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第6話 宰相様の膝の上で居眠り
〇
宰相邸での生活に慣れてきたとはいえ、まだ胸の奥に「これは夢ではないか」という不安が残っていた。けれど、朝食を共にし、執務室へ向かうと、宰相様が当たり前のように私を抱き上げ、椅子に腰を下ろして膝の上へ下ろす。その一連の動作が日常として繰り返されるうちに、「ここが私の居場所なのだ」と、自然と受け入れられるようになっていった。
午前中は帳簿の写しを整理し、誤字を確認し、時折宰相様に意見を求められる。昨日まで怯えていた自分が嘘のように、少しずつ自信を持って答えられるようになっていた。膝の上という安らぎの定位置が、心を落ち着かせてくれるのだ。
しかし、昼を過ぎた頃だった。昼食を済ませ、温かい紅茶をいただいた直後。午後の陽光が大きな窓から差し込み、心地よいぬくもりが執務室を満たす。宰相様が書類に目を通している間、私はすっかり安心して背を預けていた。
気づけば瞼が重くなり、首がかくんと傾いた。
「……む」
低い声にハッとして目を開けると、宰相様の視線がすぐ近くにあった。鋼のような瞳に射抜かれ、思わず背筋を伸ばす。
「す、すみません! その、眠ってしまって……」
「謝ることはない。疲れていたのだろう」
宰相様は私の頭を支えるように手を添え、椅子の背にもたれかからせた。
「無理に起きている必要はない。ここで眠ればいい」
「い、いえ! そんな、執務中に……」
「構わん。私は仕事をする。君は眠る。それで支障はない」
あまりにも自然に言い切られて、言葉を失った。周囲には侍従や補佐官もいる。彼らの前で膝の上で眠るなんて、恥ずかしすぎる。そう思って頬を赤くしたが、宰相様の瞳は一切揺るがない。
「目を閉じろ。肩の力を抜け」
「……はい」
囁きに従うと、緊張が解けていく。背中を支える腕が温かく、まるで城壁のように心を守ってくれる。蝋燭の炎のゆらぎや羽ペンの音が遠のき、心地よい眠気が再び訪れた。
――このまま眠ってしまっていいのだろうか。
迷いは一瞬で、すぐにまぶたが落ちていった。最後に聞こえたのは、宰相様の低い声だった。
「安心しろ。私の膝の上なら、誰も手出しはできん」
その言葉に包まれながら、私は静かな眠りへと落ちていった。
△
どれくらい眠っていたのだろう。まどろみの中で、机の上の羽ペンが走るかすかな音や、書類を捲る紙の音が、規則正しい子守唄のように耳に届いていた。宰相様の胸元に頬を預けていると、衣服越しに伝わる体温と心音が、心を不思議なほど安らがせる。
「……起きたか」
低く穏やかな声に、私ははっとして目を開いた。窓から差し込む陽光はもう傾き始めており、午後の終わりを告げている。
「す、すみません! 私、眠ってしまって……」
「謝ることではない」
宰相様は視線を落とし、私の髪を指で梳いた。
「君が膝の上で安心して眠れる。それは私にとっても悪くない」
顔が熱くなり、慌てて姿勢を正そうとする。だが、宰相様の腕が軽く背を押さえ、逃がさない。
「まだ少し眠そうだな。無理に起きなくてもいい」
「……でも、宰相様のお仕事の邪魔では……」
「君がここにいることで、私はむしろ集中できる」
淡々と告げられる言葉に、胸が甘く震えた。眠ってしまったことへの恥ずかしさが、安堵に変わっていく。
そこへ、秘書官がノックして入室した。彼は一瞬だけ私に視線を向けたが、何も言わずに宰相様へ報告を始める。
「閣下、地方都市からの使者が到着しております。謁見の準備を進めておりますが……」
「分かった。夕刻には対応しよう」
短く指示を出したあと、宰相様は私の頭を撫でて囁いた。
「しばらくここで休んでいろ。君が眠っている間も、仕事は進む」
――まるで眠ること自体が役割であるかのような言葉。胸がじんわりと温かくなり、私は頷いた。
しばらくして、秘書官が退出すると、執務室には再び静けさが戻った。私は目を閉じ、深呼吸を繰り返す。宰相様の胸板の硬さと、腕の力強さ。背中を支える手のひらが、私の存在を肯定してくれているように感じられた。
「……宰相様は、いつもお一人で仕事をしていらっしゃるのですか」
思わず問いかけると、彼は少しだけ視線を遠くに向けた。
「そうだ。政務は誰かと分かち合えるものではない。常に孤独を伴う」
淡々とした答え。だが、その声音の奥に、ほんのわずか孤独の影が滲んでいた。
「では、私がここにいることで……少しでもお役に立てていますか」
「大いに」
短い断言に胸が熱くなる。
「君が眠っている間も、私は孤独を感じない。それだけで十分だ」
頬が熱を帯び、言葉を失った。けれど、宰相様の心の一端に触れられた気がして、胸の奥がじんわりと満たされていく。
外の光が夕闇に溶けていく頃、宰相様は深く息を吐き、机から顔を上げた。
「今日はここまでにしよう」
「……はい」
「眠って過ごしたことを気にするな。私には心地よい時間だった」
その一言に、全身が甘く痺れるようだった。
◇
夕刻。外の空は群青に沈み、窓の外には早くも灯りがぽつりぽつりと瞬いていた。執務室の中では蝋燭と暖炉の火が柔らかな光を放ち、昼間の張り詰めた空気が嘘のように和らいでいた。宰相様は机の上の最後の書類に目を通すと、羽ペンを置き、静かに背を伸ばす。
「ふう……これで今日の政務は終わりだ」
低く落ち着いた声が響き、私は膝の上から顔を上げた。眠気がまだ残っていて、視界が少しぼんやりしている。
「す、すみません……私、本当に一日中眠ってばかりで……」
「謝るな」
宰相様は即座に否定する。
「君がここで眠ることで、私も安らげた。むしろ感謝すべきは私のほうだ」
さらりと告げられ、胸が甘く震えた。こんな言葉を向けられるとは思わず、頬が熱を帯びる。
「それに」
宰相様は椅子から身を起こし、私を軽々と抱き上げた。突然視界が高くなり、思わず彼の首にしがみつく。
「ひゃっ……!」
「足が少し痺れているだろう。長く座っていたからな」
心を見透かされたようで、さらに顔が熱くなる。
宰相様は私を抱えたまま執務室を出た。廊下に並ぶ侍女や侍従たちは一斉に頭を下げるが、誰ひとり言葉を発さない。屋敷全体が「これが当然」であるかのように振る舞っている。昨日までなら羞恥に押し潰されていたはずだ。けれど今は違う。――私は宰相様に守られている。そう理解しているから、胸を張っていられる。
長い廊下を進み、寝室に着くと、宰相様は私をそっとベッドに下ろした。柔らかな寝具に身体が沈み、思わず小さな吐息が漏れる。
「明日も、膝の上で待っている」
短い言葉に心臓が大きく跳ねた。
「……はい」
その返事を聞くと、宰相様は満足げに微笑み、私の額に軽く唇を触れさせた。ほんの一瞬の、夢のような仕草。けれど確かに触れた温もりが、全身を痺れさせる。
「安心して眠れ。君の居場所は、もう失われることはない」
穏やかな声に、胸がいっぱいになって涙が滲む。婚約破棄で心が砕けた夜から、まだ数日しか経っていないのに。私は今、こんなにも幸福に包まれている。
「……おやすみなさい、宰相様」
「おやすみ、エリナ」
彼が部屋を出て扉が閉じても、胸の奥に温かな余韻が残り続けた。瞼を閉じると、膝の上で聞いた鼓動と温もりが蘇り、安堵に包まれて眠りへと落ちていく。
――宰相様の膝の上。そこは、私にとって最も安心できる居場所であり、もう戻れないほど大切な定位置になっていた。
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宰相邸での生活に慣れてきたとはいえ、まだ胸の奥に「これは夢ではないか」という不安が残っていた。けれど、朝食を共にし、執務室へ向かうと、宰相様が当たり前のように私を抱き上げ、椅子に腰を下ろして膝の上へ下ろす。その一連の動作が日常として繰り返されるうちに、「ここが私の居場所なのだ」と、自然と受け入れられるようになっていった。
午前中は帳簿の写しを整理し、誤字を確認し、時折宰相様に意見を求められる。昨日まで怯えていた自分が嘘のように、少しずつ自信を持って答えられるようになっていた。膝の上という安らぎの定位置が、心を落ち着かせてくれるのだ。
しかし、昼を過ぎた頃だった。昼食を済ませ、温かい紅茶をいただいた直後。午後の陽光が大きな窓から差し込み、心地よいぬくもりが執務室を満たす。宰相様が書類に目を通している間、私はすっかり安心して背を預けていた。
気づけば瞼が重くなり、首がかくんと傾いた。
「……む」
低い声にハッとして目を開けると、宰相様の視線がすぐ近くにあった。鋼のような瞳に射抜かれ、思わず背筋を伸ばす。
「す、すみません! その、眠ってしまって……」
「謝ることはない。疲れていたのだろう」
宰相様は私の頭を支えるように手を添え、椅子の背にもたれかからせた。
「無理に起きている必要はない。ここで眠ればいい」
「い、いえ! そんな、執務中に……」
「構わん。私は仕事をする。君は眠る。それで支障はない」
あまりにも自然に言い切られて、言葉を失った。周囲には侍従や補佐官もいる。彼らの前で膝の上で眠るなんて、恥ずかしすぎる。そう思って頬を赤くしたが、宰相様の瞳は一切揺るがない。
「目を閉じろ。肩の力を抜け」
「……はい」
囁きに従うと、緊張が解けていく。背中を支える腕が温かく、まるで城壁のように心を守ってくれる。蝋燭の炎のゆらぎや羽ペンの音が遠のき、心地よい眠気が再び訪れた。
――このまま眠ってしまっていいのだろうか。
迷いは一瞬で、すぐにまぶたが落ちていった。最後に聞こえたのは、宰相様の低い声だった。
「安心しろ。私の膝の上なら、誰も手出しはできん」
その言葉に包まれながら、私は静かな眠りへと落ちていった。
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どれくらい眠っていたのだろう。まどろみの中で、机の上の羽ペンが走るかすかな音や、書類を捲る紙の音が、規則正しい子守唄のように耳に届いていた。宰相様の胸元に頬を預けていると、衣服越しに伝わる体温と心音が、心を不思議なほど安らがせる。
「……起きたか」
低く穏やかな声に、私ははっとして目を開いた。窓から差し込む陽光はもう傾き始めており、午後の終わりを告げている。
「す、すみません! 私、眠ってしまって……」
「謝ることではない」
宰相様は視線を落とし、私の髪を指で梳いた。
「君が膝の上で安心して眠れる。それは私にとっても悪くない」
顔が熱くなり、慌てて姿勢を正そうとする。だが、宰相様の腕が軽く背を押さえ、逃がさない。
「まだ少し眠そうだな。無理に起きなくてもいい」
「……でも、宰相様のお仕事の邪魔では……」
「君がここにいることで、私はむしろ集中できる」
淡々と告げられる言葉に、胸が甘く震えた。眠ってしまったことへの恥ずかしさが、安堵に変わっていく。
そこへ、秘書官がノックして入室した。彼は一瞬だけ私に視線を向けたが、何も言わずに宰相様へ報告を始める。
「閣下、地方都市からの使者が到着しております。謁見の準備を進めておりますが……」
「分かった。夕刻には対応しよう」
短く指示を出したあと、宰相様は私の頭を撫でて囁いた。
「しばらくここで休んでいろ。君が眠っている間も、仕事は進む」
――まるで眠ること自体が役割であるかのような言葉。胸がじんわりと温かくなり、私は頷いた。
しばらくして、秘書官が退出すると、執務室には再び静けさが戻った。私は目を閉じ、深呼吸を繰り返す。宰相様の胸板の硬さと、腕の力強さ。背中を支える手のひらが、私の存在を肯定してくれているように感じられた。
「……宰相様は、いつもお一人で仕事をしていらっしゃるのですか」
思わず問いかけると、彼は少しだけ視線を遠くに向けた。
「そうだ。政務は誰かと分かち合えるものではない。常に孤独を伴う」
淡々とした答え。だが、その声音の奥に、ほんのわずか孤独の影が滲んでいた。
「では、私がここにいることで……少しでもお役に立てていますか」
「大いに」
短い断言に胸が熱くなる。
「君が眠っている間も、私は孤独を感じない。それだけで十分だ」
頬が熱を帯び、言葉を失った。けれど、宰相様の心の一端に触れられた気がして、胸の奥がじんわりと満たされていく。
外の光が夕闇に溶けていく頃、宰相様は深く息を吐き、机から顔を上げた。
「今日はここまでにしよう」
「……はい」
「眠って過ごしたことを気にするな。私には心地よい時間だった」
その一言に、全身が甘く痺れるようだった。
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夕刻。外の空は群青に沈み、窓の外には早くも灯りがぽつりぽつりと瞬いていた。執務室の中では蝋燭と暖炉の火が柔らかな光を放ち、昼間の張り詰めた空気が嘘のように和らいでいた。宰相様は机の上の最後の書類に目を通すと、羽ペンを置き、静かに背を伸ばす。
「ふう……これで今日の政務は終わりだ」
低く落ち着いた声が響き、私は膝の上から顔を上げた。眠気がまだ残っていて、視界が少しぼんやりしている。
「す、すみません……私、本当に一日中眠ってばかりで……」
「謝るな」
宰相様は即座に否定する。
「君がここで眠ることで、私も安らげた。むしろ感謝すべきは私のほうだ」
さらりと告げられ、胸が甘く震えた。こんな言葉を向けられるとは思わず、頬が熱を帯びる。
「それに」
宰相様は椅子から身を起こし、私を軽々と抱き上げた。突然視界が高くなり、思わず彼の首にしがみつく。
「ひゃっ……!」
「足が少し痺れているだろう。長く座っていたからな」
心を見透かされたようで、さらに顔が熱くなる。
宰相様は私を抱えたまま執務室を出た。廊下に並ぶ侍女や侍従たちは一斉に頭を下げるが、誰ひとり言葉を発さない。屋敷全体が「これが当然」であるかのように振る舞っている。昨日までなら羞恥に押し潰されていたはずだ。けれど今は違う。――私は宰相様に守られている。そう理解しているから、胸を張っていられる。
長い廊下を進み、寝室に着くと、宰相様は私をそっとベッドに下ろした。柔らかな寝具に身体が沈み、思わず小さな吐息が漏れる。
「明日も、膝の上で待っている」
短い言葉に心臓が大きく跳ねた。
「……はい」
その返事を聞くと、宰相様は満足げに微笑み、私の額に軽く唇を触れさせた。ほんの一瞬の、夢のような仕草。けれど確かに触れた温もりが、全身を痺れさせる。
「安心して眠れ。君の居場所は、もう失われることはない」
穏やかな声に、胸がいっぱいになって涙が滲む。婚約破棄で心が砕けた夜から、まだ数日しか経っていないのに。私は今、こんなにも幸福に包まれている。
「……おやすみなさい、宰相様」
「おやすみ、エリナ」
彼が部屋を出て扉が閉じても、胸の奥に温かな余韻が残り続けた。瞼を閉じると、膝の上で聞いた鼓動と温もりが蘇り、安堵に包まれて眠りへと落ちていく。
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