婚約者に捨てられた私ですが、なぜか宰相様の膝の上が定位置になっています 

さくら

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第17話 舞踏会の招待



 月下の約束を交わした夜から数日。心に安らぎを得たはずの私に、また新たな試練が舞い込んだ。

 執務室で帳簿を写していると、秘書官が恭しく封筒を差し出してきた。
「閣下、今度は王宮主催の舞踏会の招待状です」
「舞踏会……?」
 思わず声を上げてしまう。

 それは王都でもっとも華やかで、同時に最も注目を集める社交の場だった。私の胸は不安でいっぱいになり、指先が震える。

「……どうしましょう、宰相様。私が出席したら、また皆の視線に晒されて……」
 宰相様は封を切り、淡々と中身を確認した後、即座に言った。
「出席する」
「えっ……」
「避ける必要はない。むしろ好機だ。王都中に見せつければよい――君が誰に庇護され、どこに居場所を持つのかを」

 強い言葉に胸が震える。羞恥と安堵がないまぜになり、どうしていいか分からなかった。

 侍女たちが急ぎ準備に取りかかり、仕立て屋が新しいドレスの採寸に訪れた。鏡の前で布地を当てられながら、私は胸を押さえて思わず呟いた。
「……本当に、私が舞踏会に出てもいいのかしら」

 その背後から低い声が落ちた。
「いいに決まっている」
 振り返れば、宰相様が立っていた。瞳はまっすぐに私を射抜いている。
「君はもう誰にも嘲笑される存在ではない。私の隣に立つ者だ」

 胸が熱く痺れ、言葉が出なかった。

 宰相様は一歩近づき、当然のように私を抱き上げる。
「舞踏会でも膝の上は譲らん」
「っ……!」
「それが君の定位置だ。誰に何を言われようと変わらん」

 その断言に、不安よりも強い安心感が胸に満ちていった。

――こうして私は、王宮の舞踏会へと臨むことになった。



 舞踏会の当日。王宮の大広間は、幾千もの灯火に照らされていた。天井から吊るされた巨大なシャンデリアは星空のように輝き、磨き上げられた大理石の床に光が反射している。華やかな音楽が奏でられ、貴族たちが優雅に踊り、笑い合っていた。

 私はその光景を目にした瞬間、胸がぎゅっと縮むのを感じた。これほど多くの視線に晒されるのは初めてで、逃げ出したい気持ちがこみ上げる。

 だが、隣に立つ宰相様が低く囁いた。
「安心しろ。視線はすべて私が受け止める」

 その声に勇気をもらい、私は彼の腕に抱かれるまま大広間へと足を踏み入れた。

 途端にざわめきが広がる。
「……あれが、宰相様の膝の上の令嬢……」
「舞踏会にまで連れてくるとは……」
「羨ましい……」

 囁きはあちこちで飛び交い、空気が熱を帯びる。私は羞恥で頬が真っ赤になったが、宰相様は表情を崩さない。堂々と椅子に腰を下ろし、当然のように私を抱き上げて膝の上へ下ろした。

 広間が一斉に息を呑む。音楽すら一瞬止まりかけた。けれど、宰相様は気にも留めず、杯を取り上げる。
「これが私の答えだ。彼女が私の定位置にいることを、全員の前で示す」

 その姿に、誰も声を上げられなかった。

 やがて楽団が再び演奏を始め、舞踏会の雰囲気は流れを取り戻した。だが視線は変わらず私に注がれている。羞恥で心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。

 宰相様が気づき、囁いた。
「苦しいか」
「……すこし」
「ならば、甘やかしてやろう」

 彼はグラスの葡萄酒を手に取り、代わりに果実のジュースを私の唇へ運んできた。
「飲め」
「……はい」

 冷たい液体が喉を潤す。周囲の貴族たちが目を見張るのが分かる。だが宰相様は意に介さず、続けて小さな菓子を口元へ差し出した。
「口を開けろ」
「……っ」
 羞恥で俯きながらも口を開くと、甘い味が広がった。

 広間に漂う空気は、嘲笑ではなく驚きと羨望に変わっていた。

 宰相様は低く告げる。
「見ておけ。君がどれほど大切にされているかを、全員に知らしめる」

 その言葉に、胸が熱で満たされていく。羞恥を超えて、誇らしさが確かなものとなっていた。



 舞踏会の熱気は夜が更けても衰えなかった。楽団の奏でる旋律は軽やかで、色鮮やかなドレスが舞い、杯の触れ合う音が響く。その中で私はずっと宰相様の膝の上に座り続けていた。羞恥は最初のうちだけで、今はむしろ「ここが自分の定位置なのだ」と胸を張れるほどになっていた。

 ふと、殿下とアリシアの姿が視界に入った。二人は遠巻きにこちらを見つめ、何かを囁き合っている。嫌な記憶が蘇り、胸がざわめいた。けれど次の瞬間、宰相様が背を支えて囁く。
「視線を向けるな。あの二人はもはや過去だ。君は私の現在にいる」
「……はい」

 短い言葉なのに、胸の奥まで沁みわたる。

 やがて曲が変わり、舞踏会の主催者である王妃陛下が中央に姿を現した。白銀のドレスに身を包み、威厳と優雅さを兼ね備えた姿。広間の空気が一気に張り詰める。
「皆の者、今宵はよう集ってくれました」

 その声に合わせて人々が頭を下げる。私も膝の上で身を正した。

 王妃の視線が、真っ直ぐにこちらへと注がれた。
「宰相。……そして、その膝に抱かれた娘がエリナであるな」
 広間が一斉にざわめく。王妃の問いかけは、公然とした認知を意味していた。

 宰相様は少しも怯まず、堂々と答える。
「はい。この娘は私の庇護下にございます」
 静かでありながら、鋼のように揺るぎない声だった。

 王妃は一瞬目を細め、それから柔らかに微笑んだ。
「……ならばよい。女が安心して笑える場所を与えられる者こそ、真に国を支える者だと私は思う」

 その言葉に広間がざわめき、次第に拍手が湧き上がった。殿下とアリシアは顔を引きつらせ、言葉を失っている。

 胸がいっぱいになり、涙が滲んだ。王妃の前でさえ、宰相様は揺るがない。堂々と「私を抱く」姿を示してくれる。

「……宰相様」
 震える声で名を呼ぶと、彼は私を抱き寄せ、額に唇を落とした。
「もう何も恐れるな。お前は国が認めた存在だ」

 羞恥を超えて、胸が誇らしさで満ちていく。

 舞踏会が終わり、馬車に戻ると私は宰相様の胸に顔を埋めた。
「……今日を一生忘れません」
「忘れるな。君は宰相の膝の上に座る娘として、この国に刻まれたのだから」

 その言葉に、涙と共に甘い笑みが浮かんだ。

――こうして私は、舞踏会という華やかな場で、国中に「宰相様の大切な人」として認められたのだった。
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