料理スキルしか取り柄がない令嬢ですが、冷徹騎士団長の胃袋を掴んだら国一番の寵姫になってしまいました

さら

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第一話 婚約破棄、包丁ひとつ持って

 貴族街の石畳は、朝露を弾く銀色の鱗のように冷たく、よそよそしい光を返していた。馬車の小さな窓から覗く景色はいつもと変わらぬはずなのに、今日はやけに遠く感じる。クラリッサ・アルベルティ、伯爵家の三女――刺繍は糸を絡ませ、舞踏は裾を踏み、楽器は弦を切る。つまり、淑女の嗜みがことごとく壊滅的で、唯一まともにできるのは料理だけだった。台所に立てば、鍋と包丁と香りは裏切らない。そう信じてきたのに、今、その信じてきたものが「貴族令嬢の分際で」と笑い捨てられたばかりだ。

「クラリッサ嬢。婚約の解消は、君のためでもあるのだよ」

 白い手袋で指を組み、彼――侯爵家の嫡男であり、かつての婚約者エドモンドは、まるで慈悲深い聖人であるかのように微笑んだ。クラリッサはその口元にわずかに付いた蜂蜜色のパン屑を見つけて、胸の奥で苦く笑う。さっき出された焼きたてのパンは、王都一の菓子職人の作だと自慢された。甘い香りが部屋に満ちて、頭が少し痛い。

「貴方のため、ですか」

「そうとも。君は……その、家庭的すぎる。貴族の妻としては、ね。台所の煤が似合う令嬢など聞いたことがない」

 煤が似合う? なんと詩的で、なんと無粋な言い草だろう。クラリッサはひとつ会釈し、練習した通りの柔らかな声で返した。

「ご忠告、痛み入ります。では――さようなら、エドモンド様」

「うむ。ああ、それと。君のご家族にももう話は通してある。辺境の騎士団で人手が足りないらしい。君は……そういうところが相応しい」

 最後の一言だけ、甘い菓子の後味のように舌に絡みついた。相応しい。つまり、追い払う口実。クラリッサは微笑をほどいて、裏口から出るように静かに部屋を辞した。

 伯爵家の玄関をまたぐ頃、父と母はすでに決めていた顔をしていた。視線は冷え、言葉は用意されている。

「クラリッサ。お前は明朝、辺境へ発つ」

「……承知しました」

 父はためらわず告げ、母は目を伏せた。家の名誉、社交界の噂、姉たちの縁談――それらを守るためには、三女の行き先など、料理のレシピを書き換えるより容易いのだ。

「持って行きたいものは?」

 家令が事務的に問う。クラリッサは一呼吸だけ考え、答えた。

「包丁を一本。できれば、あの――鉄の重い、祖母から賜ったものを」

「……それだけでいいのか」

「それがあれば、大抵のことはなんとかなりますから」

 家令は不思議そうに首を傾げたが、反対はしなかった。祖母の包丁は、台所の最奥、古びた砥石とともに眠っている。刃は厚く、握りは手に馴染む。幼い頃、祖母の背の高さを追いかけて台に上がり、野菜の切り方を教わった。涙が出るほど玉ねぎを刻むと、祖母はよく言ったものだ――涙が出るのは玉ねぎのせいだけではない、と。

 夜更け、荷造りを終えた部屋でひとり、クラリッサは深く息を吐く。鏡の中の自分の頬は思ったより強情そうで、目にはまだ火が残っていた。婚約破棄は形にすぎない。自分を捨てることは、誰にもできない。

「……行ってきます」

 誰もいない部屋へ、小さく頭を下げた。

 翌朝の空は澄み、風は乾いていた。辺境へ向かう隊商の荷馬車に、クラリッサは粗末な箱をひとつだけ載せる。箱の中には包丁と、祖母直伝のレシピ帳。紙片の間から漂うのは、乾燥ハーブの細い匂い。見送りに来たのは、庭師の老夫婦と下働きの少女がひとり。父と母は――忙しいのだろう。いや、そういうことにしておこう。

「お嬢様、どうかお元気で」

「ええ。あなたたちも」

 馬車が軋み、石畳を離れる。王都の城壁が遠ざかるにつれ、クラリッサの胸の中に不思議な軽さが生まれた。名刺のように差し出してきた「伯爵家の娘」という肩書きが、風に飛んでいく。残ったのは、指に馴染む柄の重さと、刻むリズムの心地よさ。包丁の音は、心拍だ。

 道中は長い。昼には干し肉と固い黒パン、夜には野営の焚き火と、薄いスープ。隊商の男たちは最初、クラリッサを腫れ物のように扱ったが、二日目の夜には様子が変わった。彼女が自分の分のスープを煮立てると、鍋の匂いに引き寄せられた顔が、火の橙に浮かぶ。

「嬢ちゃん、その香りはなんだい」

「少し、野草を。昼間、川辺で採れたものです」

「野草なんざ腹壊すって親父に叱られてよ」

「熱でえぐみを飛ばせば、いい出汁になりますよ。味見、します?」

 差し出した木匙に恐る恐る口をつけた屈強な男が、目を丸くする。

「……うまい」

「ほんとだ。なんだ、体があったまる」

「塩は少し控えめにしてあります。喉が渇きますから」

 いつの間にか鍋の周りには輪ができ、黒パンが欠片ずつ差し出された。クラリッサは手際よく刻み、火加減を見て、鍋底を焦がさぬように気を配る。ほんの少しの胡椒は、旅の疲れを解かす魔法になる。食べ終えた男たちは口々に礼を言い、その夜の焚き火はいつもより静かだった。

 辺境は、地図の余白のように曖昧だ。丘陵は低くうねり、風は鋭く乾く。木立の影は深く、空の色は淡い。七日目、隊商は分岐で別れ、クラリッサは騎士団の詰め所へ案内されることになった。馬に跨った若い斥候が、目だけで笑って言う。

「姉さん、あんたが新しい“飯炊き”かい」

「料理番、ということになるのでしょうか」

「ここじゃ『腹の守り神』って呼ばれるさ。腹が満ちれば、剣もよく振るえる」

「それは、責任重大ですね」

「団長は厳しいぜ。冷たい川水みたいな人だ。凍えないように気をつけな」

 冷たい川水。クラリッサは心の内でその言葉を転がし、丁寧に飲み込む。冷たいということは、澄んでいるということでもある。流れの形が見えるということでもある。ならば、温め方がある。

 城砦と呼ぶには小ぶりな、しかし実用一点張りの石の砦が見えてくる。灰色の壁は苔をまとい、見張り台には黒い旗がはためいていた。門をくぐると、剣の打ち合う音と、汗と鉄の匂い。そして――鼻をひくつかせる、焦げた匂い。

「……これは」

 中庭の一隅、粗末な竈があり、鍋がひとつ、絶望的な茶色の蒸気を吐いている。鍋の番をしている兵士は青い顔で匙を握り、こちらに気づくと安堵とも悲鳴ともつかぬ声をあげた。

「た、助かった! 今日の当番が塩を掴みすぎて、どうにもならねえ!」

「火を弱めてください。水を少し足します。焦げは底に沈めず、鍋肌を撫でるように――はい、そのまま」

 クラリッサは袖を捲り、鍋に向き合う。焦げの苦みは鋭い。ならば甘みを呼ぶ。干した玉ねぎを手早く刻み、油で透き通るまで炒め、鍋に加える。香りが立ち上り、苦みの棘が丸くなる。次に、乾いたパンの端を擦りおろしてとろみをつける。塩を一つまみ、胡椒を指先で捻り、最後に鍋肌に沿って水を走らせる。湯気の匂いが変わった瞬間、周囲の兵の肩から力が抜けた。

「……なんだ、この匂いは」

「玉ねぎと胡椒です。焦げの匂いを包んでくれます」

「さっきまで屍の匂いだったのに、今は……腹が鳴る」

「味見をどうぞ。舌の奥で塩を転がして、喉が渇かないところを探してください」

 匙がいくつも伸び、唇がひとつ、またひとつ笑みに変わる。誰かが小さく手を打ち、別の誰かが「神様……!」と真面目に拝んだ。

「お前が新しい料理番か」

 背後から落ちた声は、砦の石のように乾いた低音だった。振り向いた先に立っていたのは、黒い外套に銀の留め具。背は高く、肩幅は広い。光を吸うような灰色の瞳は、無駄のない剣筋のようにまっすぐで、髪は短く刈られ、頬は刃物のようにこけている。鎧の継ぎ目に無駄はなく、姿勢は一分の隙もない。

 冷徹無比――レオンハルト・ヴォルクリンゲン。辺境騎士団長。

「はい。クラリッサ・アルベルティと申します。本日付で、お世話になります」

「ふむ。お前が」

 彼の視線が鍋からクラリッサの手元へ、そして兵たちの緩んだ顔へと移る。ほんの刹那、瞼が微かに伏せられた。嗅覚が記憶を撫でたのだ、とクラリッサは直感した。温かい汁気の香りは、人の過去のどこかに触れる。

「まずは食わせろ。言葉より結果だ」

「承知しました。すぐに」

 クラリッサは配膳の列を整え、器の底にまず具を置き、上から汁を満たす。冷えた手が器を受け取り、湯気に顔をほころばせる。レオンハルトの器だけは最後にした。彼は列に加わらず、黙って待っている。

「団長、どうぞ」

 器を差し出す刹那、彼の指先が器の縁に触れ、熱さを確かめるようにわずかに留まる。口に運ぶ。灰色の瞳が動かない。喉仏が一度、静かに上下した。

「……」

 沈黙。周りの兵たちは息を呑む。クラリッサは背筋を伸ばし、待った。味は整っている。焦げの苦みは丸まり、玉ねぎの甘みが芯を作り、胡椒が輪郭を描く。塩は控えめだが、疲れた体にはちょうどいいはずだ。

「悪くない」

 その一言は、褒め言葉の辞書の片隅にひっそり載っていそうな慎ましさで、しかし揺るぎのない重みで落ちた。兵たちがどっと笑う。

「団長の“悪くない”は、王都の詩人の“絶賛”より上等なんだぜ」

「ありがとうございます。次は、もっと良くします」

 レオンハルトは小さく顎を引き、器を空にした。匙を置く音がやけに清潔で、彼という男の中の秩序の厳しさを物語っているように感じられた。

「厨房は……いや、ここでは“竈”と言うべきか。勝手はわかるか」

「一度見れば大丈夫です。水場と薪の質、鍋の底の厚み、塩と油の残量、砥石の荒さを確認したいです」

「ふむ。ついて来い」

 レオンハルトが踵を返す。外套の裾が風に鳴った。クラリッサは包丁箱を抱え、彼の背に続く。廊下は簡素で、石の壁は冷たい。けれど、窓から差す光は清らかで、埃の粒が踊っている。砦は生きている。人が暮らしている匂いがする。

「団長」

 思わず呼びかけると、彼は足を止めずに返す。

「何だ」

「もし許されるなら、台所――竈のそばに小さな畑を作りたいのです。香草と、根菜を少し。乾燥させて保存すれば、冬にも味が変えられます」

「畑だと?」

「はい。料理は、兵の心の底を温めます。温かい心は、剣を鈍らせるのではなく、折れにくくします」

 レオンハルトは初めて、わずかに歩調を緩めた。横顔に、遠い記憶の影が一刹那、掠めた。

「許可は後で出す。まずは、今日の晩だ」

「了解しました」

 竈場は狭く、道具は足りず、鍋は古く、塩壺の底は心許ない。それでも、火はある。水は冷たく澄んでいる。砥石は粗いが、刃は立つ。クラリッサは袖をきゅっと結び、箱から祖母の包丁を取り出した。刃が光を吸い、柄が掌に馴染む。

「今日の晩は、塩漬け肉の臭みを抜いて、麦粥に香草を合わせます。疲れが取れるように」

「必要なものがあれば言え」

「はい。……もし可能なら、玉ねぎを少し多めに。あとは――」

 彼女は必要な物資を簡潔に告げ、レオンハルトは同じように簡潔に頷いた。命令は短く、返事も短い。だが、その短さの中に、無駄のなさと信頼の芽が確かにあった。

 日が傾き、砦に影が伸びる。最初の晩餐は、戦いの前触れにも似て緊張の糸を張る。クラリッサは湯の温度を指で測り、火加減を眼で量り、塩の加減を舌で決める。包丁の刃は歌う。トントン、と、一定の拍。兵の笑い声が少しずつ戻ってくる。

 鍋の湯気の向こう、灰色の瞳がこちらを見ていた。冷たい川水のような眼差しは、炎の熱を受けても曇らず、ただ流れの速さだけを変えたように見えた。クラリッサは視線を受け止め、微笑を返す。言葉はいらない。温度で語ろう。香りで伝えよう。塩梅で、距離を縮めよう。

 やがて、鐘が鳴る。最初の盛り付けを終え、クラリッサは息を整えた。晩餐は、砦の男たちの腹と心を試す場であり、同時に、彼女自身の居場所をかけた試合でもある。器に湯気が満ち、食堂の扉が開かれる。クラリッサは鍋掴みをしっかり握り、最初の一歩を踏み出した。
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