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マタニティスクール
しおりを挟む春の陽気がやわらかく包む昼下がり。
悟志と香織の結婚から半年が過ぎたころ、香織のお腹はほんのりと丸みを帯びはじめていた。
「ねえ、薫……ついに私、**お母さんになるんだよ**」
香織は鏡に映る自分の姿にそっと触れながら、心の奥にいる“彼”へ語りかける。
もちろん、薫は今も香織の中に“いる”。
かつて交互に入れ替わっていた二つの意識。いまは香織が表面を担い、薫は内側から見守っている状態。
ふたりは心で言葉を交わすことができた。
《母になるって……不思議な気分だね。体の中で命が育つなんて》
「うん。でもね、妊娠ってこんなに大変だなんて、思ってなかったよ」
つわり、体調の波、感情の起伏。香織は毎日変わっていく身体と心に向き合いながら、
悟志の支えと、薫の静かな見守りに支えられていた。
ある日、悟志が「一緒に行こう」と手渡してきたのは、**マタニティスクールの案内状**だった。
「えぇぇ……? あんなとこ、ドラマとかでしか見たことないよ……」
《でも面白そうじゃない?体験談とか知識とか、香織に役立つかも》
香織はため息をつきながらも、翌週のスクールに足を運ぶ決意をした。
──そして迎えた当日。
「はじめまして~、本日からご参加の皆さん、ようこそ!」
助産師の明るい声に迎えられ、部屋には妊婦さんたちとそのパートナーが10組ほど並んでいた。
香織は一人だったが、悟志の仕事がどうしても外せず、今回は一人での参加だった。
《私たちは“二人”で来てるんだけどね》
「まったくだよ、薫。あなたもここに座ってるようなもんだからね」
講座では呼吸法、妊婦体操、そして“赤ちゃん人形”を使った沐浴体験などが続く。
香織は慣れない手つきながらも、一つ一つ丁寧に学んでいった。
《あっ、赤ちゃんの首支えて!そうそう、そうやって……》
「うわあ、難しい!こんなに小さいのに、抱くのにコツがいるんだね……」
他の妊婦さんたちに少し微笑まれながら、香織は汗をかきかき奮闘する。
でもその中で、彼女の心には確かな実感が芽生えていた。
「あぁ……この子は、いま、私たちの中で育ってるんだ」
香織だけじゃない、薫と悟志、三人の気持ちが一つになって、この命を迎えようとしている。
帰り道、少し疲れた身体をさすりながら、香織は静かに微笑んだ。
「ねぇ薫、私……お母さんになれるかな?」
《大丈夫だよ、香織。君はちゃんと“私たち”の母親になれる》
《それに……僕もずっと、君とこの子を支えるから》
香織はその言葉を胸に、そっとお腹に手を当てた。
「ふふ、なんだか三人暮らしみたいね、今」
まだ見ぬ小さな命。
そして、体の中に共にいる薫。
外で支えてくれる悟志。
香織は、母として、ひとりの女性として、
そして“誰かを演じる”ことなく、“自分自身”として生きていく日々を、静かに受け入れ始めていた。
——優しい春風がまた、桜の花を一つ、風に乗せて運んだ。
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