黒に染まった華を摘む

馬場 蓮実

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序 章 華

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「明希君、ここ?」

 荷物を手に後ろを向くと、まだ席を移動していなかった彼女が、僕に声をかけてきた。

「あ、うん」

「いいなあ。私、この席気に入ってたのに」

「麻……立石さんは?」

 呼び方に、一瞬迷った。昔のままなら『麻美ちゃん』。でも、七年ぶりにいきなりそう呼ぶのは、やっぱり気が引ける。

 彼女は少し間を置いてから、「『5』。廊下側の一番後ろ」と、ややトーンを落として答えた。そして、そのまま僕の前を通り過ぎていく。なんだか雰囲気が変わった気がしたけど、すれ違いざまにふわりと漂ったフローラルな香りに——意識を持っていかれた。

 しばらく立ち尽くしていた僕の肩を、今度は「ツン、ツン」と誰かが人差し指で突く。

「ッ……!」

 声は出なかった。いや、咄嗟に堪えた。今ここで驚いたら、意識しているのがバレてしまう。

「そこ、いいかな」

「あ、うん、ごめん」

 振り返ると、そこには困ったような笑顔の河西栞がいた。

「……明希くん、うしろの席?」

「うん……『31』」

「そっか。よろしく」

 そう言って、目の前の『30』番に、河西栞がゆっくりと腰を下ろした。僕は頭が真っ白になって、そんな空っぽな思考でも返せる情けない「うん」が、自然と口からこぼれた。
 背中まで流れる黒くて艶やかな髪が、魔法のように僕の視界を吸い込んでいく。

 こんな近くに——目の前に、河西栞が座っている。

 一瞬、夢かと思った。こんな理想的な席替え、人生でもう二度と経験することはないだろう。あまりにも上手く出来すぎている。いや……これはある種の“ご褒美”だ。この夏の帳尻を合わせるための。

 ぼーっとする僕の耳に、遠くから「おい斉藤! お前目悪いだろ!?俺と席替われ!」という、なんとも往生際の悪い叫び声が飛び込んできた。
 ——これは間違いなくアイツの声だ。どうやらまた前の席になったらしい。

 やっぱり、性の欲はバチが当たるんだ。





「はあ~」

 放課後、僕はあの時の会話を何度も頭の中で再生しては、ため息を吐いていた。

 故意じゃなかったとはいえ、あの通路を塞いだおかげで、久しぶりに彼女と話すことができた。冷静になって思い返すと……およそ五年ぶり?たぶん、それくらいだ。ただ——その久々の第一声が「あ、うん、ごめん」なのは、我ながら情けなさすぎる。

 更に恥ずかしいのは、朝、自分に言い聞かせた『半分誤り』ってやつだ。

 結局、僕は河西栞と、もっと近づきたくて仕方がなかった。今でも——好きなんだ。距離が縮まれば縮まるほど、それがはっきりしてくる。確かに、ずっと固執していたわけじゃない。けど、僕の中で彼女が“頂点”にいることは、今も変わらない。たとえ、彼氏がいたとしても。

「なんで今日も当たり前のように居るんだ?」

 余韻を振り払うように、窓がガラッと開き、長身の男が部屋に入ってきた。真っ黒に日焼けしたその姿を体育館で見たときは、一瞬、誰だか分からなかった。

「お前こそ何しに来たんだ、翔一」

「そりゃあ、ここに来るためよ」

「……だよな。なんか来ちゃうよなあ、もう部活ないのに」

 僕が今いるのは、生徒会室。クラスでは『委員長』だけど、校内では生徒会の『副会長』でもある。だから今日みたいな日は、クラスのみんなとは別行動になることが多い。浩大の追及がそこまで激しくなかったのも、そのおかげだ。放課後も体育館の片付けに呼ばれて、追い回されずに済んだのは運が良かった。


 ——と、そこでふと思い出した。

 この男、小学一・二年のとき、僕と同じクラスだったじゃないか。つまり、麻美ちゃんと接点のある、数少ない生徒の一人だ。

「そういやさ、麻美ちゃん、覚えてるか?四組に転校生いたろ?あれ、麻美ちゃんだぞ。今は立石って苗字だけど」

「麻美……え、マジ!?顔ちゃんと見てねえけど、なんか一人だけ夏服違う子おるなと思ったんよ!……なんでスリッパだったん?」

 ……いや、ツッコむとこそこ?と思わず笑いそうになったけど、まあ確かに。ペコペコと来賓用スリッパで歩いていたのは、ちょっと気になった。たぶん、荷物が多すぎて上靴だけ忘れたとか、そんなところだろう。

「麻美ちゃんって、俺ん家からめっちゃ近いとこ住んでたんだぜ」

「え、そうなの?」

「百メートルも離れてないな。麻美ちゃんとお母さんは、引っ越してから見たことねえけど。でも、婆ちゃんなら夕方に近くのスーパー行くと見かけるぞ。日暮れには下の公園でよく歩いてる」

「お婆ちゃん、中々アクティブだな」

 ああ、そういえば……あの頃は確か、お母さんとお婆ちゃんと麻美ちゃんの三人で暮らしていたんだっけ。

 お婆ちゃんとは、話したことはほとんどない。そんな中で、はっきり覚えているのは——麻美ちゃんが引っ越しする日。わざわざ二人で、僕の家まで挨拶に来てくれたんだ。手紙を渡されたあと、俯く麻美ちゃんの頭を優しく撫でたあの表情。あれは今でも、忘れられない。

 まあ、その直後に僕が大泣きしたせいかもしれないけど。


 それにしても……ほとんど送迎だったとはいえ、女の子があんな場所からよく毎日通っていたものだ。翔一の家は小学校からたぶん一番遠い。しかも、とんでもなく急な坂道の上。中学生になった今、電動自転車で通ってるのは、校内でもコイツくらいだろう。
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