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第6話 災厄を呼ぶ魔女
村に、静けさが戻ったのは、騎士たちが去ってしばらくしてからだった。扉の軋む音や、人々の足音が次第に遠のき、残ったのは、かすかな安堵と、言葉にできない緊張だけ。私は家の外に出て、深く息を吸った。胸の奥の温もりは、ようやく穏やかになっている。
「……助かったよ」
背後から声がして、振り向くと、年配の男性が立っていた。彼は、どこか疲れたような、それでいて覚悟を決めた顔をしている。
「これで終わり、とは思っていないだろう」
「……はい」
即答だった。村の空気は軽くなった。でも、完全に澄んだわけじゃない。胸の奥が、まだ警戒を解いていない。
「王都の奇跡が続く限り、歪みはまた流れてくる」
男性はそう言って、遠く、王都の方角を見た。私はその横顔を見ながら、凛香の姿を思い浮かべていた。光の中で、称賛を浴びる彼女。その足元で、確実に積み重なっているもの。
「……魔女の話を、知っているか」
突然、男性がそう切り出した。私は首を振る。
「この国には、昔から伝わる話がある」
彼は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「災厄の前には、必ず“救いの光”が現れる。その光は、人々を一時的に救い、希望を与える」
胸の奥が、かすかにざわついた。
「だが、その光が強すぎる時、それは“魔女の光”と呼ばれる」
私は、無意識に拳を握りしめていた。
「信仰や感謝を糧にして、奇跡を膨らませる力だ。人の願いを吸い上げ、世界を歪める」
凛香の笑顔が、鮮明に蘇る。選ばれる側であることを、疑いもしなかった顔。
「……それは、聖女とは違うんですか」
「似て非なるものだ」
男性は、即座に答えた。
「聖女は、世界の流れを整える。魔女は、流れを無理やり変える」
その違いは、私が感じてきた感覚と、ぴたりと重なっていた。派手な奇跡と、静かな回復。押し上げる力と、戻す力。
「……魔女は、どうなるんですか」
問いは、自然と口から出ていた。男性は、しばらく黙り込んだ後、低く答える。
「世界が耐えられなくなった時、災厄を呼ぶ」
その言葉が、胸に重く落ちた。魔女自身が悪意を持っているとは限らない。ただ、力の使い方が、世界を壊す。そういう存在。
私は、王都の方向を見つめた。凛香は、知らないはずだ。自分が何者になりつつあるのかを。彼女は、ただ選ばれ、称えられ、望まれた役割を演じているだけなのだから。
「……止められるんでしょうか」
その問いに、男性は私を見た。
「それを考えるのが、お前さんの役目になるかもしれん」
胸の奥の温もりが、はっきりと反応した。逃げ道を塞ぐような、でも拒めない感覚。
「私は、聖女じゃありません」
私は、はっきりと言った。名乗るつもりはない。重すぎる。
「名は、どうでもいい」
男性は、静かに首を振る。
「本物は、名乗らずとも、役割から逃げられん」
その言葉に、反論できなかった。
その日の午後、王都から新たな噂が届いた。凛香が、さらに大きな奇跡を起こしたという。枯れた川を一時的に蘇らせ、干ばつに苦しむ地域を救った、と。
村人たちは、その話にどよめいた。喜びと、期待と、不安が入り混じる。
「すごい……」
「これで、安心だな」
私は、その輪の外で、胸の奥を探っていた。温もりは、強く、重く、警告のように鳴っている。川を蘇らせるほどの力。それは、世界の流れを、無理やりねじ曲げる行為だ。
「……揺り戻しが、来る」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
その夜、私は眠れなかった。夢の中で、眩い光が何度も広がり、そのたびに、地面に亀裂が走る。人々は光に向かって手を伸ばし、足元の崩れに気づかない。
目を覚ました時、胸の奥の温もりは、かつてないほど、強く脈打っていた。
凛香は、もう引き返せないところまで来ている。
そして、私もまた、知らないふりをして、ここに留まり続けることはできなくなっていた。
△
翌朝、村の空気は、昨日よりもさらに重かった。空は晴れているのに、どこか色が薄く、音が遠い。人々の動きは鈍く、畑に出る者も少ない。私は宿を出て、村の中心へ向かいながら、その異変を肌で感じていた。胸の奥の温もりが、ずっと警鐘のように鳴り続けている。
「……来てる」
誰に向けた言葉でもなく、ただ事実として呟いた。揺り戻しは、必ず来る。それが、思っていたよりも早いだけだ。
村の外れで、子どもたちが集まっているのが見えた。普段なら、朝から走り回っている時間なのに、今日は皆、地面に座り込んでいる。私は足を速め、声をかけた。
「どうしたの?」
一人の子が、顔を上げる。目が虚ろで、唇が乾いている。
「……なんか、だるい」
別の子は、頭を抱えていた。
「気持ち悪い……」
私は膝をつき、一人ずつ様子を確かめる。致命的な症状ではない。でも、確実に、生命の流れが滞っている。胸の奥の温もりが、はっきりと応えた。
「……少しだけ、触るね」
子どもの肩に手を置く。昨日よりも、はっきりとした感覚が返ってきた。歪みが、広がっている。個人の問題じゃない。これは、土地全体に及び始めている。
私は一人ずつ、慎重に、力を流した。無理に戻さない。押し戻さない。ただ、流れを整える。すると、子どもたちの顔色が、ゆっくりと戻っていく。
「……楽になった」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。でも、同時に理解していた。これは、応急処置に過ぎない。根本は、王都にある。
「ありがとう……」
子どもたちに見送られ、私は立ち上がった。その瞬間、遠くから鐘の音が聞こえた。村のものではない。王都の方角から響く、重く、長い音だ。
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
昼前、行商人が再び村に入ってきた。昨日よりも明らかに慌ただしい様子で、馬から飛び降りるようにして走ってくる。
「……聞いたか」
年配の男性と、私は同時に行商人の方を見た。
「王都が、騒ぎになってる」
行商人は、息を切らしながら続ける。
「川を蘇らせた奇跡の後、下流の土地が一気に干上がった。水が、急に引いたらしい」
胸の奥が、強く脈打った。
「……上流だけを無理やり戻したんだ」
私は、無意識にそう口にしていた。行商人が、ぎょっとしてこちらを見る。
「なんで、分かる」
私は答えなかった。答えられなかった。分かる理由が、あまりにも異常だからだ。
「さらに、王都では体調を崩す人が増えてる」
行商人は声を落とす。
「治ったはずの病が、別の形で出てる。眠れない、息苦しい、理由のない恐怖……」
それは、生命力を無理やり引き上げた反動だ。身体だけじゃない。心まで、歪み始めている。
「……聖女様は?」
誰かが、恐る恐る聞いた。
「奇跡を続けてる」
行商人は、短く答えた。
「求められるからな。止まれない」
その言葉に、私は唇を噛んだ。凛香は、止まれない。止まる理由を、誰も与えていない。むしろ、進めと背中を押している。
村人たちの間に、不安が広がる。
「このままじゃ……」
「また、悪くなるのか」
私は、年配の男性と視線を交わした。彼は、ゆっくりと頷く。
「決断の時だ」
その言葉の意味は、分かっていた。
夕方、私は一人、丘の上に立っていた。村と王都の中間に位置する、見晴らしのいい場所。ここからなら、王都の塔が小さく見える。胸の奥の温もりが、これまでで一番、強く反応している。
「……凛香」
名前を呼ぶと、風が強く吹いた。偶然じゃない。世界そのものが、軋み始めている。
私は目を閉じ、胸の奥に意識を集中させた。これまで、個人に対してしか使ってこなかった力。それを、土地に、流れに、向ける。
すると、見えないはずのものが、はっきりと感じ取れた。川の流れ、地脈、空気の循環。それらが、王都を中心に、無理やり歪められている。まるで、一点に集められ、引き伸ばされた糸の束みたいに。
「……これは」
理解した瞬間、背筋が冷えた。
凛香の力は、世界から直接、奪っている。信仰や感謝を媒介にして、自然の循環そのものをねじ曲げている。それは、癒しではない。消費だ。
胸の奥の温もりが、はっきりと告げる。
――放置すれば、災厄が来る。
それは魔王でも、怪物でもない。枯渇と反動が生み出す、世界そのものの崩壊。
「……止めなきゃ」
声に出した瞬間、逃げ道が消えた。私は、もう、見て見ぬふりはできない。
王都へ行く。凛香と向き合う。友達でも、同級生でも、いじめっ子でもなく。
災厄を呼ぶ魔女として。
そして、それを止める役目を、名乗らずとも背負ってしまった自分として。
◇
丘の上に立ったまま、私はしばらく動けずにいた。王都の塔は夕焼けの中で赤く染まり、その光景が、まるで燃え盛る灯火のように見える。胸の奥の温もりは、もう「静か」ではなかった。確かな意志を伴った圧として、私の内側から背中を押している。
「……行くよ」
誰に言うでもなく、そう呟いた瞬間、風が止んだ。草原が一斉に静まり返り、世界が、私の決断を受け入れたような錯覚を覚える。私は踵を返し、村へ戻った。
年配の男性は、私が戻ってきた時点で、すべてを察していたようだった。集会所の前で腕を組み、黙って私を見ている。
「王都へ、行くんですね」
「……はい」
短い答えだった。迷いは、もう言葉にならない場所へ追いやられている。
「止められると思うか」
問いは、厳しかった。でも、試すような響きはなかった。
「分かりません」
正直に答える。
「でも、止めなければ、もっと多くの人が苦しむ」
年配の男性は、ゆっくりと息を吐いた。
「そうだろうな」
彼は、集会所の扉を開け、中から一冊の古びた本を持ってきた。革表紙は擦り切れ、文字はかすれている。
「これは、村に伝わる写本だ。昔の聖女と、魔女の記録が混ざっている」
私はそれを受け取り、重みを感じた。紙の重さだけじゃない。積み重なった時間の重さだ。
「役に立つかは分からん」
「……ありがとうございます」
深く頭を下げると、彼は苦笑した。
「名乗るなよ」
「え?」
「本物は、名を名乗らずとも、勝手にそう呼ばれる」
その言葉に、私は小さく頷いた。
準備は、驚くほど早く終わった。荷物は最小限。身分証と革袋、そして古い写本。それだけでいい。女主人は、私の顔を見るなり、すべてを察したように無言で包みを差し出した。
「……道中のパンだ」
「ありがとうございます」
「無事に戻るとは、言わなくていい」
その言葉が、胸に残った。私は深く頭を下げ、宿を出た。
村の外れで、子どもたちが集まっていた。誰かが、私が王都へ行くと聞きつけたらしい。
「……行っちゃうの?」
一人の子が、不安そうに聞く。
「すぐ、戻る」
それが嘘になるかもしれないと分かっていながら、私はそう答えた。子どもたちは、それでも笑った。
「じゃあ、待ってる」
その言葉に、胸の奥が、きゅっと締まる。
王都への道は、長い。歩きながら、私は何度も凛香の顔を思い浮かべた。学生時代、私を見下して笑っていた顔。異世界で、聖女として選ばれ、輝いていた顔。
「……あなたは、悪くない」
小さく呟く。凛香は、ただ力を与えられただけだ。称えられ、期待され、その期待に応え続けているだけだ。誰も、止まれと言わなかった。
でも、それでも。
「……止めるよ」
それが、私の役目だ。
日が落ち、夜が訪れる頃、王都の城壁が見えてきた。高く、堅牢で、光に満ちた壁。その内側で、さらに大きな奇跡が、今も準備されているのだろう。
胸の奥の温もりが、これまでで一番、強く脈打った。
これは、恐怖じゃない。逃げたい気持ちでもない。
覚悟だ。
私は王都の門へ向かって歩き続けた。
災厄を呼ぶ魔女と、
名もなき本物の聖女が、
ついに同じ場所へ向かう、その始まりとして。
村に、静けさが戻ったのは、騎士たちが去ってしばらくしてからだった。扉の軋む音や、人々の足音が次第に遠のき、残ったのは、かすかな安堵と、言葉にできない緊張だけ。私は家の外に出て、深く息を吸った。胸の奥の温もりは、ようやく穏やかになっている。
「……助かったよ」
背後から声がして、振り向くと、年配の男性が立っていた。彼は、どこか疲れたような、それでいて覚悟を決めた顔をしている。
「これで終わり、とは思っていないだろう」
「……はい」
即答だった。村の空気は軽くなった。でも、完全に澄んだわけじゃない。胸の奥が、まだ警戒を解いていない。
「王都の奇跡が続く限り、歪みはまた流れてくる」
男性はそう言って、遠く、王都の方角を見た。私はその横顔を見ながら、凛香の姿を思い浮かべていた。光の中で、称賛を浴びる彼女。その足元で、確実に積み重なっているもの。
「……魔女の話を、知っているか」
突然、男性がそう切り出した。私は首を振る。
「この国には、昔から伝わる話がある」
彼は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「災厄の前には、必ず“救いの光”が現れる。その光は、人々を一時的に救い、希望を与える」
胸の奥が、かすかにざわついた。
「だが、その光が強すぎる時、それは“魔女の光”と呼ばれる」
私は、無意識に拳を握りしめていた。
「信仰や感謝を糧にして、奇跡を膨らませる力だ。人の願いを吸い上げ、世界を歪める」
凛香の笑顔が、鮮明に蘇る。選ばれる側であることを、疑いもしなかった顔。
「……それは、聖女とは違うんですか」
「似て非なるものだ」
男性は、即座に答えた。
「聖女は、世界の流れを整える。魔女は、流れを無理やり変える」
その違いは、私が感じてきた感覚と、ぴたりと重なっていた。派手な奇跡と、静かな回復。押し上げる力と、戻す力。
「……魔女は、どうなるんですか」
問いは、自然と口から出ていた。男性は、しばらく黙り込んだ後、低く答える。
「世界が耐えられなくなった時、災厄を呼ぶ」
その言葉が、胸に重く落ちた。魔女自身が悪意を持っているとは限らない。ただ、力の使い方が、世界を壊す。そういう存在。
私は、王都の方向を見つめた。凛香は、知らないはずだ。自分が何者になりつつあるのかを。彼女は、ただ選ばれ、称えられ、望まれた役割を演じているだけなのだから。
「……止められるんでしょうか」
その問いに、男性は私を見た。
「それを考えるのが、お前さんの役目になるかもしれん」
胸の奥の温もりが、はっきりと反応した。逃げ道を塞ぐような、でも拒めない感覚。
「私は、聖女じゃありません」
私は、はっきりと言った。名乗るつもりはない。重すぎる。
「名は、どうでもいい」
男性は、静かに首を振る。
「本物は、名乗らずとも、役割から逃げられん」
その言葉に、反論できなかった。
その日の午後、王都から新たな噂が届いた。凛香が、さらに大きな奇跡を起こしたという。枯れた川を一時的に蘇らせ、干ばつに苦しむ地域を救った、と。
村人たちは、その話にどよめいた。喜びと、期待と、不安が入り混じる。
「すごい……」
「これで、安心だな」
私は、その輪の外で、胸の奥を探っていた。温もりは、強く、重く、警告のように鳴っている。川を蘇らせるほどの力。それは、世界の流れを、無理やりねじ曲げる行為だ。
「……揺り戻しが、来る」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
その夜、私は眠れなかった。夢の中で、眩い光が何度も広がり、そのたびに、地面に亀裂が走る。人々は光に向かって手を伸ばし、足元の崩れに気づかない。
目を覚ました時、胸の奥の温もりは、かつてないほど、強く脈打っていた。
凛香は、もう引き返せないところまで来ている。
そして、私もまた、知らないふりをして、ここに留まり続けることはできなくなっていた。
△
翌朝、村の空気は、昨日よりもさらに重かった。空は晴れているのに、どこか色が薄く、音が遠い。人々の動きは鈍く、畑に出る者も少ない。私は宿を出て、村の中心へ向かいながら、その異変を肌で感じていた。胸の奥の温もりが、ずっと警鐘のように鳴り続けている。
「……来てる」
誰に向けた言葉でもなく、ただ事実として呟いた。揺り戻しは、必ず来る。それが、思っていたよりも早いだけだ。
村の外れで、子どもたちが集まっているのが見えた。普段なら、朝から走り回っている時間なのに、今日は皆、地面に座り込んでいる。私は足を速め、声をかけた。
「どうしたの?」
一人の子が、顔を上げる。目が虚ろで、唇が乾いている。
「……なんか、だるい」
別の子は、頭を抱えていた。
「気持ち悪い……」
私は膝をつき、一人ずつ様子を確かめる。致命的な症状ではない。でも、確実に、生命の流れが滞っている。胸の奥の温もりが、はっきりと応えた。
「……少しだけ、触るね」
子どもの肩に手を置く。昨日よりも、はっきりとした感覚が返ってきた。歪みが、広がっている。個人の問題じゃない。これは、土地全体に及び始めている。
私は一人ずつ、慎重に、力を流した。無理に戻さない。押し戻さない。ただ、流れを整える。すると、子どもたちの顔色が、ゆっくりと戻っていく。
「……楽になった」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。でも、同時に理解していた。これは、応急処置に過ぎない。根本は、王都にある。
「ありがとう……」
子どもたちに見送られ、私は立ち上がった。その瞬間、遠くから鐘の音が聞こえた。村のものではない。王都の方角から響く、重く、長い音だ。
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
昼前、行商人が再び村に入ってきた。昨日よりも明らかに慌ただしい様子で、馬から飛び降りるようにして走ってくる。
「……聞いたか」
年配の男性と、私は同時に行商人の方を見た。
「王都が、騒ぎになってる」
行商人は、息を切らしながら続ける。
「川を蘇らせた奇跡の後、下流の土地が一気に干上がった。水が、急に引いたらしい」
胸の奥が、強く脈打った。
「……上流だけを無理やり戻したんだ」
私は、無意識にそう口にしていた。行商人が、ぎょっとしてこちらを見る。
「なんで、分かる」
私は答えなかった。答えられなかった。分かる理由が、あまりにも異常だからだ。
「さらに、王都では体調を崩す人が増えてる」
行商人は声を落とす。
「治ったはずの病が、別の形で出てる。眠れない、息苦しい、理由のない恐怖……」
それは、生命力を無理やり引き上げた反動だ。身体だけじゃない。心まで、歪み始めている。
「……聖女様は?」
誰かが、恐る恐る聞いた。
「奇跡を続けてる」
行商人は、短く答えた。
「求められるからな。止まれない」
その言葉に、私は唇を噛んだ。凛香は、止まれない。止まる理由を、誰も与えていない。むしろ、進めと背中を押している。
村人たちの間に、不安が広がる。
「このままじゃ……」
「また、悪くなるのか」
私は、年配の男性と視線を交わした。彼は、ゆっくりと頷く。
「決断の時だ」
その言葉の意味は、分かっていた。
夕方、私は一人、丘の上に立っていた。村と王都の中間に位置する、見晴らしのいい場所。ここからなら、王都の塔が小さく見える。胸の奥の温もりが、これまでで一番、強く反応している。
「……凛香」
名前を呼ぶと、風が強く吹いた。偶然じゃない。世界そのものが、軋み始めている。
私は目を閉じ、胸の奥に意識を集中させた。これまで、個人に対してしか使ってこなかった力。それを、土地に、流れに、向ける。
すると、見えないはずのものが、はっきりと感じ取れた。川の流れ、地脈、空気の循環。それらが、王都を中心に、無理やり歪められている。まるで、一点に集められ、引き伸ばされた糸の束みたいに。
「……これは」
理解した瞬間、背筋が冷えた。
凛香の力は、世界から直接、奪っている。信仰や感謝を媒介にして、自然の循環そのものをねじ曲げている。それは、癒しではない。消費だ。
胸の奥の温もりが、はっきりと告げる。
――放置すれば、災厄が来る。
それは魔王でも、怪物でもない。枯渇と反動が生み出す、世界そのものの崩壊。
「……止めなきゃ」
声に出した瞬間、逃げ道が消えた。私は、もう、見て見ぬふりはできない。
王都へ行く。凛香と向き合う。友達でも、同級生でも、いじめっ子でもなく。
災厄を呼ぶ魔女として。
そして、それを止める役目を、名乗らずとも背負ってしまった自分として。
◇
丘の上に立ったまま、私はしばらく動けずにいた。王都の塔は夕焼けの中で赤く染まり、その光景が、まるで燃え盛る灯火のように見える。胸の奥の温もりは、もう「静か」ではなかった。確かな意志を伴った圧として、私の内側から背中を押している。
「……行くよ」
誰に言うでもなく、そう呟いた瞬間、風が止んだ。草原が一斉に静まり返り、世界が、私の決断を受け入れたような錯覚を覚える。私は踵を返し、村へ戻った。
年配の男性は、私が戻ってきた時点で、すべてを察していたようだった。集会所の前で腕を組み、黙って私を見ている。
「王都へ、行くんですね」
「……はい」
短い答えだった。迷いは、もう言葉にならない場所へ追いやられている。
「止められると思うか」
問いは、厳しかった。でも、試すような響きはなかった。
「分かりません」
正直に答える。
「でも、止めなければ、もっと多くの人が苦しむ」
年配の男性は、ゆっくりと息を吐いた。
「そうだろうな」
彼は、集会所の扉を開け、中から一冊の古びた本を持ってきた。革表紙は擦り切れ、文字はかすれている。
「これは、村に伝わる写本だ。昔の聖女と、魔女の記録が混ざっている」
私はそれを受け取り、重みを感じた。紙の重さだけじゃない。積み重なった時間の重さだ。
「役に立つかは分からん」
「……ありがとうございます」
深く頭を下げると、彼は苦笑した。
「名乗るなよ」
「え?」
「本物は、名を名乗らずとも、勝手にそう呼ばれる」
その言葉に、私は小さく頷いた。
準備は、驚くほど早く終わった。荷物は最小限。身分証と革袋、そして古い写本。それだけでいい。女主人は、私の顔を見るなり、すべてを察したように無言で包みを差し出した。
「……道中のパンだ」
「ありがとうございます」
「無事に戻るとは、言わなくていい」
その言葉が、胸に残った。私は深く頭を下げ、宿を出た。
村の外れで、子どもたちが集まっていた。誰かが、私が王都へ行くと聞きつけたらしい。
「……行っちゃうの?」
一人の子が、不安そうに聞く。
「すぐ、戻る」
それが嘘になるかもしれないと分かっていながら、私はそう答えた。子どもたちは、それでも笑った。
「じゃあ、待ってる」
その言葉に、胸の奥が、きゅっと締まる。
王都への道は、長い。歩きながら、私は何度も凛香の顔を思い浮かべた。学生時代、私を見下して笑っていた顔。異世界で、聖女として選ばれ、輝いていた顔。
「……あなたは、悪くない」
小さく呟く。凛香は、ただ力を与えられただけだ。称えられ、期待され、その期待に応え続けているだけだ。誰も、止まれと言わなかった。
でも、それでも。
「……止めるよ」
それが、私の役目だ。
日が落ち、夜が訪れる頃、王都の城壁が見えてきた。高く、堅牢で、光に満ちた壁。その内側で、さらに大きな奇跡が、今も準備されているのだろう。
胸の奥の温もりが、これまでで一番、強く脈打った。
これは、恐怖じゃない。逃げたい気持ちでもない。
覚悟だ。
私は王都の門へ向かって歩き続けた。
災厄を呼ぶ魔女と、
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ついに同じ場所へ向かう、その始まりとして。
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