2 / 65
プロローグ
ニ
しおりを挟む
秀也が口を開いてから、何も言わずにいる拓海に痺れを切らしたのか、彼は拓海にもう一度声を掛ける。
「拓海さん、聞いていますか?」
その言葉を聞いて、拓海は頭の中で浮かべないようにしていた罵詈雑言の数々が脳に刻まれた通りに、口に出して醜い本性を現しそうになった。しかし、彼はこの状況で秀也にそれらの言葉を贈るほど、惨めったらしい別れをしたくなかった。
「お前が決めた事だろう、こっちはそれに従うさ」
濡れた瞳を秀也に見せないよう拓海はわざと視線を手元に移し目を伏せた。
溜息と同時に「……そうですか、ありがとうございます」と安堵した様子で言った秀也の声を聞きたくない、と逃げるように拓海は音を立ててカップを机に置いた。
ああ、だめだ。きっと、こいつと一緒に居た時間が長すぎたんだ。
拓海は自分の行動が頭で制御出来ていない事に気づいた。拓海は秀也と付き合うまで特定の人を作ったことが無かった。モテなかったというわけではない、むしろ拓海の容姿は童顔な顔立ちに華奢な身体で色素が薄く、可憐という言葉がしっくりくる愛らしい姿だ。その姿は初めて秀也と出会った時から変わっていない。老いを知らない肌理の細かさに、その肌に触れたいと思うαは多いだろう。
「それじゃあ、もうこの話は終わりだな」拓海は出来るだけ声を低めて、自分の気持ちが表に出ないようにした。
一刻も早くこの場から消えなければ、「運命」なら離れないで、そう言ってしてしまいそうだ。
拓海は財布から「コーヒー代」としてお札を取り出し、机に置いた。この男の目の前から消えたい、そう思う気持ちが強くなり、拓海は勢いよく立ち上がり鞄を持って秀也の横を通り過ぎようとした。その瞬間、秀也のしっかりとした手に腕を掴まれその場で立ち止まった。拓海は少しの期待を胸に抱いて、秀也の方を振り返る。
「……何か、お手伝いできることがあれば何でも言ってください」
しかし、拓海が欲しい言葉とは正反対の突き放すような言葉がいつもの優しい秀也の声で放たれ、拓海は顔を背けた。
「お前に頼むことも、俺から連絡を取ることも金輪際ないから」拓海は無感情のまま素の声で言って、掴まれた腕を雑に振り払い、足早にカフェから出て行った。
余計、あんなやつに縋りたくない。
拓海という男は、元来人に頼ることが好きではなかった。「Ωだから」と思うかもしれないが、そんな彼が診療所でバース性が劣性であるΩと診断された中学生の時には、すでにこんな頑固な性格だった。
拓海をこんな性格にしたのは彼がまだ小学生の頃の事だった。
彼の母親はΩで、αに対して夢見る少女のような執着を持っていた。Ωと診断された人はその運命を受け入れがたく、人によっては自殺もあり得る時代の生まれだったにも関わらず、母親は自身がΩである事を喜んでいたのだ。
母親は歓楽街でホステスとして働いており、いつか【運命の番】であるαと出会えると信じていた。しかし、そんな御伽噺のようなαが現れる事はなかった。
そんな母親が偶然αの客と一緒にいた父親と出会った時はそんな【運命の番】などという不確かな存在に対して半ば諦めを感じていた頃だった。
拓海の父親はごく一般的なβの男だった。この世はα、Ω、βというバースが存在するが、基本的な男、女という性はバース性を気にせずとも子を儲ける事が出来るというのが一般的な知識だ。
父親は仕事熱心な人で、βというバースに固執しない普遍的な男だった。
母親はβである父親と【運命的な出会い】をしたと、あの時までは幸せそうに拓海に話していた。
あの時――それは高学年だった拓海のクラスを受け持つαの担任と母親が「運命の番」として出会ってしまった時から彼の見ている世界はがらりと変わってしまった。
二人は拓海の授業参観の時にお互いの“運命”に惹かれ合った。この時に母親は「運命の番」の鎖に絡まってしまったのである。
彼らの密かな逢引きに最初に気付いたのは拓海だった。用もないのによく学校に迎えに来る母親、それを嫌な顔せず正面玄関で出迎える担任、お互いが醸し出す空気がただの親と担任ではない関係であると物語っていた。拓海は子供心にも母親のαを見る目が、子供がいる親の目ではなく、Ωの目だと気づいた。
それから、父親が二人の関係に気付き、二人を離そうとしたが、彼らはすでに番として成立していた。それからはαの言いなりだった、αとΩの番を引き離すことは母親の人としての人生を壊しかねないため、拓海は父親に引き取られ、二人は【運命の番】らしく新しい人生を迎えた。
しかし、幸せはすぐに不幸となって、憔悴しきった母親は拓海と父親の前に現れた。
出て行ってから一年後、母親の再婚相手のαが事故に遭って亡くなったのだ。父親と自分を【運命の番】と共に捨てた母親がまた目の前に現れた事に嫌悪を抱いた拓海が母親を家から追い出そうとしたが、父親はΩである母親を許した。しかし、母親は戻って来てからも自室に閉じこもり、ベッドから起き上がることが無かった。拓海は子供ながらにも、母親が死人であるように思えた。父親はそんな状態の母親の世話を嫌な顔せずにしていた。
ある日父親は拓海の前にβの女性を連れてきた。生きているのか死んでいるのか、笑いもしない母親の面倒が疲れたのだろう。今度は父親が拓海と死人状態の母親を置いて出て行ったのだ。
母親はきっと【運命の番】に身も心も委ね、最後は【運命的な出会い】をした父親に縋った。そんな母親の姿を見た拓海は自分がどんなバースでも、母親のように「運命」なんて事はおろか、どんな出会いをしても、どんな事があったとしても人に縋らないと生きていけない人間にはならないと寝ているだけの母親の小さな体を見て決意した。
それから拓海はバース性関係なく、自分の力だけで医者になるために大学まで出た。多くの大学病院はαで固められているが、運が良かったことに今の病院で採用された。
今の拓海はもう大学をとっくに卒業し、いまさらこんな事で躓いたりしないと思っていた。だが、今まで秀也と過ごした時間があまりにも幸せ過ぎたため、秀也に対する裏切られたという気持ちが彼の心を蝕ばみ、幸せでいっぱいだった心を空にしていった。今の彼に残っているのは秀也と過ごしたという事実の記憶だけである。
ああ、そういえば、秀也は何も変わっていなかったな。出逢ってすぐに告白してきて、さらには学生の時のバイト先にまで何の躊躇もなく客としてきたし、今も待ち合わせしていたカフェに入ってきたと思ったら、席についた途端「別れ」だもんな。
拓海は大学で初めて秀也と出会った大学の入学式を思い出した。拓海は在学生で入学式のアルバイトとして参加していた。他の新入生に囲まれている秀也の姿を見た時、その美しすぎる容貌に目を奪われた事を今でも鮮明に覚えている。
懐かしいな、あの出会いが俺の【運命】だと思いもしなかった。
桜の香りが拓海の鼻を掠めた。拓海が歩いてきた街路樹には桜の花が賑やかに咲いていた。
「拓海さん、聞いていますか?」
その言葉を聞いて、拓海は頭の中で浮かべないようにしていた罵詈雑言の数々が脳に刻まれた通りに、口に出して醜い本性を現しそうになった。しかし、彼はこの状況で秀也にそれらの言葉を贈るほど、惨めったらしい別れをしたくなかった。
「お前が決めた事だろう、こっちはそれに従うさ」
濡れた瞳を秀也に見せないよう拓海はわざと視線を手元に移し目を伏せた。
溜息と同時に「……そうですか、ありがとうございます」と安堵した様子で言った秀也の声を聞きたくない、と逃げるように拓海は音を立ててカップを机に置いた。
ああ、だめだ。きっと、こいつと一緒に居た時間が長すぎたんだ。
拓海は自分の行動が頭で制御出来ていない事に気づいた。拓海は秀也と付き合うまで特定の人を作ったことが無かった。モテなかったというわけではない、むしろ拓海の容姿は童顔な顔立ちに華奢な身体で色素が薄く、可憐という言葉がしっくりくる愛らしい姿だ。その姿は初めて秀也と出会った時から変わっていない。老いを知らない肌理の細かさに、その肌に触れたいと思うαは多いだろう。
「それじゃあ、もうこの話は終わりだな」拓海は出来るだけ声を低めて、自分の気持ちが表に出ないようにした。
一刻も早くこの場から消えなければ、「運命」なら離れないで、そう言ってしてしまいそうだ。
拓海は財布から「コーヒー代」としてお札を取り出し、机に置いた。この男の目の前から消えたい、そう思う気持ちが強くなり、拓海は勢いよく立ち上がり鞄を持って秀也の横を通り過ぎようとした。その瞬間、秀也のしっかりとした手に腕を掴まれその場で立ち止まった。拓海は少しの期待を胸に抱いて、秀也の方を振り返る。
「……何か、お手伝いできることがあれば何でも言ってください」
しかし、拓海が欲しい言葉とは正反対の突き放すような言葉がいつもの優しい秀也の声で放たれ、拓海は顔を背けた。
「お前に頼むことも、俺から連絡を取ることも金輪際ないから」拓海は無感情のまま素の声で言って、掴まれた腕を雑に振り払い、足早にカフェから出て行った。
余計、あんなやつに縋りたくない。
拓海という男は、元来人に頼ることが好きではなかった。「Ωだから」と思うかもしれないが、そんな彼が診療所でバース性が劣性であるΩと診断された中学生の時には、すでにこんな頑固な性格だった。
拓海をこんな性格にしたのは彼がまだ小学生の頃の事だった。
彼の母親はΩで、αに対して夢見る少女のような執着を持っていた。Ωと診断された人はその運命を受け入れがたく、人によっては自殺もあり得る時代の生まれだったにも関わらず、母親は自身がΩである事を喜んでいたのだ。
母親は歓楽街でホステスとして働いており、いつか【運命の番】であるαと出会えると信じていた。しかし、そんな御伽噺のようなαが現れる事はなかった。
そんな母親が偶然αの客と一緒にいた父親と出会った時はそんな【運命の番】などという不確かな存在に対して半ば諦めを感じていた頃だった。
拓海の父親はごく一般的なβの男だった。この世はα、Ω、βというバースが存在するが、基本的な男、女という性はバース性を気にせずとも子を儲ける事が出来るというのが一般的な知識だ。
父親は仕事熱心な人で、βというバースに固執しない普遍的な男だった。
母親はβである父親と【運命的な出会い】をしたと、あの時までは幸せそうに拓海に話していた。
あの時――それは高学年だった拓海のクラスを受け持つαの担任と母親が「運命の番」として出会ってしまった時から彼の見ている世界はがらりと変わってしまった。
二人は拓海の授業参観の時にお互いの“運命”に惹かれ合った。この時に母親は「運命の番」の鎖に絡まってしまったのである。
彼らの密かな逢引きに最初に気付いたのは拓海だった。用もないのによく学校に迎えに来る母親、それを嫌な顔せず正面玄関で出迎える担任、お互いが醸し出す空気がただの親と担任ではない関係であると物語っていた。拓海は子供心にも母親のαを見る目が、子供がいる親の目ではなく、Ωの目だと気づいた。
それから、父親が二人の関係に気付き、二人を離そうとしたが、彼らはすでに番として成立していた。それからはαの言いなりだった、αとΩの番を引き離すことは母親の人としての人生を壊しかねないため、拓海は父親に引き取られ、二人は【運命の番】らしく新しい人生を迎えた。
しかし、幸せはすぐに不幸となって、憔悴しきった母親は拓海と父親の前に現れた。
出て行ってから一年後、母親の再婚相手のαが事故に遭って亡くなったのだ。父親と自分を【運命の番】と共に捨てた母親がまた目の前に現れた事に嫌悪を抱いた拓海が母親を家から追い出そうとしたが、父親はΩである母親を許した。しかし、母親は戻って来てからも自室に閉じこもり、ベッドから起き上がることが無かった。拓海は子供ながらにも、母親が死人であるように思えた。父親はそんな状態の母親の世話を嫌な顔せずにしていた。
ある日父親は拓海の前にβの女性を連れてきた。生きているのか死んでいるのか、笑いもしない母親の面倒が疲れたのだろう。今度は父親が拓海と死人状態の母親を置いて出て行ったのだ。
母親はきっと【運命の番】に身も心も委ね、最後は【運命的な出会い】をした父親に縋った。そんな母親の姿を見た拓海は自分がどんなバースでも、母親のように「運命」なんて事はおろか、どんな出会いをしても、どんな事があったとしても人に縋らないと生きていけない人間にはならないと寝ているだけの母親の小さな体を見て決意した。
それから拓海はバース性関係なく、自分の力だけで医者になるために大学まで出た。多くの大学病院はαで固められているが、運が良かったことに今の病院で採用された。
今の拓海はもう大学をとっくに卒業し、いまさらこんな事で躓いたりしないと思っていた。だが、今まで秀也と過ごした時間があまりにも幸せ過ぎたため、秀也に対する裏切られたという気持ちが彼の心を蝕ばみ、幸せでいっぱいだった心を空にしていった。今の彼に残っているのは秀也と過ごしたという事実の記憶だけである。
ああ、そういえば、秀也は何も変わっていなかったな。出逢ってすぐに告白してきて、さらには学生の時のバイト先にまで何の躊躇もなく客としてきたし、今も待ち合わせしていたカフェに入ってきたと思ったら、席についた途端「別れ」だもんな。
拓海は大学で初めて秀也と出会った大学の入学式を思い出した。拓海は在学生で入学式のアルバイトとして参加していた。他の新入生に囲まれている秀也の姿を見た時、その美しすぎる容貌に目を奪われた事を今でも鮮明に覚えている。
懐かしいな、あの出会いが俺の【運命】だと思いもしなかった。
桜の香りが拓海の鼻を掠めた。拓海が歩いてきた街路樹には桜の花が賑やかに咲いていた。
362
あなたにおすすめの小説
【完結】初恋のアルファには番がいた—番までの距離—
水樹りと
BL
蛍は三度、運命を感じたことがある。
幼い日、高校、そして大学。
高校で再会した初恋の人は匂いのないアルファ――そのとき彼に番がいると知る。
運命に選ばれなかったオメガの俺は、それでも“自分で選ぶ恋”を始める。
春を拒む【完結】
璃々丸
BL
日本有数の財閥三男でΩの北條院環(ほうじょういん たまき)の目の前には見るからに可憐で儚げなΩの女子大生、桜雛子(さくら ひなこ)が座っていた。
「ケイト君を解放してあげてください!」
大きなおめめをうるうるさせながらそう訴えかけてきた。
ケイト君────諏訪恵都(すわ けいと)は環の婚約者であるαだった。
環とはひとまわり歳の差がある。この女はそんな環の負い目を突いてきたつもりだろうが、『こちとらお前等より人生経験それなりに積んどんねん────!』
そう簡単に譲って堪るか、と大人げない反撃を開始するのであった。
オメガバな設定ですが設定は緩めで独自設定があります、ご注意。
不定期更新になります。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
ノリで付き合っただけなのに、別れてくれなくて詰んでる
cheeery
BL
告白23連敗中の高校二年生・浅海凪。失恋のショックと友人たちの悪ノリから、クラス一のモテ男で親友、久遠碧斗に勢いで「付き合うか」と言ってしまう。冗談で済むと思いきや、碧斗は「いいよ」とあっさり承諾し本気で付き合うことになってしまった。
「付き合おうって言ったのは凪だよね」
あの流れで本気だとは思わないだろおおお。
凪はなんとか碧斗に愛想を尽かされようと、嫌われよう大作戦を実行するが……?
僕の幸せは
春夏
BL
【完結しました】
【エールいただきました。ありがとうございます】
【たくさんの“いいね”ありがとうございます】
【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
神楽
立樹
BL
谷川彰也は、大学でも美形で人の注目を集めている近松神楽にモーニングコールをしている。
ただ、モーニングコールをするだけの仲だった。ある日、コールをしていることがバレてしまった。
彰也も近松に言っていない秘密があって……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる