黒に染まった華を摘む

馬場 蓮実

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第8章 告白

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「私は、できたら明希君とも撮りたかったんだけどなあ」

 陽気な口調で、彼女が言葉を付け足す。

「今のところ、スマホの中には明希君の変な姿しか残ってないから」

「い、いやまあ……そうだろうけどさ」

「あ!じゃあさ、後で撮ろうよ。明希君のスマホで」

「うん。いや、え?そこは僕のスマホなの?」

「だって私のスマホ、図書館にあるもん」

「ああ、なるほど……」

 ……いや待てよ、冷静に考えたら荷物全部置いてきたってことか。

 食彩館に行った時もそうだけど、意外とその辺り無頓着というか……まあ、さすがに図書館で盗みを働く人はいないだろうけど。

「じゃあ、後で送ったらいい?」

「いや、いいよ送らなくて」

「ホェ!?」

 話の流れが全然噛み合ってなくて、自分でも驚くほど変な声が出てしまった。それに釣られるように、彼女が「ブッ」と息を漏らして笑う。

「私にいつでも送れるように、明希君が責任持って保管しといて。きっとその方が、大切にするでしょ?」

「別に送ろうが送らまいが、大切にするよ」

「おー?たまには嬉しいこと言ってくれるじゃ——」

 と、その時。頭上でわずかな異変があった。階段の上から、最初は軽い音が、やがて重みを増してトン、トン……とコンクリートを伝って響く。間違いなく、誰かが階段を降りてきていた。

 でも——彼女は寝転んだまま、目も閉じている。反射的に、僕は息を呑み、彼女の口を手で覆った。

 足音は踊り場を過ぎると、ドン、ドンとさらに重くなり、室内シューズ特有の摩擦音が混ざる。——先生だ。しばらくの間、音だけがゆっくりと近づいてきて、そして遠ざかっていった。やがて別のドアが閉まる音が響く。

 どうやら、バレてはいない。跳ね上がった鼓動をなだめるように、僕は深く息を吐き、そっと彼女の口から手を離した。


「襲われるのかと思った」


 辺りが落ち着いたところで、彼女がポツリとこぼす。その言葉と、手のひらに残る唇の余韻が、遅れて僕をドギマギさせた。早急だったとはいえ、少し強引だったかもしれない。

「ごめん、つい」

「手、止まってるよ」

「あ、うん」

「……そういえば、明希君。いい加減お願いは決まった?」

 再度右手を動かし始めると、彼女はまるで先生が通ったことなど無かったかのように、脱力した声で問いかけてきた。その無防備さが、僕の本能を妙に刺激する。

「……い、いや」

「なんでもいいのに?」

「…………」

「襲いたいなら、今襲ってもいいんだよ?」

 甘い吐息と、囁くような声。それらが、慣れてきた手の動きを狂わせる。

「なっ、なに言ってるの」

「あ、もしかして“初めて”はしーちゃんがいい、とか?」

「いやそういうわけじゃ——」
 「襲われた後の私を、明希君は襲いたくなる?」

 
 ——え?


 言っている意味が、分からなかった。いや、理解はできた。だからこそ、頭の中が真っ白になった。

 口を半開きにしたまま固まる僕を見て、彼女は平然と続ける。

「明日さ、田中君にも同じこと言おうと思うんだ。昨日のお詫びとして」

「……はっ?」

 声が喉の奥で引っかかり、言葉にならない。目の前の彼女の瞳は、冗談とも本気ともつかない光を宿している。

「それはつまり……お願いを一つ聞いてあげる、ってこと?」

「そうだよ。田中君、何て言うと思う?」

 呼吸が震えそうになる。アイツにそんなこと言ったら、答えなんてほぼ決まってるじゃないか。

 いや——問題はそこじゃない。問題は、彼女もそれを分かっているはずってことだ。

「まーた手止まってるよ?」

「あ、ごめん……」

「もしかして、イヤだったりする?」

 動かそうとした手を彼女がそっと握り、ゆっくりと上体を起こす。息が詰まり、逃げ場を失ったような感覚のまま、彼女が顔をぐっと近づけてきた。

「ついでに言うと」

 吐息が首筋にかかる距離まで寄り、一呼吸置いて、耳元で囁く。

「田中君は、私がピル飲んでるの、知ってるよ。プールで話したから」


 胸の奥が、ぎゅっと握り潰された。鼓動が暴れ、熱が血管を駆け上がり、首筋まで火照っていく。

「プールも私のせいで泳げなかったわけだし、お願いの一つを聞くくらいは仕方ないよね」

 まるで同意を求めるような口調。けれど、僕はどうしても頷けなかった。
 彼女の瞳をまっすぐに覗き込む。その魔性の奥に潜む、見えない何かを必死に探すように。

「……もし僕が『お願いを聞くのをやめてくれ』って“お願い”したら、どうするの?」

 震えを噛み殺しながら言い放ったその言葉は、もはや考えて出たものじゃない。本能が勝手に吐き出した叫びだった。

「……もちろん、やめるよ」

「じゃあ——」
「でもね」

 言いかけた言葉を、彼女が柔らかな声で遮った。掴んでいた僕の右手をポンポンと揺らしながら、少し間を置いて微笑む。

「そんなネガティブな理由で、使ってほしくないなあ」

「いや、でも僕は——」
「分かった。やめる」

「……えっ?」

「やめるけど、その代わり条件がある」

 彼女はポケットから桃色のハンカチを取り出し、僕の首筋に軽く押し当てた。ふわりとした繊維が汗を絡め取り、水気が伸びていく。どうやら僕は、思った以上に汗をかいていたらしい。

「今日教えたことを、明日の放課後、しーちゃんにしてあげて」

「明日……?」

 そう、明日。と彼女は繰り返す。その声音がやけに甘く響いた。けれど、明日は月曜だし、テストまで一週間。マッサージのために栞ちゃんを家に呼ぶなんて、到底無理だ。

「それ、もし無理だったら……?」

「簡単だよ。その時は、やめるのを——やめるだけ」

「いやッ、でも明日は月曜だよ?急に家に呼ぶのは——」

「家に呼ぶ必要なんてないでしょ?」

 彼女は意味ありげに微笑み、また僕の右手をポンポンと揺すった。

「誰にも見られずにできる場所、あるじゃん。……ね、さん?」
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