カオルとカオリ

廣瀬純七

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家族の食卓

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 夕暮れ時。西日が傾く帰り道、制服のスカートが風に揺れる。

 薫は、香織の体のまま、家の門をくぐった。玄関の前に立つと、心臓の鼓動がまたひとつ大きくなる。

 (……帰らなきゃ。香織として)

 ドアを開けると、いつもの声が出迎えた。

 「おかえり、香織ー!」

 台所から母の明るい声が響く。夕飯の匂いが漂ってきて、どこか胸が詰まる。

 「……ただいま」

 薫はできるだけ香織の声に寄せて返事をした。少しトーンを高く、語尾を伸ばすように。言い慣れているはずの一言が、今はまるで違う重みを持っていた。

 「ご飯、すぐできるから、手洗っておいてねー」

 「うん、わかった!」

 笑顔を作る。声を張る。演じる。

 すべてが、日常を保つための“演技”だった。

 洗面所で手を洗いながら鏡を見ると、そこには香織の顔がある。その瞳の奥にいるのは――自分、薫だ。

 (ごめんな、香織……。でも、今は俺がちゃんとするしかない)

 居間へ戻ると、父もリビングで新聞を読みながら「おかえり」と声をかけてくれた。

 「今日は学校どうだった?」

 「えっと……体育がバスケで、咲良がずっと張り切ってたよ。あと、数学の小テストが意外と難しくて……」

 薫の口から次々と出るのは、香織として過ごした“ふつうの一日”。記憶をたどりながら、できるだけ自然に振る舞った。

 母はにこにこと相槌を打ち、父は「テスト、そんなに難しかったかーっ、、」と苦笑していた。

 その後で母が「ねえっ、薫は元気なの?」と少し心配した顔で香織に聞いた。

「うん、元気だよ、多分明日は薫の体になると思うよ!」と母が心配しなように香織の振りをして薫が言った。


 
 湯船の表面が、ほのかな湯気でかすんでいる。

 浴室の壁に寄りかかりながら、薫は香織の体のまま湯に浸かっていた。細く白い腕が、水面の下で揺れている。見慣れたはずの自分の身体とはまるで違うそれを、薫はどこか他人事のように眺めていた。

 (……ちゃんと洗えばいいだけだ。普通に、汚れを落とすだけなんだから)

 そう思いながらも、タオルで肌に触れるたび、微かに躊躇が走る。

 (でも、香織の体だしな……。俺が触っていいのかって、やっぱ思うよ)

 羞恥というよりは、背徳に近い感覚だった。香織の意識がここにいない今、彼女の体のすべてを預かっている自分が、どこまで踏み込んでいいのか。その線引きが、あまりにも曖昧だった。

 けれど――

 (ちゃんと清潔にしておかないと。香織が戻ってきた時、嫌な思いさせたくない)

 そう思い直して、手に持った泡立てたタオルを、香織の肩から背中へと静かに滑らせる。体は確かに女子のそれだが、意識の内側にいるのは男である薫だ。だからこそ、どの動きも丁寧で慎重だった。

 (俺は今、“借りてる”んだ。彼女の大事な体を)

 湯をかぶって泡を流し、湯船にもう一度沈むと、少しだけ体の力が抜けた。

 (……でも、これが明日も続いたら……?)

 その考えが、ふと胸に広がった。

 (明日はどうなる? また香織が目を覚まさなかったら……)

 今朝は、起きた瞬間に違和感があった。体は女の子。けれど意識は薫のまま――香織は一度も目覚めなかった。昨日までの「交代制」とも違う。これがたまたま一度きりのことなのか、それとも何か異変の前触れなのか。

 (もしかして……香織、もう戻ってこない……?)

 その考えに至った瞬間、胸の奥がひやりとした。

 (いや、そんなはずない。あいつは強い。俺がこんなに焦ってんのに、香織はずっと前から、俺が眠ってる間のこと、何も言わずに頑張ってたんだ)

 そう思うと、湯の温かさとは別に、目の奥がじんわりと熱を帯びてくる。

 「……香織」

 名前を呼んでみる。けれど返事はない。

 この静かな浴室に響くのは、自分の吐息と湯の音だけ。

 (明日は……どうなるんだろう)

 見えない“明日”が、こんなにも重く感じるのは初めてだった。

 湯船から上がり、タオルを巻いて脱衣所へ出る。鏡に映る香織の姿が、どこか心細く見えた。

 (せめて、今日だけでも大切に過ごそう。明日どうなるか分からないなら、なおさら)

 そう自分に言い聞かせて、薫はゆっくりと息を吐いた。


 風呂を済ませ、自室に戻ったころには――全身が鉛のように重かった。

 「ふう……」

 薫はベッドに腰掛け、香織の髪を束ねながらため息をついた。普段なら気にならないはずのリップの感触、スカートの締め付け、香織の声を真似て話し続けた喉の疲れ……。

 (自分じゃない自分を、一日中演じるって、こんなに大変なんだな)

 そう思った瞬間、胸の奥にぽっかりとした寂しさが広がった。

 (香織……お前、今どこにいるんだよ)

 薫は机の引き出しを開け、香織がいつも使っていた日記帳を見つけた。まだ開くつもりはなかった。ただ、そこに“彼女の痕跡”があることに、少しだけ安堵した。

 (香織が戻ってきたとき、何も壊れてなかったって……思ってもらえるように)

 月明かりがカーテンの隙間から差し込み、部屋を静かに照らしていた。

 薫は布団に入ると、胸の前で手を組んで目を閉じた。

 (明日も、ちゃんと香織でいられますように)

 願いのような祈りのような、その思いは、静かに夜の中へと溶けていった。

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