婚約者に捨てられた私ですが、なぜか宰相様の膝の上が定位置になっています 

さら

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第2話 宰相邸での新しい居場所



 翌朝、目を覚ますと、私は見慣れぬ天蓋付きのベッドに横たわっていた。薄いカーテンを透かして差し込む朝日が柔らかく、部屋全体を黄金に染め上げている。豪奢だが決して華美ではなく、整然とした調度品が並んでいた。重厚な本棚、落ち着いた色のカーテン、壁に掛けられた絵画。静謐で秩序のある空間。

「ここは……?」
 寝起きの頭でつぶやいた瞬間、昨夜の出来事が一気に蘇る。夜会での婚約破棄。殿下とアリシアの勝ち誇った笑み。会場中の冷たい視線。そして――私を抱き上げ、膝の上に座らせてくれた宰相様の存在。

 頬が熱くなる。あの状況を夢だと思いたいのに、現実だったのだ。膝の上という定位置。心臓が勝手に早鐘を打つ。

 控えめなノックの音がして、若い侍女が入ってきた。
「おはようございます、エリナ様。宰相閣下のご指示で、こちらのお部屋をご用意いたしました。お目覚めはいかがですか?」
「え……宰相閣下が?」
「はい。しばらくはお屋敷に滞在なさるようにとのことで」

 胸の奥が熱くなり、同時に戸惑いが押し寄せる。昨日すべてを失ったと思っていたのに、今はこうして守られている。信じがたいほど急展開だ。

 侍女に手伝われて着替えを済ませると、私は案内されて朝食の席へ向かった。大広間の長いテーブルの端に、宰相様は既に座っていた。黒髪をきちんと整え、銀糸の混じる瞳が冷静に輝いている。

「……おはようございます、宰相様」
「おはよう。体調はどうだ」
「はい、もう大丈夫です」
「そうか。なら良い」

 簡潔なやり取りなのに、不思議と胸の奥が温かくなる。宰相様の前には既に整った朝食が並んでいた。香ばしい焼きたてのパン、ハーブ入りの卵料理、澄んだスープ。私の席にも同じものが用意され、思わず見とれてしまう。

「遠慮せず食べなさい」
 促され、私はナイフとフォークを手に取った。口に含んだ瞬間、驚くほど優しい味が広がり、思わず笑みが零れる。
「……とても美味しいです」
「そうだろう。この屋敷の料理長は、王宮よりも腕が立つと評判だ」

 宰相様の声が僅かに和らぎ、私はますます胸が高鳴った。食事が進む間も、宰相様は淡々と政務の話をしていた。だが時折こちらを気遣うように視線を寄越す。その一瞥に、心臓が跳ねるのを止められない。

 食後、侍従が書類の束を運んできた。宰相様は当然のように立ち上がり、私に一言。
「執務室へ行く。君も来るといい」
「え……私も?」
「そうだ。昨夜も言ったが、無理に一人で部屋に籠もる必要はない」

 促されてついていくと、見慣れぬ長い廊下を抜け、扉の先に広がる執務室に到着した。高い天井にぎっしりと並んだ本棚。机の上には積み上げられた書類の山。壁際には地図や文書が整然と貼られ、まさに国の心臓部のような空間だった。

「ここが……宰相様のお仕事場……」
「そうだ。そして――」

 宰相様は椅子に腰を下ろし、当然のように私の腕を引いた。次の瞬間、私はまたもや膝の上に座らされていた。

「っ!? あ、あの……」
「昨日と同じだ。君の居場所はここだろう?」
 耳元で落ち着いた声が響き、心臓が飛び出しそうになる。

 宰相様は淡々と書類に手を伸ばし、羽ペンを走らせ始めた。私は慌てて身をよじろうとするが、しっかりと腕に支えられて逃げ場がない。
「動くと書きづらい」
「す、すみません……」
「謝る必要はない。落ち着いていればいい」

 その声音に、抗う力が抜けていく。昨夜と同じ――いや、それ以上に不思議な安心感が、膝の上から全身に広がっていった。



 宰相様の膝の上という異様な体勢で、私はひたすら居心地の悪さと安心感の狭間に揺れていた。
 羽ペンの音がさらさらと響く。机の上には分厚い法令集や外交文書が積まれ、侍従たちが無言で必要な書類を運んでくる。そのたびに、彼らの視線が一瞬こちらに留まるのを感じて頬が熱くなった。

 きっと誰もが心の中で驚愕している。宰相様の膝の上に、公爵令嬢が座っているなんて前代未聞だろう。だが、彼らは顔に出さず淡々と職務を続ける。
「……皆さん、気にしているのでは……」
 小声で囁くと、宰相様は筆を止めることなく答えた。
「気にしていない。仕事に集中している」
「で、ですが……」
「それに、私が望んで座らせている。誰も異を唱えられぬ」

 冷静で断定的な口調に、心臓が跳ねる。支えられる腕の力がわずかに強まり、私の体はさらに密着する形になった。

 机の端に置かれた砂糖菓子を侍従がそっと差し出す。宰相様は羽ペンを止めぬまま言った。
「甘いものは好きだったな」
「……はい」
「なら、口を開けろ」
「えっ!? こ、ここでですか……?」
「私の手は塞がっている」
 有無を言わせぬ声音に、仕方なく小さく口を開ける。白い砂糖菓子が宰相様の指先でそっと触れ、舌に転がった。甘さが広がり、顔から火が出そうになる。

「……美味しいです」
「そうか」
 短い返答。だが、それだけで胸がいっぱいになる。

 書類が一段落すると、宰相様は椅子にもたれ、羽ペンを置いた。
「さて、次は君の話を聞こう」
「私の……?」
「昨夜の出来事については報告を上げた。だが、君自身の気持ちを確認しておきたい」

 真剣な眼差しに射抜かれ、私は思わず息を飲む。
「……正直に申し上げれば、まだ頭が混乱しています。殿下に捨てられたことが悔しくて、惨めで……でも、それ以上に……」
「以上に?」
「宰相様が助けてくださったことのほうが、胸に強く残っていて」
 自分でも驚くほど素直な言葉が口から零れる。

 宰相様はしばし黙り、鋼のような瞳を柔らかく細めた。
「それでいい。人は一度にすべてを処理できるものではない。まずは救いを感じればいい」
「……はい」
「君は昨夜、辱めを受けた。だが、それは君の価値を下げるものではない。むしろ、礼節を欠いた王子の愚かさを明らかにしたに過ぎぬ」

 力強い言葉に、胸の奥のしこりが少しずつ溶けていく。

 しばらく沈黙が落ちた。宰相様は私を膝に抱いたまま視線を机の地図に移し、淡々と指で線をなぞる。その仕草を眺めているうちに、私はつい小さな声で口を開いた。
「宰相様は……なぜ、こんなにも私に親切にしてくださるのですか?」
「理由を求めるか」
 彼は一度目を閉じ、短く吐息を洩らした。
「放っておけなかった。それだけだ」
「……それだけ、ですか?」
「人を救う理由に多くを要するか?」

 返す言葉を失い、唇を噛む。胸の奥で温かいものが広がり、同時に涙が滲みそうになる。

 その時、控えめなノックがあり、秘書官が入室した。鋭い視線が一瞬だけ私に注がれるが、すぐに淡々と報告を始める。
「閣下、第一王子殿下が本日の政務への出席を辞退なさいました。理由は体調不良とのことですが……」
「ふん。昨夜のことが尾を引いているのだろう」
 宰相様は冷ややかに言い放ち、すぐに報告を処理する。

 やがて秘書官が去り、再び静寂が訪れた。私は宰相様の膝の上で、改めて思う。
――この場所こそ、私の居場所なのかもしれない。

 そう思うと、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。



 昼を過ぎるころ、執務室の窓から差し込む陽光はやわらかさを増し、書類をめくる宰相様の指先を照らしていた。私はといえば、未だに宰相様の膝の上から降ろされることなく、胸の奥で落ち着かない鼓動を抱えたまま時間を過ごしていた。

「退屈か?」
 唐突に問われて、思わず首を振る。
「い、いえ……むしろ、落ち着きます」
「そうか。ならば良い」

 淡々とした言葉。けれど耳に届くだけで心が温まる。昨日まで自分の存在価値すら見失いかけていた私が、こうして誰かに「居ても良い」と認められている。その事実だけで救われるのだ。

 しばらくして、侍女が昼食の準備が整ったと告げに来た。宰相様は立ち上がると、当然のように私を抱き上げる。
「ひゃっ……!」
「廊下は長い。歩かせるのも手間だろう」
「そ、そんな……わ、私もう歩けますから……!」
「私が抱きたいのだ」
 簡潔すぎる返答に、抗議の言葉が喉で凍った。

 廊下を進むと、侍従や侍女が一斉に頭を下げる。彼らの視線が私に注がれるのを感じるたびに頬が熱くなるが、宰相様の腕に包まれている安心感のほうが勝っていた。

 食堂での昼食も、結局私は宰相様の隣の椅子ではなく、彼の膝の上に座ったまま迎えることになった。料理長自慢のシチューが運ばれ、宰相様が匙で掬って差し出す。
「ほら」
「……あ、あの、自分で食べられます……」
「手を塞がせるのは効率が悪い」
 有無を言わせぬ口調に、仕方なく口を開ける。熱いスープが舌を転がり、体の芯まで温まった。

「うまいだろう」
「……はい、とても」
「なら、もっと食べろ」
 匙は休むことなく運ばれ、まるで幼子のように食べさせられる。そのたびに周囲の侍従たちが視線を逸らすのがわかり、羞恥で体が熱を帯びた。だが、同時に――宰相様の膝の上で食事をする安心感に、抗うことはできなかった。

 昼食を終えた後、執務室へ戻ると、宰相様は再び私を膝に座らせたまま書類に向かう。私は窓の外の庭園を眺めながら、小さく囁いた。
「……宰相様は、どうしてこんなに……優しくしてくださるんですか」
「優しいつもりはない。必要なことをしているだけだ」
「でも……」
「君は昨日、すべてを失ったと思っただろう。なら、今日ここで居場所を示すことが最も重要だ」

 冷静に告げられるその言葉は、私の胸に深く刻まれた。

「……居場所……」
「そうだ。人は居場所を失えば弱る。だが、与えられれば立ち上がれる」

 その瞬間、宰相様の膝の上が、ただの偶然ではなく「私の居場所」として定められたのだと気づく。頬を赤らめながらも、心の底では抗いようのない安心感に包まれていた。

 夕暮れ、窓の外の空が橙に染まるころ、宰相様はようやく筆を置いた。
「今日はここまでにしよう」
「お疲れ様です……」
「君も疲れただろう。だが、よく頑張ったな」
「……私は何もしていません」
「そうか? 私の膝の上を守り抜いた。それだけで十分だ」

 冗談めかした声音に思わず吹き出す。笑ったのは久しぶりだった。宰相様もわずかに口元を緩め、私の頭を撫でる。

「安心して眠れ。明日もここが君の居場所だ」

 その言葉に胸が満たされ、私は宰相様の胸元に顔を埋めた。昨夜は絶望で泣き崩れた私が、今は誰かの腕に包まれて未来を信じられる。膝の上という不思議な定位置が、私に生きる力を与えていた。

――こうして私は、宰相様の邸で新しい日々を始めることになった。
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