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第47話 山(5)
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結果的には、あそこで引き返すべきだった。ただそれは、山頂に辿り着いたからこそ思えたことで、引き返していたら、それはそれで行くべきだったと感じただろう。
事前に調べて覚悟はしていたが、山頂は展望ゼロで、寂れた看板が立っているだけだった。しかも尾根の途中で、見落とす可能性すらあった。確かに道はどちらも下っているが、そういう場所はこれまでにもたくさんあった。
草木が多いのであまり雨には打たれていないが、それでもあれから30分ほど歩いていて、服もリュックもぐっしょりだ。もちろんお弁当やお菓子を広げるような状況でもない。
写真を撮り、樹の下で水分と栄養を補給すると、すぐに下山することにした。
「訓練みたいだね」
絢音が楽しそうに笑う。やはりこの子は体力がある。私も毎日それなりに歩いているが、上りに必要な筋力がなく、もう足がプルプルしている。奈都は死んだ魚のような目でついてくるばかりだ。どうしたのか聞いたら、心を無にする練習らしい。
雨は一向に降り止まず、道の一部では水がせせらぎのように流れていた。足元に気を付けながら、来た道を引き返す。
同じような景色が続いたせいか、足元に気を取られ過ぎたせいか、しばらく歩くと絢音が足を止めて顔を上げた。
「こんな道だっけ?」
立ち止まって周りを見てみたが、まったくわからない。そもそも登っている時も足元しか見ていなかった。
スマホで確認してみたが、何もない場所にポツンと点が表示されて、どこにいるのかさっぱりわからなかった。
今歩いている道もそれなりにしっかりしているし、いずれどこかには出そうである。たとえそれが駅からだいぶ離れていたとしても、人里にさえ出られれば安心だ。
とは言え、山は迷ったら登るのが鉄則である。結構いいペースで降りて来たので、再び登るというのは精神力の問われる選択だったが、案外見落とした分岐はすぐそこかもしれない。
私が戻る決断を下すと、絢音は疲れたようにため息をつきながら微笑み、奈都は正気の宿らない顔で頷いた。
再び10分ほど登ると、右へ曲がる分岐が現れた。行きはT字路の突き当たりだった上、曲がる角度が鋭角になっている。帰りに見落とすのも無理はない。
「良かった良かった」
明るく笑う絢音の隣で、奈都が無機質な動きでドリンクを飲んだ。心配になる口数の少なさだ。
「大丈夫? 疲れただけ? 機嫌悪い?」
もしかしたら、こんなものに付き合わされたことを怒っているかもしれない。絢音は明らかに楽しんでいるが、それに関しては絢音がやや特殊だ。私が奈都の立場なら、明るく振る舞う自信がない。
私の質問に、奈都は達観した眼差しで頷いた。
「平気。過ぎたるは猶及ばざるが如しって言うでしょ?」
「過ぎたるは猶及ばざるが如しっていう言葉はあるけど、この場面で使うのに適した言葉かは議論の余地があるね」
絢音が楽しそうにそう言った。私の予想だと、奈都は意味を理解していない。
「アヤは疲れてないの?」
「足はだいぶきてるけど、心肺機能は心配ない」
「私は少し頭が痛いけど、大丈夫。ただチサのお尻だけを追い続ける」
どうやら大丈夫そうだ。私のお尻を見て元気になれるなら、好きなだけ見てくれればいい。
奈都を一番後ろにするのは心配だったので、私、奈都、絢音の順に歩き始めた。雨は不幸にもさらに強くなり、靴もズボンも泥だらけだった。
無意識の内に歩みが速くなっていたのか、油断して踏んだ木の根が滑り、そのまま派手に尻餅をついた。ベチャッと嫌な音がしたので、もう電車で椅子に座るのは無理だろう。そもそも電車に乗る前に着替えたいが、生憎ズボンの替えは持って来ていない。
ほうほうの体で登山道の入口まで戻ってくると、奈都が「助かった」と声を上げてへたり込んだ。奈都も絢音も何度も転んで泥だらけだが、絢音は雨具を着用しているのでダメージが少ない。用意は大事だ。
「まあ、今更だけどこれ使って」
そう言って、絢音がリュックから折り畳み傘を取り出して渡して来た。確かにもはや絶望的に濡れているが、頭上に木々の枝葉がなくなったことで、雨はより一層強くなっている。
ついでと言うように、絢音がぐったりしている私と奈都の写真を撮ってグループに流した。
「絢音は良かったの?」
傘を開きながらそう聞くと、絢音は合羽をひらひらさせながら頷いた。
「私にはこれがあるから。これで一人で傘まで差して歩いてたら、罪悪感で私は死ぬ」
「じゃあ、有り難く」
奈都と二人で使うにはあまりにも小さいが、どうせもうベタベタである。せめて顔にかかる雨だけでも防げたら、それだけで不快度が下がる。
「ここからまた駅まで歩くのか。ツライ」
奈都が私に寄りかかりながら弱音を吐いた。真っ直ぐ歩いて欲しいが、本当に弱っているようなので、肩くらい貸してあげよう。絢音ではないが、私もずぶ濡れが少し楽しくなってきた一人だ。
「まあ、この格好でタクシー呼ぶのもあれだし、駅まで頑張って。荷物持とうか?」
絢音が手を差し出すと、奈都は「ありがとう」と言って大人しくリュックを下ろした。一瞬絢音と顔を見合わせる。
今の申し出をすんなり受けたということは、私たちの想像より調子が悪いということだ。からかうのはやめておこう。
雨の中、行軍のように駅を目指す。途中で軽トラックのおじさんが憐れんで、駅まで乗せて行ってくれないかと期待したが、そんな奇跡は訪れず、結局駅まで人にも車にもすれ違わなかった。
数時間ぶりに雨の当たらない場所まで来ると、奈都がぐったりと待合スペースの床に座り込んだ。
「助かった」
「ここからが大変だから」
絢音が笑いながら合羽を脱ぐ。さすがに中まで無事とはいかなかったが、汚れていないだけで羨ましい。
電車が来るまで30分以上あったので、とりあえずトイレに行ってから、タオルを洗って絞った。それで体中を拭く。
動く気配のない奈都の体を拭いていると、絢音が奈都に、服の交換を提案した。不思議そうに顔を上げる奈都に、絢音が天使の微笑みで説明する。
「私の服なら座れそうだから。でも、キミたちはそうじゃない」
「私は綺麗な服を借りて座って、この泥だらけの服をアヤに押し付けるのは、さすがに忍びない」
「それは別にいいけど。もう一人泥だらけの子がいるし」
むしろ私とお揃いで楽しそうだと絢音が付け加えたが、さすがにそれは奈都が提案を受け入れやすくするための嘘だろう。
そう思ったが、実際に服を交換してトイレから出てきた絢音は、妙に晴れ晴れとした顔をしていた。
「ナツと服の交換しちゃった。似合う?」
絢音が可愛らしくくるっと回る。汚れていてよくわからないが、ずっと楽しんでくれていて有り難い。このひどい一日をどういう思い出にするかは、気の持ちようだけだ。
スマホを見ると、涼夏から「行かなくてよかった。その二人は大丈夫なのか?」と返事が来ていた。登山の日程が決まった時、バイトを入れるようなことを言っていたが、結局今日はずっと家にいるようだ。
絢音が自撮り写真を撮りながら、「ナツと服を交換した!」と嬉しそうにメッセージを送った。
『絢音は元気そう。何か私にできることはある? なお、こっちはまったく降ってない』
優しい提案だ。帰宅部には天使しかいない。
今したいことと言えばコンビニに行きたいが、田舎駅の周りには何もなく、中央駅まで戻ってしまえば、家まで後少しである。
私と奈都は同じ方向なので、まだ羞恥心を分散できるが、泥だらけの絢音を一人で帰すのは忍びない。
かと言って、定期券の範囲でもない中央駅まで、涼夏に服を持って来てもらうのも申し訳ない。さすがにその後遊びに行ける状況ではないし、気持ちだけ受け取っておくことにした。
奈都が座り込んだまま、眠そうな目でスマホを見て口を開いた。
「帰宅部は天使の集まりだ」
「部長を筆頭に?」
「部長がそうでもないから、奇跡の部員たちだね」
「軽口を叩ける元気が戻ったなら何より」
私も上だけ予備で持ってきたTシャツに着替えたが、こっちもリュックの中まで浸透した雨でだいぶ濡れていた。それでも、わずかでも乾いている部分があるだけましだ。
泥を落とせるだけ落として、電車に乗った。もちろんガラガラなので、奈都だけ座らせて、絢音とは立ったままお喋りをする。戻ってきてしまうと、意外と元気だ。
「それにしても、今日はアドヴェンチャラスな一日だったね」
絢音が途中で撮った写真を眺めながら言った。雨が降ってきたので10枚くらいしか撮っていないが、今日のダイジェスト感はある。
ちなみに私と奈都はスマホを取り出せる状況ではなかったので、1枚も撮っていない。スマホの機能で絢音から転送してもらう。
「楽しんでもらえたなら良かったけど、一人死者も出たし、もっとちゃんと準備しなきゃって反省した」
「学びには犠牲が必要なんだよ」
絢音がツラそうに首を振る。奈都は寝てはいないようだが、ぐったりしたままだった。途中で乗り換えこそあるが、中央駅まで1時間以上かかるので、ゆっくり休んで欲しい。
「とりあえず、靴だね。スニーカーは滑る」
「わかる。でも、靴は高い上に、用途が限定的だから、買うのもなぁって感じ」
「そうなんだよね。合羽は百均のでもいいからあると良かった。っていうか、本当に雨の予定じゃなかった」
「まあ、雨の予定だったら、私たちは今頃、4人でカラオケでも行ってただろうね」
それはもっともだ。
終点で乗り換えると、急に人も増えて、電車も混んできた。奈都が座れる席は確保できたので、これでもう中央駅までは安泰だ。
泥だらけでちょっと恥ずかしいが、まあ格好を見れば山に登ってきた後だとわかってもらえるだろう。
中央駅に着く頃には、服もだいぶ乾いていた。奈都もだいぶ元気になったようで、トイレで服を元に戻した。
まだまだ元気な絢音と別れて、イエローラインで家に帰る。幾分顔色が良くなった奈都が、私に寄りかかりながら囁いた。
「早く家に帰って、熱々のお風呂に入って、エアコンの効いた部屋で寝たい」
「お風呂はいいね。シャワーのつもりだったけど、お風呂を沸かしてもらえるよう、家にメールしておこう」
「スマホで連動」
「それは便利だね」
「うちにはないけど」
「ないのか。あれって、お風呂の栓も自動で閉まるの?」
音がうるさいので顔を寄せ合って喋ること数駅。最寄り駅で降りて空を仰ぐと、うっすらと雲のかかる青空が広がっていた。太陽の光を浴びるのは数日ぶりだ。
「今日は付き合ってくれてありがとね。たぶん奈都も痩せたよ」
「礼は要らない。キスして、キス」
そう言いながら、奈都が唇を尖らせる。よくわからないテンションだが、元気そうで何よりだ。
駅の出入口の真ん前だとさすがにあれなので、少し場所を変えてキスをした。奈都がうっとりと微笑む。私もキスは好きだが、だいぶ慣れてきた。この子はいつも新鮮な表情をするから、している方としてもし甲斐がある。
帰宅部らしく軽くハグをして別れ、一人で帰路に着く。
体調も悪くないし怪我もしていない。振り返るといい一日だった。もっとも、怪我をするかは紙一重だったので、自然を舐めることなく、次はもっと準備して臨もう。
後はお風呂に入って体重計に乗り、少しでも減っていたら私の今日は達成される。
さてどうなるか。ひどく疲れているので、5キロくらい痩せていたら嬉しい。
事前に調べて覚悟はしていたが、山頂は展望ゼロで、寂れた看板が立っているだけだった。しかも尾根の途中で、見落とす可能性すらあった。確かに道はどちらも下っているが、そういう場所はこれまでにもたくさんあった。
草木が多いのであまり雨には打たれていないが、それでもあれから30分ほど歩いていて、服もリュックもぐっしょりだ。もちろんお弁当やお菓子を広げるような状況でもない。
写真を撮り、樹の下で水分と栄養を補給すると、すぐに下山することにした。
「訓練みたいだね」
絢音が楽しそうに笑う。やはりこの子は体力がある。私も毎日それなりに歩いているが、上りに必要な筋力がなく、もう足がプルプルしている。奈都は死んだ魚のような目でついてくるばかりだ。どうしたのか聞いたら、心を無にする練習らしい。
雨は一向に降り止まず、道の一部では水がせせらぎのように流れていた。足元に気を付けながら、来た道を引き返す。
同じような景色が続いたせいか、足元に気を取られ過ぎたせいか、しばらく歩くと絢音が足を止めて顔を上げた。
「こんな道だっけ?」
立ち止まって周りを見てみたが、まったくわからない。そもそも登っている時も足元しか見ていなかった。
スマホで確認してみたが、何もない場所にポツンと点が表示されて、どこにいるのかさっぱりわからなかった。
今歩いている道もそれなりにしっかりしているし、いずれどこかには出そうである。たとえそれが駅からだいぶ離れていたとしても、人里にさえ出られれば安心だ。
とは言え、山は迷ったら登るのが鉄則である。結構いいペースで降りて来たので、再び登るというのは精神力の問われる選択だったが、案外見落とした分岐はすぐそこかもしれない。
私が戻る決断を下すと、絢音は疲れたようにため息をつきながら微笑み、奈都は正気の宿らない顔で頷いた。
再び10分ほど登ると、右へ曲がる分岐が現れた。行きはT字路の突き当たりだった上、曲がる角度が鋭角になっている。帰りに見落とすのも無理はない。
「良かった良かった」
明るく笑う絢音の隣で、奈都が無機質な動きでドリンクを飲んだ。心配になる口数の少なさだ。
「大丈夫? 疲れただけ? 機嫌悪い?」
もしかしたら、こんなものに付き合わされたことを怒っているかもしれない。絢音は明らかに楽しんでいるが、それに関しては絢音がやや特殊だ。私が奈都の立場なら、明るく振る舞う自信がない。
私の質問に、奈都は達観した眼差しで頷いた。
「平気。過ぎたるは猶及ばざるが如しって言うでしょ?」
「過ぎたるは猶及ばざるが如しっていう言葉はあるけど、この場面で使うのに適した言葉かは議論の余地があるね」
絢音が楽しそうにそう言った。私の予想だと、奈都は意味を理解していない。
「アヤは疲れてないの?」
「足はだいぶきてるけど、心肺機能は心配ない」
「私は少し頭が痛いけど、大丈夫。ただチサのお尻だけを追い続ける」
どうやら大丈夫そうだ。私のお尻を見て元気になれるなら、好きなだけ見てくれればいい。
奈都を一番後ろにするのは心配だったので、私、奈都、絢音の順に歩き始めた。雨は不幸にもさらに強くなり、靴もズボンも泥だらけだった。
無意識の内に歩みが速くなっていたのか、油断して踏んだ木の根が滑り、そのまま派手に尻餅をついた。ベチャッと嫌な音がしたので、もう電車で椅子に座るのは無理だろう。そもそも電車に乗る前に着替えたいが、生憎ズボンの替えは持って来ていない。
ほうほうの体で登山道の入口まで戻ってくると、奈都が「助かった」と声を上げてへたり込んだ。奈都も絢音も何度も転んで泥だらけだが、絢音は雨具を着用しているのでダメージが少ない。用意は大事だ。
「まあ、今更だけどこれ使って」
そう言って、絢音がリュックから折り畳み傘を取り出して渡して来た。確かにもはや絶望的に濡れているが、頭上に木々の枝葉がなくなったことで、雨はより一層強くなっている。
ついでと言うように、絢音がぐったりしている私と奈都の写真を撮ってグループに流した。
「絢音は良かったの?」
傘を開きながらそう聞くと、絢音は合羽をひらひらさせながら頷いた。
「私にはこれがあるから。これで一人で傘まで差して歩いてたら、罪悪感で私は死ぬ」
「じゃあ、有り難く」
奈都と二人で使うにはあまりにも小さいが、どうせもうベタベタである。せめて顔にかかる雨だけでも防げたら、それだけで不快度が下がる。
「ここからまた駅まで歩くのか。ツライ」
奈都が私に寄りかかりながら弱音を吐いた。真っ直ぐ歩いて欲しいが、本当に弱っているようなので、肩くらい貸してあげよう。絢音ではないが、私もずぶ濡れが少し楽しくなってきた一人だ。
「まあ、この格好でタクシー呼ぶのもあれだし、駅まで頑張って。荷物持とうか?」
絢音が手を差し出すと、奈都は「ありがとう」と言って大人しくリュックを下ろした。一瞬絢音と顔を見合わせる。
今の申し出をすんなり受けたということは、私たちの想像より調子が悪いということだ。からかうのはやめておこう。
雨の中、行軍のように駅を目指す。途中で軽トラックのおじさんが憐れんで、駅まで乗せて行ってくれないかと期待したが、そんな奇跡は訪れず、結局駅まで人にも車にもすれ違わなかった。
数時間ぶりに雨の当たらない場所まで来ると、奈都がぐったりと待合スペースの床に座り込んだ。
「助かった」
「ここからが大変だから」
絢音が笑いながら合羽を脱ぐ。さすがに中まで無事とはいかなかったが、汚れていないだけで羨ましい。
電車が来るまで30分以上あったので、とりあえずトイレに行ってから、タオルを洗って絞った。それで体中を拭く。
動く気配のない奈都の体を拭いていると、絢音が奈都に、服の交換を提案した。不思議そうに顔を上げる奈都に、絢音が天使の微笑みで説明する。
「私の服なら座れそうだから。でも、キミたちはそうじゃない」
「私は綺麗な服を借りて座って、この泥だらけの服をアヤに押し付けるのは、さすがに忍びない」
「それは別にいいけど。もう一人泥だらけの子がいるし」
むしろ私とお揃いで楽しそうだと絢音が付け加えたが、さすがにそれは奈都が提案を受け入れやすくするための嘘だろう。
そう思ったが、実際に服を交換してトイレから出てきた絢音は、妙に晴れ晴れとした顔をしていた。
「ナツと服の交換しちゃった。似合う?」
絢音が可愛らしくくるっと回る。汚れていてよくわからないが、ずっと楽しんでくれていて有り難い。このひどい一日をどういう思い出にするかは、気の持ちようだけだ。
スマホを見ると、涼夏から「行かなくてよかった。その二人は大丈夫なのか?」と返事が来ていた。登山の日程が決まった時、バイトを入れるようなことを言っていたが、結局今日はずっと家にいるようだ。
絢音が自撮り写真を撮りながら、「ナツと服を交換した!」と嬉しそうにメッセージを送った。
『絢音は元気そう。何か私にできることはある? なお、こっちはまったく降ってない』
優しい提案だ。帰宅部には天使しかいない。
今したいことと言えばコンビニに行きたいが、田舎駅の周りには何もなく、中央駅まで戻ってしまえば、家まで後少しである。
私と奈都は同じ方向なので、まだ羞恥心を分散できるが、泥だらけの絢音を一人で帰すのは忍びない。
かと言って、定期券の範囲でもない中央駅まで、涼夏に服を持って来てもらうのも申し訳ない。さすがにその後遊びに行ける状況ではないし、気持ちだけ受け取っておくことにした。
奈都が座り込んだまま、眠そうな目でスマホを見て口を開いた。
「帰宅部は天使の集まりだ」
「部長を筆頭に?」
「部長がそうでもないから、奇跡の部員たちだね」
「軽口を叩ける元気が戻ったなら何より」
私も上だけ予備で持ってきたTシャツに着替えたが、こっちもリュックの中まで浸透した雨でだいぶ濡れていた。それでも、わずかでも乾いている部分があるだけましだ。
泥を落とせるだけ落として、電車に乗った。もちろんガラガラなので、奈都だけ座らせて、絢音とは立ったままお喋りをする。戻ってきてしまうと、意外と元気だ。
「それにしても、今日はアドヴェンチャラスな一日だったね」
絢音が途中で撮った写真を眺めながら言った。雨が降ってきたので10枚くらいしか撮っていないが、今日のダイジェスト感はある。
ちなみに私と奈都はスマホを取り出せる状況ではなかったので、1枚も撮っていない。スマホの機能で絢音から転送してもらう。
「楽しんでもらえたなら良かったけど、一人死者も出たし、もっとちゃんと準備しなきゃって反省した」
「学びには犠牲が必要なんだよ」
絢音がツラそうに首を振る。奈都は寝てはいないようだが、ぐったりしたままだった。途中で乗り換えこそあるが、中央駅まで1時間以上かかるので、ゆっくり休んで欲しい。
「とりあえず、靴だね。スニーカーは滑る」
「わかる。でも、靴は高い上に、用途が限定的だから、買うのもなぁって感じ」
「そうなんだよね。合羽は百均のでもいいからあると良かった。っていうか、本当に雨の予定じゃなかった」
「まあ、雨の予定だったら、私たちは今頃、4人でカラオケでも行ってただろうね」
それはもっともだ。
終点で乗り換えると、急に人も増えて、電車も混んできた。奈都が座れる席は確保できたので、これでもう中央駅までは安泰だ。
泥だらけでちょっと恥ずかしいが、まあ格好を見れば山に登ってきた後だとわかってもらえるだろう。
中央駅に着く頃には、服もだいぶ乾いていた。奈都もだいぶ元気になったようで、トイレで服を元に戻した。
まだまだ元気な絢音と別れて、イエローラインで家に帰る。幾分顔色が良くなった奈都が、私に寄りかかりながら囁いた。
「早く家に帰って、熱々のお風呂に入って、エアコンの効いた部屋で寝たい」
「お風呂はいいね。シャワーのつもりだったけど、お風呂を沸かしてもらえるよう、家にメールしておこう」
「スマホで連動」
「それは便利だね」
「うちにはないけど」
「ないのか。あれって、お風呂の栓も自動で閉まるの?」
音がうるさいので顔を寄せ合って喋ること数駅。最寄り駅で降りて空を仰ぐと、うっすらと雲のかかる青空が広がっていた。太陽の光を浴びるのは数日ぶりだ。
「今日は付き合ってくれてありがとね。たぶん奈都も痩せたよ」
「礼は要らない。キスして、キス」
そう言いながら、奈都が唇を尖らせる。よくわからないテンションだが、元気そうで何よりだ。
駅の出入口の真ん前だとさすがにあれなので、少し場所を変えてキスをした。奈都がうっとりと微笑む。私もキスは好きだが、だいぶ慣れてきた。この子はいつも新鮮な表情をするから、している方としてもし甲斐がある。
帰宅部らしく軽くハグをして別れ、一人で帰路に着く。
体調も悪くないし怪我もしていない。振り返るといい一日だった。もっとも、怪我をするかは紙一重だったので、自然を舐めることなく、次はもっと準備して臨もう。
後はお風呂に入って体重計に乗り、少しでも減っていたら私の今日は達成される。
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