婚約者に捨てられた私ですが、なぜか宰相様の膝の上が定位置になっています 

さら

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第1話 婚約破棄と宰相様の膝の上



 王都でも指折りの大舞踏会――その夜は、煌びやかなシャンデリアが天井から幾重にも光を降り注ぎ、床には磨き上げられた大理石が人々の影を映していた。絢爛豪華な音楽に合わせ、令嬢たちのドレスが花のように舞い、紳士淑女が華やかに談笑している。だが、そんな美しい空間のただ中で、私の人生は音を立てて崩れ落ちていった。

「公爵令嬢エリナ・フォン・グリューンベルクよ。これまで世話になったが――今日をもってお前との婚約を破棄する」

 涼やかな声で高らかにそう告げたのは、この国の第一王子アレクシス殿下。金糸の髪を燦然と輝かせ、青い瞳を自信に満ちた笑みで細めるその姿は、誰がどう見ても絵に描いたような王子様だった。だがその口から放たれた言葉は、私にとって断罪に等しかった。

 会場は一瞬静まり返ったが、すぐに小さなどよめきが広がる。
「まあ……殿下が……!」
「公爵令嬢に婚約破棄を言い渡すなんて……」
「まさか、新しい恋人でも?」

 人々の視線が私に突き刺さる。羞恥と恐怖で心臓が早鐘を打ち、足元が揺れるように感じた。
「で、殿下……今のは、どういう……」
 声を絞り出す私に、殿下は冷たく笑った。

「どういうも何も、そのままの意味だ。私はもうお前のように地味で気の利かぬ女と一生を共にする気はない。これからは――このアリシア嬢と歩むのだ」

 そう言って殿下が隣に立たせたのは、濃い薔薇色のドレスに身を包んだ侯爵令嬢アリシア。彼女は勝ち誇ったように顎を上げ、私を見下ろしてきた。

「殿下のお心を奪ったのは私ですもの。あなたは引き下がるしかないわ」

 その一言で、会場の令嬢たちはざわめきを増し、誰もが面白い劇を見ているかのように囁き合った。
 ――恥ずかしい。惨めだ。私は、なんて……。

 今まで信じてきた未来が、無惨に剥ぎ取られていく。幼いころから殿下の婚約者として育ち、家の誇りでもあると信じていたのに。
「……そんな……」
 口から漏れた声は、かすれて掠れて、誰にも届かなかった。

 膝が震え、床に崩れ落ちそうになったその時。

「――下らぬ茶番だな」

 鋭くも低い声が、広間全体を貫いた。瞬間、空気が張り詰める。音楽が止み、人々の動きが凍る。視線が一斉に声の主へと集まった。

 そこにいたのは、王国の宰相――クラウス・フォン・ヴァイセンベルク公爵。
 漆黒に銀を混ぜた髪を後ろへ撫で付け、冷徹な鋼の瞳を持つ長身の男。その存在感だけで空気を支配する彼は、政務の要として王に仕える大人物だ。普段なら誰もが頭を垂れるはずの彼が、今は私のすぐそばに立っていた。

「殿下。王家の権威をもって一人の令嬢をこの場で辱めるとは……あまりにも軽率に過ぎる」

 冷たい声音が響き渡る。会場中の人々が息を呑んだ。
 私はただ呆然と、宰相様を見上げていた。




 宰相様の視線は、薄い刃のように静かで冷たかった。彼は一歩、二歩と前へ進み、私と殿下の間にすっと立つ。
「王子殿下。婚約は両家の合意と、王命のもとに結ばれた公的な契約だ。これを公衆の面前で一方的に破棄するなど、王家の威信を自ら毀損する行為に他ならない」
 淡々とした声音なのに、言葉は容赦がない。会場の空気がさらに張り詰め、誰もが口を閉ざした。

 殿下は顔を強張らせ、反論を試みる。
「こ、これは我が個人の――」
「王は『個』ではない」
 被せるように、宰相様の声が落ちた。
「ましてや、あなたは王位継承第一位。私的感情をもって公的手続きを踏み躙る理屈は、この国には存在しない」

 静寂が落ちる。私は俯いたまま、指先が震えているのを止められなかった。ふいに、視界の端に濃い黒が落ちる。宰相様の外套が、私の肩に掛けられたのだ。
「冷える。少し座りなさい」
 その低い声で、身体の芯がほどけていく。足が言うことをきかず、私は近くの肘掛け椅子へと導かれた。

 宰相様は私の前に片膝をつき、視線の高さを合わせる。
「大丈夫だ」
 その一言が、胸の奥の崩れた場所にそっと置かれる。私は頷くことしかできない。

「証人諸氏」
 宰相様は立ち上がり、広間を見渡した。
「もし今日、ここに集う誰一人として、王家の名を掲げた『公的手続き』と『礼節』の区別がつかぬというのなら、この国は幼子の遊戯と変わらぬ。――だが、私はそうは思わない」
 強くも静謐な声音に、重さのある沈黙が返る。

 殿下は唇を噛み、隣のアリシア嬢の袖をつかんだ。
「俺は、ただ……本当に愛している相手を選んだだけだ!」
 絞り出す叫びに、宰相様は視線を細める。
「愛は社会の基礎を否定する免罪符ではない。あなたが真に愛を語るなら、まずは責務を果たし、相手が傷つかぬ形で道を整えるべきだった」

 人々の息遣いが揺れる。私は自分の胸の前で手を組み、深く吸って吐いた。何かを言わなければ――そう思うのに、声がうまく出ない。
 そんな私の迷いを見透かしたように、宰相様はそっと手を差し出してきた。
「立てるか」
「……はい」
 彼の手は、驚くほど温かい。支えられて立ち上がった瞬間、私はふと鏡に映る自分を見た。外套の黒が、ぐしゃぐしゃになった心を覆っているようで、泣きそうな私の顔に、かろうじて輪郭を与えていた。

「殿下」
 宰相様は最後に一度だけ、真正面から王子を見据えた。
「本件は儀礼局と法務局に送致する。あなたの行為が『王家の名にふさわしい』かどうかは、そこで判定される。――以上だ」
 それだけ言うと、彼は私の肩に置いた手を少しだけ強めた。
「行こう」

 視線が一斉に追ってくる。噂と好奇心と、少しの同情。私は胸の内で言葉を探した。恥をかかされたのは事実だ。悔しさもある。けれど――。
「……ありがとうございます」
 小さな声で告げると、宰相様は微かに目を和らげた。
「礼は不要だ。正されるべきことを正しただけだ」

 扉へ向かう途中、アリシア嬢と目が合った。彼女は勝ち誇った微笑みを崩してはいない。だが、その目はどこか不安げに揺れていた。
 私は視線を逸らし、宰相様の歩調に合わせる。長い外套の裾が私の足元をさらい、ほんの少し、世界の輪郭が戻る。

 広間を出る前、司会役の老爵が青ざめた顔で一礼した。
「こ、今夜の舞踏会は、ここで――」
「続けなさい」
 宰相様は振り返らずに言った。
「祝宴は国の顔だ。誰かの軽率が、皆の喜びを潰してはならない」
 老爵ははっとして深く頭を下げ、音楽が再び遠くで立ち上がった。

 扉が閉じ、廊下に静けさが戻る。高い天井、等間隔に灯るシャンデリアの光、赤い絨毯。先ほどまでの視線が嘘のように消え、靴音だけが続く。
 私は歩きながら、胸の奥でぐしゃぐしゃになっていた感情を、慎重にほどくように呼吸した。
「……私、きっと、みっともなかったですよね」
「いいや」
 宰相様は短く否定する。
「辱められた者の涙は、恥ではない。恥は、他者を使って己を飾る側にある」

 言葉に、喉の奥が熱くなる。涙腺がまた危うくなるのを噛み殺していると、宰相様が足を止め、私の正面へ回り込んだ。
「ここから先は、人目が少ない」
 重厚な扉が開く。柔らかな明かりと、落ち着いた香りがふわりと零れた。

「座れ」
 促され、私はソファへ――そう思ったのに、次の瞬間、視界がふわりと浮いた。
 宰相様の腕が私の背と膝裏をすくい、軽々と抱え上げている。
「っ、あの、宰相様!」
「足が少し震えている」
 さらりと告げられ、反論の言葉が喉でほどける。胸の前で手をもぞもぞさせているうちに、彼は執務机の奥の椅子に腰を下ろし――そのまま、私を膝の上に下ろした。

 世界が止まった。脳が現実を理解するより先に、身体が固まる。
「こ、ここは……!」
「私の執務室だ」
 当たり前の答えが、当たり前じゃない体勢で返ってくる。頬が焼けるように熱い。けれど、背に回された腕の安定に、心の奥は妙に落ち着いていく。

「落ち着け」
 宰相様は机の端に置かれたハンカチを取り、そっと私の目元に触れた。
「涙の跡が少し。――拭くぞ」
 丁寧な所作。無駄のない指先。香るのはインクと紙と、彼の衣の微かな香り。

「なぜ……こんな、ことを」
 震える声が零れる。
「理由は単純だ」
 宰相様は視線を落とし、私の手を包み込むように軽く握った。
「放っておけなかった。それに、膝の上は――安心するだろう?」

 心臓が一拍、大きく跳ねた。言葉が見つからず、私は黙って頷く。
 宰相様はふっと口角だけで笑い、机の呼び鈴を軽く鳴らした。
「温かい茶を二人分。甘い菓子も頼む」
 扉の向こうから控えめな返答が聞こえ、すぐに足音が遠ざかる。

「まずは温める。身体が落ち着けば、心も整う」
「……はい」
「それから、手続きをする。殿下の行為は公的な瑕疵として処理される。君の名誉と、家の立場は守られる」
 落ち着いた説明が続く。言葉のひとつひとつが、崩れた足場に板を渡していくみたいに、私の内側を補強してくれた。

「でも、私……」
 途中で言葉が詰まる。『嫌われてしまったから』『価値がないから』――喉元まで出かかった本音を、宰相様の視線がやさしく止めた。
「君の価値は、誰かの気まぐれで増減しない」
 静かな断言。
「今夜、君が失ったのは、一つの約束と、礼節を欠いた男の虚飾だ。君自身ではない」

 胸の奥がほどける。私は外套の襟をぎゅっと握り、呼吸を整えた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。――それより」
 扉がノックされ、銀の盆にポットと茶器、砂糖菓子の盛り合わせが運ばれてくる。香りが満ち、ぐらついていた心が、湯気とともに落ち着いていく。

 宰相様は私を膝に載せたまま、器用にカップを傾け、匙で砂糖を溶かしてくれた。
「甘いのは好きか」
「す、好きです……」
「そうか。よく眠れる」
 温かい液体が喉を通る。肩の力が抜け、背を預ける角度がほんの少し深くなる。

 そのとき、遠くで塔の鐘が一度だけ鳴った。夜はまだ長い。けれど、崩れた一日の終わりに、こうして誰かの腕に支えられている――その事実だけが、確かで、救いだった。

 私はそっと目を閉じ、湯気の向こうに微かに滲む灯りを感じながら、宰相様の心音を数えた。ゆっくり、一定で、頼もしい鼓動。
 ――ここなら、平気。

 膝の上の定位置という言葉は、まだ口にしていない。けれど、身体が先に覚えてしまった居場所がある。私は胸の奥で、その場所に名前をつけた。



 温かい茶を飲み終えたころには、体の震えもすっかり収まっていた。けれど、胸の奥のざわめきは完全には消えず、宰相様の膝の上で落ち着かないまま小さく身じろぎをする。

「……重くないですか?」
 恐る恐る尋ねると、宰相様は片眉をわずかに上げただけで、腕の力を緩めることもなく答えた。
「君の重さなど、羽よりも軽い。心配するな」

 真顔で言われたから、余計に心臓が跳ねる。頬が熱くなるのを隠せず、私は外套の襟をぎゅっと握りしめた。

「それに」
 宰相様は書類を手に取りながら、当然のように言葉を続ける。
「膝の上に座られても、執務はできる。むしろ不思議と手が進む気がするな」
「えっ……そ、そんな……」
 あまりにも自然に告げられて、かえって頭が真っ白になる。

 宰相様は羽ペンを走らせ、目の前の書面に署名を入れていく。その姿は一分の隙もなく端正で、ただ膝の上に乗せられている私の存在だけが異質だった。だが、なぜか邪魔だと叱られる気配はなく、むしろ――受け入れられている。

 やがて書類を脇へ置き、宰相様は深く息を吐いた。
「……今日の件で、君の家も騒がしくなるだろう。だが心配は要らない。私が一任されよう」
「宰相様が……?」
「当然だ。公的な記録として、第一王子の軽率な行動は残る。君と家の名誉は守られる。むしろ、殿下のほうがこれから大変だ」

 淡々と語られる未来予想図。私はうなずくしかない。だが、心のどこかで「救われた」という安堵が広がっていく。

「ただし」
 宰相様の声がわずかに柔らかくなった。
「それらが片付くまで、君は当面ここに滞在しなさい。無理に屋敷へ戻るより、余計な詮索を避けられる」
「……滞在、ですか?」
「そうだ。私の庇護下なら、誰も軽んじるまい」

 庇護――その響きに胸が熱くなる。思わず視線を落とすと、宰相様の手がそっと私の髪に触れた。
「今は休め。心身ともに疲れているだろう」
「でも、まだ宰相様のお仕事が……」
「仕事なら山ほどあるが、君が膝の上にいるのは悪くない」

 あまりに平然とした声音に、私は抗議もできず、ただ真っ赤になって俯いた。

 そのまましばらく、部屋の中には羽ペンのかすかな音と、暖炉の薪がはぜる音だけが満ちていた。宰相様の心音と体温が背に伝わり、やがてまぶたが重くなる。

「……眠っていい」
 低い声が耳元で囁く。
「ここは君の居場所だ。恐れるものはない」

 その言葉に抗えず、私は目を閉じた。頬に触れる外套の布地は柔らかく、規則正しい心音が夢へと誘う。

 ――婚約者に捨てられ、すべてを失ったと思っていた夜。
 けれど私は知ってしまった。世界のどこよりも安心できる場所が、すでにあるのだと。

 そうして私は、宰相様の膝の上で静かに眠りへ落ちていった。
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