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井上くん
第一話
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──三月
「井上、打ち合せ行くぞ」
「あっ、先輩待ってくださいよ!」
「三十分前行動だ」
「あはは! 段々早くなってるっスよ」
憧れの設計事務所に就職して二年が経った。
三階建ての事務所の一階は施主との打ち合せ室。カフェみたいな内装で、リラックスして家のことを考えてもらう空間になっている。先輩と一緒に外壁や屋根材のサンプルを棚から出して打ち合わせ用の大きなテーブルにひとつずつ飾っていく。
「今日は色合わせですね。前回奥さんめっちゃ外壁の色で悩んでましたよね。今日も見本の画像とか雑誌の切り抜きとか、いっぱい持ってくるんでしょうね」
「ほとんどの人にとって家は一生に一度のでかい買い物だろ。壁の色ひとつとったって後悔しても簡単には作り直せない。時間に限りはあるが、目一杯悩んでもらわないと」
「先輩は優しいっすね、ずっと付き合いますもんね」
そう言うと三年目のお前が生意気だと、先輩から頭を横から小突かれた。
「そのほうが施主もちゃんと納得するだろ。あとからクレームにならない。僕達を守るための戦術でもあるんだよ」
「はい。わかってますよ」
「本当に分かってんのか? じゃないと打合せ中ずっと口縫い付けとくぞ」
「ひどいっスよ、先輩!」
「来週には新卒が入ってくるんだぞ、大丈夫かよ」
「心配ないっスよ」
「まぁ、お前がそういうなら、そうなんだろうな」
あぁ、屈託なく先輩が、笑う。今日も良い日だ。
オレはいま、幸せな片思いをしている。
憧れの一級建築士になるために建築学部を卒業して、大手ゼネコンや住宅メーカーではなくこの上野設計事務所に入社した。小さな個人事務所でその年の採用枠は若干名、つまりひとり。内定が貰えるのか正直不安の方が大きかった。だから採用通知が来た時は思わずばあちゃんのお墓に報告に行ったくらいだ。
一級建築士の勉強と仕事を両立する日々はとにかく大変だ。そんな中で、オレは先輩の恭介さんを好きになった。
二年前オレが新人の頃、先輩が担当した物件が完成して無事に引き渡しが済んだ後、大クレームが来たことがあった。
『どれだけ打ち合わせして施主の希望を引き出しても、あんな色じゃなかったって言われるのよくある話だが、設計士に全て決められてしまったようで気に入らない、というのは流石に予想外だな』
所長はやれやれと半分呆れた顔をしていたが、先輩には堪えたようだった。
所長と先輩で謝罪に行って、施主の希望をもう一度聞くことが出来て変更できるところは可能な限り尽くしたんだ。会社からしたら大きな損害。変更した分は赤字だ。
全てが終わった後、社用車の助手席でオレが買ってきたコンビニのコーヒーを飲んでホッとひと息ついた先輩が、オレに言ったことを忘れていない。
『本当は井上には、自分でお客様から直接こういうクレームを貰ったほうがいい。失敗の経験は井上の成長に繋がるからな。……でもこれを先に僕が井上に伝えるのは、僕らにとってはただひとつの後悔で、ミスで、今後に活かせばいいことでも、お客様にとっては一生で一度の買い物だ。夢がいっぱい詰まってるマイホームだ。そんなものに一生の傷を付けてしまってはいけない。失敗は許されないと僕は思ってる』
そう先輩は言ったんだ。
なんてカッコイイ人なんだと思った。この仕事に誇りを持って向き合ってる。施主というお客様の人生まで背負ってるみたいで、格好良すぎた。
この人みたいになりたい。オレもいつか担当する施主には幸せな気持ちで家に住んでもらいたい。オレの目指すべき人になったんだ。
先輩は、オレより十個年上の三十四歳とは思えないほど、爽やかな甘すぎないかわいいエクボをつくる人。身長はオレより少し小さめ。今日も濃いめのグレーのテイラージャケットをその細身で着こなしている。
どうやら先輩には想い人がいるらしい。でもオレの先輩への気持ちは揺るがない。伝えるつもりもないからその辺は大丈夫。両思いになる未来なんて絶対にないことは分かってるから。
並行宇宙がいくつも存在しているなんて天才物理学者は言うけど、先輩とオレが恋人になるという世界線は絶対に存在しない。
だからオレは、幸せな片思いを続けていられる。
「井上、打ち合せ行くぞ」
「あっ、先輩待ってくださいよ!」
「三十分前行動だ」
「あはは! 段々早くなってるっスよ」
憧れの設計事務所に就職して二年が経った。
三階建ての事務所の一階は施主との打ち合せ室。カフェみたいな内装で、リラックスして家のことを考えてもらう空間になっている。先輩と一緒に外壁や屋根材のサンプルを棚から出して打ち合わせ用の大きなテーブルにひとつずつ飾っていく。
「今日は色合わせですね。前回奥さんめっちゃ外壁の色で悩んでましたよね。今日も見本の画像とか雑誌の切り抜きとか、いっぱい持ってくるんでしょうね」
「ほとんどの人にとって家は一生に一度のでかい買い物だろ。壁の色ひとつとったって後悔しても簡単には作り直せない。時間に限りはあるが、目一杯悩んでもらわないと」
「先輩は優しいっすね、ずっと付き合いますもんね」
そう言うと三年目のお前が生意気だと、先輩から頭を横から小突かれた。
「そのほうが施主もちゃんと納得するだろ。あとからクレームにならない。僕達を守るための戦術でもあるんだよ」
「はい。わかってますよ」
「本当に分かってんのか? じゃないと打合せ中ずっと口縫い付けとくぞ」
「ひどいっスよ、先輩!」
「来週には新卒が入ってくるんだぞ、大丈夫かよ」
「心配ないっスよ」
「まぁ、お前がそういうなら、そうなんだろうな」
あぁ、屈託なく先輩が、笑う。今日も良い日だ。
オレはいま、幸せな片思いをしている。
憧れの一級建築士になるために建築学部を卒業して、大手ゼネコンや住宅メーカーではなくこの上野設計事務所に入社した。小さな個人事務所でその年の採用枠は若干名、つまりひとり。内定が貰えるのか正直不安の方が大きかった。だから採用通知が来た時は思わずばあちゃんのお墓に報告に行ったくらいだ。
一級建築士の勉強と仕事を両立する日々はとにかく大変だ。そんな中で、オレは先輩の恭介さんを好きになった。
二年前オレが新人の頃、先輩が担当した物件が完成して無事に引き渡しが済んだ後、大クレームが来たことがあった。
『どれだけ打ち合わせして施主の希望を引き出しても、あんな色じゃなかったって言われるのよくある話だが、設計士に全て決められてしまったようで気に入らない、というのは流石に予想外だな』
所長はやれやれと半分呆れた顔をしていたが、先輩には堪えたようだった。
所長と先輩で謝罪に行って、施主の希望をもう一度聞くことが出来て変更できるところは可能な限り尽くしたんだ。会社からしたら大きな損害。変更した分は赤字だ。
全てが終わった後、社用車の助手席でオレが買ってきたコンビニのコーヒーを飲んでホッとひと息ついた先輩が、オレに言ったことを忘れていない。
『本当は井上には、自分でお客様から直接こういうクレームを貰ったほうがいい。失敗の経験は井上の成長に繋がるからな。……でもこれを先に僕が井上に伝えるのは、僕らにとってはただひとつの後悔で、ミスで、今後に活かせばいいことでも、お客様にとっては一生で一度の買い物だ。夢がいっぱい詰まってるマイホームだ。そんなものに一生の傷を付けてしまってはいけない。失敗は許されないと僕は思ってる』
そう先輩は言ったんだ。
なんてカッコイイ人なんだと思った。この仕事に誇りを持って向き合ってる。施主というお客様の人生まで背負ってるみたいで、格好良すぎた。
この人みたいになりたい。オレもいつか担当する施主には幸せな気持ちで家に住んでもらいたい。オレの目指すべき人になったんだ。
先輩は、オレより十個年上の三十四歳とは思えないほど、爽やかな甘すぎないかわいいエクボをつくる人。身長はオレより少し小さめ。今日も濃いめのグレーのテイラージャケットをその細身で着こなしている。
どうやら先輩には想い人がいるらしい。でもオレの先輩への気持ちは揺るがない。伝えるつもりもないからその辺は大丈夫。両思いになる未来なんて絶対にないことは分かってるから。
並行宇宙がいくつも存在しているなんて天才物理学者は言うけど、先輩とオレが恋人になるという世界線は絶対に存在しない。
だからオレは、幸せな片思いを続けていられる。
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