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第12話 手を取られて
〇
雨の翌日。朝から青空が広がり、屋敷の庭園には雨粒を宿した薔薇が陽にきらめいていた。私はその眩しさに目を細めながら、いつものように宰相様の執務室へと足を運ぶ。
扉を開けると、宰相様は既に机に向かっていた。だが私の姿を見るなり、羽ペンを置いて立ち上がり、すぐに歩み寄ってきた。
「来たな。……こちらへ」
言うが早いか、当然のように腕に抱き上げられ、椅子に腰かける彼の膝の上へと下ろされる。
「……毎日こうしていただいて、慣れてしまいそうです」
「慣れろ。これから先もずっと同じだからな」
「っ……」
胸が甘く震え、言葉を失う。
宰相様は書類の束を机に置き、私の手に羽ペンを握らせた。
「今日は君に任せる。数字の写しだけでなく、簡単な計算もやってみろ」
「け、計算ですか?」
「恐れるな。間違えれば私が直す」
彼の大きな掌が私の手に重なり、文字を書く導きをしてくれる。すぐ耳元で響く低い声と、背に添えられた力強い腕。緊張で震えながらも、心の奥では不思議と落ち着いていく。
必死に数字を書き連ねるうちに、徐々に筆跡も整ってきた。宰相様は頷き、静かに言った。
「悪くない。むしろ初めてにしては上出来だ」
「ほ、本当ですか?」
「ああ。君はやはり几帳面だ」
その一言に胸が熱くなる。自分には何の価値もないと思っていた過去が遠ざかり、今は「役に立てる」という実感に満たされる。
けれど、そのとき私はインク瓶を傾けすぎてしまい、机に黒い雫がぽたりと落ちた。
「きゃっ……す、すみません!」
慌てて布を取ろうとした瞬間、宰相様の手が私の手を包んだ。
「慌てるな。少しの汚れだ」
「で、でも……」
「大丈夫だ。私が拭く」
宰相様は落ち着いた手つきで布を取り、机を丁寧に拭った。そしてそのまま、私の指先をそっと拭いながら囁く。
「……君の手は震えているな」
「ご、ごめんなさい……」
「謝るな。私はその震えさえ愛おしいと思っている」
胸が大きく跳ねた。耳まで真っ赤になり、視線を逸らす。けれど宰相様は強く私の手を握り、言葉を続けた。
「君は一人で立とうとしなくていい。私が手を取る」
その断言に、胸が甘く痺れた。
△
宰相様に手を取られたまま、私はしばらく身じろぎもできずにいた。指先を包む温もりは大きくて頼もしく、まるで城壁に守られているような安心感を与えてくれる。
「……私は、どうしてこんなにも大切にしていただけるのでしょうか」
思わず零した問いに、宰相様は静かに答えた。
「理由など一つで十分だ。――君が私にとって必要だからだ」
「必要……」
「そうだ。君が膝にいると、私は孤独を感じない。君が書類を見れば、誤りを見抜く。君が笑えば、私の疲れは消える」
淡々と告げられる言葉一つひとつが胸を打つ。自分が役に立っている。居場所を与えられている。その事実に、瞳が熱を帯びた。
そのとき、侍従がノックして入室した。
「閣下、商人組合からの報告書をお持ちしました」
「机に置け」
書類を受け取った宰相様は、私に向き直って微笑を浮かべる。
「どうだ、やってみるか」
「えっ……わ、私がですか?」
「そうだ。数字の整合を確認してみろ」
促されるままに報告書を手に取る。震える指で一行ずつ追い、必死に頭を働かせる。しばらくして、ある箇所で眉をひそめた。
「……こ、この部分……記された納品数と計算が合っていません」
「ほう」
宰相様が覗き込み、羽ペンを走らせて訂正する。
「見事だ。君は確かに誤りを見抜いた」
「……っ!」
胸が熱くなり、思わず顔を伏せた。宰相様はそんな私の顎に指先を添え、軽く上げる。
「自信を持て。君は私に必要な人間だ」
真っ直ぐな瞳に見つめられ、羞恥と幸福で心が震えた。
やがて午後の執務がひと段落すると、宰相様は茶を用意させた。
「休憩にしよう」
彼は自らティーカップを持ち、再び私の唇にあてがう。
「……宰相様、どうしていつも……」
「君の手を離したくないからだ」
あまりに率直な答えに、心臓が飛び跳ねる。頬を真っ赤に染めながらも、茶の温かさを受け入れるしかなかった。
外は青空が広がっているのに、私の胸はそれ以上に明るく満たされていた。
◇
陽が傾き始め、窓から射す光が黄金色に変わる頃。執務室の空気は静まり返り、羽ペンの音だけが響いていた。私は宰相様の膝の上に座ったまま、今日の学びを胸の中で繰り返していた。数字の整合を見抜けたこと、褒めてもらえたこと、そして「必要だ」と言ってもらえたこと――すべてが夢のようで、頬が自然と緩んでしまう。
「……嬉しそうだな」
宰相様の低い声に、私は肩をびくりと震わせた。
「そ、そんなことは……」
「嘘をつくな。表情に出ている」
からかうでもなく、ただ淡々と事実を告げる声。それだけで心臓が大きく跳ねる。
「私は……本当に役に立てているのでしょうか」
「言ったはずだ。君はもう、私にとって欠かせぬ存在だ」
断言する声に、胸が甘く痺れた。
宰相様はペンを置き、私の手を取った。その掌は大きく温かく、しっかりと包み込んでくれる。
「エリナ。これから先も迷うことがあれば、必ず私の手を取れ」
「……宰相様……」
「どんな時でも、私はここにいる。君が離したくない限り、手を放すことはない」
言葉が胸に突き刺さり、瞳が潤む。私は震える指で宰相様の手を強く握り返した。
「……私も、離したくありません」
小さな声が広間に吸い込まれ、宰相様の瞳が一瞬だけ柔らかく揺れた。
やがて夜が訪れ、宰相様は私を抱き上げて寝室まで運んでくれた。長い外套が揺れ、静かな廊下に二人だけの足音が響く。
「今日はよく頑張ったな」
「はい……でも、全部宰相様のおかげです」
「違う。君が努力したからだ」
寝室に着くと、ベッドに下ろされる。その瞬間、名残惜しさに思わず彼の袖を掴んだ。
「……明日も、手を取ってくださいますか」
宰相様はわずかに微笑し、私の額に口づけを落とした。
「当然だ。何度でも」
胸が甘く震え、涙がこぼれそうになる。布団に包まれながら瞼を閉じると、宰相様の声と温もりが心に焼きついた。
――こうして私は、彼に「手を取られて」歩む未来を信じられるようになったのだった。
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雨の翌日。朝から青空が広がり、屋敷の庭園には雨粒を宿した薔薇が陽にきらめいていた。私はその眩しさに目を細めながら、いつものように宰相様の執務室へと足を運ぶ。
扉を開けると、宰相様は既に机に向かっていた。だが私の姿を見るなり、羽ペンを置いて立ち上がり、すぐに歩み寄ってきた。
「来たな。……こちらへ」
言うが早いか、当然のように腕に抱き上げられ、椅子に腰かける彼の膝の上へと下ろされる。
「……毎日こうしていただいて、慣れてしまいそうです」
「慣れろ。これから先もずっと同じだからな」
「っ……」
胸が甘く震え、言葉を失う。
宰相様は書類の束を机に置き、私の手に羽ペンを握らせた。
「今日は君に任せる。数字の写しだけでなく、簡単な計算もやってみろ」
「け、計算ですか?」
「恐れるな。間違えれば私が直す」
彼の大きな掌が私の手に重なり、文字を書く導きをしてくれる。すぐ耳元で響く低い声と、背に添えられた力強い腕。緊張で震えながらも、心の奥では不思議と落ち着いていく。
必死に数字を書き連ねるうちに、徐々に筆跡も整ってきた。宰相様は頷き、静かに言った。
「悪くない。むしろ初めてにしては上出来だ」
「ほ、本当ですか?」
「ああ。君はやはり几帳面だ」
その一言に胸が熱くなる。自分には何の価値もないと思っていた過去が遠ざかり、今は「役に立てる」という実感に満たされる。
けれど、そのとき私はインク瓶を傾けすぎてしまい、机に黒い雫がぽたりと落ちた。
「きゃっ……す、すみません!」
慌てて布を取ろうとした瞬間、宰相様の手が私の手を包んだ。
「慌てるな。少しの汚れだ」
「で、でも……」
「大丈夫だ。私が拭く」
宰相様は落ち着いた手つきで布を取り、机を丁寧に拭った。そしてそのまま、私の指先をそっと拭いながら囁く。
「……君の手は震えているな」
「ご、ごめんなさい……」
「謝るな。私はその震えさえ愛おしいと思っている」
胸が大きく跳ねた。耳まで真っ赤になり、視線を逸らす。けれど宰相様は強く私の手を握り、言葉を続けた。
「君は一人で立とうとしなくていい。私が手を取る」
その断言に、胸が甘く痺れた。
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宰相様に手を取られたまま、私はしばらく身じろぎもできずにいた。指先を包む温もりは大きくて頼もしく、まるで城壁に守られているような安心感を与えてくれる。
「……私は、どうしてこんなにも大切にしていただけるのでしょうか」
思わず零した問いに、宰相様は静かに答えた。
「理由など一つで十分だ。――君が私にとって必要だからだ」
「必要……」
「そうだ。君が膝にいると、私は孤独を感じない。君が書類を見れば、誤りを見抜く。君が笑えば、私の疲れは消える」
淡々と告げられる言葉一つひとつが胸を打つ。自分が役に立っている。居場所を与えられている。その事実に、瞳が熱を帯びた。
そのとき、侍従がノックして入室した。
「閣下、商人組合からの報告書をお持ちしました」
「机に置け」
書類を受け取った宰相様は、私に向き直って微笑を浮かべる。
「どうだ、やってみるか」
「えっ……わ、私がですか?」
「そうだ。数字の整合を確認してみろ」
促されるままに報告書を手に取る。震える指で一行ずつ追い、必死に頭を働かせる。しばらくして、ある箇所で眉をひそめた。
「……こ、この部分……記された納品数と計算が合っていません」
「ほう」
宰相様が覗き込み、羽ペンを走らせて訂正する。
「見事だ。君は確かに誤りを見抜いた」
「……っ!」
胸が熱くなり、思わず顔を伏せた。宰相様はそんな私の顎に指先を添え、軽く上げる。
「自信を持て。君は私に必要な人間だ」
真っ直ぐな瞳に見つめられ、羞恥と幸福で心が震えた。
やがて午後の執務がひと段落すると、宰相様は茶を用意させた。
「休憩にしよう」
彼は自らティーカップを持ち、再び私の唇にあてがう。
「……宰相様、どうしていつも……」
「君の手を離したくないからだ」
あまりに率直な答えに、心臓が飛び跳ねる。頬を真っ赤に染めながらも、茶の温かさを受け入れるしかなかった。
外は青空が広がっているのに、私の胸はそれ以上に明るく満たされていた。
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陽が傾き始め、窓から射す光が黄金色に変わる頃。執務室の空気は静まり返り、羽ペンの音だけが響いていた。私は宰相様の膝の上に座ったまま、今日の学びを胸の中で繰り返していた。数字の整合を見抜けたこと、褒めてもらえたこと、そして「必要だ」と言ってもらえたこと――すべてが夢のようで、頬が自然と緩んでしまう。
「……嬉しそうだな」
宰相様の低い声に、私は肩をびくりと震わせた。
「そ、そんなことは……」
「嘘をつくな。表情に出ている」
からかうでもなく、ただ淡々と事実を告げる声。それだけで心臓が大きく跳ねる。
「私は……本当に役に立てているのでしょうか」
「言ったはずだ。君はもう、私にとって欠かせぬ存在だ」
断言する声に、胸が甘く痺れた。
宰相様はペンを置き、私の手を取った。その掌は大きく温かく、しっかりと包み込んでくれる。
「エリナ。これから先も迷うことがあれば、必ず私の手を取れ」
「……宰相様……」
「どんな時でも、私はここにいる。君が離したくない限り、手を放すことはない」
言葉が胸に突き刺さり、瞳が潤む。私は震える指で宰相様の手を強く握り返した。
「……私も、離したくありません」
小さな声が広間に吸い込まれ、宰相様の瞳が一瞬だけ柔らかく揺れた。
やがて夜が訪れ、宰相様は私を抱き上げて寝室まで運んでくれた。長い外套が揺れ、静かな廊下に二人だけの足音が響く。
「今日はよく頑張ったな」
「はい……でも、全部宰相様のおかげです」
「違う。君が努力したからだ」
寝室に着くと、ベッドに下ろされる。その瞬間、名残惜しさに思わず彼の袖を掴んだ。
「……明日も、手を取ってくださいますか」
宰相様はわずかに微笑し、私の額に口づけを落とした。
「当然だ。何度でも」
胸が甘く震え、涙がこぼれそうになる。布団に包まれながら瞼を閉じると、宰相様の声と温もりが心に焼きついた。
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