黒に染まった華を摘む

馬場 蓮実

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序 章 華

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「てかさ、あれ絶対、胸デカいよな」

 一体今の流れでどうしてその発言をしようと思ったのか、幼少の思い出が見事に吹き飛ばされた。

「お前ほんと、首から下しか見てないよな」

「え、高須はそう思わんかった?」

「やかましいさっさと帰れ変態委員長」

「まーたムッツリが~。てかお前、荷物は?」

「教室。片付けのせいで置いてきた」

 そう言って、右手で適当に手を振り、生徒会室を出た。

 本館南棟の生徒会室から、三年生の教室がある別館までは、そこそこ距離がある。そしてこの距離を縮めるたびに、周囲の気配が静まっていくのがわかる。

 うちの学校では、原則として居残りは禁止。放課後も人が残っているのは、図書室や職員室、音楽室といった限られたスペースで、全部が本館に集まっている。
 別館の二階には一~三組、三階には四・五組の教室。つまり、放課後に一時間も経った別館の三階には、誰もいないはずなんだ。

 僕の足音だけが、廊下に静かに響いていた。外からは、吹奏楽部の音や、野球部員の声がかすかに届いてくる。でも、この別館の中にはは存在しない。その静けさが、なぜか心地よかった。

 今だけは、この場所がまるごと僕の世界みたいで——そんな中二病みたいな妄想が、頭の中を駆け回っていた。
 たとえ今、先生に見つかっても、僕には荷物を取りに来たという正当な理由がある。だから、ちょっとくらいこの世界を味わってもバチは当たらない。
 特に意味もなく、一組から順に教室を覗いていく。空っぽの教室をひとつ、またひとつと通り過ぎて、最後に四組のドアを開けた。

 教室はやはり無人だった。静寂。そこに漂う気配は皆無。置きっぱなしになっていた僕のカバンだけが、椅子の上で無防備に口を開けていた。他の机も、収納棚も、まだ休み明けのせいか整然としている。
 僕は荷物をさっとまとめ、カバンを机の上へと持ち上げた。そのとき、ふと椅子の隙間から見えたのは、アクリル板に貼られた『河西栞』のネームシール。
 薄く透ける中身が、ほんのわずかに見えた。


 中には、何が入っているのだろう?


 頭をかすめたその考えに、すぐさま首を振る。
 ダメだ。やめとけ。

 その場から意識を逸らすように、僕は教室のベランダに出た。三階に吹く風は、思ったよりずっと冷たくて、僕の背中から滲んでいた汗をさらっていく。鉄製の柵にもたれながら、ぼんやりと校庭を見下ろす。外は部活ので賑わっているのに、ここだけはまるで、時間から取り残されたようなに満ちていた。

 身体が乾いていく。心が静まる。

 ——その、はずだった。でも、冷静になればなるほど、逆に脳の奥が渇いていくような、そんな感覚があった。

 ゆっくりとドアを閉め、外の世界を断ち切る。それから僕は、念のため三階の端から端までをもう一度見て回った。教室の中、教卓の裏、掃除道具入れ。何もない。誰もいない。漫画みたいな展開も当然なかった。
 廊下側のドアだけは、あえて開けたままにしておく。これで、誰かが来れば、足音ですぐに分かる。
 自分で自分の感情に嫌気がさす。普通の理性なら、仮に同じ状況であっても、こんな行動はしないはずだ。生徒会という特権を使ってやるにはあまりにも罪深い。でも、そうと分かっていても、この衝動は抑えられない。
 状況は、十数分前と同じだった。ドアのレール上に立ち、教室の全体を見る。でも、その景色から出る雰囲気はまるで違う。欲に塗れた、生ぬるい空気。僕は一歩踏み込む。

 二歩目を踏み込む前に、自然と右側に目が移った。廊下側、一番後ろの席——

 真新しい『立石麻美』のネーム。

 ドクン——

 心臓が大きく鳴った。息が……詰まる。

 さすがに、机の中は空だろう。そう思いながらも、僕はなぜかその机に引き寄せられていた。
 音を立てないように、そっと、引き出しに指をかける。そして、ゆっくりと開けた。

 中には——何もない。

 その空っぽの中身を見て、なぜかホッとしたような、でもほんの少しだけ、がっかりしたような、そんな自分の感情が信じられなかった。
 何やってんだ、僕は……。
 自嘲気味に息を吐いたそのとき、不意に目に入ったのは後方の棚だった。出席番号で並んだ個人の収納スペースだけど、転校してきた彼女のスペースは……一番右端。こちらもまた、三段構成故に一人はみ出ていて分かりやすい。

 ——あった。

 その簡素な空間の中に、唯一の物。布地の入れ物に入っているのは、間違いない。彼女の体操服。
 慎重に、それを取り上げる。巾着の重みが、思ったよりもリアルで、手の中でずしりと存在を主張してくる。胸が、高鳴っていた。激しく、そして妙に静かに。
 ストッパーを引いて、巾着の口を開く。中から現れたのは、皆とデザインの違う、見慣れない体操服。丁寧に畳まれていて、胸元には『立石』の刺繍。

 ——麻美ちゃんの、体操服。

 視線が勝手に吸い寄せられる。鼻先まで近づけた瞬間——ふわりと、あの香りがした。あの、教室ですれ違ったときに感じた、清潔で優しい柔軟剤の香り。
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