅子が並べて置かれていた。頭上には黄金の大きな傘の形の天蓋が、その四方には、小さな鶏卵ほどの大きさのダイヤモンドにエメラルド、ルビーにサファイアの玉の飾りが揺れる。

 帝王の椅子に座すのはもちろん、常勝の銀獅子、アジーズだ。正装である黄金に黒貂の毛皮の縁取りのカフタンをまとい、ターバンの中央にはこれも帝王の証たる孔雀の羽を模した、大粒のエメラルド。その玉の輝きよりもなお強い、二つの紺碧の瞳。ターバンからこぼれる、月の輝きのような銀糸の髪とどこまでも壮麗な帝王の姿だった。
 その横の椅子に腰掛けるのは、正妃ハセキとなったソフィア……いや、ラドゥだ。頭の上の小さな帽子フェズは白金の薄張りに大粒のルビーを四方に埋め込み、さらに小さなダイヤモンドを星屑のように散らしたもの。その宝石の冠の輝きに雲のように結い上げられた金髪は負けていない。どこか憂いのある紫の大きな瞳。赤い花のような小さな唇はどこまでも可憐に見えた。

 まさか、用意された衣装の大仰さと朝からの仕度に、本人がいささかげんなりしているせいとは思うまい。

 金の髪にかかる薄いベールは、さらにその憂いの表情のはかなさを強調するようだ。白鳥をおもわせる白銀のカフタンも。宮廷の貴婦人独特の扇のように広がった袖から覗くレースも、どこか翼を思わせる。

 本人から言わせれば、この衣もひたすら重いぞ……となる。

 数日前の衣装合わせで、うんざりとした顔となったラドゥは、ムクタムに思わず聞いた。

『糸杉の庭で、あの女妖と会ったときの“仕度”でも思ったが、この衣は誰のものなんだ?』
 ハレムなのだから、歴代の寵姫に夫人に、いくらでも衣に飾りはあるとは思うが。
『すべてお方様のものにございます。このために陛下はすべて“ご新調”になられましたから。ええ、あの玉座を模した“正妃”のための椅子も』
『…………』

 ラドゥは押し黙るしかなかった。これが自分のための衣? 正妃の椅子まで用意したとは、どういうことだ? 
 つまり、初めからアジーズは自分を正妃に迎えるつもりだったと? どこの世界に男のために寵姫の衣に正妃の玉座を用意する男がいる? 
 そしてハレムでの祝いの宴には、一人の女が招かれていた。

 前母后サフィエ。

 彼女もまたあの糸杉の庭で会ったときと負けず劣らずの、豪奢なカフタンに真珠に金剛石の宝玉をまとっていた。しかし、どこか色あせて見えるのは、あの時より勢いも権力もとりあげられたせいか。
 明日には彼女は離宮に移ることとなっている。数百年ぶりの正妃が迎えられるその宴の日までの、旧宮殿への滞在をアジーズは許した。
 母后として権勢を振るった女妖へと、お前がなれなかった数百年ぶりの正妃誕生の祝祭まで、宮殿に留まって見届けろとは、なんとも残酷な慈悲だ。

 そして、サフィエは招かれた祝いの席に欠席することなく現れた。

 「陛下と正妃様にわたくしからお祝いの言葉とお品を……」と二人の座る御座の前に出た彼女を誰も止めることは出来なかったのは、サフィエ一人だけで進み出たうえに、彼女が両膝をついたからだ。
 前母后であった彼女は帝王にさえ、頭を下げる必要はなかった。思うがままに権勢を誇ったサフィエのその姿に、誰もが衝撃を受けたのだ。

 しかし、殊勝な態度はそこまでだった。

 彼女は祝いの品が入っている、箱を床に置くとその蓋をあけて、そこにあったふせてある鏡を椅子に座る二人に向けたのだ。そして、ほほほ……と高らかに笑った。

「これがドマの鏡の最後一枚。一枚では半分の効果しかないかしら? 仲良く半分ずつ醜い姿になるなんて、似合いの夫婦ではなくて」

 だが、その勝ち誇った微笑みは、すぐに驚愕のそれへと変わる。
 玉座に座る二人の前に大きな鏡がさしかけられていた。左右からそれを持つのはナスルとピエールの二人だ。二人とも向けられたドマの鏡には背を向けたまま鏡を持っていた。
 また、広間に詰めかけていた宦官や侍女達も全員下へと顔を向けていた。これは母后に付き従っていた者達も同じく。
 サフィエだけが、己の向けた鏡合わせの鏡の中をのぞき込んでいた。きらびやかなカフタンをまとった無数に映る己の姿を。

 ギャアァアアアアアアアアアアアアア! 

 すさまじい悲鳴が花園の間に響き渡る。昼の空と夜の星空が描かれたドーム型の天井に、その声が不気味に反響する。
 そして鏡の向こうからアジーズの声が響く。

「それがドマの鏡の最後の一枚。隠し持っていたそれを、お前が必ず使うことはわかっていたぞ」

 だからこそ、わざとアジーズは彼女をこの宴に招いたのだ。
 そしてかかげられた大きな鏡にみるみる醜く変容する彼女の姿が映される。金茶の髪は白灰色へと変わり、自慢の白い肌もくすんだ土気色のものへと。

「わたくしの、顔が、顔が……」

 彼女は自分の顔を両手でおおった。その手もまた枯れ木のようにしぼんでいた。嘆くその声もしわがれていた。
 「死ぬことはゆるさぬ」と鏡を下ろさせて、うずくまるサフィエを見おろし、アジーズが告げる。

「刃物も首をくくる紐も毒も、その身からは遠ざけよう。お前のそばには常に“私から”の侍女に宦官が付き従うことになる」

 「よき余生を」と先日、旧宮殿にて告げた言葉をアジーズは繰り返した。サフィエはすでにアジーズが任じた“監視役”の屈強な宦官二人に腕を掴まれたが、女とは思えないような力で抵抗し、両手で顔を隠したまま床に伏せていた。

「……布をかぶせてやれ」

 そう言ったのはラドゥだった。アジーズを見れば彼も無言でうなずく。ムクタムが自分のカフタンを脱いでサフィエの頭に被せた。それで彼女はやっと宦官二人に腕を掴まれて立ち上がった。彼女はこれから彼女を監視する宦官と侍女達に囲まれて出て行った。

 じっとその背を見送るアジーズにラドゥは「余計なことをしたか?」と少しの後悔とともに問いかけた。
 彼と彼の母が受けた苦しみを思えば、あの女の顔をさらすべきだったか? と。
 だが、アジーズは「いや……」と首を振る。

「あの女の醜さは、あの女自身が知り、その長い“余生”で悔いれば良いことだ」

 彼の母親が受けた苦しみの歳月を思えば、たやすく殺すことなど生ぬるい。逆にあの女には死ぬことは許されず、監視者の元、何一つ自由にならず離宮に封じ込められて、醜くなった己の姿を嘆き続けながら生きることが、一番の罰だろう。

「ドマの鏡の呪いはこれで終わった」

 そしてアジーズのこの言葉こそ、復讐とともに彼の目的だった。
 十枚あったドマの鏡はアジーズの母親に使われた時点で二枚残っていた。一枚は代々の帝王に、一枚は母后に引き継がれていた。

 その一枚はラドゥに使われ。
 最後の一枚はサフィエへと。

 これで十枚あった鏡の呪いと悲劇はもう、誰にも及ぶことはない。

 ただ疑問は残る。

 映した相手の心をそのままに、相手の姿を変貌させるという逸話は真っ赤な嘘だ。おそらくは見せしめとなるハレムの女達を、さらに辱めるためのもの。
 もしそれが真実なら、ラドゥこそその心のままに、さらに醜く変貌しなければならない。この姿が、自分の心のままだというならば、お笑い草だ。
 自分はそんなに清らかなものではない。
 いや、生まれたばかりの赤ん坊でもなければ、人間誰しも淀んだ陰は心のうちに潜んでいる。
 ドマの鏡の呪いは見た者を“単純”に醜く変装させるものだったのだろう。だがハレムの女達にとって、美しさを失うことは帝王の寵愛を失うことを意味する。死刑に等しい罰だ。

 だったら、どうして自分はこの姿になったのか? と思う。

 そしてアジーズの復讐が成された今。ラドゥの役目ももう終わりだろう。帝王バーディシャー正妃ハセキは、この宮殿の支配者であったサフィエを煽るための道具にしか過ぎなかったのだから。
 アジーズのことだから、自分やピエールを用済みと始末するようなことはしないだろう。おそらくは一生遊んで暮らせるだけの財を渡されて、帝国から出てどこかで静かに暮らせと言われるのが妥当なあたりか。

 アジーズと離れる? 

 そう考えて、なぜだか胸が苦しくなった。別に病ではない。ただ、心臓がぎゅっと掴まれるように切ない……“感情”だ、これは。なんだ? この気持ちは? 
 そんなラドゥの異変に気付いたアジーズに「どうした?」と言われる。ラドゥは戸惑いのままに、彼の顔を見て、その紺碧の瞳に吸い込まれるように、感じたままの気持ちを口にしていた。

「あんたと離れたくない……」
「なにを馬鹿なことを言っている。私はお前を一生手放すつもりはないぞ」

 微笑みとともに、伸びて来る手をぼんやりと見た。長い指が頬に愛おしそう触れる。
 そのとき、ラドゥの視界にきらりと光るものが映った。
 それは侍女達が己の目に触れぬように布を被せて、その布ごと片付けたはずの、ドマの鏡の小さな欠片だ。
 そして、その光が紫の瞳に飛びこんだ瞬間。

「ラドゥ!」

 がくりと玉座から崩れる細い身体。



 ラドゥの意識は吸い込まれた。





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