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相手のいない婚約式
しおりを挟む婚約相手のいない婚約式。
通常であれば、この上なく惨めであろうその場所に、辺境伯令嬢ルナシェは、美しいベールをなびかせて、毅然とした姿で立っていた。
ベールから、こぼれ落ちるような髪は白銀にも見える。プラチナブロンドが、日差しに輝いて神々しい。
さすがは、白薔薇姫との呼び名高い辺境伯令嬢だという周囲の感嘆。
けれど、ルナシェの内心は、実はそれどころではなかった。
(まさかのやり直し……?)
先ほど確かに、ルナシェは断頭台に露と消えたのだ。しかし、今ルナシェが臨んでいるのは、確かに、あの日経験した、たった一人の婚約式だった。
あの時は、それは当然なのだと思っていた。
だって、ルナシェの婚約者は、王国の栄えある第一騎士団団長ベリアス・シェンディアだから。
人生にたった一度の婚約式だからって、隣国との戦が続くこの国では、王国の民の安全を守る騎士の職務の方が大切に違いない。
あの時のルナシェは、本気でそう思っていた。でも。
(そんなはずない……。これは、明らかに許されざる事態だわ)
ルナシェは、胸の中の激情を処理できないまま、既にベリアスのサインがされた婚約誓約書にサインするために、ガラスの精巧な細工がなされたペンにインクをつける。
これも二度目だ。
インクを取りすぎたのだろうか、ポタリとサインをしようとした部分に黒いシミが広がる。
こんな失敗、前回はしなかった。
以前はなかった婚約誓約書に落ちた黒いシミが、否応もなくこれが夢などではなく、現実で、しかも違う未来へと続くのだとルナシェに伝えてくるようだ。
たとえ紅など塗らなくても、赤くて艶やかな唇を少しだけ噛み締めて、ルナシェは美しい流れるようなサインをした。
「婚約はこれで、聖霊王により認められました」
明らかにホッとしたような、神官の言葉と、周囲からの耳が痛くなるほどの拍手。
この婚約は王国の力の象徴である騎士団長と、隣国と国境を接する辺境伯家の強いつながりを意味していた。
当人二人の気持ちなど、大して重要視されなかったし、以前の人生ではルナシェも、それでいいと思っていた。
(……でも、なぜなのかしら。とても腹立たしい)
この後、前回の通りに過ごしたなら、ベリアスがようやくルナシェの元に帰ってくるのは、三ヶ月も先で、それもたった三日だけ。
その後、再会できるのは結婚式の当日だ。
ルナシェだけが知っている。
この婚約は、白い結婚という未来へと繋がっているのだと。
そして、隣国の陰謀に巻き込まれたルナシェは、ベリアスを死に追いやった黒幕として、釈明も、当然受けられるような調べもないままに、断頭台に消えるのだ。
そのことが、腹立たしい。
そして、合計で一週間にも満たない期間で、ルナシェの心に恋慕を植え付けてしまったベリアスのことはもっと腹立たしい。
婚約のための誓約台へと続く二人で歩むはずの赤い絨毯を、ルナシェはたった一人で引き返す。
この後、本当であればシェンディア侯爵家に向かうのが、正しい手順で、正しい未来に違いない。
ルナシェは、長い絨毯の端にたどり着くと、クルリと振り返り、招待客たちに辺境伯令嬢にふさわしい威厳と優雅さを兼ね備えた礼をする。
「それでは皆様ごきげんよう。私、愛しい婚約者の元に参りますわ」
会場全体がざわめく。しかし、踵を返して歩み出したルナシェがそんなことに心を動かすことはもうない。
(ベリアス様に、婚約破棄を突きつけるわ。婚約式に来なかったのだもの。私を蔑ろにしないという婚約の時の誓約を破ったのだから、当然だわ)
けれど、そんな考えで、心の奥底の願いを塗りつぶしたルナシェは、まだ本当の気持ちに気がついていなかった。
ベリアスから贈られた、この日のための宝石を全て取り外すと、ルナシェは馴染みの商人にそれらを押し付けた。
その中には、ルナシェの瞳の色、瑠璃色をしたネックレスとイヤリングもある。
前の人生で、最後の瞬間まで一緒にいたアクセサリー。けれど、ルナシェは、それすら手放した。
「……悪いけれど、全て換金して。貴方の言い値でいいわ。それと、金貨は使いにくいからいらないわ。全て銀貨で」
「ルナシェ様? すでに私の耳にも先ほどの出来事は入っております。しかし、シェンディア卿がいらっしゃるのは、ミンティア辺境伯領の北端。激戦の地です。命が惜しくないのですか」
「…………惜しいわ! だからこそ、あの方の元に行くのよ!」
その言葉に、何を思ったのか商人は、宝石の代金としては少ない銀貨一袋と紙を一枚出してこう言った。
「……これに加えて馬車と御者をお出しします。それから、この紙は通行証です。あなた様といえど、激戦の地の砦には入ることはできません。しかし、我が商会は必需品の搬入のために砦への出入りを認められております」
「まあ……。ガスト、ここまでしていただく、理由がないわ」
幼い頃からルナシェのドレスを用立ててくれていた商人ガストは、前回の人生では見せたことがない、朗らかな笑みをルナシェに向ける。
「名前、覚えていただいていたのですね。……実は、愛する婚約者に会いたいという、いじらしい姫様を応援したくなってしまいました」
「ふふ。婚約破棄に行くのだけれど? そうね、これからもドレスは、あなたの商会で頼むわ。王国でも最高級品を用意しておいてね?」
「ええ、最高級の白いドレスをご用意してお待ちしております」
白いドレスは、結婚式で花嫁が着るものだ。婚約破棄するのに、聞いていなかったのだろうかとルナシェは思う。
(でも、そうね。一人で婚約式をしたのだもの。一人で白いドレスを着てみるのも、いいかもしれないわ)
こうしてルナシェは、王都に向かわずに、生まれ育った領地でありながら、足を踏み入れたことのない辺境伯領北端へと向かう馬車に乗り込んだ。
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