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6月29日
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午前七時三十二分。アラームの音がけたたましく鳴る。
升本純は目を開けるなり、違和感に顔をしかめた。
──重い。
頭が、ではない。体全体が、何かこう、しっくりこない。寝ぼけているせいかと手を伸ばし、毛布をかき分けようとした瞬間、その「手」に彼女の意識は釘付けになった。大きくて骨ばっていて、指の節が太い。長年見慣れたはずの自分の手とは明らかに違う。
「……は?」
思わず口にしたその声は、驚くほど低かった。男の声だった。混乱しながら上半身を起こし、自分の体を見下ろす。白いTシャツの胸元には、うっすらと筋肉が浮き上がっている。腕も脚も長く、ガタイがいい。
いやいやいやいや、なにこれ。夢? 夢だよね?
純は慌ててベッドの脇に置かれていたスマホを掴んだ。手に馴染まないその感触に戸惑いながらも、ロック画面を見て、言葉を失う。
そこに表示された名前は「上杉拓也」──彼女が、想いを寄せるあの人の名前だった。
その瞬間、激しい動悸と共に現実が襲いかかる。
上杉さんの家。上杉さんの体。上杉さんの──全部、これ、上杉さん?
同じころ、職場から電車で二駅離れた純のワンルームマンションで、もう一人の当事者もパニックに陥っていた。
「えっ、なんだこれ……どこだここ……?」
鏡の前で上杉拓也は呆然としていた。彼の目の前には、見覚えのある女性の顔があった。肩までの髪、少し眠たげな大きな瞳。けれどその表情は明らかに彼自身の動揺を映し出していた。
しかも、その顔が──彼が密かに好意を抱いている、升本純の顔だという事実に、思考が止まる。
「マジかよ……」
バスローブをはだけて確認した体は、たしかに女性のそれだった。目をそらしたくなるほどの現実感。これは、夢なんかじゃない。
スマホを探し、LINEを開く。手が小さくて扱いにくい。慣れない動作で自分のアカウントを検索し、トーク画面を開く。
拓也(純の体):「これ、君も気づいてるよな?」
純(拓也の体):「はい。私、あなたですよね……?」
拓也:「どういうことか、全くわからない。でも、一つだけ言えるのは……」
純:「?」
拓也:「今日、会社、どうする?」
その問いに、しばしの沈黙のあと、返信が届いた。
純:「とりあえず……お互い、バレないように行くしかない、ですよね」
LINEの文面はいつも通り穏やかで丁寧だ。だが、そこに漂う緊張感と不安は、画面越しにひしひしと伝わってくる。
拓也はソファに崩れ落ちるように座り込んだ。心臓がうるさいほど鳴っている。これは現実だ。状況は最悪で、けれど──
最悪のはずなのに、どこか心の奥がざわついている。この状況だからこそ、彼女のことをもっと深く知れるのではないかという、言葉にならない期待感。
一方の純も、鏡の中の男性的な顔を見つめながら、思っていた。
今まで、こんなに彼のことを近くに感じたことなんてなかった。声も、仕草も、生活の全部も、まるで彼になってしまったかのように感じる。
──いや、実際になってるんだけど。
混乱と恐怖のなかで、それでも心のどこかに芽生えてしまった「もっと知りたい」という気持ち。それが、互いの心に小さく火を灯す。
そして始まる、身体が入れ替わった二人の、奇妙で不器用な恋の物語。恋はすれ違い、でも心はすこしずつ近づいていく。
それが、この日、六月二十九日の朝だった。
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升本純は目を開けるなり、違和感に顔をしかめた。
──重い。
頭が、ではない。体全体が、何かこう、しっくりこない。寝ぼけているせいかと手を伸ばし、毛布をかき分けようとした瞬間、その「手」に彼女の意識は釘付けになった。大きくて骨ばっていて、指の節が太い。長年見慣れたはずの自分の手とは明らかに違う。
「……は?」
思わず口にしたその声は、驚くほど低かった。男の声だった。混乱しながら上半身を起こし、自分の体を見下ろす。白いTシャツの胸元には、うっすらと筋肉が浮き上がっている。腕も脚も長く、ガタイがいい。
いやいやいやいや、なにこれ。夢? 夢だよね?
純は慌ててベッドの脇に置かれていたスマホを掴んだ。手に馴染まないその感触に戸惑いながらも、ロック画面を見て、言葉を失う。
そこに表示された名前は「上杉拓也」──彼女が、想いを寄せるあの人の名前だった。
その瞬間、激しい動悸と共に現実が襲いかかる。
上杉さんの家。上杉さんの体。上杉さんの──全部、これ、上杉さん?
同じころ、職場から電車で二駅離れた純のワンルームマンションで、もう一人の当事者もパニックに陥っていた。
「えっ、なんだこれ……どこだここ……?」
鏡の前で上杉拓也は呆然としていた。彼の目の前には、見覚えのある女性の顔があった。肩までの髪、少し眠たげな大きな瞳。けれどその表情は明らかに彼自身の動揺を映し出していた。
しかも、その顔が──彼が密かに好意を抱いている、升本純の顔だという事実に、思考が止まる。
「マジかよ……」
バスローブをはだけて確認した体は、たしかに女性のそれだった。目をそらしたくなるほどの現実感。これは、夢なんかじゃない。
スマホを探し、LINEを開く。手が小さくて扱いにくい。慣れない動作で自分のアカウントを検索し、トーク画面を開く。
拓也(純の体):「これ、君も気づいてるよな?」
純(拓也の体):「はい。私、あなたですよね……?」
拓也:「どういうことか、全くわからない。でも、一つだけ言えるのは……」
純:「?」
拓也:「今日、会社、どうする?」
その問いに、しばしの沈黙のあと、返信が届いた。
純:「とりあえず……お互い、バレないように行くしかない、ですよね」
LINEの文面はいつも通り穏やかで丁寧だ。だが、そこに漂う緊張感と不安は、画面越しにひしひしと伝わってくる。
拓也はソファに崩れ落ちるように座り込んだ。心臓がうるさいほど鳴っている。これは現実だ。状況は最悪で、けれど──
最悪のはずなのに、どこか心の奥がざわついている。この状況だからこそ、彼女のことをもっと深く知れるのではないかという、言葉にならない期待感。
一方の純も、鏡の中の男性的な顔を見つめながら、思っていた。
今まで、こんなに彼のことを近くに感じたことなんてなかった。声も、仕草も、生活の全部も、まるで彼になってしまったかのように感じる。
──いや、実際になってるんだけど。
混乱と恐怖のなかで、それでも心のどこかに芽生えてしまった「もっと知りたい」という気持ち。それが、互いの心に小さく火を灯す。
そして始まる、身体が入れ替わった二人の、奇妙で不器用な恋の物語。恋はすれ違い、でも心はすこしずつ近づいていく。
それが、この日、六月二十九日の朝だった。
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