婚約者に捨てられた私ですが、なぜか宰相様の膝の上が定位置になっています 

さら

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第4話 甘やかしのおやつ時間



 宰相邸での生活が始まって数日が経った。朝になれば共に朝食をとり、執務室で宰相様の膝の上に座って過ごす――それがすっかり日常になってしまった。最初は羞恥で身の置き場もなかったのに、不思議と今では「定位置」として受け入れている自分がいる。

 今日もまた、午前中の書類仕事を見守りながら小さな手伝いをしていると、扉がノックされた。執務補佐の青年が恭しく一礼し、銀の盆を掲げて入室する。
「閣下、休憩のお時間です。菓子とお茶をお持ちいたしました」
「置け」
 簡潔な指示に従い、机の端に小ぶりな焼き菓子と紅茶が並べられた。香ばしい匂いが漂い、思わずお腹が鳴りそうになる。

「少し休むとしよう」
 宰相様は私の体を支え直し、菓子皿を手に取った。そして、また当然のように一口大の菓子を摘み、私の唇へと差し出す。
「……あの、宰相様。私、自分で食べられますから……」
「そうか。だが、私は君に食べさせたい」
 さらりと言われ、顔が一気に熱くなる。抵抗の言葉も浮かばず、結局は口を開けてしまった。

 サクッとした歯ごたえと優しい甘みが広がる。思わず目を細めると、宰相様は満足げに微笑した。
「気に入ったか」
「……はい。とても美味しいです」
「なら、もう一つだ」

 次々と口に運ばれる菓子。まるで幼子のように扱われているのに、不思議と不快ではなく、むしろ胸の奥が温かく満ちていく。宰相様に甘やかされることが、こんなにも心を軽くするなんて――昨日までの自分には想像もできなかった。

 紅茶を口に含み、ひと息ついたところで、宰相様がふと私を見つめた。
「君は甘いものが好きだな」
「……はい」
「なら、明日は厨房に頼んで特別に菓子を作らせよう」
「えっ!? そんな、私のために……」
「当然だ。君が喜ぶなら、それが一番だ」

 その断言に胸が震える。婚約者に見下され、嘲られた自分が、今はこうして誰かに優先されている。幸せすぎて、夢ではないかと疑ってしまう。

「……宰相様は、どうしてそこまでしてくださるのですか」
 気づけば問いかけていた。宰相様は一瞬だけ瞳を細め、そして静かに答える。
「理由は一つだ。私は君に笑っていてほしい」

 あまりに率直な言葉に、胸の奥が熱で満ちていく。涙が溢れそうになり、慌てて俯く。だが宰相様は何も問わず、ただ私の背をそっと撫でてくれた。

 甘い菓子の余韻と、宰相様の温もり。執務室は静まり返っているのに、私の心だけはざわめき続けていた。




 休憩を終えると、宰相様は再び机に向かい、私はその膝の上で甘い余韻に包まれたまま、書類の山と向き合うことになった。だが、心の奥は落ち着かない。菓子を口に運ばれるたびに胸が跳ね、彼の言葉を思い返すたびに頬が熱を帯びる。

「……私、本当にこんなに甘やかされていいのでしょうか」
 思い切って口にした呟きに、宰相様は視線を落とさずペンを走らせながら応えた。
「いいに決まっている。私は君をそう扱いたいのだから」
「でも……皆さんにどう思われているか……」
「他人の目を気にする必要はない。君が私の膝の上にいること、それ自体が一つの宣言だ」

 宣言――。その響きに胸が強く打ち震える。私は何も持たず、何も誇れないと思っていた。けれど今は、宰相様の腕の中にいるだけで「意味」を持たせてもらえているのだ。

 そのとき、執務補佐の青年が新たな資料を携えて入室した。彼は机に書類を置きながら、ちらりと私を見た。視線をそらすのが一瞬遅れ、頬を赤らめて慌てて頭を下げる。
「し、失礼いたします」
「構わん」
 宰相様は淡々と返事をし、書類を手に取った。だが、青年の耳まで赤く染まっていたのを私は見逃さなかった。

「……やっぱり、変に思われていますよね」
 小声で訴えると、宰相様は私の腰を支え直し、低く囁く。
「羨ましがっているだけだ」
「え……?」
「皆、私の膝の上がどれほど心地よいかを知らない。君はその特権を手にしている。それだけだ」

 冗談とも本気ともつかない言葉に、耳まで熱くなる。思わず両手で顔を覆うと、宰相様の笑みを含んだ吐息が頭上に降りた。

 午後の仕事が続く中、宰相様は時折私に簡単な質問を投げかけた。
「この文章、どう感じる?」
「数字の合計は合っているか?」
 私は必死に答え、役に立ちたい一心で目を凝らした。答えが的を射ていたとき、宰相様は必ず一言だけ褒めてくれる。そのたびに胸が温かく満ちていく。

 やがて日が傾き始め、窓から射す光が橙色に染まる頃。宰相様は羽ペンを置き、机に肘をついた。
「今日はよく働いたな」
「宰相様こそ……」
「いや。私だけではない。君もだ」

 彼の瞳がまっすぐに私を捉える。真摯で、逃げ場のない視線。
「君が隣にいるだけで、私は不思議と疲れを感じにくい。……それは事実だ」

 胸が大きく震えた。私が彼の役に立っている――その事実が、何よりの救いだった。婚約破棄で自分の存在を否定されたと思っていたのに、今は違う。私は確かにここにいて、意味を持っている。

「……宰相様」
 名前を呼んだだけで声が震えた。言葉の続きを探す私に、宰相様は一歩先を示すように言葉を紡ぐ。
「明日も同じだ。君は膝の上で、私は政務を進める。それが我らの日常になる」

 その宣言に、心の奥で甘い疼きが広がる。これが夢でなければいい――そう強く願った。




 日が沈み、執務室の窓の外が群青色に染まるころ、宰相様は最後の書類に署名をし終えると、羽ペンを静かに置いた。部屋には暖炉の薪がぱちぱちと弾ける音と、蝋燭の炎の揺らめきだけが残る。昼間に感じていた緊張感がやわらぎ、執務室はまるで家庭の居間のような温もりに包まれていた。

「……宰相様、本当にお疲れさまでした」
 思わず口にした私の言葉に、彼はわずかに口角を緩めた。
「いや、君が隣にいたからだろう。書類の山も、少しは軽く感じた」
「そ、そんな……私はただ膝に座っていただけで……」
「それが良いのだ」

 当たり前のように言われて、胸が熱くなる。膝の上にいること自体が、彼にとっても意味を持っている――そう思えた瞬間、羞恥ではなく幸福感が全身に広がった。

 宰相様は机の引き出しを開け、小さな木箱を取り出した。中には宝石のように美しい砂糖菓子が並んでいる。
「厨房に頼んで特別に作らせた。今日のご褒美だ」
「ご褒美……私に、ですか?」
「当然だ。君はよく頑張った」

 そう言って差し出された菓子を一つ、恐る恐る口に含む。甘くほどける果実の香りが広がり、目を閉じた。頬が自然とほころぶのを隠せない。
「……とても、美味しいです」
「そうか。なら、もう一つ」
 再び差し出され、私はまた口を開ける。幼子のように食べさせられているはずなのに、不思議と屈辱感はなく、むしろ心が安らいでいく。

「君が嬉しそうにしていると、私まで満たされる」
 低い声が耳元に落ちた。胸が大きく震える。顔を真っ赤にしながら、私は宰相様の胸元に視線を落とした。
「……そんなふうに言われたのは、初めてです」
「なら、これからは何度でも言おう」

 その瞬間、涙がにじんだ。昨日まで、私は「捨てられた娘」として価値を失ったと思っていたのに。今はこうして、宰相様に大切にされている。心の奥の空洞が、少しずつ温かさで満ちていく。

 やがて宰相様は私を抱き上げ、椅子から立ち上がった。
「もう休め。明日も早い」
「……はい」
「部屋まで送ろう」

 扉を開けると、廊下は静まり返っていた。侍女が控えていて、深々と頭を下げる。宰相様は私を降ろすことなく、そのまま歩き出した。長い外套が揺れ、月明かりが床に差し込む。まるでこの邸全体が私を守るように静謐に包んでいた。

 与えられた寝室に着くと、宰相様はベッドの傍に立ち、私をそっと下ろした。膝から降りた瞬間、少しだけ空虚さを覚えてしまう。だが、それを見透かしたかのように、彼は穏やかに言った。
「明日も膝の上で待っている。忘れるな」
「……はい」

 胸の奥に甘い熱が灯る。自分が望んでいいのかと迷っていた「居場所」を、彼がはっきりと約束してくれた。その言葉だけで、私は眠りにつける。

 ベッドに横たわりながら、瞼を閉じる。宰相様の声と温もり、甘い菓子の香りがまだ残っている。
――私はもう、孤独ではない。
 そう思えたとき、涙がこぼれ、そして微笑みながら眠りに落ちた。

 こうして私の日常は、甘やかしと安らぎに満ちた「宰相様の膝の上」を中心に、少しずつ形を成していったのだった。
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