不思議な夏休み

廣瀬純七

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香織になった健一の帰宅

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 病院の玄関を出た瞬間から、中村健一――いや、香織の体に入った“俺”は心臓が破裂しそうだった。
 制服のスカートをはためかせながら坂道を下るたび、視界の端で自分の長い前髪と細い腕が揺れる。歩き慣れたはずの香織の身体は、微妙な重心バランスが違っていて、三歩ごとにつまずきそうになる。

 (――くそっ、ハイヒールじゃないだけマシだけど! こんな軽い体でどうやって跳ね回ってたんだよ、香織!)

 彼女のスマホに残っていた履歴を総ざらいし、家族構成は頭に叩き込んだつもりだった。母・真理子、父・信吾、そして小五の弟・悟。だが文章で読むのと実際に顔を合わせるのとでは大違いである――ということを、玄関のドアを開けた瞬間に痛感した。

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#### 1 「おかえり、香織」問題

 「おかえり。検査だけで済んだんだって? よかった!」
 エプロン姿の母親が走り寄り、笑顔で両肩をつかむ。思わずビクッとした俺は、反射的に “男の握力” で振り払ってしまいそうになり、慌てて力を抜いた。

 「う、うん。ただいま……」
 (声ッ! 声高く! 語尾丸く!)

 頭では必死にリマインドしているのに、たどたどしい返事に母親が小首をかしげる。
 「香織、ちょっと低血圧? 顔色悪いわよ」
 「だ、大丈夫……ちょっと立ちくらみしただけ……」

 母の目線が胸元へ――いや、鎖骨だ。慌ててカバンを抱きかかえる。何を隠す必要があるのか自分でもわからないが、とにかく動揺が伝わってはいけない。

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#### 2 悟(さとる)との死闘

 リビングに入ると、弟の悟がゲームをしながら振り向いた。
 「姉ちゃん、今日雷落ちたってマジ? 超パねぇ!」
 「パパパ、パねぇ……」
 (語彙が男子高校生! “俺”が今男子高校生だけど、それ言ったら終わり!)

 「ちょ、ちょっと怖かったけど大丈夫だよ!」
 「おお~、姉ちゃん意外とタフじゃん」
 悟は再び画面に集中。助かった――と思ったのも束の間、彼はヘッドホンを取り、にやりと笑った。
 「じゃ、姉ちゃん代わりに宿題見て。算数の分数、またワケわかんねぇ」
 (………Fraction? Fractionは得意だが、香織はどうだった?)

 健一は理系、香織は文系――といううろ覚えの情報が脳裏をよぎる。下手にサクッと解けば「姉ちゃん、天才覚醒!?」と怪しまれかねないし、できなければ「姉ちゃん急にバカ化!?」と疑われる。絶妙な“普通レベル”を演技するという未知の難易度。

 「え、えっと……ココは通分して、で、そのあと……」
 あえてペンを持つ手を遅く動かし、途中まで計算して「後は自分でやってみて!」と丸投げ。悟は「えー!」と叫びつつも納得したらしく、再びゲームへ。ふぅ……。

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#### 3 夕食というトラップ

 メニューは生姜焼き。健一の大好物だが、香織の好物は“豆腐ハンバーグ”とメモにあった。食卓について最初の一口――脳が歓喜し「ウマッ!」と叫びそうになる。慌てて口を覆い、
 「お、おいしい……いつもより……お肉、柔らかい……かも」
 (リアクションマイルド! 女子力 20%増し!)

 父親が新聞越しに「お、珍しく褒めるな」と微笑む。どうやらセーフ。だが、肉を頬張る速度を抑えるのは至難の業だ。
 「あ、香織。明日、部活休みなんだろ? ニトリ行くから手伝ってほしいってママが」
 「ぶっ――」
 嚥下しかけていた味噌汁が気管に入り、盛大にむせ込む。母が背中をさすり、悟が爆笑。父が「大丈夫か」と慌てる。
 (痛い、苦しい、恥ずかしい! だが、ここで機転を利かせろ!)

 「ご、ごめん、ちょっとまだ雷のショックが……」
 「無理ならいいのよ?」
 「あ……ううん、行く……行きます!」

 “健一”なら女子力アイテム選びなど地獄だが、香織は買い物好きだとメモしていた。付き合わねばならない。

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#### 4 女子のお風呂イベント

 夜十時。母が「早く入りなさい」と言う。
 (来た……最難関イベント! 脱衣所ッ! 鏡ッ! バスタブッ!)

 自分の体を直視しないよう、タオルを杖のように掲げ、鏡には一切目をやらずに服を脱ぐ。視界は常に天井。
 シャワーを手元だけで操作し、シャンプーとボディソープを機械的に塗布。
 (香織のヘアケア手順、覚えたとおり! “シャンプー → トリートメント → 3 分放置 → 流す → 洗顔 → 体”……長いっ!)
 目をつむったまま足元につまずき、浴槽へダイブ――「ドッパーン!」。
 悟の「姉ちゃん水爆弾!?」という叫び声が廊下に響き、母の「大丈夫!?」の声が重なる。

 「だ、大丈夫! ちょっと滑っただけ! はははっ……」
 自分でも引きつった笑い声が不気味だと思うが、ドア越しの家族は安心したらしい。
 (くそ……泡まみれで死ぬかと思った……これが毎日!?)

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#### 5 夜更けのLINE地獄

 部屋に戻ると香織のスマホが鳴りっぱなし。画面にはハート絵文字満載の女子トーク。
 《今日の雷マジやばかったね💦》《香織ちゃん大丈夫?》《明日プリ撮ろ❣️》
 (プリ……プリクラ!? 明日ってニトリじゃなかったの!?)

 見なければいいのにトークを開くと、既読がつき即レスを求められる。
 《ごめん…まだ病院…💦》 とだけ返し、布団にダイブ。やがてさらに通知音。
 《入院!?大丈夫!?》《何科!?》《お見舞い行く!》
 (やめて来ないで! キャラ崩壊する!)

 「健一」の体で女子グループに溶け込む香織の苦労を思いやりつつ、健一は枕を深くかぶった。

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#### 6 エピローグ:深夜の誓い

 午前一時。ようやく家族が寝静まり、健一は天井を仰いだ。
 ――薄い手、華奢な肩、長い髪。もう自分の体を男の基準で動かすわけにはいかない。

 (明日から本気で“香織”を学ばないと。今日みたいな綱渡りが続いたら、寿命が縮む……!)

 スマホのメモ帳に “香織マニュアル” を作る。口癖、好きなアイドル、朝の支度手順。自分の項目を増やすたびに、元の“健一”が遠ざかるようで胸がざわめく。

 (待ってろよ香織、絶対元に戻してやるから。でも戻るまで――俺はお前として、全力で生き切ってみせる!)

 小さくガッツポーズをした瞬間、爪が伸びぎみなのに気づき、
 「ネイルケア……ってやつ、いるのか……?」
 と呟いたところで、再び通知音。画面には《おやすみ💤また明日🩷》の文字。

 (女子の絵文字パワー……圧が強い……)

 ため息とともにスマホを置き、布団に潜り込んだ。
 身体は違えど、心臓のドキドキだけは、いつもの健一そのままだった。

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