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第二部 すべてを奪われた少女は隣国にて返り咲く
シャル 6
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「少し歩きたい。マリア、部屋まで送ろう」
しばらく執務室に沈黙が落ちた後で、ウォレスが言った。
王子に送迎させていいものかと思ったが、強張った顔を見て素直に頷いておく。
ウォレスとともに部屋から出ると、後ろからマルセルと、シャルがついてきた。
「……フェネオン伯爵は、厳しいところもあったけれど、いい人だったよ」
廊下をゆっくり歩きながら、ウォレスがぽつんとこぼした。
「もし私が王になったら、財務省は自分が百まで生きて厳格に管理してやるからなんて、冗談なのか本気なのか、豪快に笑いながら……言っていた」
廊下である以上、ウォレスの手はつかめない。
ただの侍女には、許されないことだ。
隣を歩く、悄然としている横顔を見上げて、サーラはぎゅっと拳を握った。
サーラがもし、身分を剥奪されておらず、サラフィーネ・プランタットのままであれば、廊下でだって堂々と彼を慰めることができるのに。
「私も、フェネオン伯爵は百まで生きると思っていた。それが、まだ半分だ。……嘘つき」
「殿下……」
「大丈夫だ。泣いたりしない」
王子は、泣きたいときも簡単には泣けない。
人の目があるときは特に。
ウォレスは甘えたがりの王子様だけど、他人の目があるときは、きちんと「王子様」がやれる人だ。
その分見ていて痛々しい時があるけれど、サーラは、「王子様」をしているウォレスには何も言う権利を持たない。
サーラに許されているのは、プライベートな空間で、彼がただの「ウォレス」であるときに甘やかすことだけだ。
サーラはウォレスの期間限定の恋人だけど「第二王子オクタヴィアン」の恋人ではないんだなと、こういう時にふと実感する。
「殿下!」
廊下を歩いていると、背後から若い女性の声がした。
ウォレスとともに振り返ると、離れたところに波打つストロベリーブロンドの髪の、豪華なドレス姿の女性がいた。スタイルも抜群である。
(誰かしら……?)
着ているドレスと、堂々と城の中を歩き回れることから、相当身分の高い女性であるのは間違いなさそうだ。
侍女であるサーラは、失礼のないように頭を下げなくてはならない。
サーラが廊下の端によって頭を下げるのと、ウォレスが「ジュディット」と女性の名前を呼んだのは同時だった。
ジュディット、という名に、サーラは頭を下げた体勢のまま息を呑む。
(ジュディット・ラコルデール公爵令嬢。この人が……)
ウォレスとの――いや、第二王子オクタヴィアンとの婚約が内定している、公爵令嬢。
わずかに顔を上げて盗み見れば、サーラよりも二つ年上の彼女は、凛とした雰囲気の綺麗な女性だった。艶々のストロベリーブロンドは腰ほどまであり、アーモンド形の大きな茶色の瞳は理知的だ。
リジーに「ぺったんこ」と評されたサーラとは違い、出るところは出ている抜群のスタイルである。
立っているだけで高貴な女性だとすぐにわかる、迫力のある外見だった。
こういう人のことを「王妃の格」を持った女性というのだろう。
「殿下、おじさま……フェネオン伯爵は……」
ラコルデール公爵家は、王妃の実家だ。王妃の兄が現当主であるので、その当主の娘であるジュディットはウォレスの従兄妹の関係にあたる。つまり、ウォレス同様フェネオン伯爵の血縁者だ。
大きく揺れている茶色の瞳がジュディットの動揺を表している。
「もうジュディットの耳に入っていたのか……」
「おばさま……王妃様に呼ばれたんですわ。大変なことが起こったと。おばさまも動揺なさっていて……」
「そうだろうな。母上とフェネオン伯爵は仲がよかった」
「他人事みたいに言わないで。こういう時に息子がそばにいなくてどうするんですの?」
「私がいたところで……」
「いいから!」
ぐいっとジュディットがウォレスの腕を引く。
ウォレスがちらりとこちらを見たので、サーラは首を横に振った。
侍女を部屋に送るのは、断る理由としては不十分だし、変に違和感を持たれると厄介だ。
ウォレスが「ごめん」と言いたそうに目を伏せて、ジュディットに引っ張られるままに歩き出す。
護衛であるマルセルは当然ウォレスの後を追って、サーラはシャルと残された。
ウォレスが見えなくなるまで見送って、サーラもシャルとともに歩き出す。
「あの方が殿下の……か」
「うん」
サーラは小さく頷いた。
あと、約一か月。
四月六日になれば、ウォレスの隣は、ジュディットのものだ。
サーラがいつまで侍女として城にいるかはわからないが、もしかしたらウォレスが結婚するそのときをこの目で見ることになるかもしれない。
ずきずきと心臓が痛い。
だからだろうか、歩く速度が無意識に少し早くなる。
サーラが部屋に戻ると、ソファに座っていたジャンヌが勢いよく立ち上がった。
「マリア、どうだったの?」
「裏取り前なので詳しいことは言えませんが、予想通りであれば、犯人は捕縛されるはずです」
「つまり他殺だったのね」
「……どこまで計画されたものだったのかはわかりませんが、殺意はあったかもしれませんね」
「そう……」
ジャンヌがそっと息を吐く。
「ジャンヌさん、フェネオン伯爵のお顔を見に行かれたらどうですか? 検死も終わったそうなので、今であればお会いさせてくれるかもしれません」
ブノアの友人であるならば、ジャンヌも親しい間柄だっただろう。
ウォレスはしばらく王妃の元から帰ってこない気がするので、今であれば部屋を抜けてもいい気がした。
ジャンヌが考えるように視線を落として、「そうね……」と頷く。
「じゃあ、少しだけ……。特にすることはないから、休憩していてちょうだい」
ジャンヌがそう言って部屋を出て行くと、お言葉に甘えて、サーラはシャルを呼んで休憩することにした。ジュディットを見たあとだからだろうか、今は一人になりたくない。
ウォレスの部屋のお茶は勝手に借りられないので、侍女の控室に置いてある茶葉を使って二人分のお茶を入れる。少し前にブノアにもらったお菓子の箱があったので、お茶と一緒に出した。
「大丈夫か?」
何が、とは言わない。
乳兄妹として、それから兄妹としてずっとそばにいてくれたシャルは、サーラの内面などお見通しだろう。
シャル相手なら、誤魔化す必要はどこにもない。
何も言わずに視線を落とすと、シャルがサーラの隣に座る。
頭に大きな手が添えられて、ぐいっと引き寄せられた。
こてんとシャルの肩口に頭を預けて、サーラはそっと息を吐き出す。
「自分の判断だったし、ちゃんと納得できているはずなんだけどね……」
頭では納得したと思っていたが、心では納得していなかったということかもしれない。
(さすがに、ラコルデール公爵令嬢と一緒にいるのを見るのは、心が痛いなあ……)
サーラが決して手にいれられないものを、ジュディット・ラコルデールは持っている。
この先ずっとウォレスの側にいられる彼女が、心の底から羨ましい。
嫉妬しても仕方がないし、終わりのある付き合いであるのは承知の上だった。
でもやっぱり、他の女性と――それも、彼の妻の座が約束されている女性と一緒にいるところは、見たくないものだ。
「サーラ」
「マリアよ」
「……君は名前が変わりすぎる」
サラフィーネからサーラに。そしてマリアに。
シャルのつぶやきに、サーラは小さく笑う。
サラフィーネ・プランタットからサーラに名前が変わったとき、サーラは己の半身を失った気がした。
サーラからマリアに変わったときはそんな感じはしなかったけれど――、ウォレスと別れたその時に「サーラ」を失うような気がしている。
およそ八年前に半身を失い、そして残った半身をまた失ったら、サーラはいったい誰になるのだろう。
自分が自分であることには変わりないはずなのに、そんなことを考えるなんておかしなものだ。
サーラからマリアになって、そしてその「マリア」はどこに行くのだろうか。
去年、シャルからどこか遠くに引っ越さないかと言われたが、ウォレスが無事に王になるのを見届けたらそれもいい気がしてきた。
両親の――プランタット公爵夫妻の冤罪を晴らしたい。レナエルたちが暮らす城にもぐりこめた今、過去を調べる絶好の機会で、そしてもう二度とない機会かもしれない。
けれども、そんなことも、なんだか今はどうでもよく感じるから不思議だった。
どこか遠くに。
ウォレスもジュディットもいない遠くに逃げて、何もかもを忘れて、サーラでもマリアでもない別人になれたら幸せだろうか。
くだらないことを考えるものだと、自分でも思う。
「なあ」
シャルが子供のころにそうしたように、サーラの頭を優しくなでた。
「お前が、ここにいるのが嫌になった時でいい。……俺と、父さんと母さんと、また別の土地ではじめからやり直さないか」
サーラの心を読んだのか、たまたま同じことを考えていたのか。
シャルが自分が思っていたことと同じことを言うから、サーラはびっくりして顔を上げた。
「今度は遠くに、何なら海を渡った別の大陸だっていい。遠くに行くんだ。何もかもを忘れて、最初から人生をやり直そう。背負っているものなんてこの国に置いて行って、身軽になって、そしていつか……、お前の心の傷が癒えたそのときでいい。結婚しないか。俺と」
サーラはゆるゆると目を見張った。
もたれかかっていたシャルの肩口から頭を起こし、見開いた目でじっと彼を見つめる。
(……なに?)
今、さらっと、とんでもないことを言われた気がする。
「お前が結婚するつもりがなかったことは知っている。そのくせ俺には、誰かと結婚して幸せになってほしいと、そう思っていたことも知っている。だから本当は言うつもりはなかった。ただ、お前の側でお前を守っていられればそれでいいとも思っていた。でも無理だ。お前は、傷ついても……どれだけ傷ついても、その痛みを胸の底に押しやって自分一人で立とうとする。守ると言っても、俺は本当の意味でお前の心の支えになってやれない」
「そんなことは……」
「俺だったら幸せにしてやれる」
シャルが手のひらでサーラの頬をそっと撫でる。
少しかさついていて、大きくて、ずっとずっと、サーラを守ってくれた大好きな手だ。
「傷つけたりしない。離れたりしない。何もかも忘れさせて、ずっとそばで守ってやる。だから、俺を選べ。好きだと言った口でお前を傷つける男なんて、もう忘れてしまえばいい」
力強くてまっすぐで、でも少し不安そうなシャルの声。
シャルの手を取れたら、幸せだろうと思った。
シャルならずっとそばにいてくれる。
これまでそうだったように、これからも、一番近くでサーラを守ろうとしてくれるだろう。
(でも――)
サーラはサラフィーネ・プランタットの名を捨てて、アドルフとグレースの娘になった。
そのときに、シャルはサーラの中で兄になったのだ。
兄になって、しまったのである。
乳兄妹の間柄のままであれば、もしかしたら違ったかもしれない。
でも、シャルは兄なのだ。
「わたし、は……」
兄妹としてなら、一生そばにいることはできる。
でも、シャルの望みは、サーラには叶えられない。
サーラにとってシャルに対する愛情は家族愛で、恋情ではない。
シャルの気持ちと同じものを、返すことはできなかった。
それに――どうしても、ウォレスを忘れられない。
たぶんこの先も忘れられないだろう。
傷ついても、別れても、ずっと彼のことが頭の中に残る。
それだけ、ウォレスの存在はサーラの中で大きくなってしまっていた。
「……ごめんね」
小さく、サーラは答える。
ここで黙ったままなのは、卑怯だ。
「ごめん……お兄ちゃん」
きゅっと唇をかむ。
俯いた拍子に涙がこぼれた。
大好きな兄を、サーラが傷つけた。
ウォレスに傷つけられたサーラが、今度はシャルを傷つける。
何なのだろう――恋愛って。
どうしてみんなが幸せになることができないのだろう。
不幸になりたくて誰かに恋する人など、いないのに。
「悪い」
シャルがおずおずとサーラを胸の中に引き寄せ、ぽんぽんと頭を撫でる。
「泣くな。お前がそう言うだろうことも、なんとなくわかっていた。だから謝らなくていい」
シャルは、どこまでも優しい。
だから涙が止まらない。
「俺はこれからも、兄としてお前の側にいる。変わらず側にいて守ってやる。逃げたくなったらいつでも言え。俺も父さんも母さんも、ずっとずっと、側にいる」
サーラはシャルの腕の中で、声を殺して泣き続けた。
しばらく執務室に沈黙が落ちた後で、ウォレスが言った。
王子に送迎させていいものかと思ったが、強張った顔を見て素直に頷いておく。
ウォレスとともに部屋から出ると、後ろからマルセルと、シャルがついてきた。
「……フェネオン伯爵は、厳しいところもあったけれど、いい人だったよ」
廊下をゆっくり歩きながら、ウォレスがぽつんとこぼした。
「もし私が王になったら、財務省は自分が百まで生きて厳格に管理してやるからなんて、冗談なのか本気なのか、豪快に笑いながら……言っていた」
廊下である以上、ウォレスの手はつかめない。
ただの侍女には、許されないことだ。
隣を歩く、悄然としている横顔を見上げて、サーラはぎゅっと拳を握った。
サーラがもし、身分を剥奪されておらず、サラフィーネ・プランタットのままであれば、廊下でだって堂々と彼を慰めることができるのに。
「私も、フェネオン伯爵は百まで生きると思っていた。それが、まだ半分だ。……嘘つき」
「殿下……」
「大丈夫だ。泣いたりしない」
王子は、泣きたいときも簡単には泣けない。
人の目があるときは特に。
ウォレスは甘えたがりの王子様だけど、他人の目があるときは、きちんと「王子様」がやれる人だ。
その分見ていて痛々しい時があるけれど、サーラは、「王子様」をしているウォレスには何も言う権利を持たない。
サーラに許されているのは、プライベートな空間で、彼がただの「ウォレス」であるときに甘やかすことだけだ。
サーラはウォレスの期間限定の恋人だけど「第二王子オクタヴィアン」の恋人ではないんだなと、こういう時にふと実感する。
「殿下!」
廊下を歩いていると、背後から若い女性の声がした。
ウォレスとともに振り返ると、離れたところに波打つストロベリーブロンドの髪の、豪華なドレス姿の女性がいた。スタイルも抜群である。
(誰かしら……?)
着ているドレスと、堂々と城の中を歩き回れることから、相当身分の高い女性であるのは間違いなさそうだ。
侍女であるサーラは、失礼のないように頭を下げなくてはならない。
サーラが廊下の端によって頭を下げるのと、ウォレスが「ジュディット」と女性の名前を呼んだのは同時だった。
ジュディット、という名に、サーラは頭を下げた体勢のまま息を呑む。
(ジュディット・ラコルデール公爵令嬢。この人が……)
ウォレスとの――いや、第二王子オクタヴィアンとの婚約が内定している、公爵令嬢。
わずかに顔を上げて盗み見れば、サーラよりも二つ年上の彼女は、凛とした雰囲気の綺麗な女性だった。艶々のストロベリーブロンドは腰ほどまであり、アーモンド形の大きな茶色の瞳は理知的だ。
リジーに「ぺったんこ」と評されたサーラとは違い、出るところは出ている抜群のスタイルである。
立っているだけで高貴な女性だとすぐにわかる、迫力のある外見だった。
こういう人のことを「王妃の格」を持った女性というのだろう。
「殿下、おじさま……フェネオン伯爵は……」
ラコルデール公爵家は、王妃の実家だ。王妃の兄が現当主であるので、その当主の娘であるジュディットはウォレスの従兄妹の関係にあたる。つまり、ウォレス同様フェネオン伯爵の血縁者だ。
大きく揺れている茶色の瞳がジュディットの動揺を表している。
「もうジュディットの耳に入っていたのか……」
「おばさま……王妃様に呼ばれたんですわ。大変なことが起こったと。おばさまも動揺なさっていて……」
「そうだろうな。母上とフェネオン伯爵は仲がよかった」
「他人事みたいに言わないで。こういう時に息子がそばにいなくてどうするんですの?」
「私がいたところで……」
「いいから!」
ぐいっとジュディットがウォレスの腕を引く。
ウォレスがちらりとこちらを見たので、サーラは首を横に振った。
侍女を部屋に送るのは、断る理由としては不十分だし、変に違和感を持たれると厄介だ。
ウォレスが「ごめん」と言いたそうに目を伏せて、ジュディットに引っ張られるままに歩き出す。
護衛であるマルセルは当然ウォレスの後を追って、サーラはシャルと残された。
ウォレスが見えなくなるまで見送って、サーラもシャルとともに歩き出す。
「あの方が殿下の……か」
「うん」
サーラは小さく頷いた。
あと、約一か月。
四月六日になれば、ウォレスの隣は、ジュディットのものだ。
サーラがいつまで侍女として城にいるかはわからないが、もしかしたらウォレスが結婚するそのときをこの目で見ることになるかもしれない。
ずきずきと心臓が痛い。
だからだろうか、歩く速度が無意識に少し早くなる。
サーラが部屋に戻ると、ソファに座っていたジャンヌが勢いよく立ち上がった。
「マリア、どうだったの?」
「裏取り前なので詳しいことは言えませんが、予想通りであれば、犯人は捕縛されるはずです」
「つまり他殺だったのね」
「……どこまで計画されたものだったのかはわかりませんが、殺意はあったかもしれませんね」
「そう……」
ジャンヌがそっと息を吐く。
「ジャンヌさん、フェネオン伯爵のお顔を見に行かれたらどうですか? 検死も終わったそうなので、今であればお会いさせてくれるかもしれません」
ブノアの友人であるならば、ジャンヌも親しい間柄だっただろう。
ウォレスはしばらく王妃の元から帰ってこない気がするので、今であれば部屋を抜けてもいい気がした。
ジャンヌが考えるように視線を落として、「そうね……」と頷く。
「じゃあ、少しだけ……。特にすることはないから、休憩していてちょうだい」
ジャンヌがそう言って部屋を出て行くと、お言葉に甘えて、サーラはシャルを呼んで休憩することにした。ジュディットを見たあとだからだろうか、今は一人になりたくない。
ウォレスの部屋のお茶は勝手に借りられないので、侍女の控室に置いてある茶葉を使って二人分のお茶を入れる。少し前にブノアにもらったお菓子の箱があったので、お茶と一緒に出した。
「大丈夫か?」
何が、とは言わない。
乳兄妹として、それから兄妹としてずっとそばにいてくれたシャルは、サーラの内面などお見通しだろう。
シャル相手なら、誤魔化す必要はどこにもない。
何も言わずに視線を落とすと、シャルがサーラの隣に座る。
頭に大きな手が添えられて、ぐいっと引き寄せられた。
こてんとシャルの肩口に頭を預けて、サーラはそっと息を吐き出す。
「自分の判断だったし、ちゃんと納得できているはずなんだけどね……」
頭では納得したと思っていたが、心では納得していなかったということかもしれない。
(さすがに、ラコルデール公爵令嬢と一緒にいるのを見るのは、心が痛いなあ……)
サーラが決して手にいれられないものを、ジュディット・ラコルデールは持っている。
この先ずっとウォレスの側にいられる彼女が、心の底から羨ましい。
嫉妬しても仕方がないし、終わりのある付き合いであるのは承知の上だった。
でもやっぱり、他の女性と――それも、彼の妻の座が約束されている女性と一緒にいるところは、見たくないものだ。
「サーラ」
「マリアよ」
「……君は名前が変わりすぎる」
サラフィーネからサーラに。そしてマリアに。
シャルのつぶやきに、サーラは小さく笑う。
サラフィーネ・プランタットからサーラに名前が変わったとき、サーラは己の半身を失った気がした。
サーラからマリアに変わったときはそんな感じはしなかったけれど――、ウォレスと別れたその時に「サーラ」を失うような気がしている。
およそ八年前に半身を失い、そして残った半身をまた失ったら、サーラはいったい誰になるのだろう。
自分が自分であることには変わりないはずなのに、そんなことを考えるなんておかしなものだ。
サーラからマリアになって、そしてその「マリア」はどこに行くのだろうか。
去年、シャルからどこか遠くに引っ越さないかと言われたが、ウォレスが無事に王になるのを見届けたらそれもいい気がしてきた。
両親の――プランタット公爵夫妻の冤罪を晴らしたい。レナエルたちが暮らす城にもぐりこめた今、過去を調べる絶好の機会で、そしてもう二度とない機会かもしれない。
けれども、そんなことも、なんだか今はどうでもよく感じるから不思議だった。
どこか遠くに。
ウォレスもジュディットもいない遠くに逃げて、何もかもを忘れて、サーラでもマリアでもない別人になれたら幸せだろうか。
くだらないことを考えるものだと、自分でも思う。
「なあ」
シャルが子供のころにそうしたように、サーラの頭を優しくなでた。
「お前が、ここにいるのが嫌になった時でいい。……俺と、父さんと母さんと、また別の土地ではじめからやり直さないか」
サーラの心を読んだのか、たまたま同じことを考えていたのか。
シャルが自分が思っていたことと同じことを言うから、サーラはびっくりして顔を上げた。
「今度は遠くに、何なら海を渡った別の大陸だっていい。遠くに行くんだ。何もかもを忘れて、最初から人生をやり直そう。背負っているものなんてこの国に置いて行って、身軽になって、そしていつか……、お前の心の傷が癒えたそのときでいい。結婚しないか。俺と」
サーラはゆるゆると目を見張った。
もたれかかっていたシャルの肩口から頭を起こし、見開いた目でじっと彼を見つめる。
(……なに?)
今、さらっと、とんでもないことを言われた気がする。
「お前が結婚するつもりがなかったことは知っている。そのくせ俺には、誰かと結婚して幸せになってほしいと、そう思っていたことも知っている。だから本当は言うつもりはなかった。ただ、お前の側でお前を守っていられればそれでいいとも思っていた。でも無理だ。お前は、傷ついても……どれだけ傷ついても、その痛みを胸の底に押しやって自分一人で立とうとする。守ると言っても、俺は本当の意味でお前の心の支えになってやれない」
「そんなことは……」
「俺だったら幸せにしてやれる」
シャルが手のひらでサーラの頬をそっと撫でる。
少しかさついていて、大きくて、ずっとずっと、サーラを守ってくれた大好きな手だ。
「傷つけたりしない。離れたりしない。何もかも忘れさせて、ずっとそばで守ってやる。だから、俺を選べ。好きだと言った口でお前を傷つける男なんて、もう忘れてしまえばいい」
力強くてまっすぐで、でも少し不安そうなシャルの声。
シャルの手を取れたら、幸せだろうと思った。
シャルならずっとそばにいてくれる。
これまでそうだったように、これからも、一番近くでサーラを守ろうとしてくれるだろう。
(でも――)
サーラはサラフィーネ・プランタットの名を捨てて、アドルフとグレースの娘になった。
そのときに、シャルはサーラの中で兄になったのだ。
兄になって、しまったのである。
乳兄妹の間柄のままであれば、もしかしたら違ったかもしれない。
でも、シャルは兄なのだ。
「わたし、は……」
兄妹としてなら、一生そばにいることはできる。
でも、シャルの望みは、サーラには叶えられない。
サーラにとってシャルに対する愛情は家族愛で、恋情ではない。
シャルの気持ちと同じものを、返すことはできなかった。
それに――どうしても、ウォレスを忘れられない。
たぶんこの先も忘れられないだろう。
傷ついても、別れても、ずっと彼のことが頭の中に残る。
それだけ、ウォレスの存在はサーラの中で大きくなってしまっていた。
「……ごめんね」
小さく、サーラは答える。
ここで黙ったままなのは、卑怯だ。
「ごめん……お兄ちゃん」
きゅっと唇をかむ。
俯いた拍子に涙がこぼれた。
大好きな兄を、サーラが傷つけた。
ウォレスに傷つけられたサーラが、今度はシャルを傷つける。
何なのだろう――恋愛って。
どうしてみんなが幸せになることができないのだろう。
不幸になりたくて誰かに恋する人など、いないのに。
「悪い」
シャルがおずおずとサーラを胸の中に引き寄せ、ぽんぽんと頭を撫でる。
「泣くな。お前がそう言うだろうことも、なんとなくわかっていた。だから謝らなくていい」
シャルは、どこまでも優しい。
だから涙が止まらない。
「俺はこれからも、兄としてお前の側にいる。変わらず側にいて守ってやる。逃げたくなったらいつでも言え。俺も父さんも母さんも、ずっとずっと、側にいる」
サーラはシャルの腕の中で、声を殺して泣き続けた。
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公には「名門イソファガス家の孫娘」として知られる少女キクコ。
だがその正体は、歴史の裏側で幾度も国を救ってきた不老の元聖女であり、
王家すら真実を知らぬ“生きた時代遺産”。
政治も権力も、面倒ごとは大嫌い。
紅茶と読書に囲まれた静かな余生(?)を望んでいたキクコだったが――
魔王討伐後、王位継承問題に巻き込まれたことをきっかけに、
まさかの王位継承権十七位という事実が発覚する。
「……私が女王? 冗談じゃないわ」
回避策として動いたはずが、
誕生した新国王アルフェリットから、なぜか突然の求婚。
しかも彼は、
幼少期に命を救われた“恩人”がキクコであることを覚えていた――
年を取らぬ姿のままで。
永遠に老いない少女と、
彼女の真実を問わず選んだ自分ファーストな若き王。
王妃になどなる気はない。
けれど、逃げ続けることももうできない。
これは、
歴史の影に生きてきた少女が、
はじめて「誰かの隣」を選ぶかもしれない物語。
ざまぁも陰謀も押し付けない。
それでも――
この国で一番、誰よりも“強い”のは彼女だった。
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