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リカバリー
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あの日――2020年の春、俺は致命的な失敗をした。
拓也としての俺は、仕事の愚痴ばかりを並べ、肝心な言葉を飲み込んだまま、純の前で笑って誤魔化した。彼女がどんな気持ちでその場に来ていたのかも考えず、「今は忙しいから」と逃げるように別れたのだ。その数日後、純は異動が決まり、連絡は途絶えた。
五十歳になった今も、その後悔だけが胸に刺さったままだった。
――だからこそ、今。
俺は純の身体で、あの日の朝に立っている。
スマホの画面に表示された「拓也」の名前を見つめながら、深く息を吸った。純としての記憶も、拓也としての後悔も、どちらも鮮明だ。心が二重に存在しているような奇妙な感覚の中で、俺ははっきりと理解していた。
**今日は、彼が一番臆病になる日だ。**
指が震える。だが、逃げるわけにはいかない。
「話せるよ。駅前のカフェ、覚えてる?」
そう送信した瞬間、胸の奥で何かがほどけた。これは純が本当は言いたかった言葉だ。そして、俺が聞きたかった言葉でもある。
昼過ぎ、駅前のカフェに入ると、拓也――若い頃の俺が、窓際の席で落ち着かない様子で座っていた。疲れた顔、少し丸まった背中、気づけば見慣れすぎた自分自身。
「純……」
彼が立ち上がる。その声に、胸がぎゅっと締めつけられた。俺は彼を傷つけたくない。だが同時に、彼を変えなければならない。
席に座ると、拓也はいつものように仕事の話を始めた。忙しさ、上司の愚痴、将来への不安。あの日と同じ流れだ。
だから俺は、割って入った。
「ねえ、拓也」
純の声で、しかし俺の覚悟を込めて言う。
「今日は、それを聞きに来たんじゃないの」
彼は言葉を失った。視線が泳ぎ、スプーンを持つ手が止まる。
「私ね……不安なの」
それは、あの日純が飲み込んだ本音だった。
「拓也が何を考えてるのか、私にはわからない。いつも優しいけど、大事なことを言ってくれない。私がそばにいていいのかも、わからなくなる」
彼の目が見開かれる。
俺は続けた。
「逃げたいなら、正直に言って。待ってほしいなら、そう言って。……でも、何も言われないまま置いていかれるのが、一番つらい」
沈黙が落ちる。
あの日、俺はこの沈黙に耐えられなかった。だから笑って話題を変えた。だが今は違う。
拓也は唇を噛みしめ、やがて絞り出すように言った。
「……怖かった」
その一言で、世界が少し動いた。
「失敗するのも、期待させるのも、全部怖くて。でも……純がいなくなるのは、もっと怖い」
俺の目から、涙がこぼれた。純の涙であり、拓也の涙でもある。
「じゃあ、逃げないで」
そう言って、俺は彼の手を取った。純が、本当はずっとしたかったこと。
彼の手は、あの頃と同じで少し汗ばんでいた。
「一緒に悩めばいい。完璧じゃなくていい。私は……あなたとちゃんと向き合いたい」
拓也は何度も頷き、震える声で「ごめん」と繰り返した。
その瞬間、胸の奥に長年溜まっていた後悔が、静かに形を変えていくのを感じた。
――これでいい。
過去は消えない。だが、選び直すことはできる。
純として差し出した手は、確かにあの日の俺を救った。そして同時に、五十歳の俺自身も。
カフェの外では、春の風が桜の花びらを運んでいた。
今度こそ、この時間を手放さない。
拓也としての俺は、仕事の愚痴ばかりを並べ、肝心な言葉を飲み込んだまま、純の前で笑って誤魔化した。彼女がどんな気持ちでその場に来ていたのかも考えず、「今は忙しいから」と逃げるように別れたのだ。その数日後、純は異動が決まり、連絡は途絶えた。
五十歳になった今も、その後悔だけが胸に刺さったままだった。
――だからこそ、今。
俺は純の身体で、あの日の朝に立っている。
スマホの画面に表示された「拓也」の名前を見つめながら、深く息を吸った。純としての記憶も、拓也としての後悔も、どちらも鮮明だ。心が二重に存在しているような奇妙な感覚の中で、俺ははっきりと理解していた。
**今日は、彼が一番臆病になる日だ。**
指が震える。だが、逃げるわけにはいかない。
「話せるよ。駅前のカフェ、覚えてる?」
そう送信した瞬間、胸の奥で何かがほどけた。これは純が本当は言いたかった言葉だ。そして、俺が聞きたかった言葉でもある。
昼過ぎ、駅前のカフェに入ると、拓也――若い頃の俺が、窓際の席で落ち着かない様子で座っていた。疲れた顔、少し丸まった背中、気づけば見慣れすぎた自分自身。
「純……」
彼が立ち上がる。その声に、胸がぎゅっと締めつけられた。俺は彼を傷つけたくない。だが同時に、彼を変えなければならない。
席に座ると、拓也はいつものように仕事の話を始めた。忙しさ、上司の愚痴、将来への不安。あの日と同じ流れだ。
だから俺は、割って入った。
「ねえ、拓也」
純の声で、しかし俺の覚悟を込めて言う。
「今日は、それを聞きに来たんじゃないの」
彼は言葉を失った。視線が泳ぎ、スプーンを持つ手が止まる。
「私ね……不安なの」
それは、あの日純が飲み込んだ本音だった。
「拓也が何を考えてるのか、私にはわからない。いつも優しいけど、大事なことを言ってくれない。私がそばにいていいのかも、わからなくなる」
彼の目が見開かれる。
俺は続けた。
「逃げたいなら、正直に言って。待ってほしいなら、そう言って。……でも、何も言われないまま置いていかれるのが、一番つらい」
沈黙が落ちる。
あの日、俺はこの沈黙に耐えられなかった。だから笑って話題を変えた。だが今は違う。
拓也は唇を噛みしめ、やがて絞り出すように言った。
「……怖かった」
その一言で、世界が少し動いた。
「失敗するのも、期待させるのも、全部怖くて。でも……純がいなくなるのは、もっと怖い」
俺の目から、涙がこぼれた。純の涙であり、拓也の涙でもある。
「じゃあ、逃げないで」
そう言って、俺は彼の手を取った。純が、本当はずっとしたかったこと。
彼の手は、あの頃と同じで少し汗ばんでいた。
「一緒に悩めばいい。完璧じゃなくていい。私は……あなたとちゃんと向き合いたい」
拓也は何度も頷き、震える声で「ごめん」と繰り返した。
その瞬間、胸の奥に長年溜まっていた後悔が、静かに形を変えていくのを感じた。
――これでいい。
過去は消えない。だが、選び直すことはできる。
純として差し出した手は、確かにあの日の俺を救った。そして同時に、五十歳の俺自身も。
カフェの外では、春の風が桜の花びらを運んでいた。
今度こそ、この時間を手放さない。
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