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第八話 兄弟の影
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王立図書館の中庭でレオンハルトと交わした言葉は、今も耳の奥に残っていた。「籠を破ろうとする鳥は美しい」――その一言が、殿下の冷たい「必要だ」という声よりも深く心に刻まれている。
だが、その余韻に浸る間もなく、王宮から正式な呼び出しが届いた。差出人は王太子殿下。わたしの婚約者にして、いずれ国を背負う人。拒めば公爵家の名誉に傷をつける。わたしは覚悟を決め、王宮へと向かった。
◇
応接室の扉を開けると、殿下がひとり立っていた。壁際の燭台の灯りが、完璧な横顔を照らしている。
「クラリッサ」
呼ばれた声は穏やかに聞こえる。けれど、その裏には冷たい刃が潜んでいた。
「殿下のお召しに従い参りました」
「先日の夜会――楽しんでいたようだな」
「ええ。おかげさまで」
わたしが平静を装って答えると、殿下の瞳がわずかに鋭く光った。
「……あの場で、誰と踊ったか覚えているか?」
「もちろんですわ。第二王子殿下、レオンハルト様と」
その名を告げた瞬間、部屋の空気が張りつめた。
「軽率だ。噂がどれほど広がったか、君は分かっているのか」
「存じております」
「ならばなぜ、止めなかった」
「……止められるものではございませんでしたわ。わたしが求めたのではなく、殿下が手を差し伸べてくださったのです」
殿下は声を潜め、唇を固く結んだ。「弟に利用されているのだ、君は」
「利用……」
利用という言葉が胸を刺す。けれど同時に、レオンハルトが語った「美しい」の響きが思い出される。あれは利用のための嘘だっただろうか。違う。そう信じられる。
「殿下。……もしわたしが利用されているのだとしても、それを恐れるほど臆病ではございません」
「クラリッサ!」
怒声が飛ぶ。初めて見る殿下の感情。硝子の笑みの下に隠された苛立ち。
◇
そのとき、応接室の扉が開いた。
「兄上」
低い声とともに入ってきたのは、レオンハルトだった。背に冬の光を背負い、影を長く伸ばしている。
「何の用だ、レオンハルト」
「噂が広がっていると聞いた。ならば、当事者として話すべきだと思ったまでです」
「当事者、だと?」
二人の視線が交錯する。兄弟の間に流れるのは、血の繋がりよりも濃い緊張だった。
「クラリッサ嬢は、あなたにとって義務の象徴かもしれない。けれど、わたしにとっては違う」
「何を言う」
「彼女は……自分で籠を壊そうとしている。だからこそ、目を離せない」
レオンハルトの言葉は簡潔で、真っ直ぐだった。殿下の微笑みよりもずっと重く、強い。
殿下の眉が怒りに歪む。けれど、彼は社交の仮面を崩すまいと必死に微笑を保った。
「……弟よ。無駄口は慎め。クラリッサは王太子妃となるべき人間だ」
「ならば、彼女に選ばせればいい」
応接室の空気が一瞬凍りついた。選ぶ? わたしに?
だが殿下は答えず、背を向けて窓の外を見つめた。
◇
謁見を終えて屋敷に戻る馬車の中、わたしは深く息を吐いた。メアリが心配そうに問いかける。
「お嬢様……王太子殿下は」
「ええ。怒っておられたわ。けれど、それ以上に……弟君を恐れているように見えた」
窓の外には雪が舞っている。白い花弁のように散る雪片が、闇の中で淡く光る。
わたしは膝の上のハンカチを握りしめた。利用かもしれない。それでも、あの瞳に映された自分は確かに“ひとりの女性”だった。
「メアリ」
「はい」
「もう、わたしは決めたのかもしれない」
「何を、でございますか」
「鳥籠に戻らないことを」
――硝子の笑みに縛られるのではなく。わたし自身の翼で、空を選ぶことを。
だが、その余韻に浸る間もなく、王宮から正式な呼び出しが届いた。差出人は王太子殿下。わたしの婚約者にして、いずれ国を背負う人。拒めば公爵家の名誉に傷をつける。わたしは覚悟を決め、王宮へと向かった。
◇
応接室の扉を開けると、殿下がひとり立っていた。壁際の燭台の灯りが、完璧な横顔を照らしている。
「クラリッサ」
呼ばれた声は穏やかに聞こえる。けれど、その裏には冷たい刃が潜んでいた。
「殿下のお召しに従い参りました」
「先日の夜会――楽しんでいたようだな」
「ええ。おかげさまで」
わたしが平静を装って答えると、殿下の瞳がわずかに鋭く光った。
「……あの場で、誰と踊ったか覚えているか?」
「もちろんですわ。第二王子殿下、レオンハルト様と」
その名を告げた瞬間、部屋の空気が張りつめた。
「軽率だ。噂がどれほど広がったか、君は分かっているのか」
「存じております」
「ならばなぜ、止めなかった」
「……止められるものではございませんでしたわ。わたしが求めたのではなく、殿下が手を差し伸べてくださったのです」
殿下は声を潜め、唇を固く結んだ。「弟に利用されているのだ、君は」
「利用……」
利用という言葉が胸を刺す。けれど同時に、レオンハルトが語った「美しい」の響きが思い出される。あれは利用のための嘘だっただろうか。違う。そう信じられる。
「殿下。……もしわたしが利用されているのだとしても、それを恐れるほど臆病ではございません」
「クラリッサ!」
怒声が飛ぶ。初めて見る殿下の感情。硝子の笑みの下に隠された苛立ち。
◇
そのとき、応接室の扉が開いた。
「兄上」
低い声とともに入ってきたのは、レオンハルトだった。背に冬の光を背負い、影を長く伸ばしている。
「何の用だ、レオンハルト」
「噂が広がっていると聞いた。ならば、当事者として話すべきだと思ったまでです」
「当事者、だと?」
二人の視線が交錯する。兄弟の間に流れるのは、血の繋がりよりも濃い緊張だった。
「クラリッサ嬢は、あなたにとって義務の象徴かもしれない。けれど、わたしにとっては違う」
「何を言う」
「彼女は……自分で籠を壊そうとしている。だからこそ、目を離せない」
レオンハルトの言葉は簡潔で、真っ直ぐだった。殿下の微笑みよりもずっと重く、強い。
殿下の眉が怒りに歪む。けれど、彼は社交の仮面を崩すまいと必死に微笑を保った。
「……弟よ。無駄口は慎め。クラリッサは王太子妃となるべき人間だ」
「ならば、彼女に選ばせればいい」
応接室の空気が一瞬凍りついた。選ぶ? わたしに?
だが殿下は答えず、背を向けて窓の外を見つめた。
◇
謁見を終えて屋敷に戻る馬車の中、わたしは深く息を吐いた。メアリが心配そうに問いかける。
「お嬢様……王太子殿下は」
「ええ。怒っておられたわ。けれど、それ以上に……弟君を恐れているように見えた」
窓の外には雪が舞っている。白い花弁のように散る雪片が、闇の中で淡く光る。
わたしは膝の上のハンカチを握りしめた。利用かもしれない。それでも、あの瞳に映された自分は確かに“ひとりの女性”だった。
「メアリ」
「はい」
「もう、わたしは決めたのかもしれない」
「何を、でございますか」
「鳥籠に戻らないことを」
――硝子の笑みに縛られるのではなく。わたし自身の翼で、空を選ぶことを。
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