婚約者に捨てられた私ですが、なぜか宰相様の膝の上が定位置になっています 

さくら

文字の大きさ
15 / 25

15

しおりを挟む
第15話 王宮からの再招集



 宰相様との穏やかな休日から数日後。朝の光が差し込む執務室で、私はいつものように宰相様の膝の上に座り、帳簿の写しを写していた。静かな時間が流れ、外の庭からは小鳥の声が聞こえる。けれど、その穏やかさは突然破られた。

 扉が叩かれ、秘書官が蒼ざめた顔で駆け込んできた。
「閣下……王宮から急ぎの召集が」
「……内容は」
「第一王子殿下より、再度の謁見要請とのことです」

 瞬間、胸が冷たく締めつけられる。あの広間での対峙からまだ間もないのに――また殿下と顔を合わせなければならないのだろうか。

「理由は?」
「『宰相が娘を利用し、権勢を誇示している』との批判が、一部の貴族の間で囁かれていると……」

 膝の上で私は震えた。非難の矛先が宰相様へ向けられるなど、耐えられない。私のせいで、また……。

「……宰相様、私のせいで」
 小さく洩らした声を、彼は即座に遮った。
「違う。君のせいではない」
「でも……」
「勘違いするな」
 宰相様の声は低く鋭く、それでいて揺るぎなく優しい。
「君が私の膝にいることは、私自身の意志だ。誰かに利用されているのではない」

 胸が熱で震え、涙が滲む。

「謁見は避けられんだろう」
 宰相様は冷静に続ける。
「だが、前回と同じだ。君はただ膝の上に座っていればいい」
「……はい」

 震える声で応じると、彼の腕がさらに強く私を抱き締めた。
「安心しろ。何を言われようとも、私が全て退ける」

 その断言に、恐怖の中でわずかな安らぎが生まれる。けれど心の奥底では、再び王宮の視線に晒されることへの不安が膨らんでいた。

――次の試練が、迫っている。



 王宮へ向かう馬車の中。外の景色はいつもと同じはずなのに、胸の奥にのしかかる重苦しさで、まるで世界全体が灰色に覆われているように思えた。私は宰相様の隣に座っていたが、自然と指先が震えてしまう。

「……怖いです」
 小さな声で告げると、宰相様は迷いなく私の手を取り、そのまま膝の上に抱き寄せた。
「恐れるな」
「で、でも……また殿下に何か言われたら……」
「言わせておけ。私は答えぬ。答える必要もない」
「……」
「私が示すのは言葉ではなく姿だ。君が膝の上にいる――それが何よりも雄弁だ」

 低い声が胸に響き、不思議と心が安らぐ。

 やがて馬車は王宮に到着し、重厚な扉が開かれる。広間へ案内されると、そこには既に殿下と数人の高位貴族が並んでいた。彼らの視線が一斉に私へ注がれ、足がすくみそうになる。だが宰相様は何のためらいもなく私を抱き上げ、そのまま椅子に腰を下ろして膝の上へと下ろした。

 広間がざわめきに包まれる。
「な……公の場でまで……!」
「恥知らずな……」
 貴族たちの声が飛び交う。私は頬が熱くなり、逃げ出したくなった。けれど宰相様の腕がしっかりと背を支えてくれている。その温もりに触れていると、不思議と涙はこぼれなかった。

 殿下が冷ややかな視線を投げてくる。
「宰相殿……その娘を、政務に利用しているという噂が立っている。見苦しいと思わぬのか」

 宰相様は表情を崩さず、ただ短く答えた。
「見苦しいかどうかは私が決める」
「っ……!」
「彼女は利用されているのではない。私が望んで膝の上にいる。それだけだ」

 広間が再びざわめく。私は羞恥に俯いたが、宰相様は私の手を取り、貴族たちに見せつけるように指を絡めた。

「私が守ると決めた。彼女は誰の嘲笑にも晒させはしない」

 その断言に、殿下でさえ一瞬言葉を失った。周囲の貴族たちは互いに顔を見合わせ、沈黙するしかなかった。

 私は胸がいっぱいになり、涙がにじむ。恐怖よりも誇らしさが強くなっていた。――宰相様は私を利用しているのではない。私を「守る」と堂々と示してくれたのだ。



 広間には沈黙が満ちていた。殿下も貴族たちも言葉を探しあぐね、誰も声を上げられない。その中で、宰相様は私の肩を抱き寄せ、淡々と続けた。

「彼女はすでに『婚約破棄された哀れな娘』ではない。――宰相の庇護下にある存在だ。それ以上でも以下でもない」

 その言葉は冷徹に聞こえるのに、私には何よりも甘く温かい宣言だった。胸の奥がじんわりと熱を帯び、涙が込み上げる。

 殿下は顔を赤くし、椅子を叩いて立ち上がった。
「庇護などと……滑稽だ! ただの見せかけにすぎん!」
 その声を遮るように、宰相様の低い声が広間を震わせた。
「ならば問う。お前は彼女を守ったことがあるか?」
「……!」
「彼女を泣かせぬよう努めたことがあるか。彼女の価値を見抜いたことがあるか」

 殿下は言葉に詰まり、視線を逸らした。貴族たちの間にざわめきが走る。アリシアが何か言おうと口を開きかけたが、宰相様の冷たい眼差しに射抜かれて声を失った。

 宰相様は私の指を絡めたまま、高らかに告げた。
「――答えられぬなら黙れ。私に非難を投げる資格は誰にもない」

 広間に響くその断言に、誰も反論できなかった。空気が張り詰め、やがて殿下は悔しげに奥歯を噛み、椅子へと沈んだ。

 私は膝の上で震える声を抑えながら、小さく呟いた。
「……宰相様……」
 彼は私を見下ろし、ほんの一瞬だけ瞳を柔らかく揺らす。
「恐れるな。君は私が選んだ。誇りを持て」

 その言葉に、胸の奥で何かが解けた。羞恥も不安も、すべて誇らしさに変わっていく。

 謁見はそれ以上続かず、私たちは堂々と広間を後にした。扉が閉じられると、外の空気が一気に軽く感じられた。

 馬車に乗り込むと、宰相様はすぐに私を膝へ抱き上げた。
「……今日も、膝の上でよく耐えたな」
「耐えたなんて……私はただ、宰相様に抱かれていただけで……」
「それでいい。君がそこにいること自体が、何よりの答えになる」

 胸が甘く震え、涙が溢れる。私は彼の胸に顔を埋め、震える声で告げた。
「……ありがとうございます。私……宰相様の膝の上でなら、どんな場でも誇らしくいられます」
「それで十分だ。これからもずっと、ここが君の居場所だ」

 馬車の窓から差し込む夕陽が金色にきらめき、宰相様の横顔を照らす。その光景を胸に刻みながら、私は強く誓った。

――もう二度と、誰の視線にも怯えない。
宰相様の膝の上で、私はこれからも生きていくのだ。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

ドレスが似合わないと言われて婚約解消したら、いつの間にか殿下に囲われていた件

ぽぽよ
恋愛
似合わないドレスばかりを送りつけてくる婚約者に嫌気がさした令嬢シンシアは、婚約を解消し、ドレスを捨てて男装の道を選んだ。 スラックス姿で生きる彼女は、以前よりも自然体で、王宮でも次第に評価を上げていく。 しかしその裏で、爽やかな笑顔を張り付けた王太子が、密かにシンシアへの執着を深めていた。 一方のシンシアは極度の鈍感で、王太子の好意をすべて「親切」「仕事」と受け取ってしまう。 「一生お仕えします」という言葉の意味を、まったく違う方向で受け取った二人。 これは、男装令嬢と爽やか策士王太子による、勘違いから始まる婚約(包囲)物語。

【完結】身代わりに病弱だった令嬢が隣国の冷酷王子と政略結婚したら、薬師の知識が役に立ちました。

朝日みらい
恋愛
リリスは内気な性格の貴族令嬢。幼い頃に患った大病の影響で、薬師顔負けの知識を持ち、自ら薬を調合する日々を送っている。家族の愛情を一身に受ける妹セシリアとは対照的に、彼女は控えめで存在感が薄い。 ある日、リリスは両親から突然「妹の代わりに隣国の王子と政略結婚をするように」と命じられる。結婚相手であるエドアルド王子は、かつて幼馴染でありながら、今では冷たく距離を置かれる存在。リリスは幼い頃から密かにエドアルドに憧れていたが、病弱だった過去もあって自分に自信が持てず、彼の真意がわからないまま結婚の日を迎えてしまい――

傷物令嬢シャルロットは辺境伯様の人質となってスローライフ

悠木真帆
恋愛
侯爵令嬢シャルロット・ラドフォルンは幼いとき王子を庇って右上半身に大やけどを負う。 残ったやけどの痕はシャルロットに暗い影を落とす。 そんなシャルロットにも他国の貴族との婚約が決まり幸せとなるはずだった。 だがーー 月あかりに照らされた婚約者との初めての夜。 やけどの痕を目にした婚約者は顔色を変えて、そのままベッドの上でシャルロットに婚約破棄を申し渡した。 それ以来、屋敷に閉じこもる生活を送っていたシャルロットに父から敵国の人質となることを命じられる。

パン作りに熱中しすぎて婚約破棄された令嬢、辺境の村で小さなパン屋を開いたら、毎日公爵様が「今日も妻のパンが一番うまい」と買い占めていきます

さくら
恋愛
婚約者に「パンばかり焼いていてつまらない」と見捨てられ、社交界から追放された令嬢リリアーナ。 行き場を失った彼女が辿り着いたのは、辺境の小さな村だった。 「せめて、パンを焼いて生きていこう」 そう決意して開いた小さなパン屋は、やがて村人たちの心を温め、笑顔を取り戻していく。 だが毎朝通ってきては大量に買い占める客がひとり――それは領地を治める冷徹公爵だった! 「今日も妻のパンが一番うまい」 「妻ではありません!」 毎日のように繰り返されるやりとりに、村人たちはすっかり「奥様」呼び。 頑なに否定するリリアーナだったが、公爵は本気で彼女を妻に望み、村全体を巻き込んだ甘くて賑やかな日々が始まってしまう。 やがて、彼女を捨てた元婚約者や王都からの使者が現れるが、公爵は一歩も引かない。 「彼女こそが私の妻だ」 強く断言されるたび、リリアーナの心は揺れ、やがて幸せな未来へと結ばれていく――。 パンの香りと溺愛に包まれた、辺境村でのほんわかスローライフ&ラブストーリー。

「転生したら推しの悪役宰相と婚約してました!?」〜推しが今日も溺愛してきます〜 (旧題:転生したら報われない悪役夫を溺愛することになった件)

透子(とおるこ)
恋愛
読んでいた小説の中で一番好きだった“悪役宰相グラヴィス”。 有能で冷たく見えるけど、本当は一途で優しい――そんな彼が、報われずに処刑された。 「今度こそ、彼を幸せにしてあげたい」 そう願った瞬間、気づけば私は物語の姫ジェニエットに転生していて―― しかも、彼との“政略結婚”が目前!? 婚約から始まる、再構築系・年の差溺愛ラブ。 “報われない推し”が、今度こそ幸せになるお話。

【完結】氷の王太子に嫁いだら、毎晩甘やかされすぎて困っています

22時完結
恋愛
王国一の冷血漢と噂される王太子レオナード殿下。 誰に対しても冷たく、感情を見せることがないことから、「氷の王太子」と恐れられている。 そんな彼との政略結婚が決まったのは、公爵家の地味な令嬢リリア。 (殿下は私に興味なんてないはず……) 結婚前はそう思っていたのに―― 「リリア、寒くないか?」 「……え?」 「もっとこっちに寄れ。俺の腕の中なら、温かいだろう?」 冷酷なはずの殿下が、新婚初夜から優しすぎる!? それどころか、毎晩のように甘やかされ、気づけば離してもらえなくなっていた。 「お前の笑顔は俺だけのものだ。他の男に見せるな」 「こんなに可愛いお前を、冷たく扱うわけがないだろう?」 (ちょ、待ってください! 殿下、本当に氷のように冷たい人なんですよね!?) 結婚してみたら、噂とは真逆で、私にだけ甘すぎる旦那様だったようです――!?

一途な皇帝は心を閉ざした令嬢を望む

浅海 景
恋愛
幼い頃からの婚約者であった王太子より婚約解消を告げられたシャーロット。傷心の最中に心無い言葉を聞き、信じていたものが全て偽りだったと思い込み、絶望のあまり心を閉ざしてしまう。そんな中、帝国から皇帝との縁談がもたらされ、侯爵令嬢としての責任を果たすべく承諾する。 「もう誰も信じない。私はただ責務を果たすだけ」 一方、皇帝はシャーロットを愛していると告げると、言葉通りに溺愛してきてシャーロットの心を揺らす。 傷つくことに怯えて心を閉ざす令嬢と一途に想い続ける青年皇帝の物語

婚約者を義妹に奪われましたが貧しい方々への奉仕活動を怠らなかったおかげで、世界一大きな国の王子様と結婚できました

青空あかな
恋愛
アトリス王国の有名貴族ガーデニー家長女の私、ロミリアは亡きお母様の教えを守り、回復魔法で貧しい人を治療する日々を送っている。 しかしある日突然、この国の王子で婚約者のルドウェン様に婚約破棄された。 「ロミリア、君との婚約を破棄することにした。本当に申し訳ないと思っている」 そう言う(元)婚約者が新しく選んだ相手は、私の<義妹>ダーリー。さらには失意のどん底にいた私に、実家からの追放という仕打ちが襲い掛かる。 実家に別れを告げ、国境目指してトボトボ歩いていた私は、崖から足を踏み外してしまう。 落ちそうな私を助けてくれたのは、以前ケガを治した旅人で、彼はなんと世界一の超大国ハイデルベルク王国の王子だった。そのままの勢いで求婚され、私は彼と結婚することに。 一方、私がいなくなったガーデニー家やルドウェン様の評判はガタ落ちになる。そして、召使いがいなくなったガーデニー家に怪しい影が……。 ※『小説家になろう』様と『カクヨム』様でも掲載しております

処理中です...