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第1章 秘密とヒミツ
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たった一言、名前を呼んだだけなのに、ここまでエネルギーを使うことがあっただろうか。たかが、下の名前を呼ぶだけなのに。
「交換した以上はちゃんと連絡するから、安心して」
ご丁寧に、さっき遮られた質問への答えを耳元でこっそり補足して、彼女はそのまま進行方向を指さした。その仕草に従って、僕も再びペダルを踏み込む。カッターシャツの隙間から入ってくる生ぬるい風が背中で不快な冷たさに変わり、僕はそこで初めて汗をかいていることに気がついた。
田んぼと畑、そして土壁に挟まれた細道を抜けると、今度は竹林と廃屋、空き家が並ぶ、荒れ果てた小道へ。薄暗く、少し湿った空気が、ぬるりと顔にまとわりつく。枯れ枝の絨毯を踏むたび、「パキッ、パキッ」と小さな音が響き、気を抜くと足を取られそうになる。
「明希君、いっつもこの道、行き来してるの?」
「いや、通学路はもう一つ下の道だよ。そっちのほうが近いし、広いし」
「そっかそっか。悪いねえ、遠回りさせて」
そのニヤついた声も、ぺしぺしと叩く仕草も、申し訳なさのカケラもないが——。
「あっ。そういえば、栞ちゃんのことは何て呼んでるの?」
「えっ——」
突然の問いに、ペダルを漕ぐ足が一瞬ぎこちなくなる。
「まさか、河西さんじゃないよね?」
「いや、んー……」
すぐに返せるはずもなかった。最後に名前を呼んだのは、小学生の時だから。
「もしかしてさ、中学になってから一度も名前で呼んでないとか?」
やはり鋭い。言葉にはされてないけど、会話の温度とか、目線とか、そういうものを彼女は読み取っているのだろう。なんだか全てを見透かされている気がして、乾きかけていた背中にまたじんわりと汗が滲み始める。
「まったく、明希君いつからそんなシャイになったの?ダメだよ名前は呼ばないと」
その言い方は、まるで二つ年上の先輩にたしなめられているようだった。
「……名前の呼び方って、そんなに大事かな?」
「え、逆に明希君、私に高須君って呼ばれたらショックじゃない?」
そう言われてみると、確かにその通りだった。昨日の僕の理屈ではそれが自然で、むしろ無難なはずだったのに——いざ想像すると、なんだか寂しさがこみ上げてくる。
「昨日今日の知り合いならまだしも、小学校からの仲でしょ?苗字か名前か、それだけで距離感は全然違うんだから。次に名前を呼ぶ機会があったら、ちゃんと“栞ちゃん”って呼ぶこと。いい?」
彼女の軽やかだけど押しの強い言葉に、僕は「うん……」と情けない声でうなずいた。
にしても、何故今僕はお説教をされているのか。昨日の今日だし、もしかしたらとんでもない無茶振りでもされるのかと若干ビビっていたのに、まるでそんな言葉は出てこない。むしろ、僕が上手くいくようにアドバイスまでしてくれている。昨日の『代償』って言葉、そして“告白”とも“呪い”とも受け取れるあの台詞……彼女の胸の内が、読めない。
枝の絨毯を抜けると、ようやく人が住んでいそうなレベルの古家が両側に現れ、ほどなくして道はY字に分かれる。そのくぼみ部分には公民館が建っていて、一昔前はここが小学生の憩いの場だった。この数年で、かなり廃れてしまったけれど。
「懐かしいなあ。左に登って行ったら広い公園があるよね」
「うん。よく覚えてるね」
「忘れたの?放課後よく時間潰したじゃん」
「いや、もちろん……覚えてるよ」
僕らが通っていた小学校は、緩やかな丘の上にあり、このY字路はちょうどその中腹にあたる。ここを上れば公園と小学校、途中で右に曲がれば、いずれ翔一の家に辿り着く。麓に住んでいる(らしい)河西栞をたまに見かけたのは、まだギリギリ自力で通える距離だったからだろうか。
つまり、本来なら麻美ちゃんと僕は、この場所で別れるはずだった。——昔、周防麻美だった頃なら。一度、所在すら分からないほど離れた距離が、こうして今、目と鼻の先にまで近づいている。その事実に、僕は心の底から驚いている。というか、驚きを通り越して、まだ実感が追いついていない。
それでも彼女は何も言わず、今も僕と一緒に坂を下っている。つまり、本当に、僕らの家は“ご近所”というやつらしい。
「うわ涼しいー!夏の空気って感じ!」
「あさみちゃん、喋ってたら口に虫入るよ」
「……なんだかなあ、まだちょっとぎこちないよね。昨日のアレは何だったのかなあ」
「……ん?何の話?」
「何でもなーい。あっ、ここで止めて!」
坂を下りきったところで、突然慌てたように彼女が叫んだ。僕も反射的に両手をぎゅっと握る。右レバーにつながる後輪ブレーキが甲高い音を立て、車輪が慣性に負けて滑った。
「交換した以上はちゃんと連絡するから、安心して」
ご丁寧に、さっき遮られた質問への答えを耳元でこっそり補足して、彼女はそのまま進行方向を指さした。その仕草に従って、僕も再びペダルを踏み込む。カッターシャツの隙間から入ってくる生ぬるい風が背中で不快な冷たさに変わり、僕はそこで初めて汗をかいていることに気がついた。
田んぼと畑、そして土壁に挟まれた細道を抜けると、今度は竹林と廃屋、空き家が並ぶ、荒れ果てた小道へ。薄暗く、少し湿った空気が、ぬるりと顔にまとわりつく。枯れ枝の絨毯を踏むたび、「パキッ、パキッ」と小さな音が響き、気を抜くと足を取られそうになる。
「明希君、いっつもこの道、行き来してるの?」
「いや、通学路はもう一つ下の道だよ。そっちのほうが近いし、広いし」
「そっかそっか。悪いねえ、遠回りさせて」
そのニヤついた声も、ぺしぺしと叩く仕草も、申し訳なさのカケラもないが——。
「あっ。そういえば、栞ちゃんのことは何て呼んでるの?」
「えっ——」
突然の問いに、ペダルを漕ぐ足が一瞬ぎこちなくなる。
「まさか、河西さんじゃないよね?」
「いや、んー……」
すぐに返せるはずもなかった。最後に名前を呼んだのは、小学生の時だから。
「もしかしてさ、中学になってから一度も名前で呼んでないとか?」
やはり鋭い。言葉にはされてないけど、会話の温度とか、目線とか、そういうものを彼女は読み取っているのだろう。なんだか全てを見透かされている気がして、乾きかけていた背中にまたじんわりと汗が滲み始める。
「まったく、明希君いつからそんなシャイになったの?ダメだよ名前は呼ばないと」
その言い方は、まるで二つ年上の先輩にたしなめられているようだった。
「……名前の呼び方って、そんなに大事かな?」
「え、逆に明希君、私に高須君って呼ばれたらショックじゃない?」
そう言われてみると、確かにその通りだった。昨日の僕の理屈ではそれが自然で、むしろ無難なはずだったのに——いざ想像すると、なんだか寂しさがこみ上げてくる。
「昨日今日の知り合いならまだしも、小学校からの仲でしょ?苗字か名前か、それだけで距離感は全然違うんだから。次に名前を呼ぶ機会があったら、ちゃんと“栞ちゃん”って呼ぶこと。いい?」
彼女の軽やかだけど押しの強い言葉に、僕は「うん……」と情けない声でうなずいた。
にしても、何故今僕はお説教をされているのか。昨日の今日だし、もしかしたらとんでもない無茶振りでもされるのかと若干ビビっていたのに、まるでそんな言葉は出てこない。むしろ、僕が上手くいくようにアドバイスまでしてくれている。昨日の『代償』って言葉、そして“告白”とも“呪い”とも受け取れるあの台詞……彼女の胸の内が、読めない。
枝の絨毯を抜けると、ようやく人が住んでいそうなレベルの古家が両側に現れ、ほどなくして道はY字に分かれる。そのくぼみ部分には公民館が建っていて、一昔前はここが小学生の憩いの場だった。この数年で、かなり廃れてしまったけれど。
「懐かしいなあ。左に登って行ったら広い公園があるよね」
「うん。よく覚えてるね」
「忘れたの?放課後よく時間潰したじゃん」
「いや、もちろん……覚えてるよ」
僕らが通っていた小学校は、緩やかな丘の上にあり、このY字路はちょうどその中腹にあたる。ここを上れば公園と小学校、途中で右に曲がれば、いずれ翔一の家に辿り着く。麓に住んでいる(らしい)河西栞をたまに見かけたのは、まだギリギリ自力で通える距離だったからだろうか。
つまり、本来なら麻美ちゃんと僕は、この場所で別れるはずだった。——昔、周防麻美だった頃なら。一度、所在すら分からないほど離れた距離が、こうして今、目と鼻の先にまで近づいている。その事実に、僕は心の底から驚いている。というか、驚きを通り越して、まだ実感が追いついていない。
それでも彼女は何も言わず、今も僕と一緒に坂を下っている。つまり、本当に、僕らの家は“ご近所”というやつらしい。
「うわ涼しいー!夏の空気って感じ!」
「あさみちゃん、喋ってたら口に虫入るよ」
「……なんだかなあ、まだちょっとぎこちないよね。昨日のアレは何だったのかなあ」
「……ん?何の話?」
「何でもなーい。あっ、ここで止めて!」
坂を下りきったところで、突然慌てたように彼女が叫んだ。僕も反射的に両手をぎゅっと握る。右レバーにつながる後輪ブレーキが甲高い音を立て、車輪が慣性に負けて滑った。
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