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朝。
夜明けの光が、フェルネの丘を包んでいた。
鳥の声がどこからともなく響き、麦畑の表面が金色に波打つ。
私は宿の前に立ち、静かに息を吸いこんだ。
空気がうまい。
胸いっぱいに広がるこの香り――土と草と朝露。
まるで世界そのものが目を覚ましていくようだった。
「おはようございます、ミナさん!」
エマがパンを抱えて駆けてきた。
「焼きたてだよ! ママが“ミナさんの好きなやつ”って!」
「わあ、ありがとう」
受け取ると、まだ温かい。
パンを割ると、ふわっと小麦の香りが広がった。
それをかじりながら、私は笑った。
「ねえ、エマ。この村って、いつからこんなに穏やかなんだろうね」
「ずっとだよ!」
「ずっと?」
「うん。風がね、“この村は眠らないけど、走らない”って言ってた!」
エマの言葉に、私は思わず吹き出した。
“眠らないけど、走らない”。
その言葉が、この村のすべてを表している気がした。
ゆっくり動いて、ちゃんと生きている。
――それがフェルネ。
パンを食べ終えたころ、村の鐘が鳴った。
今日も、市場の日だ。
女将さんが「行っておいで」と背中を押してくれる。
私は手に布袋を持ち、エマと並んで通りへ出た。
通りは朝からにぎやかだった。
野菜、果物、パン、蜂蜜、布、陶器。
どれも、手作りのものばかりだ。
村人たちが互いに声をかけ合い、笑い合いながら取引をしている。
「ミナさん、ハーブ塩の新しいやつできたよ!」
「ミナ殿、こないだ教えてくれた仕分け法で、在庫が倍になった!」
「ミナさんのレシピでパン焼いたら、お客さんが並んだんだよ!」
次々に声がかかる。
そのひとつひとつが、まるで祝福のように響いた。
私はただ笑って、うなずいた。
“無能扱い”されていたあの頃には、考えられなかった。
私がいてもいなくても世界は回ると思っていたけれど――ここでは違う。
私が笑えば、世界が少しだけ明るくなる。
そんな気がする。
市場を一通り歩いたあと、私は広場のベンチに腰をおろした。
エマは他の子たちと走り回っている。
空はどこまでも青く、風が心地よい。
そのとき、どこからか声がした。
「やあ、久しぶりだな」
振り向くと、あの青年――王都ギルドの使いの男が立っていた。
「また来たんですか?」
「ええ。王都ではあなたの話題で持ちきりですよ。フェルネ村がここまで発展したのは、あなたのおかげだって」
「そうですか。でも、私はもう何もしてません」
「ええ。何もしていないあなたが“成功”を呼んだ――それが人々には衝撃なんですよ」
「……“働かない”が成功、ですか」
「はい。あなたは“無能”を幸福に変えた。王都では、あなたを“静寂の管理者”と呼ぶ人もいるくらいです」
「……へえ。なんだか、くすぐったいですね」
「ですが、もし本当に何もしていないというのなら、どうしてこの村はこんなにも輝いているんでしょう?」
青年の言葉に、私は答えられなかった。
ただ笑って、空を見上げた。
「きっとね、何もしないことが、“誰かを信じること”なんですよ」
「信じる、ですか?」
「そう。自分が動かなくても、世界がちゃんと回るって信じること。それが、働かない勇気なんです」
青年はしばらく黙っていたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「なるほど。……あなたは本当に面白い人ですね」
「もう、ただの村人ですよ」
「村人にしては、ずいぶん哲学的だ」
「哲学って、たぶん暇な人の特権です」
そう言って笑うと、青年もつられて笑った。
やがて彼は帽子を脱ぎ、深々と頭を下げた。
「――ありがとうございました。あなたの生き方が、多くの人に希望を与えています」
「そんな大層なこと、してないですよ」
「してます。あなたは、“頑張らないで生きていい”という新しい価値を証明したんです」
その言葉が、やわらかく胸に響いた。
彼が去ったあとも、私はしばらく空を見上げていた。
フェルネの空は、変わらない。
雲がゆっくり流れ、太陽の光が畑を包む。
遠くで風車が回る音がする。
世界は、誰かが働かなくてもちゃんと続いていく。
それでいい。
――それが、私の答えだ。
昼過ぎ、エマが駆け寄ってきた。
「ミナさん! 王都の人、帰っちゃったの?」
「うん。忙しそうだったね」
「ねえ、“お仕事の人”ってどうしていつも忙しいの?」
「……そうね。きっと、休むことを忘れちゃってるの」
「かわいそうだね」
「うん。でも、いつかきっと気づくよ。働かない日が、一番大事な日なんだって」
エマは小さく頷き、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、今日は“いちばん大事な日”だね!」
「そうね。今日も、すごくいい日」
私はエマの頭を撫で、微笑んだ。
村の鐘が鳴り、穏やかな午後の風が吹く。
ハーブの香り、パンの匂い、遠くの笑い声。
すべてが一枚の風景のように溶け合っていく。
フェルネ村は、今日も静かに栄えていた。
そして私は、その真ん中でただ笑っていた。
――“働かない”という幸せの形は、きっとこういうことなんだ。
空を見上げると、雲の隙間から陽が差しこんでいた。
それが、まるで祝福の光みたいで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
私は深呼吸をして、ゆっくりと目を閉じた。
「……今日もいい日だな」
風が頬を撫で、どこまでも穏やかな午後が流れていった。
◇
季節がゆっくりとめぐり、フェルネにも柔らかな春が訪れた。
雪解けの水が川を満たし、畑の麦は新しい芽を伸ばしている。
村のあちこちで笑い声が響き、花の香りが風に混じる。
私は、宿の裏庭で小さな花壇の世話をしていた。
「ミナさん、それ、何の花?」
振り向くとエマがしゃがみこんで、指先で蕾をつついている。
「これはね、“安息花”っていうの。夜になると花びらが閉じて、朝になると開くの」
「わあ……なんかミナさんみたい!」
「え?」
「夜は静かで、朝になるとニコって笑うでしょ!」
思わず笑ってしまう。
子どもは、時々、詩人みたいなことを言う。
「そうかもしれないね」
私は花を植えながら答えた。
「この花が咲いたら、フェルネの一年が始まるのよ」
「じゃあ、今年もミナさんの年だね!」
「ふふ……そうかも」
――一年。
王都を出てから、もうそんなに経つ。
あの日、何も持たずに歩き出した私が、今はこうして花を植えている。
手には土の感触があり、心には風のぬくもりがある。
それだけで、生きている実感がある。
そのとき、村の広場のほうから声が上がった。
「ミナ殿ー! お客人だぞー!」
「え?」
鍬を置いて駆けつけると、広場に馬車が停まっていた。
見慣れた紋章――王都ギルドの印。
だが、今回はあの青年ではなかった。
降りてきたのは、かつての仲間だった。
「……ガルド?」
彼は以前よりずっとやつれ、髪に白いものが混じっていた。
しかしその目には、あの日よりも静かな光が宿っていた。
「ミナ。無事で、よかった」
「どうして……」
「礼を言いに来た」
「礼?」
「お前が王都に戻らなかったおかげで、俺たちは立ち止まれた。戦うことしか知らなかった俺たちが、“休むこと”を覚えたんだ」
「……」
「リサも、今は村を手伝ってる。あいつ、子どもに弓を教えてるんだ。笑ってるぞ。お前が笑ってたみたいに」
胸の奥がじんと熱くなった。
ガルドが帽子を脱ぎ、深く頭を下げた。
「ありがとう、ミナ。あのときのお前の言葉が、ずっと心に残ってた」
「そんな……私は何もしてないですよ」
「いや。お前が“何もしなかった”からこそ、救われた人間がいるんだ」
言葉を失ったまま、私はただ立ち尽くしていた。
“何もしないこと”が、誰かの力になる。
そんなこと、考えたこともなかった。
「……あなたたちが変わったんですね」
「そうだ。だが、あのときお前が見せてくれた笑顔がなかったら、俺は変われなかった」
ガルドは微笑んだ。
「お前は、“戦わずに強い”人だな」
その一言が、胸の奥でやさしく響いた。
しばらくして彼は馬車に戻り、去っていった。
風が彼の背中を撫で、砂埃を巻き上げる。
その背中を見送りながら、私は小さく呟いた。
「……さようなら。そして、ありがとう」
風がやんだあと、静寂が戻ってきた。
村の人たちは何も言わず、ただ微笑んでくれていた。
エマが駆け寄ってきて、私の手を握る。
「ミナさん、泣いてるの?」
「泣いてないよ。ただ、ちょっと……目に風が入っただけ」
「そっか。じゃあ、また笑ってね!」
「うん。すぐ笑うよ」
私は空を見上げた。
雲ひとつない青。
光の中で、心がすっと軽くなる。
――そうだ。もう怖くない。
誰かに無能と言われても、もう揺れない。
私は“働かない”ことで、自分を取り戻した。
この村で、ちゃんと生きている。
それだけで十分だ。
その夜、星空の下で村の人々が小さな集まりを開いた。
春の訪れを祝うための焚き火。
音楽も踊りもない、ただの“集う夜”。
でも、みんなが笑っていた。
それだけで、世界が温かくなる気がした。
「ミナさん、ほら、ハーブティー!」
女将さんが差し出してくれたカップから、甘い香りが立ちのぼる。
私はそれを受け取り、ゆっくりと口に含んだ。
「……ああ、いい香り」
「それはね、あんたが育てた安息花の葉っぱだよ」
「そうだったんですか」
「まるであんたみたいな味だ」
「どんな味です?」
「最初は少し苦くて、あとから、やさしい」
思わず吹き出した。
「うまいこと言いますね」
「年の功さ」
焚き火の光が女将さんの横顔を照らし、影がゆらめいた。
私は炎を見つめながら、静かに思った。
“無能扱いされ、追放された私”は、もうどこにもいない。
今ここにいるのは、“何もしないで幸せな私”。
そして――“自分の人生を取り戻した私”。
風が吹き抜け、花の香りが夜空に散っていく。
私は目を閉じて、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「……もう、十分だな」
焚き火の光がゆらゆらと揺れ、星がひとつ流れた。
フェルネの夜は、今日もやさしく包んでくれる。
ここが私の世界。
ここが、私の幸せ。
そしてその幸せは、誰のものでもなく、私だけのものだ。
明日もまた、働かない朝が来る。
それが、最高の贅沢だと知っているから。
私は微笑み、夜空に向かって小さく呟いた。
「ありがとう、世界。ありがとう、フェルネ」
焚き火の火が、ゆっくりと消えていく。
けれど、その温もりは、いつまでも胸の中で灯り続けていた。
夜明けの光が、フェルネの丘を包んでいた。
鳥の声がどこからともなく響き、麦畑の表面が金色に波打つ。
私は宿の前に立ち、静かに息を吸いこんだ。
空気がうまい。
胸いっぱいに広がるこの香り――土と草と朝露。
まるで世界そのものが目を覚ましていくようだった。
「おはようございます、ミナさん!」
エマがパンを抱えて駆けてきた。
「焼きたてだよ! ママが“ミナさんの好きなやつ”って!」
「わあ、ありがとう」
受け取ると、まだ温かい。
パンを割ると、ふわっと小麦の香りが広がった。
それをかじりながら、私は笑った。
「ねえ、エマ。この村って、いつからこんなに穏やかなんだろうね」
「ずっとだよ!」
「ずっと?」
「うん。風がね、“この村は眠らないけど、走らない”って言ってた!」
エマの言葉に、私は思わず吹き出した。
“眠らないけど、走らない”。
その言葉が、この村のすべてを表している気がした。
ゆっくり動いて、ちゃんと生きている。
――それがフェルネ。
パンを食べ終えたころ、村の鐘が鳴った。
今日も、市場の日だ。
女将さんが「行っておいで」と背中を押してくれる。
私は手に布袋を持ち、エマと並んで通りへ出た。
通りは朝からにぎやかだった。
野菜、果物、パン、蜂蜜、布、陶器。
どれも、手作りのものばかりだ。
村人たちが互いに声をかけ合い、笑い合いながら取引をしている。
「ミナさん、ハーブ塩の新しいやつできたよ!」
「ミナ殿、こないだ教えてくれた仕分け法で、在庫が倍になった!」
「ミナさんのレシピでパン焼いたら、お客さんが並んだんだよ!」
次々に声がかかる。
そのひとつひとつが、まるで祝福のように響いた。
私はただ笑って、うなずいた。
“無能扱い”されていたあの頃には、考えられなかった。
私がいてもいなくても世界は回ると思っていたけれど――ここでは違う。
私が笑えば、世界が少しだけ明るくなる。
そんな気がする。
市場を一通り歩いたあと、私は広場のベンチに腰をおろした。
エマは他の子たちと走り回っている。
空はどこまでも青く、風が心地よい。
そのとき、どこからか声がした。
「やあ、久しぶりだな」
振り向くと、あの青年――王都ギルドの使いの男が立っていた。
「また来たんですか?」
「ええ。王都ではあなたの話題で持ちきりですよ。フェルネ村がここまで発展したのは、あなたのおかげだって」
「そうですか。でも、私はもう何もしてません」
「ええ。何もしていないあなたが“成功”を呼んだ――それが人々には衝撃なんですよ」
「……“働かない”が成功、ですか」
「はい。あなたは“無能”を幸福に変えた。王都では、あなたを“静寂の管理者”と呼ぶ人もいるくらいです」
「……へえ。なんだか、くすぐったいですね」
「ですが、もし本当に何もしていないというのなら、どうしてこの村はこんなにも輝いているんでしょう?」
青年の言葉に、私は答えられなかった。
ただ笑って、空を見上げた。
「きっとね、何もしないことが、“誰かを信じること”なんですよ」
「信じる、ですか?」
「そう。自分が動かなくても、世界がちゃんと回るって信じること。それが、働かない勇気なんです」
青年はしばらく黙っていたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「なるほど。……あなたは本当に面白い人ですね」
「もう、ただの村人ですよ」
「村人にしては、ずいぶん哲学的だ」
「哲学って、たぶん暇な人の特権です」
そう言って笑うと、青年もつられて笑った。
やがて彼は帽子を脱ぎ、深々と頭を下げた。
「――ありがとうございました。あなたの生き方が、多くの人に希望を与えています」
「そんな大層なこと、してないですよ」
「してます。あなたは、“頑張らないで生きていい”という新しい価値を証明したんです」
その言葉が、やわらかく胸に響いた。
彼が去ったあとも、私はしばらく空を見上げていた。
フェルネの空は、変わらない。
雲がゆっくり流れ、太陽の光が畑を包む。
遠くで風車が回る音がする。
世界は、誰かが働かなくてもちゃんと続いていく。
それでいい。
――それが、私の答えだ。
昼過ぎ、エマが駆け寄ってきた。
「ミナさん! 王都の人、帰っちゃったの?」
「うん。忙しそうだったね」
「ねえ、“お仕事の人”ってどうしていつも忙しいの?」
「……そうね。きっと、休むことを忘れちゃってるの」
「かわいそうだね」
「うん。でも、いつかきっと気づくよ。働かない日が、一番大事な日なんだって」
エマは小さく頷き、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、今日は“いちばん大事な日”だね!」
「そうね。今日も、すごくいい日」
私はエマの頭を撫で、微笑んだ。
村の鐘が鳴り、穏やかな午後の風が吹く。
ハーブの香り、パンの匂い、遠くの笑い声。
すべてが一枚の風景のように溶け合っていく。
フェルネ村は、今日も静かに栄えていた。
そして私は、その真ん中でただ笑っていた。
――“働かない”という幸せの形は、きっとこういうことなんだ。
空を見上げると、雲の隙間から陽が差しこんでいた。
それが、まるで祝福の光みたいで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
私は深呼吸をして、ゆっくりと目を閉じた。
「……今日もいい日だな」
風が頬を撫で、どこまでも穏やかな午後が流れていった。
◇
季節がゆっくりとめぐり、フェルネにも柔らかな春が訪れた。
雪解けの水が川を満たし、畑の麦は新しい芽を伸ばしている。
村のあちこちで笑い声が響き、花の香りが風に混じる。
私は、宿の裏庭で小さな花壇の世話をしていた。
「ミナさん、それ、何の花?」
振り向くとエマがしゃがみこんで、指先で蕾をつついている。
「これはね、“安息花”っていうの。夜になると花びらが閉じて、朝になると開くの」
「わあ……なんかミナさんみたい!」
「え?」
「夜は静かで、朝になるとニコって笑うでしょ!」
思わず笑ってしまう。
子どもは、時々、詩人みたいなことを言う。
「そうかもしれないね」
私は花を植えながら答えた。
「この花が咲いたら、フェルネの一年が始まるのよ」
「じゃあ、今年もミナさんの年だね!」
「ふふ……そうかも」
――一年。
王都を出てから、もうそんなに経つ。
あの日、何も持たずに歩き出した私が、今はこうして花を植えている。
手には土の感触があり、心には風のぬくもりがある。
それだけで、生きている実感がある。
そのとき、村の広場のほうから声が上がった。
「ミナ殿ー! お客人だぞー!」
「え?」
鍬を置いて駆けつけると、広場に馬車が停まっていた。
見慣れた紋章――王都ギルドの印。
だが、今回はあの青年ではなかった。
降りてきたのは、かつての仲間だった。
「……ガルド?」
彼は以前よりずっとやつれ、髪に白いものが混じっていた。
しかしその目には、あの日よりも静かな光が宿っていた。
「ミナ。無事で、よかった」
「どうして……」
「礼を言いに来た」
「礼?」
「お前が王都に戻らなかったおかげで、俺たちは立ち止まれた。戦うことしか知らなかった俺たちが、“休むこと”を覚えたんだ」
「……」
「リサも、今は村を手伝ってる。あいつ、子どもに弓を教えてるんだ。笑ってるぞ。お前が笑ってたみたいに」
胸の奥がじんと熱くなった。
ガルドが帽子を脱ぎ、深く頭を下げた。
「ありがとう、ミナ。あのときのお前の言葉が、ずっと心に残ってた」
「そんな……私は何もしてないですよ」
「いや。お前が“何もしなかった”からこそ、救われた人間がいるんだ」
言葉を失ったまま、私はただ立ち尽くしていた。
“何もしないこと”が、誰かの力になる。
そんなこと、考えたこともなかった。
「……あなたたちが変わったんですね」
「そうだ。だが、あのときお前が見せてくれた笑顔がなかったら、俺は変われなかった」
ガルドは微笑んだ。
「お前は、“戦わずに強い”人だな」
その一言が、胸の奥でやさしく響いた。
しばらくして彼は馬車に戻り、去っていった。
風が彼の背中を撫で、砂埃を巻き上げる。
その背中を見送りながら、私は小さく呟いた。
「……さようなら。そして、ありがとう」
風がやんだあと、静寂が戻ってきた。
村の人たちは何も言わず、ただ微笑んでくれていた。
エマが駆け寄ってきて、私の手を握る。
「ミナさん、泣いてるの?」
「泣いてないよ。ただ、ちょっと……目に風が入っただけ」
「そっか。じゃあ、また笑ってね!」
「うん。すぐ笑うよ」
私は空を見上げた。
雲ひとつない青。
光の中で、心がすっと軽くなる。
――そうだ。もう怖くない。
誰かに無能と言われても、もう揺れない。
私は“働かない”ことで、自分を取り戻した。
この村で、ちゃんと生きている。
それだけで十分だ。
その夜、星空の下で村の人々が小さな集まりを開いた。
春の訪れを祝うための焚き火。
音楽も踊りもない、ただの“集う夜”。
でも、みんなが笑っていた。
それだけで、世界が温かくなる気がした。
「ミナさん、ほら、ハーブティー!」
女将さんが差し出してくれたカップから、甘い香りが立ちのぼる。
私はそれを受け取り、ゆっくりと口に含んだ。
「……ああ、いい香り」
「それはね、あんたが育てた安息花の葉っぱだよ」
「そうだったんですか」
「まるであんたみたいな味だ」
「どんな味です?」
「最初は少し苦くて、あとから、やさしい」
思わず吹き出した。
「うまいこと言いますね」
「年の功さ」
焚き火の光が女将さんの横顔を照らし、影がゆらめいた。
私は炎を見つめながら、静かに思った。
“無能扱いされ、追放された私”は、もうどこにもいない。
今ここにいるのは、“何もしないで幸せな私”。
そして――“自分の人生を取り戻した私”。
風が吹き抜け、花の香りが夜空に散っていく。
私は目を閉じて、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「……もう、十分だな」
焚き火の光がゆらゆらと揺れ、星がひとつ流れた。
フェルネの夜は、今日もやさしく包んでくれる。
ここが私の世界。
ここが、私の幸せ。
そしてその幸せは、誰のものでもなく、私だけのものだ。
明日もまた、働かない朝が来る。
それが、最高の贅沢だと知っているから。
私は微笑み、夜空に向かって小さく呟いた。
「ありがとう、世界。ありがとう、フェルネ」
焚き火の火が、ゆっくりと消えていく。
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