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第1話 最悪の再会は、異世界で
チャイムが鳴った瞬間、教室の空気がほんの少しだけゆるんだ。窓際の席から見える冬の夕空は早くも色が沈み、ガラスに映る自分の顔が、どこか疲れて見える。私はノートを閉じる指先に力が入らなくて、ペンケースのチャックを上げる音だけがやけに大きく響いた気がした。周りでは椅子を引く音や、誰かの笑い声が混ざり合い、いつもの放課後の雑音が流れていく。そんな「いつも」の中に、わざわざ思い出したくない人が混ざっていることだけが、私の胸を少し重くした。
「澪ー、今日バイト?」
後ろの席の友達が声をかけてくる。私は笑顔を作るのにワンテンポ遅れてしまい、慌てて頷いた。大丈夫、私は今の生活をちゃんと守っている。過去のことは、もう終わった。終わったはずなのに、教室の反対側で、あの声が弾むのが聞こえた瞬間、背中の奥が冷たくなる。
「ねえ、凛香。駅前のさ、新しいカフェ行こーよ」
その名前は、音としては可愛らしいのに、私にとっては針の束みたいだった。黒川凛香。学生時代、私をいじめていた女。いや、いじめ――なんて柔らかい言葉で包むと、まるで小さな出来事だったみたいに聞こえてしまうから嫌だ。私の時間を削って、息を奪って、鏡の前で自分を見られないようにした、あの人だ。
「いいね! てかさ、澪も誘う? ……って、あいつ今日も地味だし、来てもつまんないか」
凛香の笑い声が、軽くて、何の罪悪感もない音で転がる。私は耳の奥が熱くなるのを感じながら、視線だけをノートの端に落とした。見ない。反応しない。社会人になってから覚えた、痛みを薄める術だ。なのに、身体は勝手に硬くなり、肩が上がり、息が浅くなる。
「黒川さん、相変わらず言うねー」
「だって本当じゃん? ていうか、まだ同じクラスってウケるよね。運命? 最悪」
私の心臓が、どくんと強く打った。運命、という言葉が嫌いだ。もし運命があるなら、どうしてあの頃の私を助けてくれなかったの。どうして「やめろ」と言ってくれる誰かを、私の前に置いてくれなかったの。私は唇を噛み、痛みで現実にしがみつくようにして息を整えた。
「……澪、聞こえてるよね? ねえ、何か言ったら?」
凛香の声が、距離を詰める。靴音がこちらに向かってくるだけで、脳裏に古い光景が蘇る。机を蹴られる音、プリントを破られる感触、笑い声の輪の中で息ができなかったこと。私は背筋を伸ばそうとして、逆に縮こまってしまう。もう大人なのに、身体だけが昔のままだ。
「……何も、ないよ」
やっと絞り出した声は、思ったより小さかった。凛香はそれを聞いて、鼻で笑った気配を立てる。私は顔を上げないまま、心の中で何度も繰り返した。関わらない。関わらない。関わらない。それが最善だと、分かっているから。
「相変わらず蚊みたいな声。聞こえなーい」
「やめなよ凛香」
「えー、だってさ、こういうの、昔から変わんないじゃん?」
昔から。凛香がその言葉を軽く使うたびに、私の中の時間がねじれる。あの頃の私は、泣くことすら許されなかった。泣けば「被害者ぶってる」と笑われ、黙れば「陰気」と呼ばれ、どこへ逃げても追いかけられた。私が悪いわけじゃないと頭で分かるまで、ずいぶん時間がかかった。分かったところで、傷が消えるわけじゃない。
「ねえ澪、さ。社会人になってもそのままって逆に才能だよ。無味無臭っていうか、空気? 透明人間?」
凛香の指が、私の机の角を軽く叩いた。コツ、コツ、という音が、鼓膜の奥で暴れる。私は手のひらを握りしめて、爪が食い込む痛みで正気を保った。周りのクラスメイトは、見て見ぬふりをしている。止める人もいるけれど、決して本気では止めない。その感じも、昔と変わらない。
「……やめて」
喉の奥から出た言葉は、私自身が驚くほど、かすれていた。凛香の笑いが一瞬止まり、すぐに面白がる温度に変わる。私は顔を上げてしまいそうになって、慌てて視線を逸らした。見たら負け、みたいな幼いルールが、今も私を縛っている。ほんの少しでも対等に目を合わせたら、また何かを奪われる気がして。
「は? 何その、被害者ムーブ。今さら? こっちはただ雑談してるだけなんですけどー」
「凛香、ほんとにやめなって」
「えー、だってさぁ。澪も言い返したらいいのに。できないんだよね? 無能だもんね」
無能。凛香が吐き捨てた言葉は、教室の空気を濁らせる毒みたいに広がった。私は頭の中で「違う」と言った。声にしたら負ける気がして、心の中でだけ抵抗した。私は無能じゃない。私はちゃんと仕事をして、生活費を稼いで、毎日を生きている。でも、凛香の前だと、その小さな誇りさえ、紙みたいに薄くなる。
「……もう、帰るから」
私は鞄の持ち手を掴んで立ち上がった。足が少し震えたけれど、無理やり前へ出る。逃げる、じゃない。距離を取る。これは自分を守る行動だ。そう言い聞かせるほど、みじめさが湧いてきてしまうのが、また悔しかった。
「お、逃げるんだ。さすが澪。結局そういうとこだよね」
凛香が背中に言葉を投げつける。私は振り返らなかった。振り返らないことだけが、私の勝ち方だった。教室の出口が遠く感じる。たった数メートルなのに、昔の廊下みたいに長い。
その瞬間だった。床が、ほんのわずかに、震えた。最初は誰かが机を揺らしたのかと思った。けれど揺れは机ではなく、空気そのものから来ていた。耳の奥が詰まり、視界の端が、薄く白く滲む。ざわめきが一斉に上がり、誰かが冗談みたいに叫ぶ。
「え、地震!?」
「違う、なんか光って――」
私は立ち止まり、足元を見下ろした。床の木目の上に、見慣れない模様が浮かび上がっている。円と線が絡み合った、古い紋章みたいな光。クラスメイトたちの足元にも同じ模様が広がり、まるで教室全体が一枚の巨大な魔法陣になったみたいだった。あり得ない。現実じゃない。そう思うのに、光は熱を持って、皮膚の下まで入り込んでくる。
「なにこれ……」
私の声は、自分でも聞こえないほど小さかった。喉が渇いて、唾が飲み込めない。誰かがスマホを取り出して撮ろうとするが、画面がノイズで埋まっている。教室の蛍光灯が一斉に瞬き、窓の外の夕空が、まるで白い布で覆われたように消えていく。世界の色が奪われていく感覚に、私は思わず鞄を胸に抱きしめた。
「うそ、やば……なに、これ、映画?」
「先生! 先生どこ!?」
「電気、消えた!? いや、光ってる!」
叫び声が交錯し、椅子が倒れ、机が軋む。私は混乱の中心にいたくなくて、出口へ向かってもう一歩踏み出した。だが足元の光が、ぴたりと私の動きを止めるみたいに強くなる。足裏から熱が上がり、膝が笑い、立っているだけで精一杯になった。
そして、背後から、あの声がした。
「……は? なにこれ。ウケるんだけど」
黒川凛香は、怯えていなかった。怖がるどころか、目を輝かせていた。まるで自分が主役の舞台が整ったことを確信したみたいに、唇の端を上げる。その表情に、私は言葉にならない嫌悪を覚えた。どうして、そんな顔ができるの。みんながパニックなのに。私の心臓は早鐘を打ち、息が喉に引っかかる。
「ねえ澪、見て。これ、絶対なんか始まるやつじゃん。異世界転移とか? 召喚とか?」
凛香が、私の名前を軽く呼んだ。胸がぎゅっと締まる。私は振り向きたくないのに、体が勝手に反応してしまう。視線を向けてしまった瞬間、凛香の瞳が私を捉えた。獲物を見つけたみたいな、楽しそうな目だった。
「……やだ、やめて……」
「何が? 澪、こういうの好きそうじゃん。地味だから、ファンタジーに逃げるタイプでしょ?」
私の口の中が苦くなる。違う。私は逃げたくない。現実でちゃんと生きたい。でも、今起きていることは、現実を踏み外している。足元の魔法陣が、さらに輝きを増し、教室の壁が白に溶け始める。クラスメイトたちの輪郭が薄くなり、声が水の中みたいに遠くなる。
「凛香、これ、ほんとにやば――」
「やばいって最高じゃん。あたし、こういうの持ってる気がするんだよね。選ばれる側っていうか」
凛香は胸に手を当てて、誇らしげに言った。選ばれる。そう言った口元が、学生時代に私を笑ったときと同じ角度で歪む。私はその瞬間、はっきりと確信した。もしこれが本当に「召喚」なら、私の人生はまた凛香に絡め取られる。もう二度と関わりたくないのに。なのに世界の方が、私たちを同じ場所へ引きずっていこうとしている。
教室の中心から、低い唸り声のような音が立ち上がった。風もないのに髪が浮き、制服の裾がばたつく。光が視界を塗りつぶし、私は反射的に目を閉じた。まぶたの裏側まで白く焼けて、涙が勝手に滲む。
「……っ!」
強い引力が、身体を下へではなく、どこか別の方向へ引っ張った。床が消える感覚。胃がふわりと浮く。世界が落ちる。私は鞄を抱いたまま、声にならない悲鳴を喉の奥で潰した。耳元で、凛香が笑った気がした。
「始まった。ね、澪。これ、あたしたちの運命だよ」
その言葉が、最後の釘みたいに私の心に刺さったまま、光が完全に私を飲み込んだ。
△
視界が真っ白になり、音という音が一度すべて剥ぎ取られた。無音の中で、心臓の鼓動だけがやけに大きく響き、胸の内側を叩く。身体がどこへ向かっているのか分からないまま、ただ落ちているような、引き伸ばされているような感覚に包まれていた。目を開ける勇気が出ず、私はただ祈るように、鞄を抱きしめる腕に力を込めた。現実であってほしいと願う気持ちと、夢であってほしいという逃げが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まっていた。
次に戻ってきたのは、重力だった。どん、と鈍い衝撃が足の裏から伝わり、膝ががくりと折れる。床に手をついた拍子に、冷たい感触が掌に広がった。木でもコンクリートでもない、どこか滑らかで、ひんやりとした石の感触。私は息を詰め、恐る恐る目を開けた。
高い天井が視界に飛び込んできた。見上げるほどに高く、曲線を描く天井には、見たことのない模様が彫り込まれている。淡い光がどこからともなく差し込み、空間全体を柔らかく照らしていた。教室の蛍光灯の白とは違う、温度を感じる光。その時点で、私ははっきりと悟ってしまった。ここは、元いた場所ではない。
「……ここ、どこ……?」
声が、思った以上に震えていた。喉が乾き、唇がひび割れそうになる。周囲を見渡すと、私と同じように床に座り込んだり、立ち尽くしたりしている人影があった。制服姿のクラスメイトたち。誰もが混乱し、目を見開き、息を荒くしている。現実感を失った表情が、いくつも並んでいる。
「まじで……異世界?」
「うそ、夢だよね? これ」
「先生、先生は……?」
ざわめきが少しずつ戻ってきて、私はようやく呼吸を取り戻した。心臓がまだ早鐘を打っているけれど、立っていられないほどではない。私はゆっくりと立ち上がり、足元を確かめた。床は白い石でできていて、幾何学的な紋様が刻まれている。その中心に、私たちは集められていた。
正面を見ると、広い階段の上に、豪奢な椅子が並んでいるのが見えた。金色の装飾、深い赤の布、どれも現実離れしている。その椅子に座る人々は、長い衣をまとい、頭には冠や飾りを載せていた。まるで歴史の教科書や、ファンタジー映画の中の王族や貴族みたいだった。喉の奥がひくりと鳴る。
「おお……成功したか」
低く、重みのある声が空間に響いた。その声に、私たちのざわめきが一斉に小さくなる。階段の中央に立つ、白髪混じりの男性が、ゆっくりと私たちを見下ろしていた。威圧感というより、長年権力の中心にいた人特有の、当たり前のような存在感がある。
「異界の者たちよ。よくぞ我らの召喚に応じてくれた」
応じた覚えなんて、どこにもない。私の胸に、反射的な反発が湧いた。でも、その言葉を口にする人はいない。誰もが、この異常な状況をどう受け止めればいいのか分からず、言葉を失っている。
「ここは、アルセリア王国。そなたたちは、この世界を救うために呼び出された」
救う。世界を。そんな大それた言葉が、あまりにも軽々と告げられて、私は現実感をさらに失った。救う力なんて、私にはない。ただ必死に日々をやり過ごしてきただけの人間だ。隣に立つクラスメイトの肩が、小刻みに震えているのが見える。
「……なにそれ。ゲームみたいじゃん」
その空気を切り裂くように、明るい声が響いた。私は、聞き覚えのある声に、嫌でもそちらを見てしまう。黒川凛香が、一歩前に出ていた。彼女は周囲をぐるりと見渡し、楽しそうに笑っている。恐怖よりも好奇心が勝っている表情だった。
「異世界召喚で、世界を救う役割? それってさ、勇者とか、聖女とか、そういうやつ?」
凛香の言葉に、王族らしき人々がざわりと反応した。白髪の男性は、一瞬だけ眉を動かし、それから小さく頷く。
「その通りだ。我らは、この国を脅かす災厄に対抗するため、異界より“聖女候補”を召喚した」
聖女。その単語が、胸の奥で不穏に反響した。私は自分とは無縁の言葉だと、即座に思った。光り輝く奇跡を起こす存在。信仰の象徴。そんな役割が、私に当てはまるはずがない。
「聖女候補、だって」
凛香は嬉しそうに笑った。まるで、その称号が自分のために用意されていたと信じて疑わないような顔だった。胸に手を当て、わざとらしく背筋を伸ばす。その仕草が、ひどく自然に見えてしまうのが、また嫌だった。
「やっぱりね。あたし、昔から運がいいって言われてたし。こういうの、向いてると思うんだよね」
彼女の言葉に、何人かのクラスメイトが苦笑したり、半信半疑の表情を浮かべたりする。私は視線を下げ、足元の石模様を見つめた。関わりたくない。ここでも、凛香の舞台が始まるのなら、私はただの背景でいたい。
「これより、聖女候補としての適性を測る儀を行う」
白髪の男性の合図で、数人の神官らしき人物が前に出てきた。手には、水晶や、銀色の器具を持っている。空気が、張りつめていくのを感じた。評価される。測られる。その感覚が、胃の奥をひやりとさせる。学生時代、何度も味わった視線と同じだ。
「一人ずつ、前へ出よ」
名前が呼ばれる前に、凛香がさっと前に出た。誰に促されるでもなく、自信満々に歩く姿は、さすがだと思ってしまうほど堂々としている。私は唇を噛み、視線を逸らした。見ない。期待しない。心を閉じる。
凛香が水晶に手をかざした瞬間、空気が変わった。ぱあっと、眩い光が広間を満たす。思わず目を細めてしまうほどの輝きに、どよめきが起こる。光は脈打つように強まり、凛香の身体を包み込んだ。
「……これは」
「なんという魔力量だ」
「聖女の資質、間違いあるまい」
王族や神官たちの声が、感嘆に満ちているのが分かる。凛香は、光の中心で、誇らしげに微笑んでいた。勝ち誇った視線が、一瞬だけ私の方を掠める。その視線に、胸がずきりと痛んだ。やっぱり。そうなるよね。頭のどこかで、冷めた声が囁く。
「黒川凛香。そなたは、極めて高い適性を示した」
その宣告に、凛香はさらに胸を張った。周囲から拍手のような音が起こり、私はその場に立ち尽くしたまま、拍手をすることもできなかった。手が重くて、動かない。
次々と、クラスメイトたちが呼ばれていく。光る者、ほとんど反応のない者。ざわめきと落胆と、安堵が入り混じる。私は自分の順番が近づくにつれて、心臓が喉までせり上がってくるのを感じていた。逃げたい。でも、逃げ場はない。
「……次、白石澪」
名前を呼ばれた瞬間、身体がびくりと跳ねた。視線が一斉に集まる。私は息を吸い込み、震える足で一歩前に出た。床の冷たさが、靴底越しに伝わる。水晶の前に立つと、無意識に背中が丸くなってしまう。
「手を、かざして」
神官の淡々とした声に従い、私はそっと水晶に手を伸ばした。ひんやりとした感触。目を閉じ、何も起きないでほしいと願う自分がいた。期待されるのが、怖かった。
……何も、起きなかった。
光は、ほんのわずかに揺れただけで、すぐに静まった。先ほどの凛香の眩さとは比べものにならない、かすかな反応。沈黙が落ちる。私は、ゆっくりと目を開け、神官の顔を見た。彼は困ったように眉を寄せ、隣の者と小声で何かを話している。
「……魔力量、極めて低し」
「聖女としての適性は……見られぬな」
その言葉が、はっきりと告げられた瞬間、胸の奥がすとんと落ちた。驚きよりも、妙な納得が先に来る。やっぱり、そうだよね。私は何も持っていない。凛香とは違う。分かっていたことだ。
「……え、なにそれ」
背後から、くすっと笑う声が聞こえた。凛香だ。私は振り返らなかったけれど、その気配だけで、彼女の表情が目に浮かぶ。
「やっぱ無能じゃん。澪、ここでも役立たずなんだ」
その言葉が、広間に小さく、でも確かに響いた。誰かが気まずそうに視線を逸らし、誰かが同情の目を向ける。私は唇を噛み、俯いた。悔しさよりも、慣れきった痛みが、静かに広がる。ここでも、私は「そういう役」なんだ。
「白石澪。そなたは、聖女候補としては不適格だ」
白髪の男性の声が、判決のように響く。私は頷くことしかできなかった。反論する理由も、力も、ない。期待されなかったことが、唯一の救いだった。
「以後、聖女候補としての扱いはせぬ。一般人として、この国での処遇を考える」
一般人。その言葉に、凛香が小さく鼻を鳴らした。
「ほらね。やっぱり選ばれるのは、あたしだった」
私は視線を下げたまま、拳を握りしめた。ここでも始まった。最悪の再会は、最悪の形で続いていく。私は、凛香と同じ世界に呼び出され、そしてまた、彼女の影に追いやられた。その事実が、ゆっくりと、でも確実に、私の心を締め付けていく。
◇
広間の空気が、微妙に変わったのを感じた。凛香を中心に、期待と称賛が集まり、私の周囲だけが薄く冷えていく。まるで見えない壁が引かれたみたいに、距離ができる。私は視線を上げることができず、床の模様を眺めながら、自分の呼吸の音だけを数えていた。ひとつ、ふたつ、と数えるたびに、心臓の鼓動が少しずつ落ち着いていく。
「では、聖女候補・黒川凛香を中心に、今後の儀式と教育を進める」
白髪の男性の言葉に、凛香は待ってましたと言わんばかりに一歩前へ出た。軽く髪を払う仕草が、異様にこの場に馴染んでいる。彼女は、こういう舞台で注目を浴びることに慣れている。学生時代からずっとそうだった。私はその背中を見つめながら、胸の奥がじくじくと痛むのを感じていた。
「他の者たちは、しばらく王城に滞在し、適性に応じた役割を与える」
ざわめきが再び広がる。期待と不安が入り混じった声が、広間を満たす。私は、その輪の外に立たされている感覚を強く意識していた。役割。与えられるものがある人と、ない人。私は、後者だ。
「……白石澪」
再び名前を呼ばれ、身体が小さく跳ねた。私は恐る恐る顔を上げ、声の主を見る。白髪の男性は、私を見下ろす目に、興味よりも事務的な色を浮かべていた。
「そなたは、聖女候補ではない以上、特別な庇護は与えられぬ」
分かっている。頭では分かっている。でも、その言葉を真正面から突きつけられると、胸の奥が冷たくなる。私は小さく頷いた。ここで泣いたり、すがったりするのは違う。そう自分に言い聞かせる。
「王城での滞在も、必要最低限とする。追って、処遇を決めよう」
必要最低限。その言葉が、私の価値をきれいに数値化していく。私は返事をする代わりに、ただ深く頭を下げた。顔を上げると、凛香がこちらを見て、楽しそうに笑っているのが視界の端に入る。
「ねえ澪、よかったじゃん。居場所、用意してもらえて」
凛香の声は、あくまで軽い。冗談みたいに、でも確実に刺さる言い方だった。私は彼女を見なかった。見たら、また昔みたいに、言葉を奪われる気がした。
「黒川凛香。そなたは、こちらへ」
神官の一人が凛香を呼び、彼女は迷いなく階段を上がっていく。王族の近くへ進むその背中は、誇らしげで、眩しい。彼女の周囲には、自然と人が集まり、声をかけ、笑顔を向ける。私はその光景を、少し離れた場所から眺めていた。
ああ、やっぱり。そう思う自分がいる。私は、こういう場面では、いつも端にいる。中心に立つ人を見上げて、拍手をするか、黙るかしか選べない役。選ばれない側の人間だ。
「……白石さん」
低い声で呼ばれ、振り向くと、神官の一人が立っていた。彼は私に近づき、声を潜める。
「こちらへ。今後の説明をする」
私は小さく頷き、彼の後について歩いた。広間の中心から離れるにつれて、周囲の音が遠くなる。凛香の笑い声、王族たちの会話、すべてが、まるで別の世界の出来事みたいだった。歩きながら、私は自分の足音だけを聞いていた。石の床に靴底が当たる、規則正しい音。それだけが、私を現実につなぎとめている。
「……私、帰れますか」
気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。神官は一瞬、足を止め、私を見た。困ったように眉を寄せ、少しだけ首を振る。
「元の世界へ戻す術は、今のところ確立していない」
やっぱり。そうだよね。私は苦笑にもならない表情で、視線を落とした。帰れない。ここで生きるしかない。それが、今の現実だ。
「ただし、無理に危険な役割を押し付けるつもりはない」
神官は続けた。
「王城の雑務や、城下での仕事を斡旋することになるだろう」
雑務。仕事。生活のための役割。聖女じゃない私には、それが精一杯の居場所なのだろう。私はその言葉を、静かに受け止めた。期待していなかったから、落胆も少ない。そう思いたかった。
ふと、背後から視線を感じた。振り返らなくても分かる。凛香だ。彼女は階段の上から、私を見下ろしている。勝者が、敗者を確認するみたいな目で。
「澪」
名前を呼ばれ、私は思わず立ち止まった。神官が怪訝そうに振り返るが、凛香は構わず言葉を続ける。
「せっかく一緒に呼ばれたんだしさ。変に足引っ張らないでね」
足を引っ張る。そんなこと、する力もないのに。私は凛香を見上げた。久しぶりに、正面から彼女の顔を見る。美しく整った顔立ち。自信に満ちた笑み。その裏にあるものを、私は知っているはずなのに、今は何も言えなかった。
「……分かってる」
それだけ答えるのが、精一杯だった。凛香は満足そうに頷き、興味を失ったように視線を逸らす。その仕草が、学生時代とまったく同じで、胸の奥がきしんだ。
私は再び歩き出した。神官に導かれ、広間の隅へと向かう。背中に、さっきまでの視線が残っている気がして、肩が重くなる。ここでも、私は凛香の影の中にいる。逃げられない。逃げ場がない。
でも、心の奥の、ほんの小さな場所で、別の感情が芽生えていた。悔しい。悲しい。それだけじゃない。どうして、私だけが、こんな役を与えられるのか。どうして、凛香はいつも、当然のように選ばれるのか。
その問いは、今はまだ、形にならない。ただ、胸の奥で静かに、熱を帯び始めていた。
チャイムが鳴った瞬間、教室の空気がほんの少しだけゆるんだ。窓際の席から見える冬の夕空は早くも色が沈み、ガラスに映る自分の顔が、どこか疲れて見える。私はノートを閉じる指先に力が入らなくて、ペンケースのチャックを上げる音だけがやけに大きく響いた気がした。周りでは椅子を引く音や、誰かの笑い声が混ざり合い、いつもの放課後の雑音が流れていく。そんな「いつも」の中に、わざわざ思い出したくない人が混ざっていることだけが、私の胸を少し重くした。
「澪ー、今日バイト?」
後ろの席の友達が声をかけてくる。私は笑顔を作るのにワンテンポ遅れてしまい、慌てて頷いた。大丈夫、私は今の生活をちゃんと守っている。過去のことは、もう終わった。終わったはずなのに、教室の反対側で、あの声が弾むのが聞こえた瞬間、背中の奥が冷たくなる。
「ねえ、凛香。駅前のさ、新しいカフェ行こーよ」
その名前は、音としては可愛らしいのに、私にとっては針の束みたいだった。黒川凛香。学生時代、私をいじめていた女。いや、いじめ――なんて柔らかい言葉で包むと、まるで小さな出来事だったみたいに聞こえてしまうから嫌だ。私の時間を削って、息を奪って、鏡の前で自分を見られないようにした、あの人だ。
「いいね! てかさ、澪も誘う? ……って、あいつ今日も地味だし、来てもつまんないか」
凛香の笑い声が、軽くて、何の罪悪感もない音で転がる。私は耳の奥が熱くなるのを感じながら、視線だけをノートの端に落とした。見ない。反応しない。社会人になってから覚えた、痛みを薄める術だ。なのに、身体は勝手に硬くなり、肩が上がり、息が浅くなる。
「黒川さん、相変わらず言うねー」
「だって本当じゃん? ていうか、まだ同じクラスってウケるよね。運命? 最悪」
私の心臓が、どくんと強く打った。運命、という言葉が嫌いだ。もし運命があるなら、どうしてあの頃の私を助けてくれなかったの。どうして「やめろ」と言ってくれる誰かを、私の前に置いてくれなかったの。私は唇を噛み、痛みで現実にしがみつくようにして息を整えた。
「……澪、聞こえてるよね? ねえ、何か言ったら?」
凛香の声が、距離を詰める。靴音がこちらに向かってくるだけで、脳裏に古い光景が蘇る。机を蹴られる音、プリントを破られる感触、笑い声の輪の中で息ができなかったこと。私は背筋を伸ばそうとして、逆に縮こまってしまう。もう大人なのに、身体だけが昔のままだ。
「……何も、ないよ」
やっと絞り出した声は、思ったより小さかった。凛香はそれを聞いて、鼻で笑った気配を立てる。私は顔を上げないまま、心の中で何度も繰り返した。関わらない。関わらない。関わらない。それが最善だと、分かっているから。
「相変わらず蚊みたいな声。聞こえなーい」
「やめなよ凛香」
「えー、だってさ、こういうの、昔から変わんないじゃん?」
昔から。凛香がその言葉を軽く使うたびに、私の中の時間がねじれる。あの頃の私は、泣くことすら許されなかった。泣けば「被害者ぶってる」と笑われ、黙れば「陰気」と呼ばれ、どこへ逃げても追いかけられた。私が悪いわけじゃないと頭で分かるまで、ずいぶん時間がかかった。分かったところで、傷が消えるわけじゃない。
「ねえ澪、さ。社会人になってもそのままって逆に才能だよ。無味無臭っていうか、空気? 透明人間?」
凛香の指が、私の机の角を軽く叩いた。コツ、コツ、という音が、鼓膜の奥で暴れる。私は手のひらを握りしめて、爪が食い込む痛みで正気を保った。周りのクラスメイトは、見て見ぬふりをしている。止める人もいるけれど、決して本気では止めない。その感じも、昔と変わらない。
「……やめて」
喉の奥から出た言葉は、私自身が驚くほど、かすれていた。凛香の笑いが一瞬止まり、すぐに面白がる温度に変わる。私は顔を上げてしまいそうになって、慌てて視線を逸らした。見たら負け、みたいな幼いルールが、今も私を縛っている。ほんの少しでも対等に目を合わせたら、また何かを奪われる気がして。
「は? 何その、被害者ムーブ。今さら? こっちはただ雑談してるだけなんですけどー」
「凛香、ほんとにやめなって」
「えー、だってさぁ。澪も言い返したらいいのに。できないんだよね? 無能だもんね」
無能。凛香が吐き捨てた言葉は、教室の空気を濁らせる毒みたいに広がった。私は頭の中で「違う」と言った。声にしたら負ける気がして、心の中でだけ抵抗した。私は無能じゃない。私はちゃんと仕事をして、生活費を稼いで、毎日を生きている。でも、凛香の前だと、その小さな誇りさえ、紙みたいに薄くなる。
「……もう、帰るから」
私は鞄の持ち手を掴んで立ち上がった。足が少し震えたけれど、無理やり前へ出る。逃げる、じゃない。距離を取る。これは自分を守る行動だ。そう言い聞かせるほど、みじめさが湧いてきてしまうのが、また悔しかった。
「お、逃げるんだ。さすが澪。結局そういうとこだよね」
凛香が背中に言葉を投げつける。私は振り返らなかった。振り返らないことだけが、私の勝ち方だった。教室の出口が遠く感じる。たった数メートルなのに、昔の廊下みたいに長い。
その瞬間だった。床が、ほんのわずかに、震えた。最初は誰かが机を揺らしたのかと思った。けれど揺れは机ではなく、空気そのものから来ていた。耳の奥が詰まり、視界の端が、薄く白く滲む。ざわめきが一斉に上がり、誰かが冗談みたいに叫ぶ。
「え、地震!?」
「違う、なんか光って――」
私は立ち止まり、足元を見下ろした。床の木目の上に、見慣れない模様が浮かび上がっている。円と線が絡み合った、古い紋章みたいな光。クラスメイトたちの足元にも同じ模様が広がり、まるで教室全体が一枚の巨大な魔法陣になったみたいだった。あり得ない。現実じゃない。そう思うのに、光は熱を持って、皮膚の下まで入り込んでくる。
「なにこれ……」
私の声は、自分でも聞こえないほど小さかった。喉が渇いて、唾が飲み込めない。誰かがスマホを取り出して撮ろうとするが、画面がノイズで埋まっている。教室の蛍光灯が一斉に瞬き、窓の外の夕空が、まるで白い布で覆われたように消えていく。世界の色が奪われていく感覚に、私は思わず鞄を胸に抱きしめた。
「うそ、やば……なに、これ、映画?」
「先生! 先生どこ!?」
「電気、消えた!? いや、光ってる!」
叫び声が交錯し、椅子が倒れ、机が軋む。私は混乱の中心にいたくなくて、出口へ向かってもう一歩踏み出した。だが足元の光が、ぴたりと私の動きを止めるみたいに強くなる。足裏から熱が上がり、膝が笑い、立っているだけで精一杯になった。
そして、背後から、あの声がした。
「……は? なにこれ。ウケるんだけど」
黒川凛香は、怯えていなかった。怖がるどころか、目を輝かせていた。まるで自分が主役の舞台が整ったことを確信したみたいに、唇の端を上げる。その表情に、私は言葉にならない嫌悪を覚えた。どうして、そんな顔ができるの。みんながパニックなのに。私の心臓は早鐘を打ち、息が喉に引っかかる。
「ねえ澪、見て。これ、絶対なんか始まるやつじゃん。異世界転移とか? 召喚とか?」
凛香が、私の名前を軽く呼んだ。胸がぎゅっと締まる。私は振り向きたくないのに、体が勝手に反応してしまう。視線を向けてしまった瞬間、凛香の瞳が私を捉えた。獲物を見つけたみたいな、楽しそうな目だった。
「……やだ、やめて……」
「何が? 澪、こういうの好きそうじゃん。地味だから、ファンタジーに逃げるタイプでしょ?」
私の口の中が苦くなる。違う。私は逃げたくない。現実でちゃんと生きたい。でも、今起きていることは、現実を踏み外している。足元の魔法陣が、さらに輝きを増し、教室の壁が白に溶け始める。クラスメイトたちの輪郭が薄くなり、声が水の中みたいに遠くなる。
「凛香、これ、ほんとにやば――」
「やばいって最高じゃん。あたし、こういうの持ってる気がするんだよね。選ばれる側っていうか」
凛香は胸に手を当てて、誇らしげに言った。選ばれる。そう言った口元が、学生時代に私を笑ったときと同じ角度で歪む。私はその瞬間、はっきりと確信した。もしこれが本当に「召喚」なら、私の人生はまた凛香に絡め取られる。もう二度と関わりたくないのに。なのに世界の方が、私たちを同じ場所へ引きずっていこうとしている。
教室の中心から、低い唸り声のような音が立ち上がった。風もないのに髪が浮き、制服の裾がばたつく。光が視界を塗りつぶし、私は反射的に目を閉じた。まぶたの裏側まで白く焼けて、涙が勝手に滲む。
「……っ!」
強い引力が、身体を下へではなく、どこか別の方向へ引っ張った。床が消える感覚。胃がふわりと浮く。世界が落ちる。私は鞄を抱いたまま、声にならない悲鳴を喉の奥で潰した。耳元で、凛香が笑った気がした。
「始まった。ね、澪。これ、あたしたちの運命だよ」
その言葉が、最後の釘みたいに私の心に刺さったまま、光が完全に私を飲み込んだ。
△
視界が真っ白になり、音という音が一度すべて剥ぎ取られた。無音の中で、心臓の鼓動だけがやけに大きく響き、胸の内側を叩く。身体がどこへ向かっているのか分からないまま、ただ落ちているような、引き伸ばされているような感覚に包まれていた。目を開ける勇気が出ず、私はただ祈るように、鞄を抱きしめる腕に力を込めた。現実であってほしいと願う気持ちと、夢であってほしいという逃げが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まっていた。
次に戻ってきたのは、重力だった。どん、と鈍い衝撃が足の裏から伝わり、膝ががくりと折れる。床に手をついた拍子に、冷たい感触が掌に広がった。木でもコンクリートでもない、どこか滑らかで、ひんやりとした石の感触。私は息を詰め、恐る恐る目を開けた。
高い天井が視界に飛び込んできた。見上げるほどに高く、曲線を描く天井には、見たことのない模様が彫り込まれている。淡い光がどこからともなく差し込み、空間全体を柔らかく照らしていた。教室の蛍光灯の白とは違う、温度を感じる光。その時点で、私ははっきりと悟ってしまった。ここは、元いた場所ではない。
「……ここ、どこ……?」
声が、思った以上に震えていた。喉が乾き、唇がひび割れそうになる。周囲を見渡すと、私と同じように床に座り込んだり、立ち尽くしたりしている人影があった。制服姿のクラスメイトたち。誰もが混乱し、目を見開き、息を荒くしている。現実感を失った表情が、いくつも並んでいる。
「まじで……異世界?」
「うそ、夢だよね? これ」
「先生、先生は……?」
ざわめきが少しずつ戻ってきて、私はようやく呼吸を取り戻した。心臓がまだ早鐘を打っているけれど、立っていられないほどではない。私はゆっくりと立ち上がり、足元を確かめた。床は白い石でできていて、幾何学的な紋様が刻まれている。その中心に、私たちは集められていた。
正面を見ると、広い階段の上に、豪奢な椅子が並んでいるのが見えた。金色の装飾、深い赤の布、どれも現実離れしている。その椅子に座る人々は、長い衣をまとい、頭には冠や飾りを載せていた。まるで歴史の教科書や、ファンタジー映画の中の王族や貴族みたいだった。喉の奥がひくりと鳴る。
「おお……成功したか」
低く、重みのある声が空間に響いた。その声に、私たちのざわめきが一斉に小さくなる。階段の中央に立つ、白髪混じりの男性が、ゆっくりと私たちを見下ろしていた。威圧感というより、長年権力の中心にいた人特有の、当たり前のような存在感がある。
「異界の者たちよ。よくぞ我らの召喚に応じてくれた」
応じた覚えなんて、どこにもない。私の胸に、反射的な反発が湧いた。でも、その言葉を口にする人はいない。誰もが、この異常な状況をどう受け止めればいいのか分からず、言葉を失っている。
「ここは、アルセリア王国。そなたたちは、この世界を救うために呼び出された」
救う。世界を。そんな大それた言葉が、あまりにも軽々と告げられて、私は現実感をさらに失った。救う力なんて、私にはない。ただ必死に日々をやり過ごしてきただけの人間だ。隣に立つクラスメイトの肩が、小刻みに震えているのが見える。
「……なにそれ。ゲームみたいじゃん」
その空気を切り裂くように、明るい声が響いた。私は、聞き覚えのある声に、嫌でもそちらを見てしまう。黒川凛香が、一歩前に出ていた。彼女は周囲をぐるりと見渡し、楽しそうに笑っている。恐怖よりも好奇心が勝っている表情だった。
「異世界召喚で、世界を救う役割? それってさ、勇者とか、聖女とか、そういうやつ?」
凛香の言葉に、王族らしき人々がざわりと反応した。白髪の男性は、一瞬だけ眉を動かし、それから小さく頷く。
「その通りだ。我らは、この国を脅かす災厄に対抗するため、異界より“聖女候補”を召喚した」
聖女。その単語が、胸の奥で不穏に反響した。私は自分とは無縁の言葉だと、即座に思った。光り輝く奇跡を起こす存在。信仰の象徴。そんな役割が、私に当てはまるはずがない。
「聖女候補、だって」
凛香は嬉しそうに笑った。まるで、その称号が自分のために用意されていたと信じて疑わないような顔だった。胸に手を当て、わざとらしく背筋を伸ばす。その仕草が、ひどく自然に見えてしまうのが、また嫌だった。
「やっぱりね。あたし、昔から運がいいって言われてたし。こういうの、向いてると思うんだよね」
彼女の言葉に、何人かのクラスメイトが苦笑したり、半信半疑の表情を浮かべたりする。私は視線を下げ、足元の石模様を見つめた。関わりたくない。ここでも、凛香の舞台が始まるのなら、私はただの背景でいたい。
「これより、聖女候補としての適性を測る儀を行う」
白髪の男性の合図で、数人の神官らしき人物が前に出てきた。手には、水晶や、銀色の器具を持っている。空気が、張りつめていくのを感じた。評価される。測られる。その感覚が、胃の奥をひやりとさせる。学生時代、何度も味わった視線と同じだ。
「一人ずつ、前へ出よ」
名前が呼ばれる前に、凛香がさっと前に出た。誰に促されるでもなく、自信満々に歩く姿は、さすがだと思ってしまうほど堂々としている。私は唇を噛み、視線を逸らした。見ない。期待しない。心を閉じる。
凛香が水晶に手をかざした瞬間、空気が変わった。ぱあっと、眩い光が広間を満たす。思わず目を細めてしまうほどの輝きに、どよめきが起こる。光は脈打つように強まり、凛香の身体を包み込んだ。
「……これは」
「なんという魔力量だ」
「聖女の資質、間違いあるまい」
王族や神官たちの声が、感嘆に満ちているのが分かる。凛香は、光の中心で、誇らしげに微笑んでいた。勝ち誇った視線が、一瞬だけ私の方を掠める。その視線に、胸がずきりと痛んだ。やっぱり。そうなるよね。頭のどこかで、冷めた声が囁く。
「黒川凛香。そなたは、極めて高い適性を示した」
その宣告に、凛香はさらに胸を張った。周囲から拍手のような音が起こり、私はその場に立ち尽くしたまま、拍手をすることもできなかった。手が重くて、動かない。
次々と、クラスメイトたちが呼ばれていく。光る者、ほとんど反応のない者。ざわめきと落胆と、安堵が入り混じる。私は自分の順番が近づくにつれて、心臓が喉までせり上がってくるのを感じていた。逃げたい。でも、逃げ場はない。
「……次、白石澪」
名前を呼ばれた瞬間、身体がびくりと跳ねた。視線が一斉に集まる。私は息を吸い込み、震える足で一歩前に出た。床の冷たさが、靴底越しに伝わる。水晶の前に立つと、無意識に背中が丸くなってしまう。
「手を、かざして」
神官の淡々とした声に従い、私はそっと水晶に手を伸ばした。ひんやりとした感触。目を閉じ、何も起きないでほしいと願う自分がいた。期待されるのが、怖かった。
……何も、起きなかった。
光は、ほんのわずかに揺れただけで、すぐに静まった。先ほどの凛香の眩さとは比べものにならない、かすかな反応。沈黙が落ちる。私は、ゆっくりと目を開け、神官の顔を見た。彼は困ったように眉を寄せ、隣の者と小声で何かを話している。
「……魔力量、極めて低し」
「聖女としての適性は……見られぬな」
その言葉が、はっきりと告げられた瞬間、胸の奥がすとんと落ちた。驚きよりも、妙な納得が先に来る。やっぱり、そうだよね。私は何も持っていない。凛香とは違う。分かっていたことだ。
「……え、なにそれ」
背後から、くすっと笑う声が聞こえた。凛香だ。私は振り返らなかったけれど、その気配だけで、彼女の表情が目に浮かぶ。
「やっぱ無能じゃん。澪、ここでも役立たずなんだ」
その言葉が、広間に小さく、でも確かに響いた。誰かが気まずそうに視線を逸らし、誰かが同情の目を向ける。私は唇を噛み、俯いた。悔しさよりも、慣れきった痛みが、静かに広がる。ここでも、私は「そういう役」なんだ。
「白石澪。そなたは、聖女候補としては不適格だ」
白髪の男性の声が、判決のように響く。私は頷くことしかできなかった。反論する理由も、力も、ない。期待されなかったことが、唯一の救いだった。
「以後、聖女候補としての扱いはせぬ。一般人として、この国での処遇を考える」
一般人。その言葉に、凛香が小さく鼻を鳴らした。
「ほらね。やっぱり選ばれるのは、あたしだった」
私は視線を下げたまま、拳を握りしめた。ここでも始まった。最悪の再会は、最悪の形で続いていく。私は、凛香と同じ世界に呼び出され、そしてまた、彼女の影に追いやられた。その事実が、ゆっくりと、でも確実に、私の心を締め付けていく。
◇
広間の空気が、微妙に変わったのを感じた。凛香を中心に、期待と称賛が集まり、私の周囲だけが薄く冷えていく。まるで見えない壁が引かれたみたいに、距離ができる。私は視線を上げることができず、床の模様を眺めながら、自分の呼吸の音だけを数えていた。ひとつ、ふたつ、と数えるたびに、心臓の鼓動が少しずつ落ち着いていく。
「では、聖女候補・黒川凛香を中心に、今後の儀式と教育を進める」
白髪の男性の言葉に、凛香は待ってましたと言わんばかりに一歩前へ出た。軽く髪を払う仕草が、異様にこの場に馴染んでいる。彼女は、こういう舞台で注目を浴びることに慣れている。学生時代からずっとそうだった。私はその背中を見つめながら、胸の奥がじくじくと痛むのを感じていた。
「他の者たちは、しばらく王城に滞在し、適性に応じた役割を与える」
ざわめきが再び広がる。期待と不安が入り混じった声が、広間を満たす。私は、その輪の外に立たされている感覚を強く意識していた。役割。与えられるものがある人と、ない人。私は、後者だ。
「……白石澪」
再び名前を呼ばれ、身体が小さく跳ねた。私は恐る恐る顔を上げ、声の主を見る。白髪の男性は、私を見下ろす目に、興味よりも事務的な色を浮かべていた。
「そなたは、聖女候補ではない以上、特別な庇護は与えられぬ」
分かっている。頭では分かっている。でも、その言葉を真正面から突きつけられると、胸の奥が冷たくなる。私は小さく頷いた。ここで泣いたり、すがったりするのは違う。そう自分に言い聞かせる。
「王城での滞在も、必要最低限とする。追って、処遇を決めよう」
必要最低限。その言葉が、私の価値をきれいに数値化していく。私は返事をする代わりに、ただ深く頭を下げた。顔を上げると、凛香がこちらを見て、楽しそうに笑っているのが視界の端に入る。
「ねえ澪、よかったじゃん。居場所、用意してもらえて」
凛香の声は、あくまで軽い。冗談みたいに、でも確実に刺さる言い方だった。私は彼女を見なかった。見たら、また昔みたいに、言葉を奪われる気がした。
「黒川凛香。そなたは、こちらへ」
神官の一人が凛香を呼び、彼女は迷いなく階段を上がっていく。王族の近くへ進むその背中は、誇らしげで、眩しい。彼女の周囲には、自然と人が集まり、声をかけ、笑顔を向ける。私はその光景を、少し離れた場所から眺めていた。
ああ、やっぱり。そう思う自分がいる。私は、こういう場面では、いつも端にいる。中心に立つ人を見上げて、拍手をするか、黙るかしか選べない役。選ばれない側の人間だ。
「……白石さん」
低い声で呼ばれ、振り向くと、神官の一人が立っていた。彼は私に近づき、声を潜める。
「こちらへ。今後の説明をする」
私は小さく頷き、彼の後について歩いた。広間の中心から離れるにつれて、周囲の音が遠くなる。凛香の笑い声、王族たちの会話、すべてが、まるで別の世界の出来事みたいだった。歩きながら、私は自分の足音だけを聞いていた。石の床に靴底が当たる、規則正しい音。それだけが、私を現実につなぎとめている。
「……私、帰れますか」
気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。神官は一瞬、足を止め、私を見た。困ったように眉を寄せ、少しだけ首を振る。
「元の世界へ戻す術は、今のところ確立していない」
やっぱり。そうだよね。私は苦笑にもならない表情で、視線を落とした。帰れない。ここで生きるしかない。それが、今の現実だ。
「ただし、無理に危険な役割を押し付けるつもりはない」
神官は続けた。
「王城の雑務や、城下での仕事を斡旋することになるだろう」
雑務。仕事。生活のための役割。聖女じゃない私には、それが精一杯の居場所なのだろう。私はその言葉を、静かに受け止めた。期待していなかったから、落胆も少ない。そう思いたかった。
ふと、背後から視線を感じた。振り返らなくても分かる。凛香だ。彼女は階段の上から、私を見下ろしている。勝者が、敗者を確認するみたいな目で。
「澪」
名前を呼ばれ、私は思わず立ち止まった。神官が怪訝そうに振り返るが、凛香は構わず言葉を続ける。
「せっかく一緒に呼ばれたんだしさ。変に足引っ張らないでね」
足を引っ張る。そんなこと、する力もないのに。私は凛香を見上げた。久しぶりに、正面から彼女の顔を見る。美しく整った顔立ち。自信に満ちた笑み。その裏にあるものを、私は知っているはずなのに、今は何も言えなかった。
「……分かってる」
それだけ答えるのが、精一杯だった。凛香は満足そうに頷き、興味を失ったように視線を逸らす。その仕草が、学生時代とまったく同じで、胸の奥がきしんだ。
私は再び歩き出した。神官に導かれ、広間の隅へと向かう。背中に、さっきまでの視線が残っている気がして、肩が重くなる。ここでも、私は凛香の影の中にいる。逃げられない。逃げ場がない。
でも、心の奥の、ほんの小さな場所で、別の感情が芽生えていた。悔しい。悲しい。それだけじゃない。どうして、私だけが、こんな役を与えられるのか。どうして、凛香はいつも、当然のように選ばれるのか。
その問いは、今はまだ、形にならない。ただ、胸の奥で静かに、熱を帯び始めていた。
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