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井上くん
第二話
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──四月
新入社員がやってきた。今年は所長の弟君だと言う。上野 文哉という華奢で可愛らしい男性だった。先輩と系統は似ているがとにかく甘い顔立ちで、お隣の国のアイドルグループみたいにセンター分けされた髪が、まだ大学生っぽさを残していた。
「年が離れた弟で親から溺愛されて育ったもんで甘ったれだから、根性を叩き直すために入社させた! みんな厳しくしてくれ」
朝礼で上野所長が弟の文哉の背中をトンと叩くと一歩前へはじき出された文哉は小さな声で「宜しくお願いします」とはにかんだ。
正直、所長の弟ってなれば誰も厳しくは出来そうにないと思うのだが。
「甘やかしてる自覚無しのお兄様ってところね」
群れの後ろで見ていたオレの横で、営業の吉野さんが目を薄く開いて所長を見ていた。我が事務所で成績トップの営業ウーマン。今日も真っ白なパンツスーツが似合ってる。
「まぁ、華があっていいわね」
吉野さんは行ってきますと事務所を颯爽と出ていった。オレじゃ華はないなぁ、と歓迎ムードの設計課を少し他人事のようにしばらく眺めた。
「イタ……っ」
文哉が自身のデスクで指を抑えている。オレはデスクに置かれている箱ティッシュを持ってきて一枚取ってやると、文哉は涙目でティッシュを受け取った。
「ありがとうございます……」
指に包むとじわっと血が滲む。結構血が出ているようだ。
「何で切った? 大丈夫?」
文哉のデスクを見渡すも書類が置いてあるだけ。何で怪我したというのか。しかし間近で見る文哉は肌がきめ細かく透き通っていて、髭も、毛穴もないって感じ。睫毛も長くて本当にかわいいなぁ、いじらしいというか。なんというか。
所長の弟ということだけど、所長はツーブロックを七三に分けてテカテカに固めて、ちょい悪感満載で筋肉モリモリの熊のような人だ。文哉くんは正反対の小さなウサギのよう。
そこへ先輩が戻ってきた。オレはさっき先輩に頼まれていた図面を手直しし終えたところだったから「先輩! さっきの図面──」そう言いかけてオレはその後が出なかった。
文哉の泣きべそ顔を見るなり真っ青な表情になったからだ。
「どうしたんだ? おい、血が出てるぞ? 消毒は?」
「恭介くん……」
「救急箱あったかな」
「大丈夫だよ、ホチキスの芯で切っただけ」
「跡になったらどうする」
「恭介くん……」
先輩のそんな必死な姿、初めて見た。それに文哉がさっきから先輩を恭介くん、恭介くんと呼んでる。
ドッドッと不整脈みたいに心臓が鼓動して、オレは息が詰まりそうだった。その場に立っていることも辛くて自分の席に戻って目を瞑って息を整える。
文哉の席に戻ってきた先輩の手には救急箱があって、文哉の隣に座ると指先の手当を始めた。「染みる?」などと聞きながら。それはそれは心配そうに。
「あの二人は元々知り合いなのかな。所長とは幼馴染みなんだよね? ってことは弟とも仲良かったのかな」
「……にしても、すごい心配性」
誰かの会話を聞いて納得してしまった。兄弟の上野仁と、弟の文哉、そして槇恭介先輩は幼馴染みというわけだ。
オレの幸せな片思いが、不穏な空気で溢れていく。それが嫌で休憩コーナーの自販機でブラックコーヒーのボタンを押す。取り出し口から缶を取り出したところで先輩がやってきた。
「井上、さっきの図面の手直しサンキューな」
「あ、いいえ、合ってましたか?」
「あぁ、チェックした、まぁ井上が間違えるはずもないから大丈夫だけど」
「……うス」
「なぁ井上。さっきは応急処置ありがとうな」
「え……。なんで、先輩が言うんです?」
「当然だろ? 文哉に何かあったら……」
ただ、指を切ったくらいで……
「ありがとう」
「……、じゃあ、もし俺が指を切ったら先輩も心配してくれんすか」
思わずそう口走ってた。
「するさ! 当たり前だろ」
してくれるんだ……。つい嬉しくなって顔が緩んだ。
「でもお前は血の気が多いから少し怪我しても平気だろ」
「……はいはい。そースね」
その日オレは完全に上の空だった。
先輩と恋人になる世界線はない。自覚している、なのに。
『恭介くん』という声が頭から離れない。
『文哉になにかあったら……』
何かあったらなんだというんですか、先輩。
仕事の帰り。いつものようにコンビニでお弁当とスイーツひとつをカゴに入れてからレジに向かおうとするが、奥に戻ってチューハイのロング缶、お菓子の棚からポテチののり塩を追加してひとり暮らしのアパートに帰った。
幸せな片思いには、スイーツが必要だった。
今日も先輩と仕事が出来て楽しかったなで終わる日だけじゃない。すれ違う日もある。そんな日は必ず大好きなスイーツを食べる。明日も笑って先輩におはようございますって言えるように。今日はそれにお酒が加わったけれど……。
リビングテーブルにドサリと置くと弁当にもスイーツにも手を付けず、チューハイの蓋を開けて一気に半分ほどを胃に流し込む。
楽しいことを考えよう。明日楽しくなるように。やりたかった仕事、なりたい一級建築士、そのための勉強なら頑張れるだろう?
部屋の一角にある学生の頃から使ってる勉強机には一級建築士になるための本が山積みになっている。
「一級建築士に、なるんだろ」
幸せで、素敵な片思い。先輩が誰を好きで居ようと構わない。
新入社員がやってきた。今年は所長の弟君だと言う。上野 文哉という華奢で可愛らしい男性だった。先輩と系統は似ているがとにかく甘い顔立ちで、お隣の国のアイドルグループみたいにセンター分けされた髪が、まだ大学生っぽさを残していた。
「年が離れた弟で親から溺愛されて育ったもんで甘ったれだから、根性を叩き直すために入社させた! みんな厳しくしてくれ」
朝礼で上野所長が弟の文哉の背中をトンと叩くと一歩前へはじき出された文哉は小さな声で「宜しくお願いします」とはにかんだ。
正直、所長の弟ってなれば誰も厳しくは出来そうにないと思うのだが。
「甘やかしてる自覚無しのお兄様ってところね」
群れの後ろで見ていたオレの横で、営業の吉野さんが目を薄く開いて所長を見ていた。我が事務所で成績トップの営業ウーマン。今日も真っ白なパンツスーツが似合ってる。
「まぁ、華があっていいわね」
吉野さんは行ってきますと事務所を颯爽と出ていった。オレじゃ華はないなぁ、と歓迎ムードの設計課を少し他人事のようにしばらく眺めた。
「イタ……っ」
文哉が自身のデスクで指を抑えている。オレはデスクに置かれている箱ティッシュを持ってきて一枚取ってやると、文哉は涙目でティッシュを受け取った。
「ありがとうございます……」
指に包むとじわっと血が滲む。結構血が出ているようだ。
「何で切った? 大丈夫?」
文哉のデスクを見渡すも書類が置いてあるだけ。何で怪我したというのか。しかし間近で見る文哉は肌がきめ細かく透き通っていて、髭も、毛穴もないって感じ。睫毛も長くて本当にかわいいなぁ、いじらしいというか。なんというか。
所長の弟ということだけど、所長はツーブロックを七三に分けてテカテカに固めて、ちょい悪感満載で筋肉モリモリの熊のような人だ。文哉くんは正反対の小さなウサギのよう。
そこへ先輩が戻ってきた。オレはさっき先輩に頼まれていた図面を手直しし終えたところだったから「先輩! さっきの図面──」そう言いかけてオレはその後が出なかった。
文哉の泣きべそ顔を見るなり真っ青な表情になったからだ。
「どうしたんだ? おい、血が出てるぞ? 消毒は?」
「恭介くん……」
「救急箱あったかな」
「大丈夫だよ、ホチキスの芯で切っただけ」
「跡になったらどうする」
「恭介くん……」
先輩のそんな必死な姿、初めて見た。それに文哉がさっきから先輩を恭介くん、恭介くんと呼んでる。
ドッドッと不整脈みたいに心臓が鼓動して、オレは息が詰まりそうだった。その場に立っていることも辛くて自分の席に戻って目を瞑って息を整える。
文哉の席に戻ってきた先輩の手には救急箱があって、文哉の隣に座ると指先の手当を始めた。「染みる?」などと聞きながら。それはそれは心配そうに。
「あの二人は元々知り合いなのかな。所長とは幼馴染みなんだよね? ってことは弟とも仲良かったのかな」
「……にしても、すごい心配性」
誰かの会話を聞いて納得してしまった。兄弟の上野仁と、弟の文哉、そして槇恭介先輩は幼馴染みというわけだ。
オレの幸せな片思いが、不穏な空気で溢れていく。それが嫌で休憩コーナーの自販機でブラックコーヒーのボタンを押す。取り出し口から缶を取り出したところで先輩がやってきた。
「井上、さっきの図面の手直しサンキューな」
「あ、いいえ、合ってましたか?」
「あぁ、チェックした、まぁ井上が間違えるはずもないから大丈夫だけど」
「……うス」
「なぁ井上。さっきは応急処置ありがとうな」
「え……。なんで、先輩が言うんです?」
「当然だろ? 文哉に何かあったら……」
ただ、指を切ったくらいで……
「ありがとう」
「……、じゃあ、もし俺が指を切ったら先輩も心配してくれんすか」
思わずそう口走ってた。
「するさ! 当たり前だろ」
してくれるんだ……。つい嬉しくなって顔が緩んだ。
「でもお前は血の気が多いから少し怪我しても平気だろ」
「……はいはい。そースね」
その日オレは完全に上の空だった。
先輩と恋人になる世界線はない。自覚している、なのに。
『恭介くん』という声が頭から離れない。
『文哉になにかあったら……』
何かあったらなんだというんですか、先輩。
仕事の帰り。いつものようにコンビニでお弁当とスイーツひとつをカゴに入れてからレジに向かおうとするが、奥に戻ってチューハイのロング缶、お菓子の棚からポテチののり塩を追加してひとり暮らしのアパートに帰った。
幸せな片思いには、スイーツが必要だった。
今日も先輩と仕事が出来て楽しかったなで終わる日だけじゃない。すれ違う日もある。そんな日は必ず大好きなスイーツを食べる。明日も笑って先輩におはようございますって言えるように。今日はそれにお酒が加わったけれど……。
リビングテーブルにドサリと置くと弁当にもスイーツにも手を付けず、チューハイの蓋を開けて一気に半分ほどを胃に流し込む。
楽しいことを考えよう。明日楽しくなるように。やりたかった仕事、なりたい一級建築士、そのための勉強なら頑張れるだろう?
部屋の一角にある学生の頃から使ってる勉強机には一級建築士になるための本が山積みになっている。
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